闇からの視線
秋田川緑
前編
これから怖い話を語るのだけれど、説明しなければいけないことが二つある。
まず一つ目は、これは前編と後編に分かれる、二構成で語られるということである。
と言うより、僕が無事に家に帰ってからおよそ一年後に、今も続いている後日譚があるのだ。
そして二つ目は、これが実話だということ。
なぜ、これを説明しなければならないかと言うと、一年前のあの夜、僕はジョギングをしていて、その時たまたまスマートフォンから伸びたイヤホンから流れていたのがアイドルソングだったということが、紛れもない事実であると言う事である。
……そう、あの時、僕はアイドルソングを聞いていた。
怖い話の始めとして、この語り出しはどうかとも思うし、普段の僕がアイドルソングを聴いている人間だと思われるのは、ちょっと恥ずかしいのだけれど、変えようの無い事実なので仕方がない。
とにかく、僕はその時、アイドルソングを聞いていたのである。
しかも、ゲーム発祥の架空のアイドル、二次元のアイドルであった。
著作権の問題があると困るので詳細は黙秘するけれど、ようするに邪気の無い元気ソングである。
ジョギングにアイドルソングと言うのは、実を言うと過去にも何度かやっていて、走りながら聴く架空のアイドルが歌うアイドルソングは、僕にとっては息が切れても元気を与えてくれる応援歌であり、足が痛くなっても頑張って走ることが出来る、ジョギングに必要なBGMなのであった。
○
僕が走っていたジョギングのコースは主に川沿いであった。
住宅地の道路から東へ数百メートル走ると国道にぶつかり、そこから折り返して住宅地の道路へと戻る。
そうして往復し続けながら走るという、地道なジョギングを僕は続けていた。
国道近くには、何らかを造っている工場があり、妖しげなホテルがあり、住宅地へ戻れば喫煙所が設置された屋根付きの自動販売機があると言った道のりである。
早朝は人で賑わい、夜もスポーツウェアを来た人々が行き交う活気のあるコースで、僕は彼らと会釈することもあったし、名前も知らない彼らと視線を交わしながらすれ違ったりもしていた。
ようするに、ちょっとしたお気に入りの道なのだ。
そして川は町の境でもある。
橋が架けられていて、川によって僕が住んでいる町と隣町とが分けられていると言った、そんな川であった。
――さて、本題を語ろう。
あれは八月が終わった九月の、まだじっとりと暑いとある夜。
僕は、ジョギングのコースを外れることを思いついた。
いつも同じコースを走っているので、たまには別の場所を歩いたり走ったりしても良いのではないかと考えたのである。
とは言え、市街地を当てもなくさ迷うわけにも行かない。
僕は自然と人通りのない道を選ぶことになり、道の途中で田んぼがあったな、などと思いながら方向を選んだ。
出発地点を自動販売機と定め、僕は市街地の道をぐるりと一周するためのコースを頭に思い浮かばせて、緩やかに走り出した。
終わったら、自動販売機で冷たい飲み物を飲もう。
素晴らしい計画である。
イヤホンからは「がんばれ」と歌われ、「さぁ行こう」と元気付けられ、再び「がんばれ」等と歌われて、なんと言うか気分も最高だった。
そんな、はなまるスーパースタートな出発で始まったジョギングは順調そのものだったのだが、僕の選んだ道は次第に人気が全くない道に続いた。
その日、川沿いを往復した時にも、何故か誰にも会わなかったことに疑問を感じることも出来ず、僕は緩やかに走り、時々歩きながら道を進んだのだが、僕は今も後悔している。
なぜ、川沿いのコースから、僕は外れてしまうことを思いついたりなんかしたのか。
走るなら、川沿いで良いではないか。
しかし、僕は結果として夜の住宅地を走ってしまったのだ。
そうして、走るコースの途中。その場所を僕は通りかかってしまう。
いつも休憩する、川のふもとまで――自動販売機のある場所まで、僅か百メートルの住宅地。
