やがて高瀬舟でお別れを3

 歪められた彼の唇が開いて、吐かれた息は重く感ぜられる。


「御厨、今からする話は想像だ。だから気を悪くせず聞いて欲しいんだが……。五十嵐陽菜は祖父の自殺に、意図せずして手を貸してしまったのではないだろうか。祖父は、部屋の電気を消し、カーテンを閉め切っていたそうだな。いくら昼間でも、そうすれば暗闇を作れるはずだ。もし陽の当たらない部屋であれば尚更暗くなる。だが、暗闇といえど黒一色なわけではない。目が慣れれば、家具や人が影絵のようにぼんやりと見えるだろう?」

「まあ、そう、だな」

「そんな中で、祖父の影へ五十嵐陽菜が近付き、声をかける。もし祖父が、自殺を試みたものの死に切れなかった……正に高瀬舟の喜助の弟と同じ状態だったとしたら、これを抜いてくれないか、と頼むかもしれない。暗闇の中でそれがなんなのか分からずとも、『苦しい。抜いてもらえたら楽になれる』などの言葉を祖父にかけられれば、彼を好いていたという五十嵐陽菜なら、言う通りにしてしまったかもしれない。抜いた後で、息絶えた祖父に声をかけたり、自分が引き抜いた刃物を目にしたりして、己の所業に気付いたかもしれない。だからこそ彼女は――帰宅後、黙り込んで部屋に引きこもった」


 胸糞が悪い。そんな思いが、御厨の顔に表れている。彼が眉間に深い皺を刻んでいる合間にも、文月は続けた。


「本当のことは五十嵐陽菜にしか分からない。俺が想像出来るのはこのくらいだ。だから、贋作を書くなら今の話を使うしかない」

「けどよ、もしお前のその想像が外れてたら……」

「空転することになる上、贋作は酷い物語にしかならないだろうな。それでも、今はこれしか思い浮かばない」


 芯のある声で言っていても、彼自身不安や不満があるのだろう。細められた双眸から、彼の胸中で入り乱れている感情がいくつも滲んでいた。


「御厨、俺が贋作を読み聞かせている間、君は居間で、五十嵐さんの心を静めていてくれないか。他愛のない話をしていて構わない。彼女には、これからしたためる贋作を聞いて欲しくないんだ」

「……分かった」

「読み終えて、それでもし五十嵐陽菜が目覚めなかったら、報告しに行く」


 御厨の首肯を視界の端で捉えてから、文月はガラスペンをそっと手に取る。触れていなかったそれが冷え切っていたのか、それとも文月の指先が熱を帯びているのか、文月はさやに冷たさを感じていた。

 インク瓶とペンが、揺れる風鈴のような音を鳴らす。瓶から抜かれたペンの先に、黒いインクが染み渡っていく。黒と透明の湾曲した縞模様が、蛍光灯の明かりで煌いた。

 早速文字を書こうとした文月だが、手を止めて、動きを見せない御厨に視線を送った。目が合った彼は、一瞬だけきょとんとしてから、居間に行かないのか、と視線で問われていることに気が付く。


「読み始めるまでは、ここにいてやるよ」

「居てくれ、なんて頼んだ覚えはないが」

「書き終えたらどうせ、何かを語りたくなってるだろ? お前の話を聞いてから、任された仕事をこなしに行ってやる」

「……毎回興味がなさそうな顔をして聞くくせに、実は楽しんでいたのか? 素直じゃないな、君は」


 文月が嬉しそうに口角を上げたかと思えば、その目元が悪戯っぽく細められる。その表情を見た途端に、御厨は下唇で上唇を押し上げた。


「誰が楽しんでるって言ったんだよ。お前の耳は腐ってんじゃねぇか?」

「君ほどではないさ」

「あぁ?」

「さぁ、居るならもう黙っていてくれ。執筆が捗らん」

「あー、はいはい。分かりましたよっと」


 長い睫を伏せて、文月が深く頭を下げた。御厨はアタッシュケースに背を向け、扉に向き合うと、足と腕を組んだ。退屈そうな面相を天井に向ける御厨の背に、文字を書く音が響いては消えて行く。本来なら閑散として静まりそうな室内で、無味乾燥な声調が、二人の耳朶を打っていた。


     (二)


