第三部4よすが
真っ白な料紙に包まれた、ひとひらの小さな薄紅の貝殻。
真礼の手元に戻ったのはそれだけだった。
遺骨も、遺髪も、着ていた衣の端切れさえもない。
阿礼が消えた海から打ち上げられたというひとひらの貝だけが、阿礼を偲ぶ
未練気もなく行ってしまった。
スッパリと、絡みつくたくさんの思いを置き去りにして。
あの日、阿礼の死を感じ取った日の眠りの中で、真礼は阿礼の歌をきいた。
朗々と伸びる美しい声。
その声にのって言の葉が舞い上がる。
ああ、まだまだだ。
自分はまだ、阿礼に及ばない。
阿礼は次々と、真礼の知らない歌を歌う。
あれはきっと阿礼が集めた物語だ。サキの死をきっかけに、集め続けたという無数の物語を阿礼が歌う。
真礼は心を鎮め、耳を澄まし、その歌に聞き入る。
阿礼がサキのものだとしても、阿礼の歌は渡さない。それは阿礼と同じ胎から生まれた真礼のものだ。
聞き漏らすまいと耳を澄ませ、時に声を合わせて歌う。
ああ、なんて心地よいのだろう。
阿礼と真礼の声は、かけらの齟齬もなく、ぴたりと絡みあって天へと上ってゆく。
目覚めた時、真礼の涙は止まって、ただ阿礼が失われたのだという実感だけが、深くいっそう揺るがしがたいものとなっていた。
それから半月以上もたって、阿礼の死の知らせは貝殻と共に真礼のもとに届いた。
料紙に包まれた貝殻は
安麻呂は連れて帰りたかったのだ。
阿礼を連れ帰って、真礼に返したかったのだ。
遠い出雲に置き去りにすることなく、一緒に戻ってきたかったのだ。
本当は置いていかれたのは自分なのだということは、たぶん百も承知の上で。
真礼は安麻呂のもたらした貝殻を大切に里まで持ち帰り、阿礼を弔ったのちに正式な服喪に入った。
静かな服喪の生活。
ただ、そこにはサナがいる。
サナは良い声をしていた。幼いながらに伸びやかな声で、真礼の教える歌を歌う。
柔らかな芽が硬い土を破って芽吹くように。
若木が空を目指すように。
サナの歌は真礼をほぐす。
自分が硬く乾いていた事に、真礼は今更ながらに気づいた。
もう三十は遠に越えた。
若いとは言えない年頃だ。
十七で、宮廷に上がった。
目尻に
ひたすらであるということは、他のすべてを捨てるということでもある。
ただ神に仕え、それ以外の真礼は一族のためにあった。
そのことを後悔はしない。
ただ、その生活は鋤をいれない大地のように、少しづつ真礼を硬くしていたのかもしれない。
真礼はサナの名を字にした。
紗奈。
この服喪が終わる時には、紗奈を連れて行こうと思う。
もしかしたらそれは、ひどい事なのかもしれない。
紗奈の母であるサヨは、猿女となるよりただの女であることを選び、紗奈を産んだ。サヨならば紗奈が猿女になる事を喜ばないかもしれない。
阿礼が子を残すことなく死んだことで、真礼の血脈もまた絶えると決まった。猿女である事に全てを捧げた真礼が子を産む事はない。血を残すのは双子の阿礼の役割のはずだった。
紗奈が猿女となれば、サヨの血脈も絶える。それは今際の際に紗奈を真礼に預けたサヨへの、手酷い裏切りなのかもしれない。
だが、あえてその我儘を、真礼は自分に許したかった。
直接会うことは出来なくても、母の胎内から共にある同胞が、同じこの世に生きているという温もり。すでに声を失ってはいても、かつてこの上ない歌い手だった、理想の雛形である阿礼という存在がこの世にあるという、暖かさを失って凍えていた真礼を、紗奈は優しく温める。
その、暖かさを手放す事にはとても耐えられそうになかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます