第三章11
「やはりこのままでは難しいか。」
安麻呂は見比べていた何巻もの書物を置き、眉間を揉んだ。昔はいくらでも書物を読み、書き物を続けられたものだが、最近では長い作業は辛くなっている。今も鈍く頭が痛んでいた。
阿礼と集めた物語はもちろんだが、それ以降に集めた物語も無駄にはしたくない。消えゆく全ての物語を納めるのが、阿礼のいう物語の陵の役割であろうと思う。
物語の量が増えるにつれて、一連なりの形に組み上げるのは難しくなってきていた。同じ話と思しい物語にも、いくつもの異説がある事は珍しくない。むしろ一つの形に集約できる方が、全体から見れば例外だとも言える。
だが、阿礼もともに組み上げていた一連なりの物語の形には未練があった。
長年そこを目指してきた、ということも理由として小さくはないが、なんといっても読む人にわかりやすい、ということが大きい。
身近な一族の伝承が、国の大きな物語の一部であるという感動は、それ自体が伝えるに足る事実ではないかと思う。
いっそ、二つ作ろうか。
最近ではそんなことを考えている。
今まで組み上げてきた一連なりの物語と別に、異説を併記した史書を作る事はできないだろうか。
確かに作業量は増えるが被る部分も多いし、倍の労力がいるとまではならないだろう。
川島皇子に打診してみると、同じような内容の史書を二組という事に難色を示されてしまった。わかりにくいというのだ。
それに国の史書は一種であるべきだとの考えもあるようだった。
「国の基となる物語を纏めるのに、取捨選択は当然ではないのか。」
言いたいことはわからないでもないが、安麻呂としてはせっかく集めた伝承を切り捨てて葬ってしまいたくはない。作ろうしてきたのは物語の陵だ。選ばなかった物語にとどめを刺すのは嫌だった。
結局のところ川島皇子と安麻呂では、物語に向き合う姿勢が違うのだろう。
失われゆく物語の痕跡を残そうと足掻く安麻呂と、
「どうしたもんかな。」
文机のすみに置いた木切れを手に取る。
走り書きの書かれた粗末な薄板。
阿礼の最後の歌を写した書き付けの一枚。
それに触れ、書かれた文字を辿ると、あの日の阿礼の歌がよみがえってくる。
天に上る事なく、ぱたりぱたりと地に落ちた歌声は、悲しみをふんだんに含みながらも悲鳴じみてはいなかった。
なぜだろうと、今になって思う。
アカネにあずけた銀鈴は、今ではアカネの商売を手伝っている。染めや細工物に詳しく、趣味もよいらしく、アカネも助かっているらしい。
そうして生活が落ち着き出すと、銀鈴は歌わなくなった。
美しい悲鳴を思わせる銀鈴の歌は、やはり悲鳴だったのかもしれない。そんな風に思うこともある。銀鈴の助けを求める気持ちが、その歌にのっていたのではないか。
その理屈で云うと阿礼は、誰にも助けを求めてはいなかったのだろう。サキを失い、悲嘆にくれていたあの時でさえ、阿礼は助けを求めようとはしなかった。サキを殺した山狗の群れを追い詰め、鬼神のように狩りたてた阿礼の中には、すでに純粋な悲しみと虚脱感しかなかったのではないか。
声の変わる前の阿礼の歌は美しかった。
比売田の双子が声を合わせて歌う様は、今も安麻呂の持つ最も美しい記憶だ。
それでも、今、安麻呂が最初に思うのは、あの日の阿礼の最後の歌だ。
ぱたりぱたりと地に落ちた物語は、それでも不思議に美しかった。虚空から湧くような低い阿礼の声は、それでも澄み渡っていた。
歌ったのはあの一度だけ。
サキの遺した物語を歌った、あの一回だけだったが、その後に一緒に集めた膨大な物語にも、阿礼の声の記憶はまとわりつく。
阿礼と共に愛しむように集めた物語を、どうして簡単に切り捨てられるだろう。
「どうしたもんかな。」
何か、方法があるはずだ。
集めた物語を切り捨てない方法が。
ーあいつに、相談してみるか。
ふと浮かんだ面影に、そんなふうに思う。
藤原不比等。
かつて親しく交わり机を並べた不比等は、今では廟堂に加わっている。
律令編纂の 仕事にもたずさわり、どうしても史書をの方からは遠ざかりがちになっていた。
その不比等に相談してみようかと思う。
今では日常的に御門や上皇の側近く仕える不比等なら、何かいい考えがあるのではないか。
安麻呂は、不比等が川島皇子と同じように、物語の一部を切り捨てろと言うとは思わなかった。不比等ならわかってくれるということは全く疑わなかった。
史書を二種類作りたい。
安麻呂にその話を持ちかけられて、不比等はそうきたかと思った。
一連なりの物語として記録すると、使われず切り捨てられる伝承が出る。そんな事はわかりきっていた。膨大な伝承を組み合わせ、一連なりの物語の形に仕上げる仕事のかなりの部分を、担当したのは不比等だった。
どうするのだろうとは思っていたが、史書を二種作るという発想は不比等にはなかった。
ただ、簡単ではない。
政治的な観点で言えば、史書を二種作る利点がない。
だがまあ、なんとかなるだろうと思う。
安麻呂は、川島皇子と違って不比等なら理解できると思ったのだろう。
その信頼はうれしかったし、集めた物語への愛惜も理解できる。そもそも消えゆく伝承を残そうと、最初はたった二人で始めた事業なのだ。ここで物語を切り捨てるのは当初の志をあまりにも逸脱している。
さて、どうしようか。
どんな風に根回しすれば、できるだけさり気なく当たり前のように、話を通せるだろう。
いくつもの顔を思い浮かべながら、不比等は思案にくれた。
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