 薄氷うすらいが涼やかに割れる。そんな様相が思い浮かぶ、ガラスとガラスの擦過音。それは、ガラス製のペン置きにガラスペンが置かれたことを物語っていた。

 延々と繰り返される朗読ばかりを耳にしていて、眠ってしまいそうだった御厨は、その音で眉を上げた。彼が文月の方に向き直ったのと、文月が語りを始めたのはほぼ同時だ。


「船は、しばしば人生に例えられ、また、死後の再生と死の象徴だ」

「死、ねぇ……。もうちょっと良い意味はねぇのか?」

「死の意味を命の終わりとだけ考えて、悪いと決め付けるのは良くないぞ。タロットでの死は、ある状態から別の状態へ移行することを示す。生命の一つの段階の終わりと、新たな生命の始まりを意味するものだ。そして高瀬舟が流れるのは川だが、川は、時の経過のシンボルと言われている。時が流れれば、人は変われるものだ。そうは思わないか?」


 文月のその問いかけは、彼自身のことを暗に示しているようにも、御厨のことを仄めかしているようにも受け取れる。そのどちらを考えるのも気が進まず、御厨が思惟したのは自身が文月に抱いている印象の変化だ。


「……まぁ、そりゃあ変わるよな。人に限らずなんだってそうだろうよ。良くも悪くも変わるさ。ほら、あれだ、行く川の流れは絶えずして、しかも……あー……」

「しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。……だろう? 君は何故いきなり方丈記を暗誦あんしょうし始めたんだ?」


 さらりと空で言ってみせた文月に、御厨の精悍な面構えは険しさを増す。彼は不満から、目元と眉根に皺を寄せていた。


「ちょっと頭良さそうでカッコイイ感じに決めたかったんだよ」

「なるほど。だが失敗した、というところか」

「うるせぇ、ほっとけ」


 文月の微笑に口を尖らせ、彼から僅かに視点をずらすと、御厨の眼中に原稿用紙が映り込んだ。舟という単語が目に付いて、御厨は少し前にされたばかりの話を思い出した。


「ところで、お前がよく言ってる象徴だとかタロットの意味だとか……前は花言葉も気にしてたけどよ、そんなのを考えて話を書くことになんか意味ってあるのか?」

「意味? そうだな……意味を作るために、やっているんだ」


 とても短い間の中で、文月は充分におもんみたのだろう。歯切れ良く流れた言の葉に曖昧な響きは欠片もない。彼が口にしたもの以外の理由はないようだ。

 けれども彼の答えに、御厨は首を捻る。


「……つまり、どういうことだ?」

「俺が象徴やタロット等について考えるのは、意味を持たせたいからだ。ただそこに存在しているから描写するのでもなく、ただ川を下る為だけに船があるわけでもなく。物語の中に、少しでも多くの『意味』を持たせたい。水積もりて川を成す、と言うだろう?」

「なんでいきなりそんな、塵も積もれば山となる、みたいな諺が出て来るんだよ」

「そちらを使った方が良かったか? まぁ、伝わったなら良しとしよう」


 文月が、右手の指先を原稿用紙に軽く押し付ける。指の腹を紙上に滑らせて、書かれている一文字一文字を確かめるように触れているみたいだった。


「俺が作中に込める『意味』は願いなんだ。一つ一つの願いが患者に届くように、その願いが患者の人生を良い方向へ導くように、願いをいくつも懸けている。勿論、俺には願いの大きさも形も見えない。だから込められる限りの願いを込めるんだ。一つ一つの『意味』に込めた願いがびょうたるものだったとしても、それを重ねたならきっと、届くかもしれないじゃないか」


 文月が贋作へ向けている優しい瞳に、御厨は表情を緩める。御厨の少しだけ開いた唇から、ふ、と零れた息は、笑っていた。


「届くと、良いな」

「ああ」


 首肯した文月の目が、原稿用紙の一行目からその先へと文字を辿り始める。読み始める前に今一度確認をしていく彼へ、御厨は踵を向けた。

 部屋の扉を静かに開けて、廊下へ足を乗せた御厨は、一瞬だけ背後をちらと見た。


「……じゃ、五十嵐さんの所に行って来る。そっちは任せたぜ」

「無論だ。よろしく頼む」


 扉を閉め、廊下を進むと、すぐに階段を下って行く。居間へ向かってみれば、五十嵐はそこで黙ったまま着座していた。何も置かれていないテーブルの上をぼんやりと眺めている彼女の前に、御厨はそっと立つ。

