三 群青の契り

 君の世界に僕はどのように映っているのだろう。ぽつり、ぽつりと話し出した君。僕をモノトーンにしか見えないと言った君。でも隣の君は僕の世界では極彩色とでも言うべき鮮やかさで照り映える。対照的な僕らの世界。一方は鮮やかで一方は色味がない。そんな正反対の世界を見ている僕ら。ほんの数時間前に出逢ったばかりの君に僕は惹き付けられていた。こういうのを一目惚れと言うんだろうか。いや、でもきっとこれは多分それとは違う何かだ。


 僕が自分の灰色の世界について話し終えた頃には既に日は完全に落ちていた。もう少し一緒に居たい。素直にそう思った僕は君に花火をしようと言った。しかし返ってきたのは、「はい」でも「いいえ」でもその他のどんな類の返事でもなく、あるお願いだった。座っていた彼女が立ち上がり、僕の方を向いてはっきりとこう言う。


「あのね、お願いがあるの。君に……ついてもいいですか?」


 君についてもいいですか。僕は頭の中で繰り返す。何を言っているのか分からない。果たしてどの漢字を当てるべきなのか。突く、着く、付く、どれもしっくり来ない。君は何の許可を僕に得ようとしているのか。理解できなかった僕は君に問い返そうとする。それを遮るかのようなタイミングで君は喋り出す。

「君にとりついてもいいですか?」

 とりつく……トリツク……取り憑く?この漢字が頭に思い浮かぶのに僕の頭は数秒を要した。君は何を言っているんだ?あぁそうか。重い空気だったから僕のことをからかっているのか。そうに違いない。そう考えようとする僕の全身に嫌な予感が駆け巡る。それを払拭するためにも僕は君の頭を軽く叩こうとした。そう、それはとても軽い気持ちで。すっと僕は君に近づき、まるで下手なお笑い芸人のようになんでやねんと言いながら君の頭を軽く叩く。いや、正確には叩こうとした、だ。しかし、叩こうとした僕の手は見事に空を切った。たしかに僕の目に映っているはずの君。でも君がいるそこに、触れることのできる体は無かった。


「君は何なんだ?」




 君の顔に再び困惑の表情が浮かぶ。

「君に憑いてもいいですか?」

 このお願い、理解なんてできないよね。



 私は実はもう生きた人間ではない。既にこの世を去っている。つまり私は俗に言う幽霊ってやつだ。実は君以外には見えていないんだよ?だから住宅地の狭い人気の無い路地も、物寂しい公園も私にとっては好都合だった。


 数ヶ月前に気がついた時の私の衝撃は説明するまでもないだろう。「死んだ」。記憶のない私だけれども、そのひどい感覚だけは痛烈に体に残っていた。だからこそこうして普通に現世にいることが衝撃的で仕方がなかった。それに加えて、物に触れることができない。その事実がこの死の感覚をさらに強く裏付けていた。

 私を含め幽霊が現世を彷徨うということはこの世に何かしらの未練があったってことらしい。でも生憎、私に生きていた頃の記憶はない。何が未練なのか何度も何度も思い出そうとした。しかし思い出せるわけもない。結局のところ私に残された手がかりはやはり「色のない人間を探せ。」というこの声だけだった。記憶喪失の幽霊なんて聞いたこともないよね。

 でもこの数ヶ月間、私はただ君を探すことをしていただけではない。幽霊らしいことも探り探りだけどできるようになった。その一つがこの「取り憑く」ということだった。これをすると私はほんの少しだけ取り憑いた人間との感覚を共有することができる。君に取り憑くことに意味があるのかは私にも分からない。それでもそうすることで新たな視点を得られることは確かだった。記憶を取り戻すための手がかりになるかもしれない。それ以上の理由は私にはなかった。本当は幽霊側が勝手にすることだし許可を得ることでもない。でも君だけは、君にだけは勝手にそんなことはできない。なんとなくそう思った。


