第三章9悲鳴
美しいのに悲鳴を思わせる歌声。
あだめいて、艶やかで、切なくて、苦しい。
安麻呂は馬を止め、周囲を見回した。
襤褸をまとった女が歌っている。
正確には、頭から汚らしい布を被った人物の性別はわからない。ただ、その歌声で女とわかる。
歌っているのは恋の歌だ。
俗っぽくて下世話な歌詞が、その声に乗るとただ切なく痛々しい。
今にも切れそうな絹糸を震わせるような
薄い玻璃の欠片を打ち合わせるような
薄命の美女の死出の吐息のような
それでも聞いてしまえばその歌を無視することは到底できない。そういう美しさだ。
「銀鈴…」
無意識に呟いた。
そうだ、これは銀鈴の歌だ。
馬をおり、手綱を従者にあずける。
その歌に魅せられて、それでも襤褸の汚らしさ故か、やや遠巻きに取り囲む人々をかき分けて、女の肩を掴んだ。女が身を振りほどこうとして、頭に被った布が落ちる。
「ひぃっっ」
取り巻いていた人々が後ずさる。
女の顔の上半分は爛れていた。髪も頭頂部まで抜け落ちて後ろ側にしか残っていない。目のあるはずのあたりに、引きつれて痙攣している部分がある。
女というよりも人としての形を失ったような顔だ。
ただ、
乾いた唇はそれでもふわりと柔らかな輪郭を残していた。
「銀鈴、俺だ。安麻呂だよ。」
肩を掴んだまま叫んで、やっと女はもがくのをやめた。
「やす…まろ?」
動きを止めた銀鈴に、自分の着ていた下重ねを一枚脱いで頭から被せる。それから抱き上げて馬に乗せてからふと考えた。
安麻呂も今では一族の娘を正妻に据え、その邸を本邸としているが、まさかそこに連れてはいけない。通う女たちの顔を思い出してみるまでもなく、連れて行けそうな場所は一つしかなかった。
つかず離れず続いたアヤメに小さな家を持たせたのは数年前だ。
アヤメはそこで女官たちから古着を買い取り、それを市場に卸す商売を始めた。単に古着として卸すだけでなく、場合によっては着物を解き、別の形に作り変えるようなこともしている。細く切った羅を編んだ髪紐や、美しい巾着袋などは中でも人気があるようで、よく部屋の隅などに積んであるのを見かけた。
「何を連れてきたかと思えば。」
アヤメは呆れ顔をしたが、何も聞かずに銀鈴の世話をやいてくれた。沐浴させて清潔な着物に着替えさせ、頭から薄縹の布を被せて銀鈴の身なりを整えてくれる。
粥を与えると銀鈴はそれを食べ、それから倒れるように眠りこんでしまった。
「顔の火傷が一番酷いみたいだけど、体中傷だらけだったわ。手にも古い火傷の跡が残っているし、右足はほとんど動かないのだと思う。」
アヤメに囁かれるまでもなく、銀鈴が酷い状態であるのは安麻呂にもわかっていた。
おそらくは筑紫の地震の折の傷だ。
あれからもう十何年かになるのに、この体でどうやって生き残ってきたのだろう。あの美しい悲鳴のような歌だけで、命をつないできたのだろうか。
その夜、安麻呂はアヤメの酌で飲んだ。
アヤメの家の庭は形ばかりの狭さだが、庭に面した柱の一本に藤が絡ませてあって、その花がちょうど散りかけている。風の吹くたびに薄色の花が、ほのかに甘い香と共に降り落ちた。
アヤメは肴を取りに立った。
肴と言ってもアヤメの家で出るのは簡素なもので、漬け菜とか野蒜とかだが、今日は筍があるとかで炙りに行ってくれたのだ。
月影をきらきらと弾きながら降り落ちる花を眺めていると、ふと人の気配がした。
振り返ると、銀鈴が立っていた。
「目が覚めたのか。」
月影の届かない室内の影の中に立つ銀鈴の輪郭は、不思議なほどかつての銀鈴の面影を宿していた。そのまま銀鈴は影の中に座った。
「正直、死んだのかと思っていた。生きているとは思わなかった。」
「死んだのよ。生きてなんていないわ。」
そして声は少女の日の銀鈴のままだ。普通に年を重ねた分の変化さえ、感じ取ることは出来なかった。
「銀鈴は死んだのよ。ここにいるのは銀鈴ではないの。」
薄闇に沈む輪郭と、年月のまるで乗らない声が相まって、過去の亡霊と話しているような奇妙な感覚に囚われる。亡霊は安麻呂の脳裏に出会った頃の十四の姿を結んだ。
艶やかで、鮮やかで、どこか寂しそうで。
振り回されていることがわかっていても、振り切る事は出来なかった。
「どうやって、ここまで。なぜ、今まで…劉も心配して…」
地震の光景を語りながら涙していた劉は、その後も何度も筑紫と京の間を行き来していたが、何年か前からぱったり現れなくなった。どうやら死んだらしいという噂も聞こえて来た。
「銀鈴は死んだのだもの。見たでしょう。銀鈴の面影なんてどこにも残ってない。歌だけの亡霊みたいなものよ。」
あの筑紫の大地震の折、銀鈴は燃える建物の崩壊に巻き込まれたのだという。顔も髪も焼かれ、右の足は酷く傷ついて折れ、全身に傷を負った銀鈴は、そのまま漂泊の生活に入った。
療養し、きちんとした治療を受けることが出来なかった顔の傷は膿み、引きつれたまま固まってしまった。瞼は僅かに開くことができ、一応ものは見えているのだという。
たった一つ残った声。
その美しい歌声が辛うじて銀鈴の口を糊させてくれた。銀鈴は歌いながら漂白し、京まで漂い流されて来たのだった。
「助けてくれてありがとう。でもやっぱり銀鈴は死んだの。」
それだけ言うと、銀鈴はまた暗がりの中に去っていた。
安麻呂はつめていた息を吐き出し、盃に酒を注いで一気に干した。
あれは銀鈴だ。
本人の言うように亡霊じみているとしても、銀鈴本人であるのは間違いない。
美しい悲鳴のような歌声の娘。
阿礼の歌が聞きたい。
安麻呂は強烈に思った。
懐の包みを取り出して開く。中に収まっているのは走り書きのびっしり書かれた粗末な薄板だ。阿礼の最後の歌をそのまま写し取った走り書きの一枚。
確かめると包み直して再び懐に収め、その上に手を添えて深く息をした。
それから再び手酌で酒を注ぐ。酒はもうほとんどなく、盃の半分しか満たせなかった。
「お待たせ。おかわりのお酒も持ってきたわよ。」
アヤメが焼いた筍と瓶子を運んできた。
安麻呂は酒をなめ、筍をつまんだ。
筍は少し冷めていた。
アヤメは銀鈴の話をきいていたのかもしれない。安麻呂はふと、そう思った。
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