 椅子を引いて腰を下ろした御厨に、五十嵐の丸められた目が真っ直ぐ向いた。


「あ、ごめんなさい、ぼうっとしてました」

「いえ、俺の方こそ、勝手に座って済みません」

「構いませんよ。えっと……」

「そろそろ、文月が陽菜さんに贋作を読み聞かせ始める頃だと思います。俺が部屋を出る前は、文月、原稿を読み直していたんで、もうちょい時間かかるかもしれませんけど」


 そうですか、と呟いて目元を細めた五十嵐は、御厨達がここに来たばかりの時に比べて、穏やかな雰囲気を纏っていた。落ち着きのなさは今やどこからも窺えない。ただ不安だけは、穏和な表情から薄らと見て取れる。


「あの……文月さんが書いた贋作の朗読を、私にも聞かせてもらうことって出来ないのでしょうか」

「……文月が、陽菜さんのことを気遣って、五十嵐さんには下で待っていて欲しいと言っていました。なので俺は、それを伝えに来たんです」

「陽菜のことを気遣って……?」


 はっきりと、文月にそう言われたわけではない。だが御厨は、贋作を五十嵐に聞かせたくないという文月の心に、そんな思いがあるのではないかと推し量った。

 五十嵐に贋作を聞かせたくない理由を、文月が深くは語らなかったため、ここから先の説明は自分の力でするしかない。御厨は、きょとんとしている五十嵐に、自身の言葉で文月の気持ちを語ってみた。


「贋作は、患者の人生の一部みたいなもんですから。人生の中で、親に聞かれたくないことだってあると思うんですよ。大切な人だからこそ……ずっと縁が切れない相手だからこそ、自分の心の準備が出来てから話したいこととか、あると思うんです」

「……そう、ですね。分かりました。なら私は、陽菜が起きてくれることを願って、ここで待っていますね」

「はい」

「だから、御厨さん。私のことは気にしないで、文月さんの所へ行きたいのなら、どうぞ行って下さい」

「はい――……え?」


 引き攣った笑みのまま固まった御厨が五十嵐の方を見てみれば、彼女は目尻に皺を浮かべていた。母親然とした暖かな笑みに、御厨は狼狽える。御厨が動揺している理由には気付いていないのだろう。彼女は御厨を落ち着かせようと、「大丈夫です」と柔らかに言った。


「大分落ち着いて来たので、私は大丈夫ですよ」

「は、はぁ。なら、良かったんすけど。でも、俺」

「御厨さん、文月さんの朗読が気になって仕方がない、って思っているように見えたのですけど、違いましたか?」


 目を、瞠った。御厨は、その言葉でようやく、文月のもとへ行きたいのならと五十嵐に言われた訳を理解する。

 気になる、といったような思いを心の中で呟いた覚えがないどころか、御厨自身、自分が文月の朗読を気にしていると気付いてすらいなかった。それでも、今し方五十嵐に促され、腰を上げようとした。

 自然と席を立とうとしてしまった理由に合点がいき、御厨は照れ臭そうに後ろ頭を掻く。


「……俺、小説とか全く読みませんし、あんまり興味ないんですけど」

「そう、なんですか?」

「はい。でも、あいつの朗読してる時の声は……なんか、馬鹿みたいに真っ直ぐで、ひたすらに患者への思いが込められてるみたいで……なんつーか。嫌いじゃ、ないんすよ」


 五十嵐が、無言のまま相槌を返してくれた。本心を吐露している気恥ずかしさに、御厨の唇が裏側で噛み締められる。長閑のどやかな沈黙が降りて来ても、御厨が落ち着けることはない。何の音もしない中で、恥ずかしさが増して行くように感じた御厨は、咄嗟に開口する。


