後編


 KO学園との試合前、ノックが終わってベンチへ戻った僕は、突然、激しい胃痛に襲われた。「またか」。背中を丸めて顔をしかめた僕の口から、そんな言葉が漏れた。


 絶対に勝たなければいけないというプレッシャーから来る神経性胃炎。

 甲子園出場が決まってから、僕は毎日のように痛みと吐き気に襲われた。気まぐれな症状は五分で治まることもあれば、三十分以上続くこともあった。医者から処方してもらった薬はあるものの気休め程度にしかならなかった。


 幸いなことに、試合開始まで三十分近く時間があり、リカバリーは可能だった。

 タオルで口元を押さえると、僕は足早にその場を後にした。向かった先は関係者用のトイレ。症状が治まることを祈りながら一番奥の個室へと駆け込んだ。


 五分が経った頃、症状が治まってきた。

 ただ、顔中から吹き出した汗があごを伝ってポタポタと滴り落ち、胃からこみ上げてきた酸っぱいものが口の中に広がっている。激しい不快感とともに、身体が自分のものではないような違和感を感じた。


 何とか動けるようになった僕は、タオルで汗を拭いながら個室のドアを開けた――そのとき、僕の目に「ある光景」が映った。

 洗面台の前に一人の男がしゃがみ込んでいる。水色のシャツとグレーのスラックスに濃紺の帽子。その服装から彼が審判員だとわかった。

 年恰好は四十代半ば。小柄でせ形の体型。顔は紙のように白く身体が小刻みに震えている。洗面台に手を添えて必死に立ちあがろうとしているが、足元がふらついてままならない。


「大丈夫……ですか?」


 控えめに声を掛けると、彼は僕の方にゆっくりと視線を向ける。

 目が合った瞬間、背中に冷たいものが走った。真っ赤に充血した瞳が尋常ではなかったから。

 今にも息絶えそうな重篤じゅうとくな雰囲気が漂い、必死に命を長らえようとする執念のようなものがひしひしと伝わってくる。


「す、すぐに人を呼んできます!」


 彼の雰囲気に圧倒された僕は、逃げるようにトイレの出口の方へ足を踏み出した。


「待ってくれ。私を控室へ連れていってくれ。そうすれば、良くなるから」


 声が聞こえた瞬間、駆け出しそうになっていた足がピタリと止まった。

 話すことなどできないと思っていた彼が、はっきりとした口調で言葉を発したから。まるで、僕の脳に直接話し掛けているかのように。


 ゆっくり振り返ると、真っ赤に充血した瞳が食い入るように僕を見つめている。

 悲痛な色が宿る、かげりのある眼差しに思わず吸い込まれそうになった。


「もちろん礼はする。君は柳生第一学院の選手だろう? 私は次の試合で主審を務めることになっている。ここまで言えば、わかるだろう? 私がどんな形で礼をしようとしているのか」


 男の唇はほとんど動いていない。

 にもかかわらず。はっきりとした声が僕の頭の中に響いている。


 自分で言うのもなんだが、僕は人一倍警戒心が強い。

 普段の僕であれば、胡散臭うさんくさいことに巻き込まれないよう、細心の注意を払っただろう。でも、そのときの僕はではなかった。

 彼に対して大きな期待を抱いていた。言い換えれば、主審を務める彼からの見返りが欲しくて堪らなかった。


「何をすればいいんですか?」


 前向きな言葉が自然に口をつく。


「私は歩くことはおろか立ちあがることもできない。私を背負って審判の控室へ連れて行って欲しい。場所は、廊下の突き当たりを右に曲がったところだ。ゆっくり行っても二、三分で着く」


 彼の言葉が終わらないうちに、僕は腰を屈めて彼を背負う体制を取っていた。

 彼は両手を僕の肩に掛けると、僕の背中に身体を預けた。見た目以上に軽く、まるで小さな子供でも背負っているかのようだった。


★★


 真っ直ぐに伸びる、細い通路を進んでいくと、ところどころで大会関係者やマスコミが立ち話をしていた。内心とても嫌な気がした。選手が審判員を背負っている状況はかなり目立つ。写真を撮られたりいろいろ訊かれると、面倒なことにもなりかねない。


 しかし、僕の心配や不安は杞憂きゆうに終わる。

 どの人も僕たちに気付くと通路の端にけてくれる。怪訝けげんな表情を浮かべる者もいたが、特に話し掛けられることもなく、僕たちは何事もなくその場を通り過ぎた。


「そこを右へ行ってくれ」


 廊下の突き当りで背中から声が聞こえた。

 言われるままに右へ回ると、ドアに「審判控室」と書かれたプレートが掛かっている。僕は安堵の胸を撫で下ろした。「これで西北大学へ行ける」。不謹慎と思いながら心の中でそんな言葉を呟いていた。


