終章

終章1

     一


 文月ふづき八尋やひろの将来の夢は、国語教師だった。憧れたのは、母親がそうだったからという単純な理由だ。彼は幼い頃から、母親に様々な書物を読み聞かせられた。母は小学校に上がって間もない彼に、熟語などの意味を教えながら小説を読み上げ、物語の裏側にある『深み』を見せた。子供にも分かるように優しく、楽しそうに語る母のことが好きで、彼はそこから『学ぶ』ということも好きになった。

 いつかは母のように、誰かに何かを教えられる人になりたい。そしてその何かが、楽しいものなのだと説き、楽しいという感情を共有したい。文月は、そう思うようになる。それゆえ、学ぶことに小学生時代の大半を費やした。人との付き合いを一切しなかった訳ではない。幼馴染である、文月よりも三つ年上の少女、一紗かずさとはよく話をしていた。彼女は勉強に勤しむ文月を褒め、小説について語る文月と楽しそうに笑い合った。自分の話を笑って聞いてくれる人も、勉強ばかりしている自分を軽視しない人も、当時の文月にとって、家族以外では彼女だけだった。

 中学生になった文月は、一紗に友人くらい作れと言われた為、クラスメートに積極的に声を掛けるようになる。人見知りというわけでも引っ込み思案というわけでもなかった彼は、難なくクラスの輪に溶け込んだ。

 中学三年の秋の、雨が降っている日のことだ。文月は友人に傘を貸して校門前で別れた後、紺色の合羽を羽織り、帰路を辿っていた。帰宅したら宿題をすぐに終わらせ、小説を読もう、などと、頭の中で独り言ちながら、藍に染まる道を歩く。一紗に勧められた小説を今日には読み終えて、明日語り合おうかと微笑した文月は、街灯の少ない暗い道を歩き続けた。建物内から薄らと明かりが漏れている程度で、眩しいと思う程の光が差すことは無い。静かな夜道を進みながら、雨音の中に車のエンジン音が混ざるのを文月はぼんやり聴いていた。月光だけに照らされた道を真っ直ぐに見つめつつ、十字路を渡った彼は前のめりになり、そこで彼の意識が途切れた。

 次に見た景色は、白く明るい、病室だった。泣きながら「良かった」と右手を握り締めてくれたのは、両親ではなく一紗だ。その涙を左手で拭おうとして――文月は絶望を目の当たりにする。

 左肩から先には、何も無かった。

 トラックに轢かれたのだと、一紗が語った。運転手は無灯火運転を疑われたらしいが否定しており、文月が暗い色の合羽を着ていたせいで見えなかったと述べたらしい。一紗は落涙しながらも笑って「もっと派手な合羽とか傘を買った方が良いのかなぁ」と冗談めいた口ぶりで言っていた。

 彼女が帰った後に母親が見舞いに来て、事故のことには触れず、義手にしないかと持ちかけてきた。ほぼ放心状態で何も言葉を返さない文月に痺れを切らせ、母親は「忙しいからあまり見舞いに来られないかもしれない」とだけ言い置いて病室を後にした。

 それからも文月のもとを訪れたのは、一紗くらいだ。彼女は文月が退院するまで様々な本を持って来てくれ、様々な話を聞かせてくれた。高校生である彼女は忙しいようで、来ない日も多々あった。彼女が持ってきた恋愛小説を読んでいる間に、文月は彼女に抱いている恋心を自覚し、思わず苦笑した。どうにも出来ない状況で、彼女の存在は小さな灯火のようだったのだ。

 やがて退院をして、片腕がないまま学校に行った文月は、初めて「死んでしまいたい」と鮮明に思った。友達だと思っていた者が皆、奇異の目で左袖を見つめる。声をかければ引き攣った笑みを浮かべられる。雨の日に傘を貸した友人が「大丈夫か」と心配して駆け寄ってきたかと思えば、「左腕の断面ってどうなってるの?」などと言ってきた。興味に満ちた視線が前後左右から向けられているような感覚と、文月を話の種にしている声に、両目と両耳を塞いでしまいたいと強く思った。瞼を下ろせば誰の目も見ずに済む。けれど、右手だけではどう頑張っても、左右の耳を塞ぐことは出来なかった。

 利き手ではない右手でなにかをすることは、とても難しく、文月を悩ませ苦しませる。高校受験など出来そうになかった。そもそもこの先、生きていけそうにもなかった。それでも文月は、休むことなく授業を受け続ける。暗然としていた気分に乗じて自分を呑み込もうとする絶望に、抗いたかったのだ。けれども数週間が過ぎようが、周りの目は変わらず、右手だけでの生活に苦痛ばかりが募る。誰かに助けを求めてしまいたくなるも、それを求められる相手は居らず、そもそも自分を何から救って欲しいと願っているのかすら分からなくて、懇願の叫びを胸中で燻らせ続けた。

