第三章15 言の葉の陵
美しい巻書には美しい物語が書かれていた。
「ふう。」
読んでいる間息をつめてしまうので、区切りではいつもため息をつく。
祖父が編纂を命じたという書物は、今上である母へと献じられたものだ。氷高は興味を覚えて少しづつ借り出し、暇を見ては読んでいる。
あの歌。猿女の歌。
歌い上げられている物語はいつも興味深いけれど、短く切れ切れになっていて、全体がどうなっているのかなどまるでわからなかった。
天地が生まれ、三貴子が顕れ、高天原より下り立った天孫が、遥かに代を重ねて氷高につながっている事が、書物を読めば納得できる。ただ漠然と天孫の血族というのではない、我が血統のくっきりとした輪郭を、氷高は掴めたように思えた。
この国の成り立ちと、我が一族の成り立ちと。
分けることのできないその物語の、その果てに結ぶ自分という存在。
この、続いてゆくべき美しい物語の中で、自分は何をできるだろう。
茫洋とただ、祖母の志を継ぎ母を支えるという事ではなく、自分もまたこの物語を支える人間でありたい。
氷高の中に静かな自覚と決意が芽生えようとしていた。
京の一族の邸の母屋に収まると、しばらく真礼は虚脱していた。
京での一族を束ね、時に潔斎して猿女である養女紗奈に会いに宮中にも上る真礼が、虚脱感におそわれている事など、余人はだれも気づかなかっただろう。
だが、長くひたすらに神に仕える潔斎の生活を続けた真礼には、邸での隠居生活は身の置きどころのわからない、落ち着かないものに思えた。神に仕えるためにひたすらに潔斎する必要も、夜明け前に起きる必要すらない生活に、気持ちの張りは明らかに失われた。
猿女として、生きてきた。
ただそのためだけに存在してきた。
猿女以外の何かであることを、たぶん本当には考えたこともなかった。
どうやって生きて行けばいいだろう。
京で一族を束ねると、その決意で猿女を降りはしたが、実際に猿女を降りたことで心から失われたものは、想像以上だった。
でも、生きて行かねばならない。
生き抜いて、そして死ぬのでなければならない。
そうでなければ泉下で阿礼の前に立てない。
だから目の前にあるものの対処をひたすらに続けた。続けるうちに日々は過ぎ、少しづつ生活の形も見えてきた。
そして同時に思い出した。
自由に、歌う事。
老いた声は伸びやかさを失い、往年の力はすでにない。それでも一人で口ずさむのになんの不自由もなかった。
阿礼と歌いたい。
声を失った阿礼と、今なら共に歌えそうな気がする。かつて子供の頃にそうしていたように。
ずっと見つめていた「理想の猿女」阿礼の背中。その背中が急に近くなる。隣に立つ阿礼はきっと変わらない笑顔を浮かべている。もしかしたら目尻には猿女の
手は、サキとつないでいるのだろうか。
サキとも知り合いたかったと思う。
阿礼の選んだ娘と、一緒に歌って見たかった。
安麻呂も、そばで聞いていても構わない。
安麻呂がいたならきっと、景色が落ち着く事だろう。
ある日、その安麻呂が現れた。
安麻呂が史書の編纂に関わり、阿礼と集めていた物語を一連なりに組み上げて御門へと献じたという事は知っている。安麻呂はその写本を携えて、真礼に会いに来たのだった。
楽をよくする安麻呂の一族とは時に宮中で顔を合わせる。しかし途中から史書の編纂にかかりきりになった安麻呂を見かける事はほとんどなかったし、そうでなくても正面から向かい合うのは久しぶりだ。
「これは、いつか見せなくてはいけないと思っていた。やっと見せられるようになったよ。」
御門に献じられた書はきっと絢爛な装丁に彩られているのだろう。しかし、真礼の元に運び込まれたのは質素な装丁の書簡だった。
そっと書簡を解く。
真礼にはその書を読むことはほとんどできない。文字は自分の名の他に、ごくわずかしか知らない。
安麻呂が朗読してくれる。
節回しも、伸びる声もなく、ただ淡々と。
老いてもはやかすれた声で。
言葉は天へ上る事なく、静かに地へと染みてゆく。
これは、言の葉の
物語は泉下の阿礼へも届くだろうか。
世の中は変わろうとしている。
いや、すでに変わっている。
口伝えに受け継がれた多くのものが、失われてゆこうとしている。
戦乱が
相次ぐ災害が
とどめようのない世の流れが
多くのものを押し流してしまった。
それでも、守られてゆくものもある。
例えば猿女の歌のように。
そして消えゆくものたちを、せめて拾い上げて埋葬した絢爛たる陵は、泉下と現世の全ての者に、囁き続けることだろう。
かつて歌われた
言の葉の陵 真夜中 緒 @mayonaka-hajime
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