 そのときだった。

 僕の両肩に添えられた、彼の手にグッと力がこもる。背中に重い何かが圧し掛かるような感覚を覚えた。次の瞬間、頭がくらっとした。立ちくらみのような症状に、その場に立ち止まって床に視線を落とした。


「ありがとう。助かったよ」


 そんな声とともに背中がスッと軽くなった。

 頭を左右に振って目をしばしばさせながら顔を上げると、そこには彼が立っていた。僕は珍しいものでも見るかのように、彼の頭の天辺てっぺんから爪先つまさきまで視線を上下させた。

 なぜなら、目の前にいるのは、さっきまでの彼とは別人だったから。


 さわやかな笑みを浮かべる、精悍せいかんな顔つきのスポーツマン――彼のことを形容するとしたら、そんな表現がピッタリだった。

 ひ弱に見えた身体もガッチリとした筋肉質のそれへと変貌している。眩暈めまいを覚えながら壁に手を添える僕とは対照的で、互いの立場がすっかり逆転していた。

 ただ、その目は相変わらず真っ赤だった。いや、赤みが深まっているようにも見えた。


 僕はいぶかしい眼差しを彼の顔へ向けた。

 彼はみなぎるパワーを持て余すように、身体のあちこちを動かしながらにこやかな表情を浮かべている。


「今日の甲子園は稀に見る暑さだった。身体が言うことを聞かなかった。君は命の恩人だ」


「僕は何もしていませんが……」


 肩で息をしながら否定する僕に「そんなことはない」と言わんばかりに、彼は何度も首を横に振る。


「君から、私はくたばっていたよ。自分を過信していた。進化したことで舐めていた。夏の甲子園をね。『甲子園には魔物が棲む』なんて他人事ひとごとだと思っていたけれど、まさか自分がそんな目に遭うとはね」


 クックッと苦笑しながら話す彼だったが、僕には彼が何を言っているのか理解できなかった。

 彼は右手の人差し指を立てて自分の鼻につける。そして真っ赤な瞳で僕を見つめる「内緒だぞ」と言わんばかりに。


「身体の変調は一日寝れば治る。それ以降は前より身体が軽くなる。わからないことがあれば、遠慮なく訊いてくれ――もう他人じゃないからね」


 そんな言葉を残して、彼は審判控室の中へ消えて行った。


 その日、僕は体調不良を理由にKO学園の試合を欠場した。


★★★


 まだ二年前のことなのに、もう何年も前のことのような気がする。

 自分の孫に昔話を聞かせているような節さえある。


 高校卒業後、僕は西北大学商学部に進学し野球部に入部した。

 ただ、そこには「二つの誤算」があった。


 一つめは、プロ野球選手になる夢を復活させたこと。

 僕は入部してすぐ、三塁手サードのレギュラーを獲得した。しかもチームの主砲・四番バッターとして。

 すでに十六本のホームランを放ち、リーグ記録である二十三本の更新は時間の問題だった。通算打率八割三分三厘も一シーズンの記録を大きく上回る、驚異の数字で、一塁が空いているときはまともに勝負してもらえなかった。

 ただ、毎試合、日本はもちろんアメリカのスカウトも数多く訪れ、僕のプレイを見ていた。試合終了後はマスコミからの取材も多く、自分で言うのも何だが、僕の将来はとても明るく感じられた。


 それから、誤算の二つめ――コンタクトレンズが手放せなくなったこと。

 と言っても、目が悪くなったわけではない。むしろ見え過ぎて困るぐらいだ。

 精密検査を受けたとき、僕の動体視力はボクサーの世界チャンピオンのそれを上回ると言われた。それに人並外れた身体能力が加わって、今の僕の成績がある。


 あれから何度か「彼」を訪ねた。

 そして、いろいろと質問に答えてもらった。


「なぜを付けないんですか? 赤い瞳は目立ちますよね?」


 僕の質問に、彼はあのときと同じ、爽やかな笑顔を見せる。


「必要ないよ。私が『気にするな』と言えば、誰も気にしなくなるからね」


 確かにその通りだ。ただ、僕は彼とは違う。コンタクトは必需品だ。


「でも、どうして甲子園の審判なんかやっているんですか? あなたの能力ちからがあれば、世界征服だって夢じゃないのに」


 思い切って質問すると、彼の顔から笑みが消える。

 深みのある赤い瞳が僕をジッと見つめる。

 僕がゴクリと息を呑むと、少し間が空いて彼の声が脳裏に響く。


「私は高校野球が好きでね。だって、面白いじゃないか? 何が起きるかわからないんだから。しかも、何が起きても『甲子園に魔物が棲む』で片付けられてドラマになるんだから。それに――」


 彼は視線を逸らして満面の笑みを浮かべた。とがった犬歯があらわになる。


「洒落が利いてるだろう? 吸血鬼バンパイア審判員アンパイアなんて」



 おしまい

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甲子園に棲む魔物 RAY @MIDNIGHT_RAY

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