六 君と薔薇色

 秒針の音が部屋に小さく響く。その無機質な一定間隔の音が、君と私の間の止まっていた時間を取り戻した。

 気がつくと目の前に君が立っていた。私をじっと見つめるその両の目には涙が浮かんでいる。私の視界に映る君もぼやけていてはっきりとは見えない。泣いていた。君も。私も。


 全部思い出したよ。私がどうしてこの世を去ったのか。そして、今、ここにこうしていられる理由。君だったんだね。私をこの世に引き止めてくれたのは。私に死んでからこんなにも楽しい日々を送ることを許してくれたのは。どうして今まで気づくことができなかったのだろう。何回も、何回も、頭の中で繰り返し続けてきたあの声。ずっと、ずっと、頼りにし続けてきたあの声。その声が君のものだったって。

 辛く、苦しかった、生前。生きた心地のしなかった十数年。それを君はほんの少しの時間で鮮やかに、そして明るく暖かな色に塗り変えてくれた。幽霊になった私にこんなにも愛を注いでくれた。生まれて初めて心から愛してくれる人を私は見つけることができたよ。この表現はもう私は死んでしまっているから少し可笑しいかな。生きているうちに君に巡りあえたらどんなによかったことだろう。そうすれば普通に君に恋をして、もっと二人で居られたのかな。そんな虚しい願いを私は少しだけ胸に抱く。


 目の前の君を見る。それと同時に君が浜辺で叫んだあの言葉が鮮明に私の頭の中で木霊する。どうして今を生きているはずの君を感じられたのか。そんなことは分からない。どうだっていい。ただ君が私のことをあんなにも想ってくれている。その事実だけで私には充分だった。

 でもさ、凄く嬉しいのだけれども、よくしゃあしゃあとあんなキザなこと言えたよね。今時、少女漫画の男の子でもあんな事言わないんじゃないかな。読んだこと無いからよく分からないけれどね。とにかく思い出すだけで背筋がぞわぞわする。言われたこっちまで恥ずかしい。一人で勝手に気恥ずかしくなった私は君をからかって気を落ち着けることにした。

「『死んでから君を僕が心から愛そう。』だっけ?」

 できるだけキザに、大袈裟に、全く似ていない君の真似をする。相変わらず君も私も零れる涙は止まらないのだけれど精一杯におどけてみせて。ずっと泣いていた君の顔がみるみる赤く染まっていく。文字通りの赤面だった。暗く沈んでいた二人の空気が徐々にその明るさを取り戻していく。

「どうして都合よくその部分だけ聞こえてるんだよ……。」

 君は自分の言動を後悔しているようだ。顔を隠して凄く恥ずかしそう。こっちを見ないでください、と言わんばかりのオーラが全身から漂っている。いじられたり怒られたりするのはいっつも私。でも今日だけは形成逆転だ。急に強くなった気分。なんだか楽しくなってきたぞ。

「知りませーん?愛の力じゃないんですか?」

 私は面白くなってひたすらに君をからかう。語尾にまるでハートマークが付いているかのような甘えた声で君を嬲る。こんな声が出るなんて自分でも驚きだ。やめろと言いながら恥ずかしがる君の顔はこれまでで一番赤かった。どんどん君が小さくなっていく。楽しいぞ。こんなやり取りを君とできる。間違いなく死んでからの私は幸せだ。


 ただ人に愛されてみたかった。それが生前の私の願い。死んでから満たされたよ。充分すぎるほどに。これがきっと私の現世での未練。ここにいられる理由。

 私は立ち上がってそっと君に寄り添う。恥ずかしそうに縮こまって座っている君と背中合わせになるように座る。体温を感じることはできないはずなのに、君の私より一回り大きな背中からは温もりを感じる。そんな気がした。今なら君に素直に言えるかな。ちょっと恥ずかしいけれども君に比べたらよっぽどましだよね。

 私は小さく息を吸い込む。そしてそっと君に聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで呟いた。

「君に出逢えて本当によかったよ。ありがとう。」


 その瞬間、私の周りで光が弾けた。




 君は恥ずかしくて縮こまっている僕と背中合わせに座った。触れ合うことのないその小さな背中。そこからは少しの温もりとたしかな切なさが伝わってきた。

 君がとても小さな声で呟いた感謝の言葉。ありがとう。僕はちゃんとその言葉を聞き取っていた。その響きに少し僕は照れて俯いた。

 その時、突然まるで蛍が飛び交っているかのように小さな光の粒が次々と君の周りを漂い始めた。その数はどんどん増えていく。触ろうと試みたが触れることはできない。何も無いところから次々と現れるその小さな粒たちはとうとう僕の狭い部屋一面に広がった。そして次の瞬間、一粒の光が弾けた。連鎖的に小さな粒たちが小さく音を立ててゆっくりと弾ける。その一つ一つからは温かく柔らかな光が溢れ出してくる。何が起きているのか僕には分からない。君も焦って慌てふためいている。こんなことは初めてだ。ただこの柔らかな光と小さな粒に包まれた君の姿は、それはそれは美しい天使が僕を迎えに来たようであった。

 光の粒が次々と幻想的に弾けていく。弾けると共に鳴る音たちが徐々に音色を奏で始めた。とても優しい音色。初めて聞くメロディー。この世のものとは思えないその美しい旋律に僕は心が踊った。その音たちは鮮明に僕の頭の中に絵を描く。春の桜。夏の海。秋の月。冬の雪。四季折々の光景が目に浮かぶ。そう思えばとても賑やかな街並みが、田舎のあぜ道が、そうやって次々と音は表情を変えていく。光の粒が奏でる音楽は僕と君とを祝福しているかのようにも聞こえた。


