童貞探偵 綱禎(どうていたんてい つなよし)

細茅ゆき

Case #001 コードネームは「DT」

 探偵の朝は、遅い。

 繁華街のトラブルは、夜に舞い込んでくる。夜のとばりが、人々の業を隠してくれるからだ。


 通勤時間が終わり、排煙で煤けた灰色ライトグレイの街が明るくなっていく。

 眼下を通った赤いアバルト500チンクエチェントのセクシーなヒップを眺めながら、跳ね馬のロゴが刻印された、オイルライターのフリント・ホイールを回す。

 シュッという摩擦音と共に、火がともる。

 メンソール・シュガレットを近づけ、先端に火をつけた。たちまち紫煙がたちのぼり、あたりにスパイシーなフレーバーが広がる。

 オレはおもむろに、フィルターを口にくわえた。そして、深く息を吸い込んだ。

「げほっ! げほっ!!」

 喉奥に煙が満ちた瞬間、オレは盛大にむせかえってしまった。


 今度はスタンドテーブルに乗ったコーヒーカップをつかんだ。

 白いカップから立ち上る湯気は、キリマンジャロのキレのある香りを運んでくれる。

 もちろん、角砂糖もミルクも入れないのがエッジな探偵のスタンダードだ。

 部屋に流れるジャズを耳でとらえながら、褐色の液体をタバコで痛んだ喉に流し込んだ。

「にがっ」

 思わず、声に出てしまった。だが、誰も聞いていないようなので、よしとしよう。


 こうして、オレの探偵としての一日がはじま…

「そういうところがサムいんだよ! DTディーティー!」

 腰にボグッと、無遠慮な衝撃が襲った。

 振り返るとそこには、金髪の女が、細い眉をつりあげて蒼い瞳を向けていた。


「見てて鳥肌が立ったわ。なんなの、そのデキる探偵アピールは!」


 髪色は見事なプラチナブロンドだが、こいつはれっきとした日本人だ。おせじにも高いと言いがたい鼻に、極東のDNAがきっちりと現れていた。蒼い瞳も、もちろんカラコンカラーコンタクトだ。


 目の縁にはしっかりアイラインが描かれ、まぶたにはゴールドのアイシャドウ。長いまつげと二重は天然モノらしい。チークと唇はきっちりピンクで、どこか幼い顔つきを強調しているように思えた。小柄で細い体つきが、その印象をより強めていた。


 このギャルメイクの女は、八里はちり万智子まちこ。命令系統上では一応、オレの助手ということになっている。


「童貞のお前がハードボイルド気取るなんて、10光年速いんだよっ!」


 だが、実際はこんな扱いだ。くっちゃくっちゃとガムを嚙みながら、万智子はジトッとした白眼視を向けてくる。お前呼ばわりに暴力行使。さらにガムを嚙みながら話すその様には、オレに対するリスペクトなんて1ナノメートルもない。


「10光年は時間の単位じゃないぞ。距離の単位だ」

「細かいんだよっ! 童貞のくせにっ!」


 ささやかな抵抗としてツッコミを入れてみるも、その返戻へんれいは二度目の蹴り。


「言ったな! 二度も童貞と言ったなっ!」

「うるせーよ、童貞!」


 そう。このビッチギャルがオレをバカにするのは、「童貞」という二文字ゆえだった。


 自慢ではないが、オレは女を知らない。

 それどころか、女とちゃんと付き合ったこともないのだ。だからオレの身は、生誕29年にしてなお清いままであった。

 身長は180cmあるし、顔つきだって悪い方ではない…はずだ。実際、女から言い寄られることも、時折あったりするのだが…なぜか深い関係になれないのだ。


 だからこんな、年下ビッチにもバカにされるのだ。童貞というだけで、蔑まされるのだ。


「はぁ? なにマヌケ面して、こっち見てるんだよっ! キモいんだよ、童貞っ!」

 だが、せっかく29歳まで純潔を守ったのだ。どうせなら最高に愛せる女と、死ぬまで一緒にいたいと思える女に童貞を捧げたい。いや、筆をおろしていただきたい。

 間違っても、こういう大和撫子をラムジェットで逆噴射したような女はごめんこうむりたい。

 もっとも、マチコの方も願い下げだと思うが。


「夫婦漫才もいいけど、そろそろ出てくれない? あんたたちがうるさくて、こっちは書類仕事ができないんだわ。15時までに報告書プロファイル書かないといけないというのにさ」

