迷宮探索者ガンスの困惑・3

 ガンスは困惑する。

 これもエールなのだろうか。

 すらりと背の高いグラス――これも無色透明な硝子製で、白っぽく見えたのはよく冷やされて表面に霜がついているためのようだ――の中にはとろりとした泡の層を頂いた黄金色の酒が満たされている。

 エールの残りがもうないらしいことにガンスが落胆していると、勝手になにやら合点した女がカウンターの端から生えた蛇口のような器械から注いできた一杯だった。

 ガンスが女の顔を窺うと、促すように微笑む。

 おそるおそるグラスを手に取り――やはり指が張りつくくらいに冷たい――一口啜ると、

「……うまい」

 ガンスが素直にそう口に出すと、女の笑みがこころなしか満足げになる。

 苦い。苦いが、先程のエールほど強い苦味ではない。軽くさっぱりした味わいだ。

 ぐびり。

 一息に呷ると、かろやかな苦味が喉を駆け下りていく。

 ぐびぐびぐび、ぷはぁー。

 思わずグラスの半分ほどを一気に干してしまってから、ガンスは至福の溜め息を吐いた。

 これもまたエールなのだろうか? 随分趣が違う。だが、これもうまい。

 なによりこののどごしだ。

 爽やかな苦味としゅわしゅわとした感触が喉を通るたび幸せを感じる。

 だが、いかん、とガンスは踏みとどまる。もう半分飲んでしまった。さっきももっと味わって飲まなくてはと思ったのに。これはいかん。

 今度は慎重に、一口含んでじっくり口中で味わってみる。すると、苦味の中にふくよかな麦の甘味がある。飲み下すと、若い果実の香りが鼻の奥をくすぐる。

 こういうのもまたいい。

 ガンスは残りの杯をゆっくり空けていく。

 それでもあっという間に二杯目もなくなってしまった。

 ガンスがちらりと女に視線をやると、すかさずガンスの前に近寄ってくる。

「これはおかわりあんのか?」

 軽くグラスを上げると、女はこくりとうなずく。

 流れるように動き始めると、じきにまた金色の液と白い泡で満たされた一杯がガンスの前に置かれる。さりげない手つきで空になったグラスが回収される。

 一口呑ると、かろやかな苦味と旨味。

 それにこの泡もいい。きめ細かな泡が口当たりをまろやかにしてくれる。

 ガンスはもうすっかりいい気分だった。

 上等の酒と落ち着ける雰囲気、さりげなく行き届いた接客――言葉が通じないのはなんだが、あまりおしゃべりをする感じでもない。

 ついさっきまで迷路の中を化け物蟻に追い回されていたのが嘘のようだった。

 なぜ大迷窟にこんな場所があるのかは結局見当つかなかったが、ある意味いい機会というやつなのかもしれない、と酔いの回った頭でガンスは考える。こんなことでもなければ、一生来ることのなかったような店だと思う。それもこんな満たされた体験ができたのだから、儲け物だ。

 払いの心配がふと頭をよぎるが、さすがに手持ちを全部はたけば許してくれるだろう、とガンスは腰に提げた財布を一撫でしようとして――しようとして、青くなった。

 いつもぶら下げているあたりの腰元に手をやってもすかすかと空振りする。思い切って目をやると、財布をベルトに繋いでいたはずの紐だけがわびしく揺れている。その先にはなにもついていない。紐の先端はぷつりと途切れている。

 ガンスは青くなるのを通り過ぎて白くなってくる。

 迷宮蟻に追われているうちに落としてしまったのだ。

 腰の周りをぐるっとまさぐってみても、やはり今日に限って別のところに提げていたなんてことはない。

 思わずきょろきょろと店内を見回してみるが、落ちているわけもない。一瞬目があってしまった男が、ばつが悪そうに目を逸らした。女のほうは素知らぬ顔で、唐突に男のほうに話を振り始める。


“――、――”

“――……”