 しかし僕はその時、あることに気がついてしまった。光が弾けるのと同時に君の体が少しずつだが透けていっているということに。君はまだそのことに気がついていないようだ。しかし確かに君の向こう側がうっすらとではあるが、透けて見えるようになっていた。今までそんなことは一度も無かった。僕の目には君がはっきりとこれまでは映り続けていた。僕は直感的ににある思考に辿り着いてしまう。必死に考えまいとするけれど僕の頭からその考えは離れようとはしてくれない。

 少しずつだが、確かに透けていく君の体。君もようやくその異変に気がついたようだった。自分の手のひらを君は眺めてそれを確認する。その異変をはっきりと自覚したであろう君。しかしその反応は僕とは大きく異なっていた。君は笑っていた。変わらず眩しいほどの美しい笑顔で。だがその笑顔が切なさと悲しみを裏に孕んでいることに気づけない僕ではなかった。きっと君も気づいてしまったのかもしれない。多分、僕と君の頭の中にあるのは同じことだと思う。


 幽霊と呼ばれる既に死んだはずの存在がこの世に留まり続けることのできるその理由。それはこの世に未練が残っているから。君の未練はきっと『他人からの愛情』。君はそれがとっくに満たされていたことに気がついてしまった。僕のあの叫びによって。未練が満たされてしまった幽霊が行き着く道はただ一つだ。それは、帰るべき場所へ、本来いなくてはならない場所へ帰ること。


 一度止まりかけていたはずの涙が再び僕の目からこぼれ落ちる。刻一刻と迫る別れの時。僕は君に何を伝えればいいのか分からなかった。

 まだ君と居たい。馬鹿な会話も、遠くへ一緒に行くことも、君からのイタズラだって、まだまだ足りていない。言いたい事は次から次へと溢れてくるのに口から言葉が出てこない。まるで喉元で言葉が何かでせき止められているようだった。何も言えず僕はただその場で立ち尽くすことしかできなかった。そんな無力な僕の頭をそっと君は撫でた。君は僕よりずっと落ち着いていた。優しく僕に微笑みかけながら君は言う。

「君との毎日はすごく、すごく楽しかった。」

「少しの時間しか一緒に居られなかったけれども、私は幸せでした。私のことはもう忘れて、ちゃんと愛してもらえる人を見つけて、その人を心から愛してあげてください。」

 悲しげな君の言葉に呼応して僕の中に溜まっていた言葉たちが体の外へ飛び出してくる。喉元で僕の言葉をせき止めていた何かはもうどこかへ行ってしまっていた。

「忘れるものか。絶対に君を忘れたりなんかするものか。僕も君と居られて幸せだった。君にたくさん幸せをもらった。君が居てくれたから、こんなにも楽しい日々が送れた。」

 嘘偽りの無い言葉。考えるよりも先に口から出たその言葉。その一言一言がずっと笑顔を崩さなかった君の頬に涙を伝わせる。震えた声で君は言う。

「最後くらいは泣かないようにしてたのに……。君は……ずるいよ……。」

 泣きながら怒る君。それでもなんだか君はとても嬉しそうで。そこには感情が複雑に入り乱れていた。


 こんなやり取りをしているうちにも君の体はどんどん見えなくなっていく。部屋に漂っている光の粒もあれほどたくさんあったのに大半が弾けてしまった。その数は既に数えられるほどに少なくなっていた。

 君が僕の目の前に立つ。君の体はもうほとんど透けてしまっていて、向こう側が見えている。それでも君は既にその美しい笑顔を取り戻していた。また一つ、光の粒が弾ける。君は少し溜めてゆっくりと最後の言葉を紡ぎ出した。


「ずっと、ずっと、大好きだよ。」


 そう言った君は背伸びをする。そっと顔を近づけて君は僕の頬に口付けをした。僕が返事をしようとしたその時、最後の光の粒が弾けた。

 眩い光が部屋を覆う。思わず閉じたその目を開いて映った世界に、もう君はいなかった。





 君がこの世を再び去って数週間。君といた夏は未だにはっきりと僕の脳裏に焼き付いている。今でもたまに思い出すと少し悲しくなってしまう。きっと君は僕のこんな姿を見たら喜び勇んでからかってくるんだろうな。それは癪に障るから精一杯明るく生きてやるよ。君にからかわれるのはもうあの一回で十分だ。君が居た頃と同じくらいに、いや、それ以上に鮮やかな人生にしてみせる。だから安心して空の上から見守っていてよ。


 僕は筆を取った。一人の少女を描くために。白く長い髪の毛を携えた小柄な少女。白いワンピースを着て裸足で砂浜に立つ色白な少女。少し抜けてておてんばで、だけどとても優しい綺麗な少女。そうだ。砂浜には花を咲かせよう。白と薔薇色、二色の浜梨の花を一面に。絶対に忘れないように。



 音もなく灰色の世界がまた僕を包んだ。そこにはもうあの白色は無い。しかし空の「青色」だけはその世界でも鮮やかにどこまでも広がっていた──。



「僕も、ずっと、ずっと大好きだよ。」

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浜梨と天秤 九十九緑 @tanseikaiPB

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