第三章5諱

 史書がそうであるように、律令というのは本来、外国とつくにの仕組みだ。革命によって天命が改まり、新しい王朝が前王朝の史書を組む大陸のやり方ではこの国の史書が成り立たないのと同じように、律令もこの国にふさわしい形を見つけなければならないだろう。

 不比等は何巻もの書を前に、低い唸り声を洩らした。

 煮詰まっている。

 読み込んだ数多の法が頭をまわり、破裂しそうな心地だ。

 不比等はバタンと仰向けに倒れると、ふう、と一つため息をついた。緩めた衿を探り、首にかけた紐を手繰る。

 ふわ、と香りがした。

 清々しい香りの香は自分で調合したものだ。焚いた香のように煙くはないのがいい。

 手繰り出した香袋に触れる。

 薄い、硬いものの手触り。

 あの、阿礼の部屋で見つけた薄紅の貝殻を紙に包んで、香袋の中に収めてある。

 稗田阿礼。

 猿女の一族である比売田に生まれながら、その名を捨てて伝承の書き取りに生きた男。

 小柄だがしっかりとした体躯に美しい顔立ち。

 柔らかく耳をくすぐる美声。

 弓を取れば老練の猟師のごとく、杖を取ればいかなる賊も捕らえる。

 魅力的な男だったと思う。

 不比等もまた、阿礼に惹きつけられた一人だ。

 その阿礼は突然、不意打ちのように失われた。

 伝承の収集という仕事において、阿礼ほどの逸材は滅多にいるものではない。元々多くの伝承を知っている上に、一度聞けば諳んじてしまえる記憶力の持ち主なのだ。

 失われたのは当然痛手だったが、同時になんとか乗り越えられる試練でもあった。筑紫や出雲を巡った最期の旅で書き留められた伝承を足せば、集めた伝承は天皇すめらぎというものの成り立ちを一通り説明できるほどになっていたからだ。

 むしろそうなるのを待って、阿礼は彼岸へと去ったのではないか。そんなふうにも思える。

 不比等が阿礼に出会った時、阿礼にはすでに別離と死の影がまとわりついていた。

 市で売っているような、簡単な木彫りの人形。

 やけに作りのいい衣装を着せられたその人形は折敷の上に据えられて、いつでも阿礼の部屋に飾られていた。

 たいていは季節の花などが一緒に飾られ、時に衣装も替わったりするので、その人形が阿礼の大切な誰かを悼んで置かれていることはすぐにわかった。

 だから不比等はいつでもその人形に敬意を示した。

 大切にしたくなる人だったと思う。

 不比等よりもずっと剣の腕も立ち、年も上の阿礼のことをそんな風に思うのは、おかしかったのかもしれないけれど。

 もしかしたらこんなふうにいずれいなくなる人だったから、大切にしたいと思ったのだろうか。少しでもそばにいて欲しい気持ちが、そんな感情を抱かせたのだろうか。

 阿礼の死は突然だった。

 当たり前のように旅に出て、なんの予感もないまま失われた。

 亡骸さえも残すことなく。

 そんな不意打ちの別離だったのに、知らせを聞いた不比等には、驚きよりも納得が強かった。

 阿礼はいつかは去る人だった。

 そのことを、きっと不比等は無意識に知っていた。

 考えてみれば不比等は不意打ちの死に慣れている。

 出家していた兄が死んだのは本当に突然のことだったし、父の死もまだ子供だった不比等にとって思いもよらない事だった。

 人はただ、死ぬのだ。

 予感や前知らせもなしに。

 父の嫡男であった不比等は藤原の姓を許されていたが、その後の戦乱のゴタゴタなどもあり、縁者である田部氏を頼ってひっそりと生きる事になった。田部には法に関わる書物が豊富にあり、史書なども揃っていた。不比等も父から受け継いだ書簡を多く所持しており、それらが不比等の学識を育てた。

 それでも、不比等の官人としての一歩は恵まれてはいなかった。政に関わるような仕事のつてを掴むことができず、結局世話になっていた田部氏から舎人として出仕するより他になかった。舎人は宮中の警備などが主な仕事だ。当然求められるのは学識よりも腕っぷしで、不比等にとっては不本意な職だった。

 しかしそこで舎人の先輩である阿礼に出会ったのだ。阿礼を通じて大安麻呂と知り合い、二人が伝承を集めて書き留めていることを知った。

 文字や書物が好きだった不比等は半ば強引にそこに割り込み、清書や編纂を手伝うようになった。

 楽しかった。

 今まで知らなかった伝承を知り、そのつながりを紐解く事はとても面白かった。

 さらに阿礼も安麻呂も、気持ちの良い気性の人間だった。

 粗末な木簡、竹簡を山と積んだ阿礼の部屋で、三人で話し合い、時には言い争いになり、いつの間にか酒盛りに変わっていたような事もある。

 本当に楽しかった。

 墨や木簡などを持ち込み、清書が出来れば写しをとった。最初、田部の人間などに写本を見せたのは、単に面白いと思ったからだ。

 でも、そのうちに気付いてしまった。

 これは、十分に政治的な駒になる。

 それぞれの氏族に伝わるそれぞれの伝承。それらを組み立て、天皇すめらぎを中心にまとめ上げる。氏族の誇りや記憶に、天皇すめらぎを中心にした意味をつける。

 そうすれば、国をまとめる大きな一助となるだろう。

 幸い、阿礼は比売田氏の出身だった。

 比売田氏は天孫に従い降り来た女神アメノウズメと、天孫を導いたサルタヒコの子孫だという一族だ。比売田氏に伝わる膨大な伝承は、元々天孫とその後裔たる天皇だいおうを中心としている。阿礼の知る比売田の伝承を中心にまとめ上げれば、全ての伝承は自然に天皇すめらぎを中心に意味づけされる。

 写本は少しづつ評判になった。

 誰でも自分の氏族の伝承を知っている。それが大きな物語の中に組み入れられて意味づけられるの事を、興味深く思わない者は珍しいだろう。

 そして、天叢雲剣。草薙剣とも呼ばれるその剣の物語を組み立て、拾った噂や、阿礼が聞きつけてきた神剣の話を考え合わせて、気が付いた。

 草薙剣は熱田の社にない。

 おそらくは放出にあるという神剣が草薙剣だ。

 折しも皇后おおきさきが写本に興味を持ち、女官を接触させてきた。

 天意だ、と不比等は思った。

 不比等は写本と共に、草薙剣の話を皇后おおきさきに献じた。

 その事が不比等に名を取り戻させるきっかけなった。

 藤原不比等。

 父が時の御門から賜った姓。

 父が嫡男である自分に選んでくれた諱。

 まだ子供の内に父を失い、親戚筋の田部氏に養われ、戦や天災続きのゴタゴタの内に、名乗ることの難しくなった名は、皇后おおきさきの抜擢を受けて律令の作成に携わるようになったことで甦った。

 父から継いだ名を取り戻した不比等は、父の光栄も取り戻さなければならない。

 「やるか。」

 起き上がり、再び衿の内に香袋を収める。

 ぱあん。

 両手で両頬を打つと積み上げた書物に手を伸ばし、読み込み始めた。

 

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