四 鳶色の日常

 あれから一週間ほどが経った。憑いて憑かれての関係になった私たち。そんな君と私の不思議な日常が始まっていた。


 取り憑いた私が君の体の中にいた時間はあの日のあの一瞬だけだった。いくら君とはいえ、やはり人の体に入るのはどうにも慣れない。基本的に私は君と出逢う前と同じように体の外にいる。そんな私の生活場所は専ら君が借りて一人暮らしをしているアパートの部屋だ。幽霊の私はお腹も空かないし暑さも感じない。だから本当はどこにいてもいいのだけれど勝手に上がり込んだ。でも君は嫌な顔一つしなかったのでしばらくは居候させてもらいます。昼間は君が大学に行ってしまうから私は部屋で一人ぼっち。こっそり付いて行こうかと何回か思ったけれど君の迷惑になりそうだからやめた。さすがに見えないものが見えてしまうイタい子に君をするわけにはいかない。万が一見える人に出逢っても面倒だしね。そんなわけで私は昼間はとてもとても暇なのだ。はぁ。幽霊ってなんて暇なんでしょう。君を探していた頃はそれに必死で何も感じなかったけれど、いざ君を見つけてしまったら思いの外することがない。現世の未練が分かればまた違うのかもしれないけどまだ記憶は戻りそうにもない。いつものごとく周りを見渡す。もう見慣れた閑散とした君の部屋。正直、男の子らしいものはあまりない。大学生にでもなればそれが普通なのかな?目に付くところにあるのはベッド、机、本棚。そしてたくさんの画材。私は絵のことはさっぱり分からないけれど、君が描く絵はきっと素敵に違いない。なんで分かるかって?だって君の描く落書きがその範疇を超えているんですもの。さらさらっと描くけれど本当に上手。美大生だから当たり前と君は言うけれど私からしてみると本当にすごい。生きていた頃の記憶は無いけれど、絶対に私はこんなの描けなかったね。


 そんな暇な暇な昼間を過ごす私にとうとう友達ができたのだ。幽霊のお友達じゃないよ?私には他の幽霊さんの姿も見えるけれど怖くて話しかけられません。その友達っていうのは君が飼っている猫。柄は縞三毛でお腹と手先と足先が白い。でもちょっと太り気味かな。かなり丸い。うーん。可愛い。きっと私が生きていた頃は猫派だったな。一人で納得して頷く。この子が私が見えると確信したのはごく最近のこと。それまでも何度か視線が合ってはいたのだけれど全部偶然だと思っていた。しかしある日この子は確実に私に飛びついてきた。もちろんすり抜けるけど。すり抜けて私の背中側に着地する。その時のこの子の表情は忘れられない。猫ってこんなにも表情豊かなんだね。まるで君みたいな立派な驚き顔と困惑した顔を見せてくれたよ。動物は人に見えないものが見えているというのはどうやら本当らしい。その日から私に遊び相手ができた。基本的に私が追いかけ回されるだけだけど。遊んでるというか遊ばれてる?幽霊なのにこんなに普通に日常を楽しんでいていいのか私。




 部屋に帰ってくる。そこには部屋の中を自由に駆け回る一人と一匹。いやもはや二匹か?こんな光景がここ最近帰ってくると毎日繰り広げられている。君ら本当に仲良しだね。最初はあまりにも部屋が荒らされていたから泥棒に入られたのかとかなり焦った。君の話を聞いてそうではないと分かったのはよかったけれど、あまりにもひどかったからその日はお説教しました。全く、幽霊が生きてる人間に正座させられて説教されるってどういうことだよ。ちゃっかり行儀よく猫も君の隣に座って反省してるし。可愛すぎか。説教が堪えたのかその日以来相変わらず追いかけっこはしているけれど部屋を荒らさないような逃げ方を君は始めた。部屋が荒らされていないならなんでもいいや。そう思ってしまう僕は君に甘いかな。


 君は本当によく話す。僕が帰るとすぐに君は目を輝かせて喋り出す。一人と一匹の少し寂しかった僕の日常は君のおかげで急に騒がしくなった。幽霊ってこんなに自己主張が激しくていいのだろうか。君を見ていると僕の中の幽霊像が揺れ動く。幽霊ってもっと暗くて、どんよりしてて、人に悪さをするものだと思ってたよ。でも目の前で楽しそうに話す君は明るくて、さっぱりしてて、僕を幸せな気持ちにしてくれる。完全に真逆。そんな君のひたすらに僕を探していた頃の話は未だに尽きそうにない。絶対に君は生きていた頃もおしゃべりだったな。話すのが上手すぎる。一つ心配ごとがあるとするならばお隣さんに僕がとうとう気が狂ったと思われていないかだ。唐突に夜中に一人で見えない何かに向けて話し出す隣人。字面に起こすと余計と危ない人だな。そんなことは頭にあるけれど君との会話は止められない。とりあえず通報されてから考えようかな。



 大学が夏休みに突入した。僕が家にいる時間が増えたこともあり君は毎日上機嫌だ。今は大体お昼前くらい。どこで覚えてきたのか分からない、最近流行りのアイドルの曲を鼻歌交じりに口ずさみながら君はよく晴れた外の光景を眺めている。夏真っ盛りのこの蒸し暑い日にベランダに居ることができるのは暑さを感じない幽霊の特権だな。君が生活している姿は幽霊であることを僕に全く感じさせない。あんなふうにされると普通の女の子にしか見えない。こんな可愛い彼女がいたらいいのにな、なんて思ったりもする。僕には今ちょうど恋人がいない。灰色の世界が現れる前に既に前の彼女と別れていた。でももし仮に恋人がいたとしよう。部屋に来たら絶対に君の目を気にして素直に楽しめない。そして何よりするべきこともできない。それに見えてしまう質の人だったりしたらさらに怖い。間違いなく誤解されるし、一々説明するのも億劫だ。そういう意味では恋人がいなくて好都合だったなと自己暗示をかける。好都合だ、うん、好都合。そんなどうでもいいことを考えているうちに外を見飽きたのか君が部屋に戻ってくる。もちろん窓ガラスをすり抜けて。あぁ。やっぱり幽霊です。

