第三章12大姫

 柔らかく伸びる歌声は、静かに天へと解けてゆく。

 そして翻る袖。

 はためく被礼。

 紗奈の歌声を聞いていると、真礼は幼子の体温の温かさを思う。

 添い寝する真礼の身体を柔らかく温めてくれた優しい温み。

 紗奈の声には微かな甘さと温かさがある。それは真礼が教えたわけではない、紗奈自身の持って生まれた素養だった。

 阿礼が死んでそろそろ十五年になる。

 紗奈は一人前の猿女となった。

 そしてその分真礼は老いた。

 いずれ、月水の絶える日が来たなら、猿女を下りなければならない。その日はもう、それほど先ではないだろう。すでに真礼の月水は相当不規則になりつつある。

 猿女を下りて、どうするのか。

 かつて真礼と阿礼を育てたお婆のように、大刀自と呼ばれ、比売田の里の長となるのがまず順当だろう。

 或いはみやこにとどまって、比売田の邸に住んでもいい。異例ではあるが不可能という事はないはずだ。

 こんなふうに思い惑うのは紗奈と離れ難いからだ。女で、長く猿女を務めた真礼ならば宮中に詰める紗奈と面会することは難しくない。それに、一族の者にも京に出てくる者が増えている。元は猿女の療養や待機にしか使われていなかった比売田の邸も、下人部屋のような簡易な部屋を用意して、京で活動する里人の便に供されるようになっていた。ならば真礼が邸に入って、その取りまとめのような役割をするのは悪くない。今、里で大刀自を務めている美津は高齢ながら健在だし、その後には先年猿女をひいた亜耶もいる。真礼が里に戻れば大刀自の役目は真礼にまわってくるだろうが、彼女たちを押しのけるように思えるのも気が重かった。

 ふわりと真礼を包み込み、天へと解けていく紗奈の歌。来し方行く道を思いながらその歌の清らかさに包まれていると、迷いは晴れないながらも心が透き通ってゆく心地がする。真礼は気づいていなかったが、その包み込むような柔らかさは、阿礼亡き後に真礼が身につけたものととても似ていた。

 真礼の内に今も揺らぐことなく存在する理想の猿女、阿礼。

 天へと駆け上る澄みわたった歌声。

 全ては磨かれ、純化され、ただ向かい合い仕えるべき神だけを思う。

 それは清らかで厳しい歌だ。

 その美しさに人は心奪われるけれど、包まれ癒やされることはできない。

 柔らかさは歌の純度を低くする。それは人のためにある部分だからだ。低くなった純度の分、そこには人を包む余裕が生まれる。

 神を讃え、その事跡を記憶する歌。

 神と歌い手の間に通うものがあるのなら、そこに他の人間の思いがのっても良いのではないか。そんな風に思えるようになった自分に、真礼は不思議な、少し驚いたような気持ちを覚える。歌を磨き上げ、ただ純度を上げてゆくことしか考えていなかったはずなのに、いつの間に自分はこんなことを思うようになったのだろう。

 猿女の歌に、人のための部分があってもいい。それが誰かの祈りや思惑をのせていても構わない。それでも人が一途に神を思うなら、その歌は天へと上るだろう。上って天へと解けてゆき、きっと思いを伝えるのだ。

 柔らかな声が真礼を包む。

 歌はゆるゆると天に上り、場を暖かな思いで満たしていった。


 歌が聞こえる。

 読経ではなく、柔らかな歌声。

 天皇すめらぎの先祖たる神を讃える歌。

 その事跡をなぞる歌。

 ああ、良い気持ちだ。

 歌に包まれて、自分も天に上る心地がする。

 讚良は深く安堵の息をついて、ゆっくりと瞼をあけた。

 「お目が覚めましたか。」

 孫娘である氷高ひだかの皇女ひめみこの声がする。

 声の方に目を向けると、氷高が心配そうにのぞき込んでいるのと目があった。

 「歌が…」

 「読経でしたら切れずに誦させております。今も低く響いておりますわ。」

 確かに低い読経の響きが緩やかにうねっているのを感じる。それは澄み渡り天へと上る猿女の歌とはあまりに異質な響きだ。

 あれは空耳だったのだろうか。確かに聞いたと思ったのに。

 いや、考えてみれば老いて病み臥す讚良の枕辺で、猿女が歌うはずもない。猿女というものは徹底的に穢を嫌う。老いて病み、死を間近とする讚良は、もはや猿女にとっては忌むべき存在であるはずだ。

 讚良は死のうとしている。

 讚良自身、その事を自覚している。

 讚良は老いた。

 夫の享年は越えたし、孫の即位も曾孫の誕生も見届けた。夫から引き継いだ多くの事業は未だ道半ばで、未練や心残りは多いけれど、讚良にできるのはここまでだ。

 もちろん死という未知の現象を恐れないわけではない。しかし決して避けられない事ならば、せめて最期まで誇り高く静かでありたいと思う。

 それはきっと愚かな虚勢なのだろう。けれど泣き喚きのたうち回る方が、讚良にははるかに難しい。結局人というものは生きてきたように死ぬのだろう。

 讚良が身を起こそうとすると、氷高がそっと背に手を添えた。

 氷高は草壁と安倍の間に生まれた最初の子だ。生まれた時から際立って美しい子で、ほんのりと赤味を透かした白い肌に、ぬばたまの髪が鮮やかに映える。

 長い睫毛に縁取られた目は、いつでも湖のように静かだった。

 この子が皇子ならよかった。

 弟の軽よりもはるかに落ち着いて肝が座っているし、目配りも確かだ。この聡明な孫になら安心して後を任せることができたのに。

 草壁の二人目の子である吉備皇女が従兄弟である長屋王を通わせ、末の軽に子が生まれても、氷高は誰を通わせる事もしなかった。祖母である讚良も、母の阿倍もそれをそのまま見守っている。この思慮深い娘が軽々に身の処し方を決めないのは、むしろ好ましいほどだ。

 讚良が寝付くことの多くなった今、皇太妃の地位にある阿倍が讚良の名代のような形で軽の補佐をつとめている。いずれ讚良亡き後には、そのまま軽と共に国を治める事になるだろう。

 氷高にその阿倍を支える役目をして欲しい。ならば夫や子というしがらみはない方が良い。

 もしかしたら氷高自身もそんな事情は分かった上で、誰も通わせないのかもしれない。

 力の入らない身体を、氷高がさり気なく支えてくれる。身体をおこすとじわりと寒さがしみた。室内はいくつもの炭櫃に炭を焚いて暖められているけれど、年の瀬の厳しい寒気をすっかり締め出すことはできない

 「雪が降るかしらね。」

 しんと静まった寒さの鋭さに讚良がつぶやく。

 「そうですわね。雪になるかもしれませんわ。」

 数日後、讚良は年を越すことなく崩御した。

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