 やがて中学校を卒業して、それからは家に引きこもるようになったものの、焦燥感と罪悪感が胸を締め付ける。

 働けない。かつて抱いた夢を追うことなど到底叶わない。大勢の人の前に行くことなど、今の自分には出来そうにない。だというのに、これから何年何十年と過ぎても両親の稼ぎで生活し続ける自分を思い浮かべて、どうしようもなく涙が溢れそうになった。

 失った腕を見た時、文月は表情を忘れるばかりで泣けなかった。こうして何度悩んでも、涙は流れない。彼には、未来への希望が一筋も見えていないからだ。絶望に彩られた視界は、これ以上歪みもしなければ滲みもしなかった。

 食卓に着いて両親と顔を合わせる度、文月は何も言わない両親に、責められているような気分になっていた。だから二人の目を見ることが出来なかった。二人の声を聞くことが出来なかった。

 文月が入院していた時、両親は仕事が忙しいからという理由であまり見舞いに訪れなかったが、文月は、彼らに見離されたのだと思い続けていた。気にしないフリをして、それでも、全てから目と耳を塞ぎ続けることは、彼を沈鬱とさせていく。わけも分からず「助けてくれ」と幾度も叫び出しそうだった。

 そんな彼のもとに、数ヶ月ぶりに一紗が現れる。渡されたのは一冊の本だ。それを受け取った文月に、彼女はごめんねと笑った。


「大学で彼氏が出来て、一緒に住むことになったの。だからこれからはあんまり会いに行けないかも。その本は、高校の頃大好きだった作品なんだ。映画が凄く面白くて、小説にもハマっちゃった。でももう読まないから、八尋にあげるね」


 そう言って去っていった一紗の背に、文月は左手を伸ばそうとして、玄関で膝から崩れ落ちた。手の平から離れた本が地面に打ち付けられる。全身から力が抜け、血の気が引いていく感覚に襲われる。拾おうとした小説の表紙に指先を滑らせたが、それがざらついているのか滑らかなのか分からないくらい、文月の意識はここになかった。

 やがて落ち着いた頃に、文月は自室で、一紗に渡された小説を読み進める。太宰治のパンドラの匣という作品に、彼はいつしか、魅せられて呑み込まれた。

 物語の中を彷徨し続ける文月の耳に、贋作の朗読が響いたのは、意識を失ってから数日が経った頃のことだ。

 その姿のままで真っ直ぐに歩んで行けば良いと、焦ることなく自分の歩調で進んで行けば良いと、優しい声遣いが文月を呼ぶ。気付けば彼は目を開けていた。何かを言おうとして、けれど何も口に出来ない間、唇がひどく震え、視界がやけにぼやけて、輪郭の滲んだ室内光がいやに眩しかった。


「文月くん、おはよう」


 優しい声が耳を撫でる。状況を理解出来ず、混乱する中で、文月の喉からは堪えてきた感情の塊が脈絡なく溢れた。


「俺……なんで、生きているんですか。なんで、目が覚めてしまったんですか。死にたかった。ずっと、ずっと死んでしまいたかった。こんな自分捨てて、別の人生を歩みたかった。……なのになんで、目を開けたんだろう……。俺、もう、生きていたって何も出来ないって、生きていても意味なんてないって、だから――けど最後に、一紗がくれた本を読んで、せめて、読んでから死にたいって。そうだ、俺、死にたいのに、どうして」


 ひたすらに紡ぎ出す文月の前で、着物を着た二十代くらいの男性が優しい瞳を細め、唇で三日月を描いていた。けれどそれがどこか、義務的な笑顔に見えて、文月は彼の目を見ていられなくなる。俯き、それでも沈黙を生むことが嫌だと言わんばかりに喋り続けた。


「腕が、なくなって。どうしようもなくて。どこにも行けそうに、無くて。けど何もしないで生きている自分に、なんで生きているんだって思った。そう思ったら止まらなかったんだ。生きてる意味なんてないってはっきり分かった。だから……なのになんで。俺、まだ……諦められないんだ。死んだ方が良いのに、なんで、こんな」


 文月の言葉が止まったのは、凍えそうに震えていた身体に、熱が灯された瞬間だ。男性が文月を抱き締めていた。息を飲んで、それでも頬を濡らし続ける文月の鼓膜に、彼の柔らかな声がゆっくりと流れ込む。


「文月くん、君自身の心をゆっくりと覗き込んでごらん」

「心……」

「君が本当に口に出したかった言葉は、『助けて』じゃないのかな」


 助けて。

 ずっと燻らせていた叫びが――その言葉が耳を突き抜け、文月は嗚咽を漏らした。瞳に膜を張る涙が眩く煌めいた。視界を、光が彩る。

 文月は、自分の心の叫声を聞いて救い出してくれた彼に、かつて幼い頃の自分が母に抱いたのと同じ気持ちを膨らませた。自分の人生の中に希望がまだあると、そう思わせてくれた彼に、強く憧れた。

 そうして文月は綴者ていしゃを目指す。自分がそうしてもらえたように、誰かを、現実のどこかに必ずある光へ導きたい。その思いが、憧憬が、彼を絶望から這い上がらせた。

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