やがて高瀬舟でお別れを2

「御厨小春の治療のことを昨夜報告したんだが、患者を約五年も放置してしまったことを叱責された。来年から別の町に、他の綴者の助手のような存在として……分かりやすく言うと出張をするんだ。俺がいない間に聖譚病患者が出た際は、隣町の綴者に連絡してくれ。早ければ一ヶ月で戻って来られるが、二月の、七瀬が受ける試験の前に戻って来られなかったら……七瀬、済まない」

「え、っと、私は別に、気にしません、けど」


 唐突な話に戸惑っているようで、七瀬の声は尻すぼみになっていく。粛然とした中でその余韻が消えるよりも早く、声を上げたのは御厨だ。


「待てよ。それ、つまりずっと黙ってた俺のせいじゃねぇか?」

「そうだな、俺もそう思って、俺は悪くないのではないかと言おうとした」

「そうか。なんか……なんだろうな、自分で言うのは良いし、事実なんだけどな、お前にあっけらかんとそう言われんのはイラっとするな」

「そうか? 悪いな、君の事を気が置けない友人兼相棒だと思っているからか、遠慮を忘れていた」


 複雑そうな表情を浮かべた御厨が黙り込む。御厨は唸り声をとても小さく零し、頬杖を突くと、コーヒーカップをテーブルの上で揺らし始めた。


「……だが、御厨。君のせいだけではなく、俺のせいでもある。初めから俺の仕事の仕方が間違っていたんだ。取り敢えず、俺という綴者の存在は、ここに来た初日に町中へ知らせたつもりだったが、頼ってもらえるような行動を見せなかった。君に任せきっていて、自分で情報を集めようとすることもしなかった。関わりのない存在なんて、年を経れば忘れられていくだろうに、存在を周知させることを初日以降しなかった」

「医者なんて、そんなもんだろ。わざわざ巡回みてぇなことをしなきゃいけないなんておかしくねぇか」

「いや、おかしくはない、と思う。医者の存在はそもそも世間に知れ渡っている。綴者は医者のようでも、聖譚病という珍しい病限定の医者で、知らない人間も多く、一度耳にしても聖譚病と関わりがなければ忘れられていくだろう?」


 文月が喋りを止めれば、室内は閑散とする。御厨はすぐに言葉が浮かばないだけで、納得はしていないようだった。


「例えば、俺が町を回って、身の回りに異変はないか、聖譚病患者は出ていないかと、日毎聞いていれば、そういった仕事やそういった病があることは周りにも分かり、そのうち自ら出向かずとも、君以外からの情報をも得られただろう。それこそ、病院に行って話を聞くといったようなこともしていれば、御厨小春が聖譚病に罹っていることも、もっと早く知れたのかもしれない」

「そう、かもしれねぇが……小春の件に関しては、俺が意図的に隠していたせいだろ」

「――御厨、君のおかげで、俺は自分の至らなかった点に気付くことが出来た。だから、君は自分のせいなどとは思わないでくれ。少しの間、俺は師匠のもとで研修のようなことをしてくるだけだ」


 気遣っているわけではないのだろう、文月の純粋な微笑に、御厨は困惑した。彼が瞠目している間、七瀬が控えめに口を挟む。


「あの、師匠ってもしかして、文月先生の恩人の綴者さんですか?」

「……ああ。今朝、どの綴者のもとで学ぶか決定したという連絡が来たんだ。その綴者の名を聞いて驚いたが……なにより、嬉しくもあった。七瀬の試験の直前まで、勉強を教えてやれるか分からないことは申し訳なく思う。けれど少しだけ、楽しみにしている」


 綻んだ文月の口元は、持ち上げられたカップにすぐさま隠される。それでも彼が嬉しそうにしていることは、優しい雰囲気を纏った両目が明かしていた。感情が伝染したみたいに、七瀬も破顔した。


「文月先生が楽しみなら、良かったです! 行くのは、来年なんでしょう? ならまだ二ヶ月くらいあるじゃないですか! それまでに私、色々覚えますし、文月先生がいない間でも、ちゃんと勉強します。もし先生が、試験前に戻って来られなくても、絶対合格してやりますから!」

