やがて高瀬舟でお別れを4

 ――五十嵐陽菜の朗読は聞こえない。いつからか、室内の静けさは贋作の語りだけが取り去っていた。原稿用紙をアタッシュケースの上に置いて、文月は立ち上がる。ベッドに臥している陽菜の傍まで行き、彼女の顔を見下ろしたら、まだ眠たげに見える瞳と視線が絡み合った。

 僅かに開いたままの唇が、何も言わぬまま吐息だけを溢れさせている。双眸の雫が蛍光灯の光を孕んで、その眼を煌かせていた。


「五十嵐陽菜さん。貴方は、聖譚病という病で眠りに就いていました。私は医者のような者です。目を覚ましていただけて良かった」

「…………お医者、さん」

「ええ。私の朗読は、届いていましたか?」

「……はい。とても、心が、引っ張られるみたいな、お話、でした」


 良かった、と顔を綻ばせ、背を向けようとした文月のコートが、彼女に引っ張られた。ベッドから上半身を起こし、慌てた様子の彼女に、文月は冷静な微笑だけを返す。コートの右袖を掴んでいる彼女の手は、震えていた。


「待って、下さい。今の話、お母さん、聞いたんですか。これから、聞かせに行くんですか。私がお祖父ちゃんを殺したって、お母さん、知ってるんですか」

「いえ。お母様は一階の方で、貴方が目覚められることを願って、待っていてくれています。祖父君のことは、貴方が伝えたい時に、伝えたい人に伝えたら良いと思いますよ。一先ず私は、陽菜さんが目を覚ましたということを、お母様に――」

「行かないで!」


 悲鳴に似た甲高い叫声が、文月の鼓膜を貫く。目を丸めたまま固まった彼に、陽菜が声を上げた。


「駄目。駄目なんだよ。私、起きちゃいけなかったのに。死にたいの。死にたいんです。だって、お祖父ちゃんがそうして欲しいって、そうしてくれたら助かるって、そう言うから、お祖父ちゃん死んじゃうって分かってたのに殺しちゃったの。でも嫌だよ。私がこんなことしなかったらお祖父ちゃん死ななかった。人殺しって死ななきゃいけないんじゃないの? お母さん達に知られたくない、会いたくない。知られないまま死にたいの。このまま、殺して。殺してください。病で亡くなったことにすればいいから。殺して。ねぇ! 私は死にたいの!」


 頬に雫を伝わせながら、喉を裂きそうなくらい苦しげな声遣いで、陽菜は叫んだ。哀哭に耳を劈かれて、文月はその顔から笑みを落とす。鋭く、けれども愁いを帯びた眼光が、真っ直ぐに彼女を射抜いた。


「生きていたいとは、思わないのか」


 彼にしては低くて、針のような鋭さを伴った声だった。陽菜はしゃくり上げながらも、彼の瞳に見入ってしまう。彼は言問うた。


「君の胸の内が、その思いだけで満たされているわけではないだろう? 死にたいというその気持ちは分からないでもない。死にたいと喚くことくらい、きっと誰だってあるはずだ。けれど死ねないのは何故だ? その手で自身の命を絶たないのは、何故だ? 五十嵐陽菜、死にたいのなら死ねばいい。だがここで、俺が君に刃物を渡したとしても、君は死なない」

「そんな、こと……」

「多くの人間は死にたいと簡単に口をする。というのに、当たり前のように抱いていて、同じように抱えている気持ちには、何故気付けないのだろうな。……君は、生きていたいんだろう?」

「生きたいなんて、私は」

「なら何故、目を覚ました?」


 瞳孔の、その奥深く。脳髄まで届きそうなくらい、文月は真っ直ぐな視線を突き刺してくる。陽菜は息を呑み、咄嗟に彼から手を離した。焦点を変えられぬまま彼を見つめて、陽菜は気付く。鋭利な切っ先じみた双眸に、冷たさは欠片もなかった。


「生きていたいと思ったから、未来を歩みたいと思ったから、俺の贋作で目を覚ましたのではないのか。綴者は、簡単に言えば贋作を書いて患者の目を覚ませているだけだ。けれど決してそれだけではない。過去に囚われ、それでも時が進んで行く現実から瞼を閉ざした聖譚病患者に、手を差し伸べているんだ。嫌なことばかりに目をやって、目を逸らしてしまっている希望の方向を、示しているんだ」

