終章3

「……それは、初めて会った頃の俺と比べて、ということですか?」

「そう。君は明るい方向に歩き出しただけで、真っ直ぐなままだ。だからさ、躍起になる必要は無いと思うよ」


 テーブルの向こう側で、消されていたテレビが点けられた。七瀬がリモコンを卓上に置く。それを視界の端で見ながら、文月は二条の声に聴き入った。今の文月には、彼の声以外の音は届いていなかった。


「昔の自分に戻ることを恐れて、それから必死に逃れようとする必要はない。今の君には希望が見えていて、しかも誰かに希望を見せることだって出来るんだからさ」

「……ありがとう、ございます」


 師の言葉を受け止め、文月は複雑そうな顔を浮かべる。暖かなコーヒーが入ったコップを持ち上げて、歪んだ唇にそれを押し当てた。

 テーブルを挟んで正面に置かれているソファへ、二条と一紗が座った。畏まったような態度の一紗が二条と会話をするのを見て、文月はもう一口、コーヒーを喉へ流した。テレビでは、祖父を殺してしまった女子中学生について話している報道番組が流れており、七瀬がそれを真剣な顔付きで見つめている。

 文月の背中側にいる御厨が、背もたれに片肘を乗せた。


「なぁ、文月」

「どうした?」


 手にしていたコップを卓上に置き、文月は後頭部を背もたれに預けた。前髪がさらりと横に流れるくらい頭を後ろへ傾けても、御厨と目が合うことはない。見えるのは天井と、せいぜい彼の背中くらいだ。

 御厨がなかなか話を続けない間、テレビの音声と二条達の声だけが室内を占拠する。ぼうっとした眼で、文月は天井を眺めていた。目を細めれば蛍光灯の光が微かに膨張し、丸い輪状の輪郭が曖昧になる。瞼を下ろして、暗い中でも明滅する照明の明るさに、文月が小さく溜息を吐き出した。

 音を伴わないその息は、御厨の声に掻き消される。


「初めて会った時は、情報屋なんて嘘だったし、本当にやるつもりは無かったんだ」

「……だが、君のおかげで色々と助かっていたぞ」

「そうか。それは良かった」

「情報屋は、やめるのか?」


 質している合間にも、文月は、やめるのだろうなと推考していた。母親と共に服飾屋を営んでいる彼が、情報屋を続ける必要は無い。文月に接触したきっかけである、妹の治療は終わった為、これ以上彼が文月に手を貸す必要も無いのだ。

 それは文月も分かっている。しかし文月が実家を出て五年の間、孤独を長らく感じずに済んでいたのは、彼のおかげのようなものだ。だからだろう、文月の胸中に広がった感情は、寂しさの類だ。

 仕事仲間のような関係がなくなるだけで、友ではいられる。胸の内にそう呟いて、文月は瞼を開けた。閉じる前よりも、蛍光灯が眩しく見える。目を細め、文月は頭を起こしてテーブルの方へと顔の向きを直す。

 押し黙っていた御厨が、ようやく口を開いた。


「やめようと思ったことは、何度もあったぜ。けど今は、お前が綴者でいる間は続けたいと思ってる」

「なんだ、それは。やめる時機を逃したというのであれば、別に俺のことは気にせずやめたって構わないんだぞ」

「そうじゃない。続けているうちに、情報を集めるのが好きになったんだ。人助けに手を貸すのが、気に入っちまった。それに、お前と並んで歩くのも、気に入っちまったんだよ」


 ぶっきらぼうな声音を放ちながら、御厨がコップを持っていない方の手で頭を掻く。溜息なのか咆哮なのか、「あー」と喉から低声を絞り出すと、御厨は声調を一段張り上げて「来年」と言った。


「来年お前が、研修みたいなのを終えて町に戻ってきてからも。協力、させてくれねぇか」

「……勿論だ。俺も、君に背を預けるのは嫌いじゃないぞ。片割れのようなものだからな」

「片割れって。ま、いいけどよ。……もう勝手にぶっ倒れるんじゃねぇぞ、相棒」

「君こそ、あまり一人で悩みすぎるなよ、相棒」


 口吻を真似され、御厨が吹き出すように笑った。つられたのか、文月の唇から漏れた吐息が可笑しそうに跳ねる。

 テーブルの上の煎餅を一つ取って、文月は後方へ掲げた。「御厨」と呼びかけられ、彼は煎餅に気付いたようで、文月の指先からそれを持っていく。

 コーヒーと煎餅が仄かに香る中、文月と御厨は、背中越しに他愛ない会話を交わした。互いに見えないところで、同じような微笑を浮べ合っていた。

 その日から二月後、文月は書川町を発った。


     三


 週に一度以上は訪れていた建物へ、御厨九重ここのえが赴かなくなってから約三ヶ月が経つ。御厨が久しくそこへ向かっているのは、そこの家主である文月八尋から、一昨日連絡を貰ったからだ。

