浜梨と天秤
九十九緑
一 灰色の世界
──鬼さん、色は何色ですか?──
「あぁ、またか。」
僕の世界から時々色が消えるようになったのは数ヶ月前からだ。何の前触れもなく僕は色覚を失う。視界が灰色の世界になる。最近こういったことが突然起こる。最初はただの目眩だと思っていたがどうやらそうではないらしい。不定期ながらもあまりにこの症状が続くので流石に異変を感じて行った脳外科に耳鼻科、はたまた眼科も診断結果は異常なし。少し不安ではあったけれど日常生活に差し障りはないし、この灰色の街並みにもすっかり慣れてしまっていた。
それにしてもこの灰色の世界は不思議なものである。色を失ったモノトーンの風景。しかしそこからは確かな鮮やかさが伝わってくる。木の葉のささやかな揺れ、遠い雲の流れ、無機質なコンクリートの道。ありふれたもの全てが色を失うことで僕に強く、その鮮やかさを訴えかけてくる。普段は色彩豊かな世界に住み、そしてその色を時々失う僕だからこそ享受する美しさ。最近はそれに浸る余裕すら出てきたのだから慣れとは恐ろしい。
色を時折失う日常。しかしその日常はこの日を境に少しずつその表情を変えていくこととなる。
「あぁ、またか。」僕がそう呟いたのは夏真っ只中の大学からの帰り道。友達と別れ、一人きりの家路についた時だった。いつものように急に灰色の世界が音も無く広がる。もう驚くこともなくなってしまったこの現象。灰色の世界になっても色味の変わり映えのしないコンクリートの大地。その上をいつものように何も気に留めることなく歩いていると突然、後ろから女の人の声がした。
「やっと見つけた!」
聞き覚えの無い声と予想以上の声の近さに思わず振り返る。そこには長く綺麗な白い髪を携えた、やや小柄で自分と同年齢くらいの少女が立っていた。振り返った瞬間、すぐさまその容姿に目を奪われる。綺麗な髪の色に負けないほどの肌の白さ。そして風に吹かれる同じく白いワンピース。全てがその美しさを際立てていた。細くすらっとした綺麗な長い足。そう思って足元に目をやるとなぜだかこの暑さの中、コンクリートの上に素足でいた。──これは本来ならば相当驚くべきことのはずだが、それ以上の衝撃が瞬時に掻き消した。その衝撃とは、君だけがこの灰色の世界でその色を保ち続けていたこと。これらの多大な情報量に僕は困惑せざるを得なかった。そして何よりこんな体験は初めてだった。灰色の世界で色を失わないものに出会うなど。あまりの衝撃に頭を殴られた僕は思わず黙りこんでしまう。
これが僕と君の初めての出逢い。
あぁ、驚かせちゃったな。私は困惑の表情を見せる君を見て少し後悔をした。数ヶ月の間、ずっと探していた人間にようやく巡り会えた。その喜びから私は後ろから君に唐突に声をかけてしまった。周りに人がいない路地だったからよかったけれど、この場をもし人に見られていたら明らかに不審者だよね。心の中で反省し苦笑する──。
私には記憶がない。ただ覚えていたことは「色がない人間を探せ。」という誰かの声。それだけだった。気がついてから数ヶ月。その声だけを頼りに私はそんな人間を探し続けた。何かが分かるかもしれない。そんな一縷の希望を託していた。色がない人間なんて普通に考えれば、どんな人間なのか想像すらつかない。しかし実在するという確信はあった。でもその根拠はなかった。いや本当はあったのかもしれない。ただ私が忘れてしまっただけなのかもしれない。それでも探すことをやめようとはしなかった。そして遂に今日そんな君をようやく見つけた。この色とりどりの世界で君だけが唯一、私の世界では色を失っていた。見つけたことへの驚きと嬉しさに駆られた私は君に突然後ろから声をかけてしまった。
「やっと見つけた!」
そう声をあげた瞬間、物凄い勢いで振り返る君。途端に君はあからさまなまでの困惑の表情を見せた。そして黙り込む。私はすぐに冷静さを取り戻し苦笑いをした。そりゃ驚くよね。知らない人に急にこんな事言われたら。心の中で呟く。しかし喜びも束の間、冷静になった私の頭は気がつく。
あれ、私はこの後どうすればいいの?
あの声を頼りにたしかに色がない人間を見つけた。もちろん色のない人間は君のことで間違いない。こんな人間、他にいるものですか。しかしその後どうすればいいのかなんてあの声は教えてくれない。私の記憶ももちろん答えてくれない。軽いパニック状態に私は陥り、双方が困惑の表情を見せて黙り込む。何とも形容し難い気まずい空気が住宅地の路地のど真ん中で流れた。
これが君と私の不思議な関係の初まり。
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