「希望……」

「道が見え、その道を進んでみたいと思ったから、君は、目を覚ましてくれたのだろう?」


 文月の切れ長の目が、柔らかく、弓なりに曲がる。陽菜の胸の内で、心臓が悲鳴を上げていた。優しさという熱に、心が炙られているようだった。肩を震わせている内にも、文月は温かな熱を落とし続ける。


「五十嵐陽菜。一人で抱えて苦しむのは終わりだ。立ち止まるのも、終わりだ。前へ進め。人間は、流れて行く時間の中を進むことしか出来ないのだから」

「私……、でも、私、お祖父ちゃんを……」

「確かに、罪はちゃんと償うべきだ。だが償うことで君の人生が終わらせられるわけではない。まだ、先は長いんだ。君の思うままに足掻いて、君のなりたいように変わって行くといい。人は変われる生き物だからな」


 微かな頷きと共に項垂れて、陽菜はその顔付きを陰で隠してしまう。息遣いだけが、彼女の流涕を知らせていた。乱れた息を吐き出しながら顔を覆った彼女の傍を、文月はそっと離れた。


「君の母親に、君が目覚めたことを伝えてきても構わないか?」

「……はい」

「安心してくれ。俺は仕事を終えたという報告以外、勝手に口にする気はない。過去のことをどうするか、母とどんな言葉を交わすか、そういったことは君の好きにするんだ」


 アタッシュケースのもとまで歩いて行き、文月は原稿を拾い上げる。それを陽菜の前へ差し出した。彼女はびしょ濡れの顔を上げて、首を傾ける。


「この贋作の原稿を、もし君が欲しいと言うのならここに置いて行く。どうする?」

「……貰います。大切に、します」

「そうか、良かった。――そうだ、君。君が決して孤独でないことを、よく覚えておいてくれ」


 陽菜が原稿用紙を受け取ったのを見届け、文月は彼女に背を向けた。扉を開けて廊下へ出ると、そこに立っていた御厨と、数秒の間見つめあうこととなった。

 冷や汗を浮かべて苦笑する御厨に、文月は呆れて目を細める。


「まさか、俺が贋作を読んでいる間、ずっとそこで阿呆みたいに立っていたのか?」

「ちげぇよ! ちゃんと五十嵐さんには待っていて下さいとか色々伝えた上で、ここに戻ってきて、扉の前で座って待ってたんだよ!」

「なるほど、俺と五十嵐陽菜の話を聞いているうちに、逃げなければと思い立って立ち上がったというわけか」

「いや、立ったのは……お前が陽菜ちゃんに、死にたいなら死ねばいいとか言い出すからだ。危なく部屋に飛び込みそうになったんだぞ」

「そうか、動揺をさせて済まなかったな」


 叱り付ける時みたいに顔を顰めている御厨の前を通り過ぎ、文月は階段を下る。文月と陽菜の声か、御厨と文月の声が聞こえていたようで、五十嵐は既に階下にいて、階段を見上げていた。数段下りた文月がはたと足を止めて、仕事時に浮かべる微笑を彼女へ投げかけた。


「五十嵐さん、陽菜さんが、目を覚ましました」

「本当、ですか!? ありがとうございます……!」


 恐る恐る二階を窺っていた五十嵐の目が、嬉しそうに瞠られて煌き始める。「陽菜!」と娘の名を呼びかけながら階段を早足で上がる姿に、文月は口角を少しだけ持ち上げた。小さな足音を立てながら階段を下り、一階の廊下を数歩進むと、御厨の方を振り仰いだ。


「御厨」


 文月を追いかけて一階へ下りていきながら、御厨は疑問符だけを返した。文月の視線がそっと正面の壁に戻される。


「先刻の話だが……彼女の気持ちは、よく分かるんだ。俺も『死にたい』と、馬鹿みたく言い続けていた時がある。誰かに手を差し伸べられなければ、自分が『生きたい』とも思っていることに、気付けなかった時がある。彼女と話していて……昔の自分を、思い出してな。思わず、取り乱してしまった」

「へぇ……随分と、冷静の皮を被った取り乱し方だったぜ」

「そうか。けれどももう少し……大人になりたいとは、思う。恩師のように、優しく正しい人間でありたい。患者の言葉で過去を思い返し、それで気が立つなど、してはいけないことだった」