 明日には戻る、という一言だけの電話の後、翌日文月のもとへ向かおうとは思ったものの、何時に帰ってくるかは聞かなかった為、御厨が彼に会いに行くのは更に翌日となって現在に至る。

 煉瓦の敷き詰められた歩道から石階段へ上がり、廃墟じみた洋館の玄関と相対する。整備する者がいない為だろう、外壁に絡み付いている蔓は御厨が以前訪れた時に見たもののままで、むしろ伸びたようにも思われる。幽霊屋敷という名を広めたら幼子が喜びそうだ、と微笑しつつ、御厨は金のドアノブに手を掛けた。鈍い金属音を花信風かしんふうに溶かしながら、木製の扉を開けて中をくぐる。

 二階へ続く階段の方へは向かわず、その左側にある廊下を進んで行く。瞳を左右に動かせば、ずらりと立ち並んでいる本の背表紙が視界に入る。本棚に挟まれた先にある部屋へ足を踏み入れてすぐ、御厨は声を上げた。ここに来ると毎度のように上げる明朗快活な声は、かつてない程に、嬉しそうな響きを伴っていた。


「文月! 思ったより帰って来んのが早いじゃねぇか! 京都土産はどこだ!?」


 出窓のある壁の面以外、本棚で囲まれた室内。文月はそこで、出窓に右肩を向けて椅子に腰掛け、優雅にコーヒーを飲んでいた。彼は口付けていたカップをテーブルに置き直すと、自身の向かい側に座り始めた御厨へ、眉を顰めてみせた。睨み付けるような目をしていても、端正な顔立ちは出窓や本棚と相俟って、絵の題材になりそうだ。

 嬉しそうに顔を綻ばせている御厨をずっと見ていた文月は、仕方なさそうに眉間の皺を取り去る。


「『おはようございます』『お邪魔します』『お帰りなさい』……そういった挨拶を一つも言えない奴に、土産などやりたくないんだがな」

「よう、いい朝だな。邪魔してるぜ。お帰り、相棒。土産をくれ」

「……ほら、ご所望の八ツ橋だ」


 文月は、自分の椅子の背後に置いていた紙袋を引っ張って、それを卓に乗せた。嬉々として中身を取り出していく御厨だったが、彼の表情が固まる。


「おい……なんで焼き八ツ橋なんだよ!」


 文句を言われるとは思っていなかった文月が、怒鳴られてようやく表情を崩した。その怪訝そうな顔から、彼に悪意がなかったことを御厨は理解するが、それでも不満を胸中に留められないようだった。仏頂面を作り続ける御厨へ、彼が首を傾ける。


「八ツ橋といえば、それだろう?」

「焼いてないのが食いたかったんだよ!!」

「あぁ……なるほど。ちゃんと生八ツ橋と言わないからこうなるんだ」

「くっそ……京都の名店の八ツ橋が楽しみで楽しみで仕方なかったのに……!」


 悔しげに言いながらも、御厨は袋を開けて食べ始めた。咀嚼する音が大きく響く。静かな時間が流れ始め、文月はコーヒーカップを手に取る。その場で全て食べ尽くすのではないか、という勢いで八ツ橋を食べていた御厨が、ふと面を上げた。


「研修みてぇなのは、どうだった? なんか学べたか?」

「ああ……そうだな。恩師が、綴者の仕事以外でも人助けをしようとしたり、近所の人間に自分から関わっていったりしていることを知ることが出来た。人望や信頼を自分で築いていくことは、やはり大事だな」

