「いずみさあん、いつもの」
おじさんがエールのおかわりを要求してきたときはどうなるものかと思ったが、おじさんはラガーのほうも気に入ったらしい。
ぐびぐび呑っている。
まあ、よかったのかなあ、通報とかしなくて。カッコが変じゃなかったらふつうに酒が好きなただのおじさんだもんなあ。
いや、でもなあ、ダンビラ抜いてたしなあ、いいのかなあ? いいの? おれのほうが変なのかな? ねえ?
いずみさんは素知らぬ顔でチャームの小皿を洗っている。
と、またおじさんのほうをちら見すると――おじさんがすごい勢いで自分の腰回りをまさぐっていた。
にわかに、あ、これやばいやつかもしれない、とおれは思う。ここにきてやばいかもしれない。
おじさんのは多分あれは、いい具合に酔ってきたところで財布を忘れてたことに急に気づいた人ムーヴだ。
そして自分の体をまさぐり終えたおじさんは、なぜかきょろきょろとあたりを見回し始める。おれと目があう。あ、やべ。おれはあわてて目を逸らす。
これはやばい。まさかこのタイミングでくるのか? ここでやけを起こしたおじさんがヤッパを抜けば、イェーハー、
やばいってやばいって。おれはえーと警察の110番って何番だっけ?と思いながらカウンターの上に置いてたスマホに手を伸ばそうとして、
「恩田さん」
「えっ」
今?
「そういえば来月のカクテルパーティなんですが、どうなさいますか?」
「えぇ……」
今? いずみさん、その話、今?
え、だって、ほら、いずみさん、まずいって。
おじさんのほうを窺うと、肚を決めたのか三杯目のハイネケンを一気して、むふー、と気炎を吐いている。
「今うちでチケットをお求めいただけると、割引がございますが」
「今?」
「今。今日が締め切りでございます」
そっかぁーじゃあ今しないといけない話かもねえー?
「まあ、実際は当日朝ぐらいまでなら融通は利かせられますけれど」
と、いずみさんがいたずらっぽく微笑む。そんなこったろうと思ったよ!
だからそれどころじゃないんだって。やばいのよ。おじさんが。やばいの。
しかしおれが言い募ろうとしたとき、またもや絶妙なタイミングでおじさんが声を上げる。いずみさんが迷いなくそっちに行く。おれの手は誰にも届かない。
さいわいにもおじさんは一見冷静だったが、いい具合にテンパった人が精一杯冷静さを装ってるとき特有の態度を見せていた。
両手を軽く胸の前に掲げてなにかを押したり引いたりする、まだあわてるような時間じゃない、のポーズでなにやかや訥々といずみさんに主張している。
いずみさんは両手を腰の前で合わせた直立不動の姿勢でじっとそれを聞いている。
こちらも冷静な様子だったが――多分こちらもダメな気がする。
いずみさんのこれはさっきのことを考えるとなんかよくわからないからとりあえず流すことに決めただけだ。このままだとまた適当に、かしこまりました、とか言っておもむろに生ハムをスライスしたりし始めかねない。
おれが考えあぐねていると、おじさんは、まだあわてるような時間じゃない、のポーズを続けながらゆっくりと席を立ち――うおお、ぬ、抜くのか? 抜いてしまうのか?――背負っていたリュックを慎重な手つきで肩から降ろすと、さっきまで座っていた座面に置いた。
おじさんの武骨な手がぱちりと留め金を外し、その蓋を開ける。
途端、ぼやり、とリュックの中から神秘的な紫色の光が店内の落とした照明の中に滲んだ。
うわ、きれい、とおれは素直にのんきなことを思う。
おじさんは謎の光を発しているリュックの中に手を突っ込み、その光の元らしきものを取り出す。それをいずみさんのほうにおずおずと差し出しながら、何事か言う。
おじさんが握っているのは、ごつごつとしたなんかの石のようだったが、不思議なことにぼわーっと紫色に輝いている。
ふつうの宝石とかみたいに明かりを反射して光っているのではなくて、たしかにそれ自体から光が放たれているのだ。
……うーん、なにこれ?
あー、でも、きれーだな。うん、きれい。
でもまじでなにこれ?
内側にLED? とかそんなの仕込んでんのかな?
でも形的に不揃いな自然石のようだし、おしゃれな間接照明のインテリアにするには据わりが悪そう。
サイリウム? とか、そんなようなもの?
でも形的に不揃いな自然石のようだし、握って振り回してアイドルを応援したりしたら手が痛くなりそう。
……まじでなんなの?
おじさんはなにか一言添えながら謎の光る石を一掴みカウンターの上に置くと、またなにか呟きながらリュックに手を突っ込み、もう一掴み取り出し、さらにカウンターに盛る。
……もしかして、おじさん、この貨幣経済全盛の世の中にあって物々交換を試みようとしているのであろうか?