「そうか……。君にそう言ってもらえて安心した」


 拳を胸の前で固めた七瀬へ、文月がくすりと笑う。二人の微笑ましいやりとりから、御厨はそっと視線を外し、スーツの胸ポケットから手帳を取り出した。

 捲る度に擦れる紙の音が、いつの間にかしんとしていた中で、さらさらと流れるように鳴った。


「まあ、お前が楽しみだって言うんなら俺もこれ以上は気にしねぇけどさ。――っと、患者の家の場所だが……良かったな、ここから横断歩道一つ渡った程度の所だぜ」

「そんなに近所だと言うのに、俺よりも先に君の方へ情報が入るのか」

「まぁ、患者が発症したのは昨日の昼頃みてぇだし、俺がその情報を知れたのは、小春が目を覚ましたってことを医者に伝えに行った時だしな。聖譚病が治ったっつったら、そういえば今日書川中学校で聖譚病患者が出たって話し出してくれたんだ。だからそこから詳しく聞いた感じだぜ」


 ほう、と呟いて、文月は持ち上げたカップに口を付けるも、飲みはせずに口元から僅か離し、そっと息を吹きかける。冷ますようにカップを揺すってから、コーヒーをほんの少しだけ口内に含んだ。文月の視界の端で、七瀬が遠ざかって行く。

 七瀬は台所の手前の本棚に寄りかかっているキャリーバッグを引っ張った。本棚に背を預けて床へ座り込むと、自分の前に持ってきた鞄の中を漁り始める。

 一人で勉強でもするのだろうか、と様子を見守っていた文月だが、ふわりと舞った紫煙に眉を顰めた。正面に向き直ってみたら、御厨が煙草を吸っていた。


「……おい、煙草を吸うなら外へ行け」

「一本だけ許せよ。……あ、灰皿くれ」

「ここは君の家ではないんだがな……!」


 椅子の足が大きな擦過音を立てる。席を立った文月が足早に向かったのは、台所の先の、居間の方だ。少しして戻って来た彼は、硝子製の灰皿を御厨の前へ叩きつけた。


「サンキュ」

「御厨さんが煙草吸うのはイメージ通りですけど、灰皿があるってことは、文月先生って煙草吸うんですか?」


 鞄から取り出したノートを手にして、七瀬が頭を傾けている。彼女の見つめる先で、文月が首を左右に振った。


「好きな小説家が、ゴールデンバットという煙草を愛用していてな。吸ってみようと思って吸ってみたが、俺には煙草なんてものは無理だった」

「そんで残りを全部俺に押し付けたよな。あとアレ、お前覚えてるか? 同じようなこと言ってアブサン買ってきて、結局飲めなくて、買って一口しか飲んでねぇのを俺に押し付けてきただろ。お子様が無理すんなって」

「二つしか違わないくせに大人ぶるな。大体、酒と煙草が大人の嗜みというのなら、俺はずっと子供で良い」


 二人のやりとりを、七瀬は控えめに笑いながら見守る。そうしているうちにも、彼らは軽口を飛ばし合っていた。


「制服着て学校行けそうな顔してるしな」

「そうか、君は囚人服が似合いそうな顔をしていると、つくづく思うぞ」

「お前はどんだけ俺を牢屋にぶち込みてぇんだよ、こんな美丈夫が牢屋にいたら虫にだってモテちまうんだろうな」

「君は……いつから自己陶酔をするようになったんだ?」

「冗談に決まってんだろ。ってか虫の部分にツッコめ。ありえねぇだろ」


 御厨の文句を聞いているのかいないのか、文月は「さて」と席を立った。彼の手元にあるコーヒーカップの中身は、空になったようだ。彼はそれを台所の方へ持って行くと、流し台に置く。カップに水を注いでから、そのままそこに放置して、部屋の方へ戻った。


「御厨、そろそろ行くぞ。七瀬は……」

「あ、ここで勉強したり、試しに贋作っぽいものを書いてみたりしてますね。疲れたら帰りますけど」

「そうか、分かった」

「はいっ、行ってらっしゃい! ……です」


 友達や家族に言う感覚だったのだろう、七瀬が文月に向けて手を振ったかと思えば、慌ててその手を引っ込めた。膝の上で拳を固め、恥ずかしさで俯いた彼女の耳に、小さく跳ねる吐息が届く。

 笑われたことに頬を膨らませて、七瀬が顔を上げたら、口角を少しだけ上げている文月と目が合った。


「行って来る」


 微笑む文月に軽く手を振られ、七瀬はつい他所を向いてしまった。しかし失礼だったかと思い直し、慌てて、顔の向きはそのままに大きく頷いてみせる。


「もうちょい待ってくれよ……」


 御厨の舌打ちと、文月のアタッシュケースが揺れた音が重なった。いつも通りの言い合いを携えて遠ざかって行く彼らの背を、七瀬は見送った。


     (一)