「贋作の中で出てくるものや言葉に、文月は象徴とかそういう意味を込めるんですけど、文月にとって、それは願いを込めることなんだそうです」

「願い……?」

「はい。目を覚まして欲しいとか、患者の未来に幸せがあるように、とか。そういうことを、文月は考えてるんです。だから、あいつのこと、信じていてください」


 真剣そのものの御厨の双眼の中で、五十嵐が優しげに頬を緩ませていた。熱意が前に出るあまり、無意識の内に強張らせてしまっていた肩を、御厨はそっと落とす。


「文月さんも、御厨さんも、優しい人なんですね」

「いえ、俺は……。……やっぱり、上、行って来ますね」


 五十嵐の「ええ」という声を耳の後ろで受け止めながら、御厨は廊下へ出た。階段を上って陽菜の部屋の前まで来たものの、そこでその足はぴたりと止まる。

 部屋に入っていけば、文月の集中力を欠いてしまうかもしれない。そう考え、御厨は音を立てないように、その扉に背を預けて座り込んだ。室内に耳を澄ませて、微かに聞こえてきた声は陽菜の朗読だ。文字を書いている音が、その朗読と混ざり合う。まだ文月の朗読は始まっていなかったみたいだった。

 同じような音に聞き入って、暫くすると、ガラスの涼しげな音色が響く。その余韻を、擦れた紙が消して行く。

 陽菜の高瀬舟の朗読と重なって、贋作の朗読が流れ始めた。


 ――高瀬舟、という舟がある。罪人をどこかへ送り届ける為の舟だ。川を下って辿り着く先がどこであるのか、町の人間は誰も知らず、舟に乗せられる罪人すら行く先を知らされることはないという。

 罪人、といっても、勿論罪を犯した者に相違ないが、この舟に乗せられる者は皆、決して根からの悪人と言うわけではなかった。言うなれば、心得違いや気の迷いから罪を犯してしまった。そんな者ばかりである。

 そういった罪人と、護送役の役人を乗せ、高瀬舟は宵闇を映した川を流れて行く。水の音と夜風が静謐な時間を占める中で、役人と罪人が言葉を交わすこともしばしばある。自身の境遇を誰かに話して楽になりたい罪人や、愁いに沈む罪人に声を掛ける役人など、乗り合わせる人間の性質は無論、人それぞれだった。

 いつのことであったか、高瀬舟に、成人もしていない子供が乗せられた。陽菜という名の、まだ中学生である少女だ。

 護送を任された役人は、彼女が祖父を殺したということだけを聞いている。悄然たる佇まいで一言も言葉を発することなく、彼女はただ、暗く染められた川の、揺れる様だけを打ち守っていた。

 表情という表情を見せず、自身を咎めるように唇を噛み続ける罪人の姿は、この役人にとって然程珍しいものでもない。いつもなら罪人が何かを言うまでだんまりを決め込み、護送先まで送り届けるのだが、今回ばかりは彼も口を噤んだままでいられなかった。何しろ、目の前で罪の重さに俯いているのは、年若い娘だ。まだ行く先の長い少女が、これから先も一人で罪を抱え、下を向き続けるという未来を、彼は認められそうになかったのだ。


「陽菜、と言ったな。お前がこの舟に乗せられているのは、人を殺めたからだが、一体どうしてそんなことをしてしまったのか、わけを聞かせてはくれないか」


 夜の寂寞の下では、声がとても大きく響いた。役人に尋ねられ、陽菜は水面だけと向かい合っていたおもてを徐にもたげる。

 顔付きは凍り付いて固まってしまったかのようにどこも動かず、月のない夜空の如く真っ暗な黒目だけが、ひどく周章していた。役人は責めているわけでもなく、そう思われるような声柄で言葉を放ったわけでもない。にも拘わらず、陽菜は咎められているみたいに萎縮していた。