ふといずみさんの様子を窺うと、例のきゅっとした笑顔を浮かべて固まっている。
まあ、そりゃそうなると思う、いずみさんじゃなくても。おれだって困るもん。
だって、きれいだけど、なんかきれいな石だけど、よくわかんない石だし、そもそもバーの会計で、物々交換? 外国ではそういうのアリなの? ねえ? ちょっと? アリなの?
そうこうしているうちにおじさんはまたもう一掴み光る石をリュックからカウンターに取り出す。カウンターの上の光る石がちょっとした小山みたいになる。
いずみさんはきゅっとした笑顔で固まったままだ。
それにおじさんは業を煮やしたのか、ついにリュック自体を掴み上げ、その中身をカウンターの上にぶち撒けた。
ざらざらっと光る石がカウンターの上で山を作り、店の中がぶわあーっと紫色の光で華やかにライトアップされる。それを前に、おじさんがいずみさんに頭を下げて拝み倒すようにする。
うーん、やはり、おじさん、ガチで物々交換を試みているらしい。
うーん、困る。困るよおー。おれがされてるわけじゃないけど、これは困るって。
だって、きれいだけど、なんかきれいな石だけど、よくわかんない石だし、これどっかで換金できたりするんだろうか? 換金できたとしても、今度は逆にビール三杯の払いにしてはなんか多すぎるような気がする。
と、ついにいずみさんが再起動する。
カウンターの上の光る石の山に手を伸ばすと、そこから手の中に軽く握れるぐらいの大きさのものをひとつ、摘み上げる。
おじさんに向かって、言った。
「これでようございます」
おじさんはきょとんとした顔をする。
おれもきょとんとする。
え? 物々交換、成立しちゃった? アリなの? ねえ? この店そういうのアリなの?
おじさんが怪訝そうな声音でいずみさんになにか問いかけるが、いずみさんは平然と頷く。
まじでアリみたいだ。
おじさんはもごもごとなにか呟きながら、いそいそと光る石をリュックの中に収め始める。
おじさんがすっかり石の山を仕舞い終えた後、きらきら光る石屑でメタリックパープル塗装されたみたいになったカウンターを、いずみさんがおしぼりでざっと拭って片付ける。リュックを背負い直したおじさんを、出口のほうに促す。
おじさんはぎくしゃくとした動きでそちらに向かい――ふといずみさんのほうに振り向いた。
何事かいずみさんに向かって、言葉を述べる。
おじさんがなにを言っているのかはやはりわからなかったが、その表情はどこか晴れやかで、すくなくとも、この店で酒を飲んだことに満足している様子だった。
「ご来店、ありがとうございました」
いずみさんがおじさんに頭を下げる。
それに見送られて、おじさんが出口のドアをくぐる。
ぱたんとドアが閉まり、いずみさんが姿勢を戻す。カウンターの中にふたたび入り、おじさんの飲んでいたビールグラスとコースターを下げ、あらためてカウンターを拭くと、奇妙な客が来店していた跡はまったくなくなってしまった。
ふへぇーっ、とおれは思わず情けない溜め息を吐いて背筋をぐんにゃりさせる。
「いずみさあん、なんだったのかなあ? さっきのお客さん?」
いずみさんは涼しい顔で返す。
「お客様も、それぞれいろいろなご事情をお持ちですので……」
いや、だからそういう問題かなあ? そういう問題なの? いいのかなあ、そういう問題で……。
「でもさぁ、いずみさん、よかったの?」
「なにがですか?」
謎のおじさんの気配はすでに店内から払拭されてしまっていたが、そういえばひとつだけおじさんの来る前の店内とは変わってしまったところがある。
「いや、それ……」
おれはいずみさんの手の中の、紫の燐光を放つ不思議な石を指差す。
「よかったの? お会計、それで済ませちゃって」
いずみさんは光る石を照明のほうにかざして、目を細めた。
「いいじゃないですか、きれいで」
さりげない手つきで、おれにそれを差し出す。自然と受け取って、おれも照明に透かしてみると、たしかに、そうだった。きれい。
それ自体がぼやりと淡く紫の光を放っていて、覗き込むとその中に、きらきらと小さな星空のような輝きが見える。
……うーん、ほんとなんなんだろ、これ。
でも、まあいいか、いずみさんがいいなら。
「恩田さん」
「えっ」
「なにかおつくりしましょうか」
「あっ」
いずみさんの言葉に我に返ると、たしかにおれのグラスはとっくに空だった。
おじさんのほうをちらちら気にしているうちに氷もすっかり溶けてしまって、それも飲み尽くして、乾き始めている。
「あー……」
なんだったんだろうなあ、あのおじさん。
スマホで時刻を確認すると、ちょうど日付が変わったくらい。
「いずみさん、じゃあ、いつもの」
謎の珍客に思いを馳せながら、おれはいずみさんにシメの一杯を注文した。
「かしこまりました」
〈了〉
超時空バーテンダーいずみさん myz @myz
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