 君の表情から困惑の色は拭われない。どうやら君は私が幽霊だということに気づいていなかったらしい。たしかに幽霊だとは名乗っていなかったけれど、なんとなく察しないかなぁ。でもさすがにこの要求は無責任すぎるか。心の中で一人で笑う。君の率直すぎる「君は何なんだ?」という質問に幽霊ですと答えたのはなんだか少し気恥しかった。自己紹介で幽霊ですって言うなんてなかなか体験できないよ。そんな幽霊としての私にまだ君は戸惑っているみたいだけれど、なんとか消化できたみたい。困惑の表情が段々と薄れていく。私を人間でないと知っても君の態度は変わらなかった。さっきの話を聞いてくれていた時と変わらない真剣な顔。そして君は一言だけ呟く。


「いいよ。」


 空には夏の大三角。薄暗く狭い公園に二人。少し涼しい風が吹く。こんな夏の夜、私は色を失った君に「憑いた」。




 状況を上手く飲み込めない。僕の質問に笑って幽霊ですと答えた君。そのあっけらかんとした態度が余計と僕を困惑させる。しかし先程の僕の手の感覚が理性よりも強く僕にその現実を突きつける。君が幽霊であること。それは僕の疑問の辻褄を合わせた。

 最初に声をかけられた時、僕は周りに人の気配を感じていなかった。真後ろに君が立っていたのにだ。普通であれば気づかないわけがない。でも気づかないのも仕方ない。君は幽霊だったんだもの。気配なんて感じるはずもない。自慢じゃないが僕に霊感はこれっぽっちも備わっていない。「感じる」ことができないのは当たり前だ。だから今まで僕は心霊の類は全く信じてこなかった。けれども今日をもってその態度は改めなければならないようだ。そしてもう一つ。君が素足だったこと。この真夏の灼熱のコンクリートの上を平気な顔をして素足で歩けるはずはなかった。普通の人間ならば、だが。常識的に考えればそれくらい簡単に思いつくはずなのに君の色の衝撃で完全に僕の頭の中から掻き消されていた。裏を返せばそれほどに君の色は衝撃的だったってことだけども。幽霊である君にきっと熱さや痛みという感覚はないのだろう。色々考えていたら君の着ている白いワンピースすらも死装束に見えてきた。だめだ、僕、今、完全に混乱してる。


 僕は世界が灰色。君は僕だけが灰色。僕は君だけが鮮やか。僕は人間。君は幽霊。そして今、僕は君に取り憑いていいかとお願いされている。全くどんな状況だよ。呆れながら自分で自分にそんなツッコミを入れる。取り憑かれたら僕はどうなってしまうのだろう。B級のホラー映画のように奇怪な行動を起こしたりするのだろうか。でも君の話ではそんなことはできなさそう。どう答えるか、僕は悩んでいるつもりだった。でも君のお願いを聞いた時に心のどこかではもうその答えは決まっていたのかも知れない。そう決めた理性的な理由はない。でも僕は答えた。それを聞き君は微笑む。笑った君もやっぱり綺麗だ。

 そんなことを考えているうちに君がふわりと宙に浮く。ゆっくり。ゆっくり。高く。高く。君はどんどん上がっていく。あぁ、やっぱり君は幽霊なんだね。この光景で僕はようやく完全に理解する。暗い空に真っ白な君がよく映える。上りきったのかな。君は空中で止まる。長く、美しい、君の白い髪が扇形に宙に広がる。君は真上を向いて星の光る夜空を見ている。そして目を瞑る。胸の前で両手の指を絡める。その姿はキリストに祈るシスターのよう。なんて美しいのだろう。出逢ってから数時間。君の美しさに僕は何回胸を打たれたことか。本当に綺麗な君。ずっとこの光景に見とれていたい。

 そんな願いは届くはずもなくやがて終わりはやって来る。広がった髪の毛の様子が元に戻る。祈り終えたのだろうか。目を開き、絡めていた指を解く。そして上っていった時と同じようにゆっくり、ゆっくり、降りてくる。君は僕とちょうど背中合わせになるように地面に降り立った。君に触ることも、温もりを感じることもできない。こんなにも近くにいるのに。それだけが少しもの寂しかった。

「いくよ。」

 君は小さく僕に呟く。僕は何も答えない。そこに言葉はいらなかった。僕の方にゆっくりと倒れてくる君。君の背中と僕の背中。決して触れ合うことはない。君が少しずつ僕の中に入ってくる。そんな感覚はするはずがないのだけれど。でも少しだけ変な気分だ。やがてすぐに君の姿が見えなくなった。そして頭に君の優しい声が響く。


「ありがとう。」

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