 普段通り、淡々としている声調。だが引っ掛かる何かがあって、御厨は文月の顔色を覗き見た。壁を睨み据えているかのような彼の目付きに、御厨は眉を下げる。俯き気味に視線を下ろした御厨が、中身の無い左袖を握り締めている彼の手に気が付く。黒いコートの袖は、深い皺を刻んでいた。


「文月……お前さ。あんまり、無理し過ぎんじゃねぇぞ」

「そう、だな……だが、程々に無理をして、正しさの先を見つめていなければ、俺はきっと生きていけないんだ」


 真っ直ぐに御厨の方へ上げられた文月の顔は、綺麗に笑みを象っている。その顔ばせを前にし、御厨は返答に窮した。首を動かして壁の上方を眺望する彼の横顔に、御厨は声の発し方を忘れさせられる。


「誰かを救うことに精を出し、何かを綴ることに励み、目標とした人物の背を追い続ける。そうしていないと不安に駆られて、後戻りしてしまいそうになるからな」


 彼が零したのは苦笑としか表しようのないものだ。それでも、普段の彼のそれとはどこか、何かが異なっている。御厨は、これまで滅多に見たことのない彼の弱い面と向き合って、如何すれば良いのか分からなくなっていた。

 二人を包む空気が息のし難いものになっていることに、文月が感付いたみたいだった。薄く笑っている彼の唇が、「済まない」と、囁きに似た音で発する。


「どうでもいい話を、してしまった」

「いや、どうでもいいとか、そんな風には思ってねぇけ――」

「さて、あの親子が落ち着くまで待って、報酬を頂かなければな。ああ、鞄を忘れる所だった……。それに帰ったら贋作高瀬舟の原稿を新しい紙に書かねばならないか。読んでいるうちに覚えたから大丈夫だとは思うが……まぁ句読点等の間違いが多少あっても大きな問題にはならないだろう」


 ぶつぶつと独り言ちる文月が、いつもの調子に戻ってくる。数刻前までの彼と今の彼を頭の中で比べるように並べて、御厨は、自分よりも背の低い彼の頭を軽く二度叩いた。


「……御厨、なんだ今のは。喧嘩を売っているのか?」

「そうじゃねぇよ。頑張ったお子様を労ってやったんだよ」

「誰がお子様だ。この後酒でも飲みに行くか? 先に酔い潰れた方が子供ということにしよう」

「それは、嬉しい誘いだな。お前の為にタクシーと救急車、どっち用意しときゃあ良い?」

「何故俺が倒れる前提なんだ」


 交わす諧謔かいぎゃくに御厨が一笑し、不服そうな目をしていた文月の笑いを誘う。文月が「全く、君は」と溜息混じりに吐き出すも、その音吐は可笑しそうに揺れていた。

 御厨は少しだけ、嬉しく思う。

 頼ってばかりで、救われてばかりだった自分が、文月の沈んだ気分を払えているかもしれない。後戻りしてしまいそうだと言っていた彼の袖を、前へ引けているのかもしれない。

 文月が陰を見せたことも、今彼が笑っていることも、御厨の中で嬉しさに変わっていた。

 昨日、彼に言われた言葉を思い出す。

 相棒。

 完全に互いを理解し合えるわけでも、互いの全てを尊敬し合えるわけでもない。好ましくない一面もあれば、相手のちょっとした発言で不快になることもある。それでも、頼り頼られ、救い救われ、信頼し合いながら共に何かを為す関係。相棒と言うのは、きっとそれに相応しい言葉だと、御厨は感じた。


     (三)


 五十嵐の家の前で御厨と別れ、日暮れ前には帰宅をした文月がいつもの部屋へ行く。そこでは、まだ七瀬が鉛筆を手にして、机上の紙と向かい合っていた。足音で気が付いたのか、彼女の顔が勢いよく廊下側を向く。


