甲子園に棲む魔物

RAY

前編


「甲子園には魔物がんでいる」


 高校野球では、甲子園球場の独特の雰囲気に呑まれて球児が力を発揮できないことがしばしばあるが、その原因を説明するのに、このフレーズがまことしやかに用いられる。

 常識では考えられないこととはいえ、原因をオカルトに求めることについて否定的な意見がある反面、プレッシャーに対するストレス耐性ができていない高校生への配慮が感じられるとして評価する声もある。

 いずれにせよ、甲子園は球児にとって夢の舞台であると同時に非日常の空間であり、想像を絶する出来事が起きたとしても何ら不思議はない――などと、他人事ひとごとのように言ってはいるが、実は、僕もそんな魔物に遭遇したことがある者の一人である。


 あれは、今から二年前。

 僕が高校三年生の夏のことだった。


★★


 プロ野球選手になることが長年の夢だった僕は、甲子園の常連校・柳生第一学院やぎゅうだいいちがくいんへ進学した。甲子園へ出場してプロのスカウトの目に留まることが夢を実現するのに最短の道だと考えた。


 高校入学と同時に野球部へ入部。授業以外の時間はグラウンドと合宿所との往復。練習は早朝から深夜に及び、時間を見つけては走り込み、就寝の直前までバットを振る。週末も練習のない日はほとんどなく、クラスメイトが女の子とデートの約束をするのを後目しりめに、汗と泥にまみれた、地味な高校生活を送った。


 でも、そんな僕たちのことを、野球の神様は見捨てなかった。

 三年生の夏、僕たちは全国でも指折りの激戦区を勝ち上がり、甲子園の切符を手に入れた。

 甲子園常連校といった枕詞が付いているものの、甲子園出場は三年ぶり。夏に限れば、実に九年ぶり。それだけに関係者の喜びようは半端ではなく、盆と正月が一度に来たような盛り上がりを見せた。


 そんな中、僕はを抱いていた。

 と言っても、ベンチ入りのメンバーから外れたわけではない。二塁セカンドを守る僕はレギュラー番号の四番をもらい、八番セカンドで起用も告げられた。


 僕が抱いた危機感というのは、高校を卒業した後の進路に関すること。

 甲子園を目指す球児の中には、僕と同じようにプロ野球の選手になることを夢見る者も少なくない。特に、全国名うての強豪校である柳生第一学院には他県から越境入学してくる選手も多く、ほとんどが「あわよくばプロに」といった思いがある。実際、プロ野球選手を何人か排出しており、夢のまた夢と言うわけではない。


 当たり前のことだが、甲子園に出場したからと言ってメンバー全員がプロになれるわけではない。

 レギュラーの中でも、プロから声が掛るのは才能に秀でた、一握りの者。

 口にこそ出さなかったが、僕は理解していた――自分がそんな一握りには入っていないことを。


★★★


 小さい頃から野球一筋だった僕には、悲しいかな、野球以外に何の取柄もなかった。言い換えれば、高校卒業後の進路を決定する際、野球以外に他人ひとと戦える武器を持ち得なかった。


 バブル景気の頃は、企業メセナ――企業による文化・スポーツ・芸術への支援活動が盛んで、その一環として、大手企業はスポーツ倶楽部を創設し優秀な人材の確保に努めた。

 特に、国民的人気スポーツである野球には多くの企業がこぞって投資を行い、甲子園に出場した選手の獲得合戦が繰り広げられた。高校球児にとっては絵に描いたような売り手市場であり、球児のほとんどが野球で生計を立てることができた。


 しかし、バブル崩壊とともに状況が一変する。

 負債の処理に追われた企業は、企業メセナへ投資する余裕がなくなり、スポーツ倶楽部は軒並み廃部に追い込まれ、野球部の数も激減した。野球による、有名企業への就職は狭き門と化し、高校球児にとって受難の時代が訪れる。


 自分の実力を悟った僕は、夢を捨てて現実に目を向けた。

 具体的には、進路を大学への進学――野球の推薦枠を使った、有名私立大学への進学へと切り替えた。

 しかし、それも僕にとって決して楽な道ではなく、狭き門であることに変わりはなかった。


 「名門校のレギュラーとして甲子園に出場した」と言えば聞こえは良いが、全国には同じようなレベルの高校が百校以上存在し、僕と同じ肩書を持つ球児は腐るほどいる。

 また、レギュラーと言いながら「八番セカンド」はいかにも地味で、高校生離れした特大のホームランを放つスラッガーや、大学生や社会人でも打つことができない剛速球を投げるピッチャーなどとは実力もスター性も比べものにならない。


 大学へ行っても野球は続けるつもりだったが、将来野球を生業なりわいとすることはほとんど諦めていた。

 だからこそ、是が非でも名の通った大学へ進学する必要があった。有名大学であれば、大手企業に籍を置くOBも数多くいる。そんな者と人脈を築くことで、人事部署へ推薦してもらうことも可能だと思った。


