第三章6足跡

 目が覚めると、涙を流している。

 そんな朝は喪ったものへの愛惜と、残り香のような温もりの気配に胸が痛くなる。

 阿礼は喪われてしまった。

 ついにいってしまった。

 アカネが水を汲んだ器をそっと安麻呂のそばに置く。

 出雲から京にもどってから、安麻呂はアカネの元に通う事が増えた。泣きながら目覚めるような事が増えると、一々問いただしてくる女のもとへは足が遠のく。何も言わずにいてくれるアカネのもとが気楽でいい。

 阿礼がいなくなってしまった事を埋めてくれる者などありえないことは、誰よりも安麻呂自身にわかっていた。阿礼は唯一にして最上のものなのだ。誰も代わりにはならない。

 堀りっぱなしの穴の壁がポロポロと崩れ落ちてくるように、眠りを記憶の欠片が埋める。喪ったものを夢の中でかりそめに、取り戻そうとしているかのようだ。

 水をあおりため息をつく。

 喪った事を毎朝思い知らされるのは辛い。

 けれど、夢にさえ阿礼が現れなくなるのは恐ろしい。

 かつて、阿礼がサキを惜しんだことが、サキを阿礼のそばに留まらせた。

 しかし、阿礼は行ってしまった。

 安麻呂が気づいた時には、すでに手の届かない彼方に去っていた。

 ただ惜しみ、執着するだけでは駄目なのだ。同じように思われ、執着されていなければ。

 枕辺にまとめた荷物から、布に包んだ薄板を手に取る。

 これは阿礼の最後の歌。

 天に駆け上る力を失った声で、サキを送るために歌った物語。

 それを夢中で写し取った薄板を、安麻呂は今も全部持っている。最近はその一枚を布に包み、懐に持つようになっていた。

 海が寄越した阿礼の形見は、真礼に渡してしまった。それは正しいことであり、真礼の正当な権利だとも思っている。だが、それでもよすがを求めずにはいられなかった。それで、書付の薄板を持ち歩くようになったのだ。

 阿礼が死んで、安麻呂もまた旅に出る事をしなくなった。

 一つには今まで清書と編纂を中心になって担っていた史が、律令の制定の方に時間を取られるようになったからだ。

 そう言えば、本来の父の姓であるという藤原を名乗るようになった史は、名の文字も不比等と改めた。その不比等は今でも折々現れるが、さすがに今までのようにはいかない。それで安麻呂が改めて、筆耕の中心を担うようになった。

 阿礼が伝え遺した比売田の物語を中心とした、天孫が天皇すめらぎとなるまでを伝える伝承はすでに集まっていたと言うこともある。

 だが、そんな理由は全て言い訳だ。

 安麻呂はもう、伝承を集める旅に今までのような情熱を感じる事が出来なかった。もしも今も阿礼が存命で、伝承を収集するために旅に出るというのなら、安麻呂はどんな無理をおしても、万難を排して同行したことだろう。

 今の安麻呂には旅よりも、編纂の仕事が好ましい。阿礼の集めた伝承に触れていると、阿礼の影を追うような心地がして慰められた。

 実際には今も伝承は集まり続けている。

 勅許の仕事となれば、どの氏族も協力しないわけにはいかないということもあるし、消えゆく伝承を託そうとする者も多い。繰り返された天変地異は、本当に多くの氏族を、里を、絶えさせた。

 伝承も数が集まると、矛盾したり差異があったりする事も増える。

 安麻呂は不比等や川島皇子と相談して、今までから編纂している一連なりの物語とは別に、異説を併記する形での史書の編纂を始めた。史書と呼ぶのにより相応しく、歴代のすめらぎの事績も詳しく記す。それは伝承を消さないために頭をひねった結果だった。

 ただ、史書の編纂と共に、今まで組み立ててきた物語もそのまま進めた。これは阿礼の歌から始まったものだ。途中で投げ出してしまうことは到底できなかった。

 史書と、物語と。

 二本立ての編纂、筆耕は大変ではあったが、安麻呂はその大変さを辛いとは思わなかった。そこには阿礼の影が、足跡が遺っている。その影を、足跡を、消してしまいたくはなかった。

 

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