終章2

     二


 文月は、師と慕った者の着物を纏い、見知らぬ患者を治療していた。これは文月の記憶ではない。文月の知っている光景ではない。

 意識の無いまま、文月の両手は台本通りに動き、足は前に進み、口は柔らかな弁舌を振るう。文月には自身が『文月八尋』であるという自覚がなかった。自分は『私』という綴者なのだと、そう考えて舞台を歩き続けた。

 章は四季のように移り変わる。片腕の無い少年を前にして、『私』はこれまで通り贋作を綴った。何かを疑問に思うこともなく、少年の為にそれを読み上げた。だが、目を覚ました少年が脈絡の無い言葉を紡ぎ出した途端に、『私』も目が覚めたような感覚で息を呑む。

『私』は、台本に逆らおうとした。少年を抱きしめようとする体を、凍り付かせて動かないようにしてしまいたいと強く念じた。その念は意味もなく、『私』の両腕が少年の背に回される。優しい言葉を発する自身の声など『私』の耳には届かない。心の奥底で、今、自分がナイフを握り締めていたならと考えていた。少年の背に触れる手を振り上げて、鮮血を散らしてしまいたいと思っていた。そんな思いを抱いた彼に、やめろと叫んだのは誰だったのだろう。

「目覚めなければ良かった」と頭の中で誰かが囁く。そこへ「違う」と否定の言葉が飛んで来た。けれどもすぐに、「そのまま息を止めてしまっても構わなかった」と言う両親の声が響いた。そんなことを言われた事実はどこにもないはずだというのに、目覚めを喜ばしく思っていない声が、耳に届き続けていた。頭の中で誰かがそれに同調し、また別の誰かが否定する。

『私』は結局、少年を救った。それは物語としてそのように描かれているから、だけではないのかもしれない。騒がしい葛藤に胸を締め付けられていても、『私』は、少年を救わねばならないと感取していた。

 終章をなぞりながら、『私』は自分に憧れて綴者を目指し始めたという少年に会いに行った。

 少年の真っ直ぐな目を見て、真っ直ぐな思いを聞いた瞬間『私』の瞼の裏に別の記憶が映し出される。瞬きをする度、少年と、全く似ても似つかない少女が重なった。『私』にとって見知らぬ少女だった。

 その少女のものと思しき声が、記憶のどこかから引き出されて、脳の中で透き通るように響いた。希望を、という、彼女の明るい声が聞こえた。先生みたいになりたい、と心から思っているような言葉が、『私』に届く。

『私』の震えた唇から、掠れた息が漏れた。


「――人を救えるというのは、なんと心地良く、また、なんて救われることなのだろう」


 はっきりと自分の声で聞こえたそれに、『私』は錯覚じみた既視感を覚える。先程まで動いていた手足が、動かなくなった。声を出すことも出来なくなった。遠ざかる意識の中で、『私』が聞いたのは朗読だ。過去に見たことのあるような情景を想起させる物語が、『私』の頭に反響する。誰のものとも分からない記憶に、朗読が結びつく。読み聞かせる声が延々と続く最中さなか、『私』は、『私』という存在が何者であるのか分からなくなっていった。自分は誰で、どこへ行かなければならないのか。その答えを求める『私』を、誰かが呼んだ。


「文月先生」


 それを耳にして、『私』は、嗚呼、と吐き出した。実際にそれを吐き出せていたかは分からない。文月というのが自分の名であることを、『私』は思い出した。


「――私を、助けてください」


 そんな風に助けを求める声が、文月の意識を明るい方へ引っ張る。重い瞼を持ち上げて、文月が見たのは蛍光灯に照らされた天井だ。それがあまり見慣れないものであることに疑問を覚えてから、自身がいるのが二階にある自室でもなく、一階の出窓がある部屋でもなく、居間であることに気が付く。


「文月先生!」


 喉に引っ掛かりながら溢れ出たような声に、文月は眉を顰めた。自分がこれまで何をしていて、何故居間で目を覚ましたのか、そして今し方自分を呼んだ声が誰のものであったのか、上手く働かない頭でゆっくりと思い出す。


なな?」


 眠たげに伏せられた睫の下で、文月は黒目だけを声の方へ動かした。朧気なまま呼び掛けてみた少女の顔が、視界の端で霞む。意識が夢の中へ引き戻されそうになって、ようやく文月は上半身を起こした。

 自分が寝ていたソファの肘掛けに手を突きながら、足だけを床へ下ろす。


「文月先生、良かった……!」


 突然七瀬に抱きしめられて、文月の目が丸くなる。文月はわけが分からないと言いたげな双眸で室内を見回した。七瀬の斜め後ろに御厨みくりやが立っており、その隣では一紗が床に座り込んでいた。二人共、どこかほっとしたような面持ちだ。

 彼らの更に後ろへ焦点を動かして、文月は眠ってしまう前のことを全て思い起こした。


二条にじょう先生……」

「やぁ、八尋。おはよう。気分はどうかな?」


 天鵞絨びろうど色の着物を着た男が、目尻の垂れた優しげな目を細めて、にこりと笑んだ。その手には、表紙に聖譚せいたんと書かれている一冊の本があった。

 文月は自分が、彼の書いたその本を読んで聖譚病に罹り、倒れたことを理解する。長い夢を見ていたことも想起した文月が、軽く七瀬を押し退けて、立ち上がった。かと思えば、両膝を床に突き、深く頭を下げて声を上げた。