 暫時粛然とした後、陽菜はやっとのことで冷静になったと見受けられる。恐る恐るといった様子で訥々と、情感の類を押し殺した声で語り出す。


「私には、祖父を殺めるつもりなどありませんでした。気が、動転していたのだと思います。今思い返してみても、どうしてあんなことが出来たのか、自分がしたことながら、不思議でなりません。ただ、夢中だったのです。祖父は、物心付いた頃から……いえ、きっとそれよりも前からなのでしょう、私を可愛がって下さいました。そんな祖父のことを、私も好いておりました。小学校に上がってからも、祖父の家に何度も通い、大好きな祖父とお話をしたり、茶菓子を食べたりしました。そうする中で、祖父が、死んでしまいたいと思っていたことになど、私は全く気付くことが出来ませんでした。いつの、ことだったでしょうか。私が罪を犯してしまったのは、もう何年も前のことになります。まだ中学に上がっていない頃です。祖父の家を訪れたら、室内は明かりが消えていて、遮光幕も閉じられていました。けれど玄関に靴はあったので、家の中にいるだろうと思い、上がらせて頂いたのですが、中は真暗で、すぐ暗闇に慣れるはずもなく、転んでしまいそうになりながらも、祖父を捜しました。お祖父ちゃん、と呼びかけて、呼びかけて。すぐに、陽菜ちゃんかい、という祖父の声が返ってきました。それがとても、苦しそうなものだったことを、覚えています。私が暗い部屋の中に進んで行くと、黒い大きな、祖父の影が見えました。どうしたのかと声を掛けると、祖父は、これを抜いてくれないか、と、手首のあたりから伸びているものを、指差したのです。手が震えて、自分では上手く抜けない。祖父はそう言いました。こうも仰いました。痛くて、苦しい。抜いてくれれば、楽になれるから。それから祖父が、何度痛いと口にしたかは分かりませんが、何度も、呻いていました。祖父の命に関わることなのだ、ということは、その呼吸音からよく伝わってきていましたし、苦しげな祖父を前に、どうしたら良いのかも分からず、冷静な判断も出来ませんでしたから、促されるままに彼の手首に触れました。そこから伸びているものの先にも、触れました。ひたすらに狼狽する中で、それが刃物であることは、分からなかったのです。脳室が真白な靄で覆われて、中にある知識や思考が外へ出てきてくれませんでした。柄を震えながら握り締めたものの、けれども抜いてはいけないような気がしましたので、体は石のように動かなくなってしまいました。そんな時に、祖父は優しく、それでいてとても苦しそうな声で、囁きました。ありがとうねって、ごめんねって。泣き出しそうに震えた呻吟に、手を動かさずにはいられませんでした。私は大好きな祖父の為に、祖父がして欲しいということを、ただ、しただけなんです。祖父も喜んでくれましたから、自分は悪くないと言い聞かせて、ここ何年も、罪の意識を後ろへと追いやってきました。ですが、やはり、駄目でした。私がしたことは人殺しという罪であって、許されてはいけないものなのです。どうして私はあの時、祖父を救おうと考えられなかったのでしょう。どうして私は、いつも優しい祖父の悩みに、気付けなかったのでしょう。思い出してみれば悔やむことばかりです。大好きな人の為に。その思いで必死に、祖父の願うことを叶えたつもりでいました。ですが私がしたことは、殺人です。人殺しなのです。例え祖父が、私を恨んでなかったとしても、これは、私が生涯背負い続けなければならない、重い悔恨なのです」


 川ばかりを眺め入る陽菜が、そのまま舟を降りて水に吸い込まれてしまいそうで、役人は彼女から目を離せなかった。小さな水音を立てる川に、彼女の声は全て飲まれてしまった。

 彼女の言う通りだ。頼まれてしたことであっても、そうすることで当人が喜ぶとしても、それは紛うことなき罪であるのだろう。そうか、と役人が零せば、話に句点が打たれたように、彼女の顔は川から離れる。役人は、進む舟の先に何気なく目をやった。目的地はまだ見えない。うらがなしい思いにさせられる暗がりで、役人は、結んでいた唇を解いた。


「罪も悔恨も、当然どこまでも付いて来るものだ。だがそれを一人で抱え続ける必要はない。法という決まりが罪人かどうかを決めている世の中なだけであって、罪の定義が各々で決められるとすれば、人間は皆罪人だ。人の身を傷付けた者は傷害罪となる。ならば何故、人の心を傷付けた者は罪に問われることがないのだろう。何故、人の心を守った者が、命を奪ったからという理由で、罪に問われなければならんのだろうな。陽菜、お前は、お前自身や周りから見て罪人だったとしても、祖父からしてみれば恩人なのだ。あまり背負い込み過ぎることはない。流れる時の先に、明かりは灯っている。さあ、見えてきたぞ」


 言われて、陽菜は顔を上げた。高瀬舟が辿り着く先――そこにある人工的な明かりが、遠くに見える。曇った夜空を反射している水面が、星空の如く輝きながら揺らめいていた。揺蕩う明かりに、陽菜は瞠目する。


「高瀬舟の行く先は、罪人の帰る家だ。闇夜はもう、飽きただろう」


 深く暗い川を滑って、高瀬舟は、光の灯る先を目指して行った。

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