『誰が夫婦ですか!』

 オレとマチコの声が、思わずシンクロナイズする。


 声の主は、部屋の奥まったところにあるマホガニーの机に頬杖をついている女史である。彼女は鋭い眼光をオレたちに向けていた。

 大きな机に対し、彼女の身体はちんまりとしている。小柄なマチコよりもなお小さい。実際、20万円近いギャルソンのコートを20センチ切ったという伝説レジェンドの持ち主であった。

 だが、ギロッとした猛禽のような目には、県下一の繁華街と言われる雑多で猥雑な吉村町よしむらまちの修羅場をくぐり抜けてきた女の気勢がこもっている。

 その女の名は寺戸てらどルミ。吉村町一の豪腕探偵にして、オレたちの先生ボスだ。


「安くて軽い仕事だからって、手を抜くんじゃないよ。テラド・エージェンシーのモットーは」

獅子搏兎ししはくと

「そうだ。その言葉を、どんな時も忘れるんじゃないよ」


 なお、獅子搏兎ししはくとは「獅子捉象捉兎皆用全力獅子は兎を捕らえるにも全力を尽くす」の略だ。所長の席の後ろには、有名な書家が揮毫きごうしたという額縁が掲げられている。そのダイナミックな筆づかいを見るたびに、オレたちはその言葉の意味をその身に、心に刻むのだ。



 依頼人のシャムネコを見つけたのは、その日の22時だった。


 つかまえたネコを渡すと、ホステスは大喜びした。こんなに早く見つかると思わなかったらしい。

 期待された仕事以上の成果を出し、依頼人に喜んでもらう。探偵をやっていて、もっとも報われたと思う瞬間だ。ビッチのマチコも、嬉しそうな顔をしている。

 その場で残りの依頼料を払ってもらった。そして俺たちにチップがわりにと、千円ずつ渡してくれた。


「ネコつかまえたのはあたしなんだから。これもあたしのものだよな?」


 そう言ってマチコは、オレの手から千円札をもぎとる。


「その未使用のモノがぶら下がった股の間から何回逃げられたと思ってるんよ? 三回だよ、三回! ホント、使えない! バイトの私より使えないって、終わってるよ、DT!」

「うるさいな。結構落ち込んでるんだよ、これでも」

「ハン。ナリは大きいのに、運動神経ゼロだもんな、DTは」


 オレは黙ったまま、アパートへの道を歩いていた。傍らにはマチコがいる。次の十字路まで、俺たちの帰路は一緒だった。

 もう深夜だというのに、道の上には人の姿が多かった。酔ったままキャバクラに連れられていくスーツ姿のオッサン。地方特有のケバい化粧をした年増のホステス。別れの十字路の角には、足下をゲロまみれにして倒れている若い女の姿もあった。

 汚くて、雑多で、うるさくて。だがここが、俺たちが暮らし、働いている吉村町なのだ。

 十字路にさしかかった時、ドンッと胸に何かが当たった。

 見下ろせば、マチコの拳が入っていた。

「やる。気に入ってるだ、このガム」

 開かれた手には、銀色の包み紙があった。

「また明日な。DT」

 ヒラヒラと手を振って、マチコはネオンまたたく路地へと曲がっていった。

 オレはマチコと逆の、街灯がまたたく薄暗い街路へと足を向けた。


 そういえば、オレの自己紹介がまだだったな。

 探相たんしょう綱禎つなよし。おわかりのように、探偵事務所「テラド・エージェンシー」の雇われ探偵だ。

 たばこは吸えない。コーヒーは飲めない。運動も苦手。この通りネコもつかまえられない、ハードボイルドとは10光年かけ離れたドジなオレさ。

 その上、オレは童貞だった。それゆえに、年下ビッチアシスタントにすらバカにされる始末だ。


 なぜ処女は美しいのに、童貞はこうも悲しいのだろう。


 ひとつため息をついて、オレは安アパートの鉄製階段をあがっていった。



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