第三章14ふることふみ
美しい人を知っていた。
同じ舎人の先輩だったその人は姿もとても美しかったけれど、そもそも存在が美しかったのだと思う。
誰もまだ踏んでいない夜明けの雪。
若芽を掠めて流れる早春の川。
何かそういうものを連想させる澄み渡ったような美しさを、その人は湛えていた。
そういう澄み渡ったものが全てそうであるように、その人も長くこの世にとどまってはくれなかったけれど。
不比等の心に、時々その人への憧憬がよぎる。
泥の中をもがき、深い霧の中を進み、罠をかいくぐり、罠を仕掛け。
策略と猜疑の日々の中で、一瞬の幻のようにその人の記憶が浮かぶ。その度に不比等は息をつき、正気を取り戻す。
権力の臭気の中でその人の記憶は、澄んだ空気を思い出させてくれる。
伝承を集めて一連なりに組み上げる。その事自体を面白いと思った。けれど阿礼を失ってから、そこに別の動機が加わった。
比売田という伝承の一族出身の阿礼は、伝承が連なった物語である事を当たり前に受け止めていた。
その、阿礼が見ていたものを見たい。
阿礼が当たり前に見ていたこの国の物語を知りたい。
なかなか直接携わる事はできなくなっても、不比等は史書の編纂を常に気にかけていた。
そこに政治的な思惑がないとは言わない。
そのためには各族の伝承をまとめ上げ、
それはこの、古い族を束ねた国をまとめ上げる有効な手段の一つだ。
しかし、そういう思惑よりも、不比等の心が焦がれる事が、長い編纂作業を支えた一番の動機だった。
編纂作業のためには写経生も、紙も、筆もいる。下書きの竹簡木簡ですらもタダではない。不比等の援助なしには三十年に及ぼうとしている作業を全うすることはできなかったろう。
まだ、清書ではない。
しかしすでに形になった物語の最終巻が不比等の手元にある。
天地のはじめから始まった長い長い物語は、ついに自分たちの時代へとつながった。
実際に書かれているのは十代前の女帝までだが、それでもそこから今上までは簡単に血筋をたどる事ができる。
結局、正式の史書とはならなかったが、それでもこれは初めて編まれたこの国の物語だ。
それぞれの氏族の伝承とも、代々の心覚えの記録でもない、国の成り立ちを明らかにする物語。
これが、阿礼が見ていたもの。
阿礼がきっと目指していたもの。
美しく編み上げられた、この国の物語。
「よく…成し遂げられた。」
不比等と違い、最初から最後まで中心となって編纂に携わった安麻呂に心からの賛辞をおくる。
正式の史書ではないとは言っても、これは御門に捧げられるべきものだ。
美しく装丁し、積み上げた巻書を直接に御門に捧げてほしい。そうあってこそこの快挙に相応しい。
どういう形でそれを実現させるか。
考え、手配するのは不比等の役目だ。
不比等の指が、首にかけた匂袋を探る。袋の中には薄い、固い手触りがある。
広げた巻書を前に、不比等は思いをめぐらした。
終わった、という実感は薄い。
未だに併記を取り入れた史書の編纂を進める身であれば、やるべき事には事欠かない。むしろ仕上げた物語を下敷きに、これから史書の編纂に、いっそう力を入れる事になるだろう。
だが、とりあえずは終わった。
阿礼が「物語の墓」と呼んだ、一連なりに編み上げ書きつけた物語は書き上げられた。
具体的には最後の部分の多くが、かつて蘇我氏が所持していたという、代々の大王についての覚書から引き写すことになった。昔の乱の折に焼失した部分もあるようだが、写しが一族に広く所持されていたおかげで、かなりの部分をまかなうことができた。
ただ、その部分はもう物語ではなかった。
今も編纂の続く史書には、さらに新しい時代の記述も入る予定だが、それもまた物語とはならないだろう。
それはただの記録だった。
歌うことも舞うこともない、簡単な節回しや抑揚すらもない言葉。
だがあえて、安麻呂はそれを物語の最後に付け加えた。
この物語が確かに自分たちに連なる、世の成り立ちだということを示したかった。
上手く出来たのかと言われれば自信はない。
阿礼が語るような、人に染み入る言葉にはできていないように思う。
だが、それでもこれが、安麻呂にできる最上なのだ。
すでに全てが清書に回され、美しい装丁を施されるのを待っている。安麻呂に残された仕事は、書物としての名をつける事だ。
実は少し悩んだ。
正式の史書とするなら、悩むことはない。国の名をとって日本書紀とでもすればいい。
しかし正式の史書でなくなった書物には、なんと名をつけたものか。
目をとじると浮かんでくる。
阿礼と伝承を集めてまわったこと。それを一生懸命書きつけたこと。もともとそれは史書ではなく、消えかねない
この書物は陵だ。
だが、まさかそうは名付けられない。
「ふることふみ。」
つぶやくと、安麻呂は古事記、と書きつけた。
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