第三章13

 氷高は泣いていた。

 包み込むような柔らかな声が、氷高をそっとおし包む。

 自分とあまり変わらない年頃の猿女は、ただ無心に歌っている。猿女は神に仕える者だ。ただ神のためのみに歌う。

 穢を嫌い、御門の崩御に際してすら決してその御霊を祀らない。殯を終え、忌の穢が祓われるまで、御門と言えども忌まれる存在となる。

 前に聞いたことのある猿女の歌はこうではなかったと思う。

 もっと清らかで、その分取り付く島もなく、ただひたすらに美しかった。

 柔らかな歌は氷高の心に沁みた。

 氷高が猿女の歌に触れるようになったのは即位した母の側に日常的に控えるようになったからだ。

 祖母の喪が明けてそれほどたたないうちに、弟である軽が病に倒れた。

 病状は一進一退しながらもじりじりと進行し、やがては日々のほとんどを病室で過ごすようになった。

 御門である軽の不予に日常の政を預かったのが、母の阿部皇女だ。阿部は娘である氷高と吉備、自身の姉である御名部皇女を助言者とし、大臣たちの力を借りながら政を滞りなく行う事に腐心した。

 母だからこそ出来たことだと氷高は思う。

 異母姉である讚良に見込まれてその子草壁の正妃となり、草壁や讚良を支え続けた阿部以外の誰にこんな事ができるだろう。だから弟の死後に母が即位したことも、当たり前のように氷高には思えたが、実際には簡単な事ではなかった。

 阿部皇女は皇后であった事がない。

 氷高達の父草壁皇子が即位することなく急死したからだ。

 これまでの女性の天皇はすべからく皇后の御位にあった方ばかりで、そういう意味では阿部の即位は異例の事だ。

 草壁には多くの異母兄弟がいたから、いっそう阿部の即位は難しかった。その即位の後押しをしたのが、藤原不比等と県犬養三千代の夫婦だ。

 軽の遺児首皇子おびとのおうじの即位を目指すという部分で、彼らとは利害が一致している。

 あまりにも慌ただしく忙しい日々は、氷高の心の襞を削った。

 祖母を、弟を、かつては父を失った事が、単なる事象と感じられる程に。

 その、渇ききった氷高の心に猿女の歌が沁み渡った。沁みた歌は氷高の中を巡り、凝り固まった悲しみを溶かす。

 頬を伝う熱さが、悲しむことを忘れるほどに、懐かしさからも慕わしさからも遠ざかるほどに、自分が疲れていたのだと気づかせてくれた。

 氷高をおし包む歌は柔らかく広がってゆく。

 母神ははがみのおわす黄泉は黄泉平坂の向こうにあると言うけれど、そこまで歌は届くだろうか。

 もし、届くなら。

 おし包まれた自分の心ごと届けばいい。

 自覚できなかった悲しみにやっと涙することのできた思いを、亡き人たちに届けてほしい。

 氷高は涙を拭いもせず、ただ目を伏せて静かに祈った。


 大安麻呂おおのやすまろ

 同じ読みでありながら、氏の字を変えた名を安麻呂は木切れに書き付けた。

 多氏の職能は楽。

 しかし安麻呂はすでにそこから離れてしまっている。大海人の天皇の勅を受けたその日から、史書の編纂に邁進する日々だった。

 いっそ阿礼のように名乗りを変えたいと思ってもいたが、この度の御代変わりに思いがけず御門から大の嘉字を賜った。

 アカネのような通いどころをいくつか持ち、妻と扱う女もいるけれど、安麻呂には実子がいない。それでこの度の賜姓の機会に一族から養子を迎える事にもした。

 続けてきた史書の編纂が認められればこそと思えば賜姓はもちろん嬉しいけれど、安麻呂にとって本当に嬉しかったのは、二つの史書というものに、なんとか許しらしきものが出たことだ。

 ずっと目指してきたひと連なりの物語は、勅許を受けたやや私的な物として。

 異論を併記する形の方を、正式な史書として。

 まとめ、御門に献上すべしという方針をまとめ、後押ししてくれたのは不比等だ。難色を示していた川島皇子の説得も、不比等が頑張ってくれた。

 藤原という本来の姓、不比等という本来の名を取り戻し、律令の整備から政全般にまで関わるようになった不比等は、いまや廟堂の重鎮の一人だ。狭い阿礼の部屋にたまって三人で書き付けをまとめていたあの頃に、こんな未来は思い描いたこともなかった。三人が三人とも、あの頃と名を変えている。

 あれから御代は三度変わった。

 その間に阿礼が失われもした。

 そう言えば、今回の御代替わりに際して真礼が猿女を辞した。

 里に戻って大刀自になるのかと思えばそうではなく、京にとどまっているらしい。

 今なら、会いに行ける。

 そう思いながら、安麻呂は会いに行く踏ん切りをつけられずにいる。

 

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