第三章8継嗣
幼い声が歌う。
可憐な声にはまだ天へ駆け上るほどの力はない。だが、無心で真摯な歌には期待を感じさせるものがある。
まだ下げ髪の
阿礼の喪明けで宮中に戻る真礼に伴われて以来、真礼の私室に仕える
双子の阿礼と声を合わせて歌った幼い日。
一度聞けばどんな歌でも諳んじる阿礼は歌を禁じられても、真礼が歌って聞かせた歌を覚えて歌い続けた。
二人で歌うのは人目につかないように森に紛れて。安麻呂が現れたのは阿礼の声が変わる前の短い期間だった。
天へ駆け上る声。
どこまでも、どこまでも、どこまでも。
その阿礼の歌を追いかけて、真礼の声もまた天へと駆け上がって行く。
そのままずっとどこまでも行けたら良かったのに。
阿礼の声が変わった時の衝撃を、真礼は決して忘れることができない。しばらく阿礼の声は掠れていて、掠れが消えてももう元のような声ではなかった。
あの声。
天にまで駆け上る阿礼の美声。
あの声が失われるなんて、そんな残酷なことが許されるわけがない。
でも、それでもその声は失われて、真礼だけが一人残った。
真礼は自分の中の阿礼を追いかけてここまで来た。女なら、声を失わなければ当然そうあったであろう猿女阿礼。その後ろ姿をずっと追いかけてきた。
そして阿礼自身も失われて、やっと気づいた。
自分は一人だ。
母の胎内から共にあった阿礼が死んだ。
育ててくれたお婆もすでにない。
阿礼は子を遺さなかったし、自分は子を生まない。
結局、真礼は一人なのだ。
その事を思い知って、自分たちを引き取ったお婆の気持ちがわかったような気がした。
自分を愛しんでくれた者たちを失って、自分が愛しむ相手がいないのは耐え難い。愛しまれること、愛しむことは、どちらも魂を温めてくれる。ただ冷え冷えと一人きりでいることは耐え難かった。
幼い紗奈は愛おしい。
母を失い、真礼を後ろ盾とする紗奈を、真礼は溺れるように愛しんだ。もはやそれ以外に真礼の魂を温めてくれる物はない。
そして、再び気づく。
そうして、養い児を手元に置いたところで、真礼に出来るのは歌を教える事だけなのだと。
阿礼が歌うことを禁じられた七つの頃から、真礼はただ物語を歌うために生きてきた。
物語を覚えること。
物語を歌うこと。
真礼の全てはそのためにあったと言っていい。
だから、真礼は他のことは何もできない。
糸を紡ぎ布を織ることも。
家族のために食事を作ることも。
畑を耕し収穫を得ることも。
何一つ学んでいない。
だから、真礼は紗奈に物語を教えた。
自分に与えられる唯一のものを、愛し子に受け継ぎたいと願った。
その願いは真礼の歌を変えた。
阿礼を追いかけて天へと一心に駆け上っていた歌は、聞く者をふわりと包む柔らかさを帯びた。
紗奈の手を取り、導くように。
真礼は歌う。
紗奈が倣う。
まだ天に駆け上る力を持たない紗奈の声は、真礼の声に包まれ導かれる。
少しづつ
少しづつ
紗奈の歌が天へと上ろうとする。
清らかな珠が磨かれるように。
小さな芽がのびるように。
紗奈の成長を見守る内に、真礼の季節が巡っていった。
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