「そこには自分で気付けてただろ、お前」

「まぁ、そうだが……。それを実際に彼と行ってみて、難しさを思い知れたぞ。それに、彼の物腰や言動はとても参考になった。やはり俺は、あの人のようになりたい」


 見つめるコーヒーの表面に、文月は恩師の姿を思い描いた。手の届きそうにない背中を見据えている彼の意識を、御厨が引っ張る。


「文月。二条さんみてぇにならねぇと、って頑張り過ぎて、お前らしさを無くすなよ? お前にはお前の良いところがあるんだからよ」

「ふむ……それは、例えばどこだ? 是非教えてもらいたい」

「絶対言いたくねぇ」

「何故だ」


 真剣な面相で、文月はテーブルに身を乗り出す。彼から離れるように、御厨は背もたれに寄りかかった。言え、と訴える彼の双眸から逃げた視線は、卓上へ落ちた。後頭部を掻いて照れ臭さを誤魔化し、御厨が話を挿げ替える。


「そういや、今日は小説書いてねぇんだな」

「……君が邪魔しに来ると思っていたからだ。それに、君があの原稿用紙に染みを作ったせいで、締切には間に合わなかったしな」

「何ヶ月前の話してんだよ! 悪かったって。焼き八ツ橋買ってきたのとお相子にしとこうぜ」

「それは君の自業自得だと思うが……」


 御厨自身もそう思ってはいるようだが、未だ不服そうな顔のまま文月を睨め上げている。「仕方ないな」という文月の呟きと、玄関から響いた鈴の音が絡み合って、御厨の意識を廊下の方へ引き付けた。


「七瀬ちゃんの試験は、どうなったんだ? 知ってるか?」

「本人に聞いたら良いんじゃないか?」

「――文月先生。あ、御厨さんも。おはようございます!」


 革靴の音と高らかな挨拶を携えて、かつて文月の患者であった少女、榊田七瀬が廊下から歩いてくる。白と国防色を基調としたセーラー服を揺らし、彼女はテーブルの上の八ツ橋に飛びついた。


「お土産ですか!? 私には何もくれなかったのに!」

「え、文月お前それはねぇよ……七瀬ちゃんにもなんか買ってやれよ」

「騙されるな御厨、彼女には生八ツ橋をあげたんだ」

「はぁ!? マジかよ! 昨日来れば良かった……っ!」

「文月先生と二人で美味しく頂きました!」

「おい」


 文月の、黙っていろという意味の声と、御厨の羨ましさが込められた同じ言葉が見事に重なった。御厨が乱雑に自身の頭を掻き毟りながら大息する。


「で? 七瀬ちゃん、試験はどうだった?」

「あ。えっと、合格には届かなかったので、すぐにどこかへ配属されることはないんですけど、惜しかったみたいで。綴者の研修生みたいな感じになりました!」

「ん? つまりどっかで勉強すんのか?」

「色んな綴者さんの名前と連絡先が書いてある紙を渡されて、好きな綴者のもとで一年間面倒を見てもらいながら、患者を治療してみなさいって言われたんです。だから、文月先生のもとで、患者が出る度にまず私が贋作を書いて、一度読み聞かせてみて、駄目だったら文月先生に任せる、って感じでやっていきます。一年以内に一人でも治療出来たら、その時に綴者になれるみたいなんですけど、治療出来なかったらまた来年の試験を受けなきゃいけないんですよね……」


 聞きながら、御厨は焼き八ツ橋を口に放り込んで咀嚼する。喉を鳴らしてそれを嚥下すると、七瀬へ微笑みかけた。


「んじゃ、ちょうど良かった」

「ん? なにがですか?」

「昨日の夜、聖譚病患者が出たらしくてな。まぁつまり」


 続けられる言葉を察したのか、七瀬の虹彩は星の破片を散らしたような輝きを見せた。御厨が胸ポケットから黒い手帳を取り出す。紙の捲れる音と掛け時計の秒針が静かな旋律を奏でた。


「仕事だぜ、お二人さん」

「患者の居場所と、聖譚を教えてくれ」


 出窓から差し込んだ陽の光が、翻った黒いトレンチコートを照らす。席を立った文月は、先程まで座っていた椅子の後方へ向かい、床に置かれていたアタッシュケースを手に取った。

 揺れた鞄の中で微かに硝子の調べが響く。木製の箱に収められた、待雪草の咲くガラスペン。それが、存在を主張していた。

 希望の花言葉を手に提げて、文月八尋は此度も贋作を綴る。

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贋作聖譚伽 藍染三月 @parantica_sita

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