「お帰りなさい、文月先生」

「ああ。何の勉強をしていたんだ?」


 廊下から見て、出窓の右手側にある椅子の後ろへ、文月はアタッシュケースを置いた。椅子の背もたれを引き、アタッシュケースを背にして座り込む。

 テーブルの端の方に置かれている数冊の本をちらと見て、それから七瀬の手元にある原稿用紙に目を落とした。文月が予想を口にする前に、彼女が回答する。


「贋作を、書いてみていたんです。でもなんだかしっくり来なくて」

「読んでみても構わないか?」

「え、あ、はい」

「……夢野久作の懐中時計、だな」


 真作の懐中時計は、とても短い話だ。箪笥の向こうに落ちた懐中時計を鼠が見つけ、誰も見ていないのに何故動いているんだと笑う。「人の見ない時でも動いているから、いつ見られても役に立つのさ」と懐中時計は返し、更に続けて「人の見ない時だけか、又は人が見ている時だけに働いているものはどちらも泥棒だよ」と言われた鼠が、恥ずかしくなって逃げ出す――そんな終わり方となっている。

 七瀬の贋作の中では、懐中時計と鼠のどちらも人として書かれていた。誰も掃除をしない場所を掃除している学生と、それを笑う学生の話だ。台詞は真作とほとんど同じになっていた。


「なるほど。学生と掃除に置き換えたのは面白いな。実際にあり得そうな設定だ。だがそう変えたのなら、台詞も場面と情景に合わせて変えてみたら良いと思うぞ」

「台詞かぁ。泥棒だよって部分に上手く当てはまる言葉が全く浮かばないんですよね……」

「なら、言葉を探す前に、この台詞がどういう意味を持っているのか、自分なりに深く考えてみると良い。それから、登場人物の二人の関係性や人柄について考えるのも良いかもしれないな。実際に綴者として贋作を書く際に、患者の人柄を上手く表せるか、という部分も重要になってくるぞ」

「んー……難しいですね。試験で出される、贋作を書きなさいって問題は、患者は自由なんですか?」

「いや……こういった過去を持ち、こんな思いを抱えている患者が、この本に魅せられた。その患者の為に贋作を書きなさい、と言うように書かれている。真作の内容が印刷された紙も渡される為、知らない作品でもどうにかなる。ただ、制限時間は二時間だったはずだからな、速読も出来るようになっておいた方が良いかもしれない」


 文月の説明を受け、七瀬が両手を伸ばしてテーブルの上に片頬を押し付けた。唸り声を上げながらも、彼女は片手を上げる。


「頑張り、ます」

「ああ。君が贋作を書いて持って来れば、いつでも感想や指摘を言うぞ。とりあえず、好きなだけ書き、好きなだけ読むと良い」

「はい。文月先生が出張に行っちゃうまで、後二ヶ月だから、一ヶ月は沢山読んで、次の一ヶ月は沢山書く、ってやってみようと思うんですけど、どうですか?」

「良い考えだ。確かに、沢山読んでから書いた方が、様々な言葉や表現を知った上で書くことが出来る。ただ、書きたくなった時はいつでも、書いてみてくれ」


 褒められたことに、七瀬が大びらに喜びを示す。柔らかな弧を描いた唇から、小さく嬉しそうな声が漏れていた。破顔一笑したままの彼女が何度も頷く姿に、もっと喜ばせてやりたい気持ちが湧いてきて、文月は、そうだ、と閃く。

 彼女の為に本を探してくる際、過去の試験問題等も無いか探してこよう。胸の中にそう呟いて、文月は七瀬と他愛のない会話を再開させた。

     (四)


 明くる日、電車で往復二時間半という時間をかけて、文月は一冊の本と、数枚の問題用紙を自宅に持ち帰った。今日は出掛ける、ということを七瀬にも御厨にも伝えてあったからか、ちょうど正午になる時間というのに、文月の家には誰の影も無い。掛け時計の針だけが声を上げる中、文月はちょうど良いと思いながら、出窓の手前にあるテーブルにアタッシュケースを置いて、椅子に腰掛けた。ケースの中から取り出したのは、書置所から借りてきた、綴者についての書物だ。綴者が仕事をする様が書かれているという、日記のような本。文月は、その背表紙を見た時点で、中を開いて読みたいと思っていた。

