第三章10首皇子

 「皇子みこさまご誕生でございます。」

 大きな産声の響いた少しあとに、駆けつけてきた三千代の言葉に、不比等はつめていた息を吐いた。最初の出産は長引く事が多いというが、それにしても宮子のお産は長かった。陣痛が始まってから一昼夜以上、幾度も痛みが遠のき、時に気を失い、苦しみ抜いた末の出産だった。

 「皇子さまは御産声も高く、お元気でいらっしゃいます。ただ、藤原夫人が…」

 いっそうひそめられた声に、不比等が再び息をつめる。

 長いお産に疲れ果てた宮子は、後産の下りないままに気を失ったのだという。介添えがなんとか後産を促してはいるが、出血もひどく容態は厳しいらしい。

 「とにかく全力を尽くします。」

 それだけ告げると三千代は産屋へ戻っていった。

 三千代自身、つい先日不比等の娘を産んだばかりだというのに、その後ろ姿はしゃんとしていかにも頼もしい。もっとも、柳腰のいかにもか弱げで年若い宮子に、三千代の落ち着きを求めるのは酷なのだろう。無事に皇子を産んでくれただけで良しとする他にない。

 いや、まだ無事とは言えない。

 皇子とその生母である宮子の双方が、揃って初めて無事なのだ。

 助かってくれ。

 その気持ちが親心だけと言えば嘘になる。それでも不比等の祈りは真摯なものだ。

 宮子は不比等が賀茂比売との間にもうけた娘だ。不比等の正室格となっている三千代の手引きで出仕し、故草壁皇子の嫡男である軽皇子の寵愛を受けるようになった。皇子の即位と同時に正式に入内し、藤原夫人と呼ばれるようになったのも、三千代の骨折りあってのことだ。助け合う一族を持たない不比等はどうしても立場が弱い。

 史書と律令の制定で頭角をあらわした不比等は、天皇の祖母である大上帝の信頼を得て廟堂に参画するようになったが、それだけで他族を抑えてゆけるものではない。藤原という家が生き残ってゆくためには、一族としての力が必要だった。

 不比等は多くの女性に通った。

 宮子を産んだ賀茂比売かもひめ

 男子を三人産んだ蘇我娼子そがのまさこ

 元夫人ぶにんで異母妹の五百重いおえ

 そして宮廷女官の三千代。

 他にも多くの女性に通ったが、正室と言えるほどの立場にあったのは娼子と五百重、そして三千代だ。

 まだ一介の舎人であった頃から通った娼子が三人の息子を残して死んだ後、その母代を引き受けてくれたのが異母妹の五百重だった。後に五百重が不比等の息子を産んだのは、そうした中での当然とも言える流れだった。夫人であった五百重の邸は宮中からも近く、そこを足場にできた事も助かった。

 三千代に通うようになったのは、不比等が廟堂に係るようになったあとだ。元々は史書の編纂に三千代の前夫である美努王が関わったことから知りあったが、不比等が律令の編纂に関わりだしたころから接触が増えた。

 三千代は賢い女だ。

 特に宮中での振る舞いに優れている。目端がきき、根回しに余念がない。宮子の産む子の乳母にも内定しており、これで御門の第一皇子の乳母におさまった。乳母子になる不比等と三千代の娘も皇子に親しく育つだろう。いずれは自然な形で入内という可能性もある。

 第一皇子は不比等と三千代でしっかりと囲い込んだ格好だ。 

 その図式を確かならしめるためにも、皇子の生母である宮子にはしっかりしてもらわばければ。

 不比等は親心だけではない、この上なく真摯な祈りを込めて、産屋の方を見つめていた。

 

 最近、身体の不調を感じることが多くなった。

 無理もないと讚良は思う。

 夫が即位し、その皇后おおきさきとなった時から、いやそのさらに前からずっと駆け抜けてきたような日々だった。

 夫を見送り、息子を失い、孫の即位を見届けた。いつの間にか夫の年齢を追い越してもしまった。

 自分はもう老いているのだと讚良は思う。

 老いて、けれど年若い孫を支えて、まだなんとか立っている。

 先日生まれた御門の皇子、讚良には曾孫に当たる皇子はおびとと名付けられた。母である宮子の父藤原不比等の正室にあたる、県犬養三千代が乳母となり養育されているらしい。宮子は産後の肥立ちがはかばかしくなく、垂れ込めて暮らしているようだ。

 いつの間にか藤原が、天皇すめらぎにその名の藤のごとく絡みついている。

 稗田阿礼や多安麻呂がほぼ個人的にまとめていた時代から史書に携わっていた不比等を見出して草壁に近づけ、律令の制定に参画させ廟堂に侍るまでに引き上げたのは讚良だ。

 しかし不比等が女官である三千代と結びついた事で、何かが変わった気がする。不比等はただの能吏ではない力を得た。あえて似ているものを探すなら、かつての蘇我氏だろうか。娘を御門に差し出し、生まれた孫を東宮にたてる。かく言う讚良の母も蘇我氏の出だ。

 即位できるのは、皇族か蘇我氏出身の母を持つ皇子。

 そういう暗黙の了解は、蘇我氏の力が削がれた事で幾分崩れたけれど、藤原の動きは蘇我氏に成り代わろうというようにも見える。

 さて、どうしたものだろう。

 藤が巻き付いた樹をしっかり支えるなら良いけれど、樹を枯らしてしまう類では困る。この国の改革は今だに道半ばなのだ。

 考えなくては。

 しかし、讚良は感じるのだ。

 自分は老いて疲れていると。

 もう身じろぎさえも重く感じるほど、老いは讚良の心身にじわりと染みている。

 息をつき、背を伸ばす。

 もうすぐ廷臣たちが現れる。

 その中には不比等の姿もあるはずだ。

 どれだけ老いが重くても。

 その重みにどれだけ讚良があえいでいても。

 それを廷臣達に見せてはいけない。

 侮られてはならない。

 讚良は椅子にゆったりと座り直し、唇には微笑みを浮かべて。

 廷臣たちを待った。

 

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