何故か街灯の全くないその場所で、僕が異変に気づいたのは、進行方向から見た左側に暗闇があることに気づいたからである。
そこは、全くの闇だった。
民家にしては広い敷地のように思わせる『門』があり、その中は光らしきものが全く無い。
まるで底が見えない、夜に空いた穴のように思えた。
そして、何よりもゾッとしたのは、そこから視線を感じたからである。
突如として、僕はイヤホンのアイドルソングにノイズが走ったかのような、異様な歪みを聞き取った。
「追いかけて」それから「逃げる振りをして」と歌うアイドルの声が、僅かに歪みながら遠くなって行くのを感じて、僕は内心、パニックに陥ってしまう。
それは気のせいと、そう言われれば、それまでかもしれない。
しかし、その時の僕の耳に聞こえていたのは、どこか
ちらりと顔の向きを変えずに視線だけを移すが、やはりその場所は真っ暗で何も見えない。
そして、その時に僕が何をしたかと言うと――気にせずに歩き続けた。
僕は、気にしない振りをして歩き続けたのだ。
急に走り出すこともしていない。
……と、言うより、僕は、気にしない振りをしなければならかなった。
いるのである。
何かが確実に。暗闇の中に、僕をじっとりと見ている何者かが。
それが好意的な視線なら、まだ救いはあった。
しかし、これは敵意を向けられているとしか思えないような、悪意の視線なのである。
何かを訴えているかのような強い意志を感じもしたけれど、それでも、僕に対して何か悪いことをしてやろうと言う意思を感じる、そう言う視線だった。
通り過ぎるまでの十数秒。予感が僕の胸で警笛を鳴らしていた。
生きた心地はまるで消えうせて、例えば足を止めたり、こちらが見られていることを表に出して暗闇を見つめれば、視線の持ち主が近づいて来るような、そんな邪悪な予感が焦燥感となって、僕の足を進めさせる。
気づいたことを悟られれば、暗闇に引きずりこまれるような気さえして、僕は思った。
けっして急いではいけない。
気がついていない振りをして、のん気に歩かなければいけない。
遠くに見える、唯一の光源、自動販売機の灯りがやけに遠く感じた。
あの交差点を右に曲がれば……あの場所まで行かなくては。
しかし、その瞬間。
背後に気配を感じた僕は、心の底から震え上がった。
付いて来ている。
自動販売機ではダメだと、僕は川の橋を渡る決心をした。
交差点を左に――自宅の方角である。
僕は自動販売機を横目で見ながら、橋を歩いて渡った。
視線が消えたと思ったのが橋を渡っている途中。
走り出せたのは、橋を渡りきってからだった。
僕は走り、帰り道の途中にあるコンビニに寄ると、冷たい水を買って、飲んだ。
その時、一緒にレジに持っていったのは、確か味付きのゆで卵だったと思う。
休憩スペースでそれらを口にしながら、危なかったと思った。
何がどう危なかったと言うのは分からないが、とにかく、危なかった、と。
僕には霊感らしきものは一切ない。
正確に言うと、今は、である。
子供の頃はいくつかの怪異に遭遇してしまった人間であったが、中学、高校と進み、大人になる頃には綺麗さっぱりそう言った類のものからは縁が切れてしまっていた。
ここまで怖い目に遭ったと思ったのは実に十数年――とにかく久しぶりだった。
もちろん、仕事で機械の点検作業中に他業者の偉い人が作業中だと知っていたにも関わらずにブレーカーを上げて、リアルで死に掛けたりと言った怖い目にはあったりしていたけれど、それとは別系統の怖さである。
水を飲み切り、卵の殻をゴミ箱に捨てると、歩いて帰路に就いた。
もう、二度と、あの道には近づかないと胸に誓いながら。
……ここまでが前編である。
後日、僕に戦慄が走ったのは、この一年後。
妹が結婚し、その旦那が家に遊びに来ていて、筋肉マッチョな実弟や母と、怖い話をテレビで見ていた時のことであった。
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