 題名は、聖譚伽せいたんか。作者の名は、二条にじょうえにし

 その名に、文月が惹かれないはずが無かった。書いたのが自分なら言ってくれれば良かったではないかと、自身の恩師に笑いかけたくなっていた。

 弟子に読ませるのは些か恥ずかしいものなのだろう。ほくそ笑みつつ、文月はそっと表紙を捲って行く。

 二条は、自身が担当することとなった市の様々な人と関わりを持ち、散策を趣味としていたようだ。そんな彼が聖譚病患者の報告を受け、治療し終えるまでの話が、五章に分かれて幾つも書かれている。ただ、彼は長編の贋作を書くことが多かったようで、この本に載せられている贋作は、どの章でも一部分だけとなっている。

 自身の恩師の話であるからか、それとも綴者として共感出来る部分も多いからか、文月は没頭し、頁を捲り続けた。二条が患者を治療していく様子を読み進めながら、文月は自身が治してきた患者のことを頭の片隅で思い出していた。

 捲り、また捲り、文字の羅列をひたすらに瞳で追いかけ続け、やがて文月の手と目が止まる。最後の頁に差し掛かったからではない。見つめている紙の内容は、まだ四章だ。

 どの章も患者の名は伏せられており、この章でも、簡単に『少年』とされている。文月は、その少年のことを、知っているような感覚に陥っていた。交通事故に遭って片腕を失くし、夢を失った少年のことを。

 少年の親は、息子を治して下さい、という一言だけを二条に放ち、仕事に出て行ったという。二条はその時に感じた気持ちを素直に書き表していた。『こんなことを思ってはいけないのかもしれないが、あまりにも、この少年が憐れに思えた』。

 文月の唇が、震える。喉が狭くなるように、呼吸が苦しくなる。咽喉から溢れた息は、泣き出しそうな声を、今にも上げてしまいそうだった。

 読み進めることが、怖くなる。恩人として慕った彼になにをどう思われたか、母親や父親に自分がなんと言われていたのか、知るのがただただ怖かった。というのに、文月の手は先へ先へと進みたがる。何度も、紙の擦れる音を響かせる。

 文月は、両親に『どう接すれば良いのか分からない』と思われていたことを知った。二条に『彼の止まった時間を進めてやりたい』と願われていたことを、知った。向けられていた感情を、いくつも知っていった。嗚咽を漏らし、吐き出しそうになりながら、文月は、読み続けた。

 まだ少年を治療していないと言うのに、章は五章へ移り変わる。その初めで二条は少年を治療した。起き上がった少年について、彼は語っている。


『彼は実直で、真っ直ぐで、前しか見えないあまりに、自分自身を見ていなかった。いや、自分から、目を逸らしたかったのかもしれない。喪失感を鮮明に象徴している自分の姿を、見たくなかったのかもしれない。これまで彼の身に起こったことは確かに、結末を違えたパンドラの匣だ。けれどギリシャ神話のパンドラの箱であったのは、彼自身ではなかろうか。希望を見せることが出来て良かった、と、これほどまでに思ったのは、彼が初めてだった。それは私が、後の彼の言葉に、救われたからだ』


 やや古ぼけた質感の紙が、濃い斑点を滲ませる。文月は乱れた感情に呼吸を詰まらせた。なんとか息をして、しゃくり上げる時みたく息を跳ねさせ、唇を噛んだ。

 残りの頁数はもう、あまりない。文月は、霞んだ字を必死に辿った。紙の色を濡らして変えてしまうことに、頬を流れるものへの不快感に、文月が何かを感じることはなかった。夢中になって、意識は文字の中だけに呑まれていた。


『今まで自分は、ただ自分に贋作を書く力があるから、それを仕事としてこなしていただけだ。けれど彼を救った後から、自身を「人助けの機械」ではなく、しかと人として大事に思えるようになった。彼――前章から今章にかけて登場した、片腕のない少年だ。彼は私に憧れて、綴者を目指し始めたらしい。なんと、利き腕ではない腕を懸命に動かし、文字を書けるようにするところから始めたようだ。それを聞いて、不思議な気持ちが湧き起こった私は、彼に会いに行った。彼は私に礼を言い、あの真っ直ぐな眼をして、私に憧れていると、私のようになりたいのだと言った。私のしてきたことが、命を救うだけではなく、その人の心まで救っていることを、この時初めて知った。彼は私に希望を見せてもらえたと言ってくれたが、希望を見せられたのは私の方だ。人を救えるというのは、なんと心地良く、また、なんて救われることなのだろう。仕事としてではない。救い救われる喜びに、身を投じる。そう考えた途端、私は義務的な笑顔を作れなくなった。私そのものの顔で、笑みを象れた。それはとても、気持ちが良い。