 なぜかへどもどした様子で答える男。

 女のほうはよくわからないが、男のほうはガンスの挙動不審に気づいてしまったらしい。

 ますます焦るガンスは、現実逃避気味に杯を呷る。

 うん、うまい。うまいんだが、実際にはもうなにがなんだかよくわからなかった。

 ぐびぐびと飲み干してしまうと、ええい、とガンスは肚を決めた。

「なあ、その……」

 女に呼びかけると、女はなにやら胡乱うろんなやりとりを打ち切ってこちらに向き直る。

「ああ、ここの、払いのことなんだが」

 ちらっと女の顔を見ると、きゅっと口角だけ上げる感情の読めない笑顔でじっとガンスの話の続きを待っている。

「いや、その、タダ酒を飲もうだなんて思ってたわけじゃないんだ……! ただ、その……」

 げっほ、ごほ、とガンスは無意味に咳払いする。

「金がない……」

 ガンスがついにそう告げても、女は感情の読めない笑顔でガンスを見つめ返したままだ。

「迷宮で落としちまったみたいなんだ。いや、そこでだな」

 ガンスはゆっくり席を立つと、背負っていたリュックを座席に下ろす。

「ものは相談なんだが……」

 ふたを開けると、室の落とした照明の中にぼわっと紫色の燐光がにじんだ。

「これで払わせちゃくれねえだろうか……?」

 ガンスはリュックの中から一掴み、その光の元を取り出しながら、祈るような気持ちで女に問いかけた。

 ガンスの手の中には、ごつごつと不揃いな形だが、全体から美しい紫の光を放っている不思議な石があった。

 迷宮の街、ラトーアの主要産品、魔石である。

 魔石は、本来地中深くを流れる魔脈が特異的に地表近くにまで及ぶ、いくつかの地点で産出している。蓄積した魔力を徐々に放出する性質があり、大陸の魔導産業の礎である。中でもラトーア産は質が良いとされ、王都にも供給されている品だ。

 ガンスも今回、有り金はたいて綿密な下準備をした上で、深層から上物を採掘してきた。

 もちろんまだ原石なので、売り物になるのは協会に買い上げてもらい、しかるべき加工を受けた後だが。

 だから、同業者同士ならばともかく、こうした店舗の払いを魔石で済ませようというのはあまりほめられたふるまいではない。

 魔石を掴むガンスの手も、じつのところびくびくしている。だが、これぐらいしか今のガンスには払えるものがない。

 女はそんなガンスの様子を見ても、感情の読めない笑顔のまま押し黙っている。

「ああ、これだけじゃ足りねえよな」

 ガンスは握っていた魔石をカウンターに置く。もう一掴みリュックから掴み取り、一山作る。

 女の顔を窺うと、感情の読めない笑顔を浮かべたままだ。

「こ、こんなもんか……?」

 ガンスはさらに一掴み魔石を取り出し、カウンターの上の小山を大きくする。

 女はまだ感情の読めない笑顔を浮かべている。

「わ、わかった!」

 ガンスはついにぐいとリュックを掴み上げると、カウンターにざらざらと魔石をぶち撒けた。

 ぶわりと部屋の中が紫の燐光で明るくなる。

「こ、これで全部だ……なんとか、頼む……!」

 カウンターの上の魔石の小山を前に、ガンスは拝み倒す。

 正真正銘、今のガンスの全財産だ。上の街で適正に取り引きさえすれば、一ト月は暮らしを賄えるくらいの金にはなる。

 女はなおも感情の読めない笑顔でしげしげと魔石の小山を眺めている。

 ガンスの額に脂汗が浮く。

 女が細い指を小山に伸ばす。


“――”


 女が摘み上げたのは、その手にもすっぽり収まるほどの、さほど大きくもない魔石の一欠片だった。

 ガンスは困惑する。

「そ、それでいいのか……?」

 それぐらいの欠片なら、むしろガンスがいつも行くような酒場の払いにも足りないぐらいだ。

 しかし、女はガンスの問いに、小さく、たしかにひとつ、頷いた。

「そ、そうか……」

 ここで受けたもてなしを考えると、本当にいいのだろうか?

 ガンスは訝りながらもそそくさとカウンターの上の魔石の小山を片づける。

 よく考えるとカウンターを屑で汚してしまったことに気づいてガンスは恐々とするが、女は気にもしない様子で、ざっと例の布巾で拭って済ませてしまった。

「じ、じゃあ……」

 ガンスがリュックを背負い直し、出口のほうを向くと、女が魔石の欠片を顔の横に掲げてにこりと微笑む。

 ガンスを出口のほうに促す。

 本当に払いのほうもあれで済んでしまったらしい。

 ほっとしたような、釈然としないような気持ちでガンスは一歩踏み出して、ふと立ち止まった。

「ああ、そうだ」

 女のほうに振り向いて、言った。

「とても、うまい酒だった……ありがとう。来れたらまた来るよ」

 女が恭しく頭を下げる。

 それを背に、ガンスは出口のドアをくぐる。

 朝日が目に染みた。

 朝日?

 そうだ、たしかに日の光だ。

 巻雲のたなびく朝焼けの空に、一条の光が見える。

 ばっと振り返ると、さきほどガンスが出てきたはずのドアは影も形もなかった。ただのっぺりと白い漆喰の壁が、目の前に立ちはだかっている。

 ガンスはそれをぺたぺたと触ってみて、所在なく手を下ろした。

 何通りの何番地、みたいなことはわからなかったが、ガンスがいるのは住み慣れたラトーアの、どこかの路地のどん詰まりのようだった。

 自分がさっきまでいた場所は幻だったのだろうか。

 だが、体をめぐる満ち足りた酔いの残滓ははっきりしていて、リュックの中身もきっと魔石一欠片分だけ軽くなっているのだった。

 ガンスはゆらりと壁に背を向けると、宙に浮くような千鳥足で、朝ぼらけの街路を歩き始めた。

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