「今日はご飯どうするの?あんまりそうめんばっかり食べてると太るぞぉ。」

 生きている頃の記憶が無いと言う割にはそういうことは覚えてるんですね。もはや体型維持は記憶などではなく女の子の本能なんだろうか。君は何かとそういうところだけは口うるさい。おかんか。でも君が来てからというもの僕の生活習慣が飛躍的に改善したため無下にはできない。重い腰を上げてキッチンに向かう。とりあえず冷蔵庫を覗く。しまった、昨晩は残り物の消費日だった……。びっくりするほど何も無い空の冷蔵庫。大人しく買出しに行くしか手は無さそうだ。この焼けるような暑さのもとスーパーに行くのはかなり気が乗らないが仕方ない。どうせ晩飯も何も無いんだ。腹を括れ、僕。


 買い物に出かけるためにリビングに戻ろうとしたその時、僕の視界が灰色に染まった。そう言えば家でこれが起きるのは久しぶりだな。君が来てからはまだ一度も無かったかもしれない。最近はたまたまこれが起きるのが日中ばかりであった。普段は日中は大学にいるため家の中の景色が色を失うのは何かと新鮮だった。この世界で君の色を認識するのも実はまだ出逢った時以来の二回目であることに気がつく。リビングに戻るとやはり変わらず真っ白な君がそこにいた。

「ちょっとスーパーまで買い物行くけど一緒に行くか?」

 君に投げかける。しかし返事がない。いつもなら嬉々として着いてくるのに。まぁいいか。そう思って玄関に向かおうとした。その時、君が急にこちらへ振り返る。驚いて僕は君を見る。その瞬間、僕は声をあげることすら出来なかった。

 

 君の様子がおかしいのは一目瞭然だった。目の焦点が合っていない。かなり虚ろな目。口は半開き。何かを小声で呟き、髪の毛は広がっている。そしてそのままそろり、そろりと一歩ずつ足を引きずりこちらへ近寄ってくる。そうその姿はまるで「幽霊」。それそのものだった。恐怖で足がすくむ。冷や汗が全身から吹き出す。心做しか少し部屋の空気が冷たく感じる。一歩。また一歩。僕の方へ着実に向かってくる。目の前の君は完全に自我を失っているようだった。いくら声をかけても返事はない。一体何が起きているのか。目の前の現実を理解することができない。怖い。恐い。怖い。恐い。僕の体を恐怖が支配する。一刻も早く駆けて逃げ出したい。しかし恐怖は囚えた僕の体を動かすことも泣き叫ぶことも許しはしない。君がとうとう目の前までやってくる。俯き気味だった顔を君があげる。直視しないようにしていたその顔。その表情に君のあの優しい笑顔の面影は無かった。顔は君のまま。でもそこから僕が感じ取れるのはただひたすらの恐怖のみ。輝きを失い、焦点の合わない目。もごもごと動く口。そのまま君がゆっくりと口角を上げる。いつものような鮮やかさはそこにはない。ただ不気味さと恐怖を強調させたその笑みを浮かべたまま君ははっきりとこう言った。

「鬼さん、色は何色ですか?」

 途端に僕の全身を痛みが襲った。はち切れそうな頭の痛み。引き裂けるような節々の痛み。痛みが僕を恐怖から解放したが状況はむしろ悪化した。僕はあまりの痛みにその場に蹲る。痛みの中で僕は必死に頭を巡らせる。君のあの言葉。どこかで聞き覚えがある。何だ。何なんだ。思い出せそうで思い出せない。何か僕が小さい頃の記憶。必死に考えるが痛みが集中させてくれない。その時、また君が呟いたのが聞こえた。

「青。」

 その時、僕は思い出した。そうだ。色鬼だ。あの掛け声。逃げる側が鬼に向かって言うあの掛け声。そして今それに君は自分で答えた。


 色鬼。鬼が指定した色に触れている間は鬼に捕まえられることはない鬼ごっこ。もしそれと何か関係があるとするならば、僕は今、鬼なのか?それとも逃げる側なのか?鬼なら君に触れなければならない。しかし君に触れる方法を僕は知らない。すり抜けてもよいのだろうか。君は部屋を彷徨いている。けれども一向に色を探す気配は無さそうだ。ならば僕は逃げる側なのか?でも君も僕にはやはり触れられないはずだ。ダメだ。完全にルールが破綻している。分からない。僕の灰色の世界は未だに色を取り戻さない。でも何かが起こるかもしれない。そんな希望を託して僕は記憶を頼りに青色の何かを探す。周りを見渡す。すぐに君の向こう側に広げっぱなしの絵の具があることに気づく。あれに触れるのが一番早そうだ。しかし酷い痛みは変わらず僕の全身を襲い続けている。まともに立つこともできない。僕は這うようにして散乱した絵の具の元へ向かう。たかだか数メートルの移動が辛い。痛みは手を緩めることなく僕に波状攻撃を仕掛けてくる。痛い。痛い。痛い。痛みに耐え不格好ながらも何とか辿り着く。青の絵の具を文字を頼りに探し出す。『Blue』。あった。すかさずキャップを開けて手に出す。ぬるりとした感触。その瞬間、先程までの痛みは唐突に消え去った。安堵も束の間、僕の意識は遠のいていった。

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