 普通に考えれば、僕のような選手が有名大学へ進学できる可能性はゼロに等しい。

 しかし、柳生第一学院にいれば、話は別だった。それは、柳生第一学院が、東京六大学の西北大学と「二つの約束」を取り交わしていたから。

 一つめは「チームが甲子園で一勝する毎に一人を推薦枠へ入れること」。仮に優勝したら、五、六人の選手が西北大学へ進学できることとなる。

 そんなことをしても西北側にあまりメリットは無いような気がするが、そこにはがあった。それが約束の二つめ――「プロで通用しそうな選手がいれば有無を言わせず西北へ送り込むこと」。


 プロ志望の選手を説得して西北へ進学させるのは監督の役目。目ぼしい選手に対しては、早い段階で熱心な説得活動が行われる。

 選手にとって絶対的な存在である監督の言葉と、様々な分野で影響力のある西北ブランド。そのコラボに異議を唱える選手はほとんどおらず、最初は難色を示した者も最後は首を縦に振る。

 有名大学への進学率をあげることで一般枠の受験生を増やそうとする柳生第一と、プロ予備軍を囲い込み野球部強化を目指す西北の思惑が一致し、両者の蜜月は破たんすることなく続いていた。


 甲子園への出場が決まった後、僕は監督に呼ばれてを告げられる。「西北大学の推薦の件だが、二人目はお前を推す」。それは、甲子園で二勝した暁には、僕は晴れて西北大学へ進学できるというものだった。

 ただ、全国の強豪校二校に競り勝つというのは、決して安易な道のりではなく、うれしい反面、プレッシャーも半端ではなかった。とは言いながら、僕の人生を大きく左右するビッグチャンスであり、どんな手段を使っても。何を犠牲にしてもやり遂げなければならないと思った。


★★★★


 迎えた甲子園一回戦。僕たち柳生第一学院は初出場の公立高校と対戦し、十一対二と大差で圧勝した。

 まさに順風満帆のスタートだった――が、喜んだのも束の間。二回戦の相手は、優勝候補の筆頭で春夏連覇を狙うKO学園。一回戦は主力選手を温存した状態で、二十四対一という、ラグビーのようなスコアで圧勝。さらに、エースと四番は「十年に一人の逸材」と称されるドラフト一位候補。

 僕たちがKO学園に挑むのは子供が大人と相撲を取るようなもので、勝つのは至難の業だった。


 しかし、高校野球は何が起きるかわからない。

 言い換えれば、甲子園の魔物は実在した。


 下馬評ではワンサイドゲームと見られていた一戦も、九回表のKO学園の攻撃が終わって三対二。点差はわずか一点だった。

 マウンドには、最速一五二キロのストレートと二種類のスライダーを駆使する、本格派のサウスポー。八回まで二点を失っていたが、いずれも味方のエラーによるもので被安打はわずか三本。四死球は無し。奪った三振は十五個。快刀乱麻のピッチングに僕たちはキリキリ舞いだった。

 接戦になったのは、毎回スコアリングポジションにランナーを送りながらあと一本が出ない、KO学園の拙攻が原因で、正直なところ、点差以上に力の差が感じられた。


 そんな中、九回裏に入って球場のムードが一変する。

 突然エースがコントロールを乱し、立て続けに三つの死四球を与えた。 

 ノーアウト満塁のピンチを迎え、内野手がマウンドに集まる。首を傾げながら「納得がいかない」といった表情を見せるエースピッチャーだったが、僕たちから見てもストライクとボールがはっきりしており、八回までの彼とは別人だった。

 ワンアウトは取ったものの、続くバッターにも死球を与え押し出しで同点。そして、次のバッターの初球。すっぽ抜けたボールがキャッチャーのはるか上を通過しバックネットの上部に当たった。

 ガックリと崩れ落ちる、KO学園の選手を後目しりめに、三塁ランナーが右手を突き上げてホームベースを駆け抜けた。


 試合は四対三で柳生第一学院の逆転サヨナラ勝ち。

 絵に描いたような大番狂わせに球場全体がざわめき、それは、僕たちが校歌を歌っているときも治まることはなかった。

 かく言う僕も勝ったことが信じられず、まるで夢を見ているようだった。

 喜びを実感したのは、宿舎に帰って風呂で一息ついたとき。その日は、興奮のあまりなかなか寝付けなかったのを憶えている。


 KO学園のエースが突如乱れた原因は誰にもわからず、インタビューを受けた当人や監督もしきりに首を傾げていた。同時に、テレビや新聞では「甲子園には魔物が棲んでいる」といったフレーズがしきりに飛び交っていた。


 ただ、その試合に魔物が現れることを予め知っていた者がいる。

 それは、他の誰でもなく僕自身。試合前、僕はからそのことを聞かされていた。



 つづく

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