「済みません。俺、また貴方に、ご迷惑をお掛けしてしまったみたいで」

「俺だけに頭を下げないでよ。聖譚伽の贋作は、御厨くんや榊田さかきだくんから話を聞いて……確かにほとんどは俺が書いたけど。ここにいるみんなが、書くのも読むのも協力してくれたんだ」

「そう、だったんですか……ですが、俺はまたこんな、醜態を晒してしまって……」

「目を覚ましたんだから、良かったよ。それに、気が済んだんじゃないかな? 君は過去の自分と相見あいまみえたかったんだろう? 会いに行かずには、いられなかったんだろう?」


 二条の声柄から、呆れや責めているような響きは感じられない。柔らかな温かさだけを投げかけられて、文月は戸惑いながら上半身を起こす。正座をしたまま、顎を引くように頭だけが床を向く。


「…………分かりません。ただ、気付いたら貴方の送った日々を辿っていて、気付いたら目の前に、俺がいました」

「うん、そうか……八尋。君は、ちゃんと君を救えたかな?」

「それは――」

「聖譚伽の中や、君の記憶の中の昔の君を、じゃない。今の文月八尋の心を、君は、救えたかい?」


 唇を一文字に結んで、顔を上げた文月の視線と、二条のそれが真っ向からぶつかり合う。文月は暫し思議に浸ってから、頭を左右に動かした。


「……いいえ。俺はどうやら、自分で自分を救うことは、まだ出来ないみたいです」

「そっか……」

「ただ」


 文月の双眸が、弓なりに曲がった。彼は困ったように眉を下げながらも、真白な花に似た微笑みを零す。


「ただ、救われました。七瀬に。貴方に。御厨や一紗にも」

「そうだね。君の周りは、優しい人ばかりだ」

「はい。……ところで、何故貴方は、ここに?」

「うん? 聖譚伽を借りて行った綴者がいるって、俺のところに連絡が来てね。物好きな子もいるなぁって思ってさ、借りた綴者の名前を聞いたら、君だったから。君に読まれる前に回収したくて急いで来たんだけど、時既に遅し、って感じだったんだよ」


 軽口を叩く時みたいな口調で、楽しそうに語る二条。彼と向き合う文月は、対照的に色を正していた。


「貴方は、分かっていたんですか? 聖譚伽を読んだら、俺がまた聖譚病に罹るかもしれないって」

「いいや、そうじゃない。ただ単純に、八尋に見せるのは、照れ臭かったんだ」

「そんなことを思わなくても。聖譚病に罹ってしまいましたが、色々と知ることが出来て、良かったです。とても、胸を打たれました」

「そう? あ。せっかく弟子のもとを訪れるんだしって思って、お茶菓子を買ってきたからさ。皆で食べよう」


 皿を用意してくるね、と言い置いてから二条が台所の方へ向かった。文月はソファへ座り直そうと思い、そちらの方に向き直るも、瞬刻、足を固める。ソファの前に立っている七瀬と目が合うと、彼女のもとへ歩んで行って、その頭を撫でていた。


「七瀬」

「っえ、な、なん、ですか」


 面白いくらいに震えた問いかけを耳にして、文月はそっと手を離した。動揺で瞬きを繰り返す七瀬を見ていれば、自然と彼の口元が柔らかに撓んでいく。


「俺は、思っている以上に、君に救われているみたいだ」

「そんなことないんじゃ……でも、文月先生は救ってばかりですもんね」

「いや、救われてばかりいるぞ」

「えー、そうは見えません。だから、私がこれからも色々お手伝いとかして、手助けしますっ!」


 文月は「ありがとう」と、彼なりにはっきりと発したつもりだった。しかし囁きじみたものになってしまったのは、嬉しさゆえだろう。笑みが絶えそうにない口を隠すように手を添えて、彼はソファに座り込んだ。七瀬が自然と隣に腰を下ろす。

 ふと視界に影が落ち、文月は面を上げた。目の前に立った一紗の双眸が、水面のように揺れていた。


「本当に、良かったわ」

「心配させて済まなかった。ありがとう」

「……ううん。ごめんなさい」

「何故君が謝るんだ」

「なんでもないわよ。待ってて、コーヒー淹れて来てあげる」


 はぐらかすように顔を背けられ、文月は遠ざかって行く一紗の背を黒目で追いかけた。謝罪の理由を頭の中で探っていると、後頭部に軽い衝撃を受ける。眉を寄せて背後を仰いでみるも、ソファの背もたれに寄りかかっているらしい御厨の背中しか見ることが出来ない。顔を文月の方へ向けないまま、彼は大きく嘆声を吐き出した。


「お前はホント……無理しすぎなんだよ」

「……君にも、みっともない姿を見せてしまったな」

「別に良いんじゃねぇの。たまには情けねぇところ見せろよ。俺だって散々カッコ悪ぃところをお前に見られてんだしよ」

「そうだな、団子を渡し忘れて、間抜け面を浮かべた後に帰っていった姿は傑作だった」

「やめろ、それは忘れてくれ」

「――御厨くん、はい、お茶」


 御厨が二条に礼を言うのを聞きながら、文月は居直る。ソファの前にあるテーブルに、二条がコップと煎餅を置いた。礼を言いつつ頭を下げようとした文月だが、彼に落ち着いた声付きで名を呼ばれ、動きを固めた。


「八尋、君は変わらないね」

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