第三章7

 讚良は柔らかな旋律が自分を包んでいるのを感じた。讚良を包み込んだまま、旋律は天へと駆け上ってゆく。

 変わった、と思う。

 猿女真礼さるめのまれの歌は確かに変わった。

 讚良が夫の殯を終え、我が子草壁を見送る間に、真礼もまた同母弟いろと阿礼を喪った。大切な者を喪えば人は変わるのだと言う。真礼の歌を聞いていると、そんな事もあるのだろうと思えてくる。

 讚良は、変わらない自分を自覚していた。

 讚良にはやるべきことがある。国の基を確かならしめること。諸外国につけ入られない国を作ること。そのためには国の様々な形を変えなければならない。夫や父が目指した場所に何としてもたどり着きたい。

 自らのただ一人の子である草壁が急死した折、讚良は泣かなかった。泣いている余裕などなかったのだ。草壁が帝位を踏み、その草壁を支える形で讚良が政に参加する。思い描いていたその形が崩れてしまった。

 夫の息子は多いが、帝位を狙える血筋の者は少ない。讚良の姉の子である大津は、謀反を企んだかどで処刑してしまった。

 もっとも、その事を後悔する気持ちは讚良にはない。もしも大津が帝位を踏むことになれば、混乱を招いただろうと思うからだ。あの明るく、魅力的な青年には長い忍耐を貫く強さがない。短期的な効果、見た目の派手やかさにごまかされて揺らぐようでは天皇すめらぎの大任を果たす事はできるはずがない。

 ただ、草壁も大津も喪った今、皇嗣の決めてに欠けるのも確かだった。

 いっそ、自身が即位しようかとも思う。

 父も、祖父母も天皇すめらぎで、讚良自身も皇后おおきさき。即位の資格は十分にある。

 草壁の息子である軽皇子に皇位を継ぐまでの中継ぎという形でなら、讚良が即位しても不自然ではない。他の妃の生んだ皇子よりも我が孫を皇嗣にというのは、下手な理屈よりも納得されることだろう。なんと言っても讚良は女で、母なのだ。

 母。

 母ならば、ただ一人の我が子の死を悼み、もっと取り乱してもいいのではないか。

 草壁が斃れたのは、夫の殯を終えこれからという時だった。これから草壁は即位して、讚良と共に父の業績を継承するはずだったのだ。

 最近、疲れているようではあった。

 忙しいのは当たり前で、即位の準備が進んでいた。長く続いた殯も、ただ故人のために涙を流せばいいというものではない。故人の死を悼み、その業績を讃えさらにそれを継承する決意を繰り返し言挙げする。

 殯の中で故人の遺志を継ぐのが誰であるかを示すのだ。

 草壁はいつものように床について、そのまま目覚めなかった。

 妻の阿部からの知らせに讚良が駆けつけた時、草壁はもう体温を失っていたが、その顔は穏やかだった。

 疲れて、やっとありついた休息の甘美に見を委ねているようなそんな表情だった。

 きっと、実際にそうだったのだろうと思う。

 真面目な子だった。

 おそらくたくさん無理をしていた。

 大津の事にも心を痛めていたのを知っている。川島にもさり気なく心遣いをしていたようだった。讚良の健康もいつも気遣ってくれていた。

 本当に傷ついて、疲れ果てていたのは草壁だったのだろうに。

 動揺しながらも、目立たないように讚良に知らせる配慮をみせた阿部は、讚良を見て泣き崩れた。

 阿部がいてくれて良かったと思う。

 泣くことのできない讚良の代わりに、阿部が泣いてくれたから。

 草壁の死に顔を見る讚良の頭の中は、崩れてしまった目論見をどう立て直すのかという課題でいっぱいだった。

 草壁の死を悼まないわけではない。

 悲しくないわけでもない。

 ただ、母としての感情に溺れることが出来ない。悲しみの波は讚良を包み込むよりも早く鎮まってしまう。為政者としての義務という冷たく高い壁の前に、讚良の中の母としての感情はあまりに無力だ。

 真礼の歌が讚良を包む。

 包んでそのまま天に上る。

 讚良の内側に封じられていた痛みが、柔らかく包まれてゆく。

 讚良は傷ついていた。

 結局は為政者であることを選ぶ自分に。

 そしてその傷ついている事実をずっと認めまいとしてきた。

 どうして許すことができるだろう。自分が自身のあり方で傷ついているなどという事を。自分が処刑の断を下した大津に、死んでも母に涙されることもない草壁に、讚良の決断で、あり方で、左右されてきたであろう人々に、あまりに身勝手なあり方ではないか。

 その、許すことのできない痛みが、許すことの出来ないままに包み込まれ、天へ上る。

 静かに、静かに、静かに。

 いつの間にか歌は終わっていた。

 歌い終えて下がってゆく真礼を、讚良はただ見つめていた。

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