第5話 最果てにて
全ては事実だ。こんな経験は二度としたくない。
「もう、教えましょうか?」女性が言った言葉に縋りつかなかった私が悪いのだ。
教えてくれるのならば床に頭を擦り付けてでも教えを乞うべきだった。
いま、現在から振り返ってみれば全ては私を「狂気」へと追い込むために有ったように思う。「彼ら」は一種類ではなかったが。助けようとしているように見える「彼ら」も居たし、美しいと思った「彼ら」も居た。
まだエピソードは幾らでも列挙できるが、私の精神が持つとは思えない。
正気を保ったまま書き続けるのは現在でも困難だ。
まだ私が正気だとして、だ。
私は正式には正気ではない。少なくとも診断書に従う限り、私は狂っている。
「彼ら」は目的をある程度は果たしたのだ。
何度も発せられたメッセージにもできるだけ答えたつもりだ。
余りにもプライベートなのでこれは公には出来ないが。いや、いずれ明らかにはする。
私は私小説のようなものを書こうかと思っている。『青』を主題にしたものと、『青』から一時的にせよ逃れた私の私生活を書いたものだ。
後は普通にフィクションを書くだろう。もうプロットは幾つも用意してある。
(成人向けが増えるように思う)
私はこの数年で随分変わってしまった。恐怖は身体に染みついているし、諦念と麻痺した思考が私の常となった。
言って見ればより廃人に近くなったのだ。だが麻痺する以外にどうやって恐怖を克服する?
誰も信じなくなる以外の手段でどうやって「彼ら」と会話する?
・狂ったこと。
・麻痺したこと。
・誰も信じなくなったこと。
これが主な『青』の後遺症だ。
少しずつ私はこれらを過去のものにし、封じ込めようとしている。
7月からは自分をリラックスさせるためにあらゆる手段を講じて、自己らしいものを取り戻そうとしている。心身の変調に敏感になり、麻痺から解き放ち、なるべくなら笑って日々を過ごせるように全力を尽くしている。
だが、恐怖そのものがなくなったわけではない。
「莫大な悪意」は存在する。どこに、何故、と問うても仕方がない。
深淵を覗き込んだのかもしれない。決して深淵を覗き込んではならない。
よく言われるように、深淵もまたあなたを見つめ返すからだ。
一度このような一連の出来事に巻き込まれれば、人間として破壊するまで徹底的に「彼ら」はやって来る。
「人間不信なんか当たり前じゃないか」私が言う。
「まるで信じていない相手にはこちらも信用されないよ」私は反駁する。
「麻痺していると言うけれど、目を閉ざして歩いている人は思ったより多いんじゃないの?」私の小説の登場人物が言う。私の夢想というよりはもはや現実の人物に近い。彼女に会うためには僅かばかりの暗闇があればいい。あるいは目を開けたままでも彼女には会える。
「だけどセフィ。(彼女の名前はセフィだ。白銀の塔の登場人物だ)麻痺したままでは笑えないよ」
「そうね……あなたは七月にそれを乗り越えたんじゃないの? もう、素直にとは言えないけれど笑えるでしょう?」
「まあね。後は狂気だ」
「……時間をかけるしかないわ。緩解しかしない病気ですもの」
私は一人きりだが(以前に書いたように友人は去った)暗い部屋に登場する人物は決して少ないわけではない。それ自体が狂気だというのならば喜んで受け入れよう。全て独り言であり誰もいないことは原理的には理解している。『青』は孤独も押し付けていった。
・孤独であること
これも特記しておこう。
「まるで一人で被害者面だな。お前より苦しんでいる者は幾らでもいるぞ」私が言う。
「わかっているさ。ただ、限界まで苦しんだから狂ったんだ。それじゃ足りないかい?」また私は言い返す。
いま、私は緩慢な死の中にいる。いずれ私はより深い孤独に陥り、貧困が私を責め苛むだろう。そんなことは理解している。だが今はやりたいことがあるのだ。