 患者の家を訪れた文月と御厨は、患者の母親に居間へ通された。テーブルを前にして椅子に腰掛けた二人に、茶を入れようとする彼女を、文月が急いで引き止める。


五十嵐いがらしさん、大丈夫です。喉は、渇いていませんから」

「あ、そうでしたか。分かりました」


 四十代くらいに見える彼女、五十嵐は、申し訳なさそうに眉尻を下げて、台所から戻ってくる。文月の向かい側へ着座すると、彼女は泣き出す時のように目を震わせて、文月を見上げた。


「あの、を、助けて下さい……!」

「勿論ですよ。その為に来たのですから」


 助けて、という言葉を耳にした瞬間から口を開いていた文月の、間髪入れずに放たれた心強い声に、五十嵐が胸を撫で下ろした。だが心配性のきらいがあるのか、彼女の視線は落ち着きなく彷徨い、両手の指も落ち着きなく動いている。


「五十嵐さん、聖譚病や綴者については、どの程度ご存知でしょうか?」

「え、えっと……病気に関して、陽菜の様子を見る限り、寝たきりになる、ということくらいしか……」

「ええ。聖譚病は、特別と思える書物に出逢った時に意識を失い、寝たきりの状態となった後、暫くするとその作品を朗読し始める、というような病です。自然に目覚めることや、薬等で目覚めさせることが出来ない為、私のような綴者が、患者の病の原因となった書物を基に贋作を書きます。それを読み聞かせることで、患者の意識をこちらに引き戻します」

「なるほど……」


 手元に紙と鉛筆があったなら、覚え書きのような形で書き留めていたと思うくらい、五十嵐は熱心に文月の説明を聞いていた。


「聖譚病になるのは、本を読んでいる際に深く感情移入をして、その物語の登場人物と自分を重ねてしまうからです。重ねて、その物語の中を夢の中で彷徨い続けてしまいます。そんな患者を目覚めさせる為に、綴者は患者を主人公にした、患者自身の物語を綴ります。その為には、患者がどのような経験をして、物語のどういった部分を自分と重ねたのか、知る必要があるんです」

「そう、なんですか……」

「はい。なので、いくつか質問をさせて下さい」

「分かりました。なんでもどうぞ」


 目元に笑い皺を作った五十嵐に、文月が「ありがとうございます」と軽く頭を下げる。居直った彼はすぐに質そうとするも、一呼吸置いてから思案顔のまま訊ねた。


「陽菜さんの聖譚……病の原因となった書物は、高瀬舟です。ですから……このような質問をすることになり、大変申し訳ないのですが……陽菜さんが物心付いてから今に至るまで、周りで亡くなった方はいませんか?」

「え……っと、ウチでは、祖父くらいしか亡くなっていませんよ。多分、小学校や中学校でも亡くなった人はいない、と思います。私が知らないだけかもしれませんが」

「そうですか……。ちなみに、祖父君が亡くなった原因をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「……自殺です」


 徐に伏せられていく五十嵐の顔から、文月は思わず目線を外した。いくら贋作を書く為とはいえ、相手にとって身近な人間の死に関する話をするとなると、胸の内に呵責が渦巻く。それでも質問を重ねないわけにはいかず、文月は卓上を見入ったまま問うた。


「その死に立ち会ったのは?」

「誰も、いません。祖母はとっくに他界していましたから、祖父は実家に一人で。実家の近所に住んでいる祖父の友人が、刃物で手首を切って亡くなっている祖父の姿を見つけ、私に電話をしてくれました。祖父は、家の電気を消して、カーテンも閉め切っていた真っ暗な中で、命を絶ったそうです」

「……陽菜さんは、その時おいくつでしたか? その日、彼女は何をしていました?」


 文月の頭で、彼自身想像したくもない予想が組み立てられていく。苦渋を滲ませる彼の表情を、隣で御厨が気遣わしげに見ていた。御厨は彼が何を考えているのか見当が付いているのだろう。御厨もまた苦々しさを表明していた。

