後日談
○
僕はあの日以来、ジョギングをきっぱりと止めてしまっていた。
コースを変えたり、大きな公園のジョギングコースを走ったりもしたけれど、それでもあの時のことを思い出してしまい、走ることが出来なくなっていた。
とは言え、体重は増加しているので、何かを始めなければならない。
しかし、本来、出不精の僕には、何か一人で出来る運動をするようなことなどは出来なかったのである。
時間の流れの中で、僕は柔らかく、そして緩やかに膨れていくお腹を撫でながら悲観にくれていた。
そんな折、妹が結婚して、その一ヶ月後。妹の旦那が遊びに来ていたのである。
義理の弟と言う関係であるが、彼とは不思議と気が合うし、何より、サマーウォーズと言うアニメ映画が好きだった彼とはすぐに打ち解けた。
僕はそのDVDを持っていて、喧嘩別れして数年連絡を取っていない友達と行った思い出の結晶、劇場公開時のパンフレットをあげたりして、とにかく仲良く過ごしていたのである。
テレビで怖い話がやっていたのは、そんな何気ない一日の途中であった。
怪談スポットの特集のようだったのだが、僕はそれを見ながら思い出していたのである。
もしかすると、あの場所も怪談スポットと呼ばれているものではないかと。
――僕は語る。
あの日起きた出来事を。
もちろん、アイドルソングを聴いていた事実は、その場では語らない。
場所と、怖い目に遭ったと言う事実である。
それを話し終えた後、義理の弟が「霊感あるんすか?」と驚き、マッチョな実弟は「お前は何にも無いところで昔から怖がったりしていた」等と、その肉体に備わった筋肉にふさわしい言葉を口にしていた。
しかし、母である。
彼女は、場所を聞いてから怪訝な顔をし、そして弟達の言葉を聞いてから、こう言ったのである。
・
・
・
「そう言えば、その辺。何年か前、殺人事件あったよ」
……ゾッとした。
いや、話を聞いてみると、闇の中に誰かが潜んでいて、僕が通り魔的な殺人事件に遭う可能性があったとか、そう言う話ではない。
それは僕がジョギングをしたよりももっと昔。
親の介護でもめた兄妹間で起きた殺人事件だったらしい。
眠っているところを部屋に侵入し、鈍器で襲撃。
頭に酷い損傷を受けた被害者は、玄関まで逃げ出すも、息絶えてしまった。
そんな話だった。
それを聞いても、なお茶化した実弟が、地図アプリで場所、それから事件を検索したところ、起きた事件現場の家がまさにその付近だったと言う、その場の誰もが口数を減らして沈黙を作ってしまったと言う事実も、ここで言っておかなければらない。
僕には確信があった。
事件現場はあの場所である。
しかし、それでも僕は確信を確かめたりはしなかった。
あの場所に近づくのも嫌だったし、実を言うと考えるのも嫌だったのである。
そして、事件後、ツイッターでこの話を書こうとした時、謎の送信エラーが続いて投稿できなかった、と言った事も思い出し、正直、この話をここで語るのも迷っていた。
語ってやろうと決めた時、僕は夢を連日続けて見ていたのだ。
気がつくと、僕はあの道にいて、面と向かって、暗闇の方を向いている。
僕はその門の中、暗闇に問いかけているのだ。
「誰かいるんですか?」
あるいはこう、問いかけていた。
「僕に何か用ですか?」
ただの、それだけの夢である。
そして、その夢を見た記憶がありつつも、それから先に何が起きたかの記憶は、頭には残っていない。
しかし、目覚めて顔の表面を流れる脂汗のようなものが、僕が、暗闇に問いかけた後のことを体験したかもしれないと言う事を暗示していた。
それでも、僕はその先を知りたいとは全然思っていない。
むしろ、触れたくない出来事である。
しかし、その数週間後の夜。
僕はついにこの話を語ろうと決心する。
誰かに語れば、もしかすると解決する糸口が見つかるかもしれないと。
が、その時、僕の家の窓。
カーテンの隙間から、あの視線を感じたのだ。
とは言え、あの時ほどの悪意では無い。
もしかすると、そう感じるのは家の中にいるという安心感がもたらしているだけなのかもしれないが、キーボードの上に在った指が、思わず止まってしまうくらいにはゾッとした。
僕は気づかない振りをして、その日は電気をつけたまま眠り、翌日、雨戸を閉めた。
それ以来、視線が現れることは無かった。……窓からは。
それから再び語りだそうと決意するのに、さらに日数を必要としたが、こうして僕は語ることに成功した。
そんなわけで、僕が語るのを躊躇し、ついに語ったこの話は、一応の終わりを見せるのだけれど、未だに見てしまうのは、暗闇に向かって質問を投げかけてしまう、あの夢だった。
これを語る前日もこれを夢見て、語るのを再び躊躇してしまった僕だったが、それでもこれをここで語れたのは、この話がどこかの誰かに届いて、例えば「何かに憑かれている」等、僕の状態に何かを感じ取れている人の出現を、僕は待っているからかも知れない。
どうか、もし、危険な状態であるのなら、教えて欲しいと僕は思う。
時々。本当に時々。僕はあの視線を感じる時があるのだ。
それも場所や時間を限定せずに、至るところで。
――実弟が運転する車に乗ると、通り一本離れてあの区画を通る。
弟は近道だと言う。
僕としては、例え近道であろうと、あの場所を近くに感じてしまう道は通って欲しくない。切実に。
事件が起きたと思われる家、あの暗闇が出現していた場所は、今も、あそこにある。
了
闇からの視線 秋田川緑 @Midoriakitagawa
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