まさに今こうしているように、原稿を書きたい。誰かの目に留まりたい。
有名になろう、裕福になろうというのではない。何を差し置いても書きたいのだ。
新しく書いた原稿は一桁だけれどもPVを獲得した。
レビューを下さった方には感謝で一杯だ。
この原稿は私の恥を書いているのも同然だが、それでいい。書き方を含めて恥じ入るばかりだが、私は幸せだ。「彼ら」が舌打ちをし唾を吐こうが私は幸せだ。
もっと恥ずかしいことを私は告白するだろう。フィクションばかりを書いてきたが、創作を含め私事を書こうと思っている。
これは私にとっては『青』からの大規模な脱出なのだ。
私にとってだけしか意味はないのかもしれないが。
今でも『青』は、「彼ら」はどこにでもいる。ほんの数年前の過激さは成りを潜めたが。
私も「彼ら」が誰なのか突き止めようとも思わないし、今では恨みにも思っていない。
あれは現象だ。
途方もない現象だ。
立ち向かえるものではない。
「彼ら」は最後の目的を果たそうとしているかもしれない。
そのヒントは、ずっと昔、『青』が始まる前の話にある。
私は会社の同僚と、私を送別する(辞める、ということだ)会で飲んでいた。
私はストレスで単純に病み、とあるシステム屋(規模は大きい)を辞めざるを得なくなっていた。
確執や恨み言が無いわけではない。これは原因が明確だったからだ。
ともあれ、私は友人(だとその瞬間まで思っていた)と話していた。
友人の表情が意地の悪いものに豹変した。ずっと言いたかったことを遂に明かす、その喜びに溢れていたように思う。
「お前はいつか必ず野垂れ死ぬよ」
耳を疑った。
先輩も一人、「必ず野垂れ死ぬよ」と笑った。
私は薄ら笑いを浮かべて受け流すしか無かった。
殴っても良かったかもしれない。今思えば。
やがて会は終わり、私は最悪の言葉を抱えたまま帰った。
「彼ら」の目的は私が野垂れ死ぬことかもしれない。最近そう思うようになった。
真夏の新宿で見た事も無い蜂をけしかけて笑い、目の前でカラスが鳩の死骸をつつき回すよう仕掛け、「パスポートなんか取れないよ」と声高に告げ、意味の分からない言葉で話しかけ、『青』で周囲を満たした「彼ら」。
「死ねよ」と何度どこで言われたかさえ覚えていない。
「まあまあタフに数年を生き延びたんじゃないか?」私が言う。
「……時間を浪費してね。夢も悉く消えたようなものだよ。やっと最近、一部取り戻せた」私が言う。
引っ越そうと不動産屋に入ればいつの間にか怒鳴られて追い出された。
タクシーの運転手は私が咳払いを二回すると、咳払い二回で返事をした。
終わらない回想。無数の「彼ら」。
気にするのをやめる以外に手はないと覚悟してから、車の色は元に戻った(異常現象自体はしばらく続いた。今も終わっている確証はない)。
ついこの間もトイレで「うるさいよ!」と隣家に怒鳴られたばかりだ。関係のない話だと信じたい。
原稿は死蔵することがないよう、片端から公開するようにした。
思い残すことはそれしかないからだ。
いや、あるけれどもそれはここには書けない。
とあるメーカーのモニターに付いているカメラが私を放送していただけだと誰かが言っていたようにも思うが、その死角に居ようが私への監視は終わらなかったのだからもう諦めている。
これが終章になるだろう。私はこれ以上思い出すことに耐えられそうにない。少なくとも今は、だ。
思い出の曲をかけながらこの章を書いている。どうにか筆が進んでいるはそのおかげだ。
相変わらずの恐怖の中で。
BGM 椎名林檎、中島みゆき、U2、他。
青という狂気 歌川裕樹 @HirokiUtagawa
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