 五十嵐は顔を卓に向けたまま、困り眉の下で眼を右へ左へと動かす。


「ええと……陽菜は当時、小学三年生でした。あの日は……確か、朝からどこか遊びに出掛けて、昼過ぎには帰っていたと思います。祖父が手首を切ったという電話が掛かって来た時、私は料理をしていて。陽菜に、電話に出てって言ったんですけれど、友達と喧嘩でもしたのか、珍しく黙ったまま部屋に引きこもっていたので、結局料理を中断して私が出ました。その後、あの子に祖父の死をどう伝えるか、凄く、悩みました。陽菜、祖父が大好きだったんです」

「……そうでしたか。辛いことを思い出させてしまって申し訳ありません」

「い、いえっ……」


 文月の声柄からその心持ちが明瞭に伝わってきて、五十嵐が彼よりも申し訳なさそうな相形を持ち上げた。冷や汗を浮かべて何度も首を左右に動かす様に、彼が柔和な笑みを浮かべる。


「お話、ありがとうございました。――御厨、君は五十嵐陽菜さんの通っている中学校と出身小学校で、彼女が在校している間に死亡事故等が起きていないか調べておいてくれ」

「あ、ああ、分かった。あの、五十嵐さん、娘さんの通ってる中学校と、通ってた小学校の電話番号とか教えてもらえませんか?」

「は、はい。ちょっと待っていてください」


 離席した五十嵐が文月達に背を向けて歩いていったのは、居間の奥に置かれている戸棚の方だ。木製の棚の引き出しを開けて中を漁り、彼女が二枚の紙を持ってきた。

 礼を言った御厨が、受け取ったそれを眺めてみれば、連絡網のようだった。学校の電話番号が書いてあることを確認して、彼はスーツのポケットから携帯電話を取り出すと、廊下へ出て行く。

 五十嵐は彼の背を見送ってから、居間に残った文月の様子を窺った。寸刻、互いに黙然としていた中で、何かを考え込んでいるように眉を寄せていた文月が、人好きのする笑みを五十嵐へ向けた。


「五十嵐さん、陽菜さんの部屋に案内して頂けますか?」

「あっ、はい。こちらです」


 文月は足元に置いていたアタッシュケースを手に取り、五十嵐を追いかけて廊下へ行く。玄関の方で電話を掛けている御厨をちらと見てから、二階へ上がった。二階の一室に案内され、中へ入ってみれば、整頓された室内で一人の少女が眠っていた。小さく響いてくる声は淡々と、確かに高瀬舟を読み上げている。

 ベッドで眠る陽菜を見ていた目を室内へ向けた後、文月が床を指差した。


「あの、こちらに腰を下ろしてもよろしいでしょうか?」

「気が利かずに済みません……座布団をお持ちしますね」

「いえ、大丈夫ですよ。気になさらないで下さい。こちらで贋作を書かせて頂くだけですから、居間の方でごゆるりとお待ち下さい」

「は、はい」


 五十嵐は深く頭を下げた後、「失礼します」と言い置いてから部屋の扉を静かに閉めて行った。


「苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが――」


 流れる朗読を耳に留めながら、文月は絨毯の敷かれた床に正座をし、自身の前にアタッシュケースを置いた。中から原稿用紙とガラスペン、インク瓶を取り出して、鞄の口を閉める。横向きに倒したアタッシュケースを机の代わりにし、原稿用紙を上に乗せる。用紙よりも右手側にインク瓶とペン置きを配置すると、そのペン置きにガラスペンを預けた。

 ペンを手に取ることなく、原稿用紙の方眼を眺め入る。その升目に何を書くか、沈思黙考する。

 思い巡らせながら、やおらに瞼を下ろした。瞼の裏側を見つめ、高瀬舟を聞き続ける。語られる情景を真黒な目の前に描きながら、文月がそうしていた時間は、何分ほどだったろう。

 部屋のドアノブが回された音に、ようやく文月が目を開けた。


「なんだ、瞑想でもしてたのか?」


 黒い手帳を手にしている御厨は、室内に足を踏み入れると扉を閉め、アタッシュケースを前にして胡坐をかいた。文月は自分の斜め前にいる彼に、目だけを向けた。


「そんなところだ。それで、どうだった? 教えてもらえたか?」

「ああ。短い説明をしてから教えてくれって言ったら不審に思われたからな、懇切丁寧に説明してなんとか教えてもらったよ。小学校も中学校も、亡くなった人間はいない」

「そうか」


 文月の面差しが険しいものになる。原稿用紙を睨むように見つめる彼の言葉を、御厨は黙って待っていた。

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