 日記のようにこれまでを綴ってきたが、これでおしまいにしようと思う。私を救ってくれた患者に、心からの、感謝を』


 二条の思いや過去の自身へいくつもの情感を湧かせながら、文月は歪んだ両目をそのままに、唇だけでくすりと笑った。


「私を救ってくれた患者に、心からの、感謝を……」


 微かに震えた、白く細い指。それが、最後の一文をそっと撫ぜる。瞼の裏に一瞬だけ映された少女を撫でる時のような、優しい手付きだった。

 二条が綴者として送った日々を、救われた瞬間を、文月は自身の思い出と重ねていた。

 文月は、自身を救い出してくれた彼のようになりたいと何度も願い、脇目も振らず追いかけ続けてきた。いつか届くようにと、手を伸ばし続けてきた。

 今ようやく、触れられそうなほどに近付いたと、感じる。『聖譚伽』を自身の人生に置き換え、自分の物語を綴れそうなくらい、二条の人生に幾本もの感情を結びつけた。

 そうするうちに、過去の自身や二条に抱いた多彩な思いが、複雑に絡まっていく。乱れたままのそれが真っ直ぐになることはなく、さながら丸められた糸屑のように、ほどけぬ塊となる。

 恩師に近付いたことを実感し、その背に触れようとした手は、張り詰めた糸の先で固まった。なんという感情の糸が絡み合っているのか、もう見て取れないほどにきつく結ばれた塊が、文月の後方で地面に縫い止められていた。

 進もうとした先へは、行けない。遠ざかって行く二条を追いかけられもしない。枷が許す範囲内を彷徨うことしか、出来なくなる。

 それは、ひたむきに優しく正しく在る二条と、自身の為に二条みたく在ろうとしている文月の距離が、これ以上縮まらないことを表しているようだった。

 まるで真作と贋作。偽物は本物に、届かないのかもしれない。

 それでも文月は、止まれなかった。いつの間にか迷い込んでいた真暗な帳の中を歩けるだけ歩いて――やがて、自身が何を求めて歩んでいるのか分からなくなる。何をしようとしていたのか思惟し、枷となった糸屑を解かなければと思い至る。

 感情の名が一つとして分からないあの糸屑を、どう解けば良い? 自身の枷とは? 自身は、何に縛られている? どうなりたい? どうなればいい?

 楔が引き抜かれたように、疑問が溢れ出す。答えはどこにも記されていない。黒一色の視界の中で、微かな明かりが差し込んだ。

 かくして、緞帳は上げられる。


 ――聖譚伽を読んでいた文月の手は、力なく腰の横へ落ちた。不規則な呼吸音が声を伴い始める。

 意識を失った彼の体が、音を立てて椅子から転げ落ちた。冷たい床に頬を打ち付けるも、彼の瞼は持ち上がらない。しかし薄く開いたままの口は、微かな声で語り続けていた。


「黒紅を落とし込んだ水面に、灯光を宿した波紋が広がっていく。硝子ガラスペンで文章を書く際、そう見える洋墨インク瓶の中を、私は気に入っていた」


 読み上げて行くのは、聖譚伽の冒頭から、その先へ。

 何分が経とうが、何時間が経過しようが、陽が落ちてまた陽が昇っても、文月は目覚めなかった。

 倒れたままの彼を最初に目にしたのは、一紗だ。狼狽して、救急車を呼ぶか否かと悩んでいる合間に、七瀬と御厨もこの場に訪れる。一紗よりも聖譚病に詳しい七瀬と御厨は、まず聖譚について調べた。そうして、その場に居た者で協力して、長編の贋作を認めた。

『贋作聖譚伽』を手にした七瀬が、文月を見つめてから深く息を吸い込む。はっきりとした声で発せられた彼女の声は、それが文月に届くと信じているようだった。


「文月先生。私、まだ、綴者になれていないんですよ。先生がいないと、まだ、駄目なんです。起きて下さい。最後まで、面倒を見続けてください。私を、助けてください」


 泣き声にも聞こえる懇願の響きが、彼に届いたなら、それは彼の心臓を強く揺らしただろう。

 彼は救いの無い辛さを、よく知っているはずだ。

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