第三部3桜貝

 光が降るようだと思った。

 阿礼は沈みながら海面みなもをみていた。

 ゆらゆらと波紋が光を刻み、欠片になった光が静かに降りてくる。

 きらきら

 さらさら

 ああ、サキだ。

 サキの、貝殻の簪のたてる音。

 けれど今、この音をたてているのは光だ。

 海にさす光が波紋に刻まれた欠片となって、幽かな音をたてている。

 自分は、なぜこうしているのだろう。

 海面みなもは明るく、海底みなぞこは暗い。

 阿礼は明るい海面みなもを見上げながら、暗い海底みなぞこへと落ちてゆく。

 船から投げ出されて、海におちた。

 水を飲んで、苦しかった。

 海の水は塩辛く、息を求める阿礼の喉を焼く。

 苦しくて、苦しくて、もう何もわからなくなって。

 ふと、目を開けると、明るい海面みなもが見えていたのだ。

 きらきら

 さらさら

 光が降る。

 なんて美しいのだろう。

 阿礼はぼんやりと、その美しさに見惚れる。

 もしかしたらこんな光をうけて、この光の音色を吸い込んで、あの美しい貝は育つのだろうか。

 そして亡骸となっても風に鳴り、海面みなもの光を偲ぶのだろうか。

 ふわりと、背後から抱きしめる感触がする。

 サキだ。

 サキの指先を感じる胸元に触れると、いつもの懐の人形の手触りでなく、なめらかな指の感触があった。

 阿礼はふと、振り返る。

 若草いろの髪紐で前髪を上げ、その結び目に貝殻の簪を挿している少女が、目に映る。

 本当に、サキだ。

 サキが笑う。

 阿礼に笑いかける。

 生者は死者を見てはいけない。それは死者にはじを与えることだ。

 では、阿礼は死んだのだ。

 死んだから、サキに触れる事ができる。

 サキを見る事ができる。

 そして笑いかけられる事ができる。

 阿礼は身体の向きを変え、サキを力いっぱい抱きしめる。

 サキの指先が阿礼の目元をなぞる。

 猿女の黥。

 失われた声が阿礼に戻る。

 阿礼の目の前に広がるのは闇。

 海底みなぞこの、常世の、根の国の。

 黄泉比良坂の向こうの闇。

 阿礼は腕に一層力を込め、愛しい少女と共にその闇の中へと沈んでいった。


 ぽたり

 膝に雫の落ちた音に、真礼は目を見開いた。

 知らないうちに涙が頬を濡らしている。

 そして浄衣の膝に染みを作っている。

 すらり

 立ち上がると、あたおう限りの速さで神前を辞した。そのまま自室にも下がらず宮廷を出る。

 阿礼が死んだ。

 胸騒ぎも前知らせもなく、ただ確信として真礼はそのことを知った。

 知ったからには穢をうける。だから急いで宮廷を辞した。

 「あの、どちらへ」

 急いで支度された輿の脇で、ユウが戸惑いがちに問いかける。輿の内でも真礼の涙は止まらない。

 「邸へ。」

 京の内に猿女が拝領している邸に、真礼は一度しか足を踏み入れた事がない。初めて出仕する折に、支度のために数日留まった事があるだけだ。なまじ里が近いので、大刀自の亡くなった折はまっすぐ里へと戻ってしまった。

 もともと、新しい猿女の出仕の折や、猿女が病にかかった折などにしか使われてはいない邸だった。留守を守る者はいるが、主のいない邸は荒れているだろう。ユウの指示で下人が邸へと走る。

 阿礼の死の知らせは、京にまず届くだろう。だから里へ戻るより、京に居るほうが都合がいい。

 真礼はそのまま京の邸に入ると、気絶するように眠りに落ちた。


 戸を開けて、光と風を入れると、部屋の奥で何かが光った。

 薄暗がりに目を凝らすと、折敷の上のごく小さなものが、光を弾いているらしい。

 そのまま上がりこみ、折敷を覗く。

 折敷にはいつもなら人形が飾られている。今は部屋の主の旅に、人形も同行しているので何もない。

 「ん?」

 不比等の指が小さな薄い物を拾い上げた。

 「貝殻?」

 淡い紅色の、親指の爪ほどしかない本当に小さな貝殻だ。

 「こんなの、載ってたっけ。」

 とても小さな貝殻だから、単に見逃していたのかもしれない。それでも3日に一度は阿礼の部屋に風を入れにくる不比等には、ほんのりとした違和感が残った。


 阿礼が海に落ちた。

 その知らせに、安麻呂は浜に走った。

 とても静かな海だった。

 風も程よく凪いでいて、少しも荒れてはいなかった。

 それでも突然の強い波が船を揺さぶり、阿礼が海に投げ出されたのだという。

 阿礼は見つからなかった。

 懸命に捜索しても、どこに行ったのかまるでわからない。海に落ちた人間が、嵐でもないのにこんなにも見つからないのは珍しいという。

 ヘトヘトになって、もうどうすればいいかもわからず、波打ち際に立ち尽くす安麻呂の足に、ふと触れる物があった。 

 ごく小さくて薄い、指の爪ほどのもの。

 そっと拾い上げると、それは貝殻だった。

 いつだったか阿礼が穴をあけていたのと同じ、薄紅の花びらのような貝殻。ちょうど阿礼が穴をあけていたあたりが欠けている。

 阿礼は行ってしまった。

 強く、そう思った。

 貝殻はどこの浜でも見かけるものだ。珍しいものではない。薄い貝殻だから割れているのも珍しくない。

 でも、これは阿礼の、サキの貝殻だ。

 阿礼がサキに贈った貝殻の簪から、欠け落ちた一片だ。

 阿礼は遂にサキと行ってしまったのだ。

 死者が終に辿り着くところ、生者のままでは至れない岸辺へ。

 ひとひらの、儚い貝殻だけを遺して。

 

 稗田阿礼が死んだ。

 その知らせを讚良は静かに受け止めた。

 阿礼は得難い人材だった。

 物語に対する深い造詣と、一度聞いたら諳んじてしまう記憶力。まるで物語を編纂するために天が与えてくれたような男だったと思う。

 しかも阿礼は失われていた神剣を、宮中に連れ戻してもくれた。神剣はその後、阿礼の双子の姉である猿女真礼の祀りを受けて鎮められ、熱田の社に帰っていった。今は熱田から運ばれた写しの神剣が、宮中に祀られている。

 魅力的な男だったのだろう。

 讚良に阿礼の死を報告する、川島の声は湿っていた。

 親しい友であった大津を自ら告発するしかなかった川島は、そうでなくても憔悴している。讚良にはむしろ川島の健康が気遣われるほどだった。

 阿礼の集めた膨大な物語は、藤原不比等たちの手によって、整理されている最中だ。ばらばらの断片であるそれらは、珠を糸で繋ぐように、一つの物語へとまとめられようとしている。もっとも、矛盾や異説を多く含む物語をまとめるのは力技だ。最近は不比等は律令の編纂にも関わらせているので、進行は早くない。それでも、淡々と目指す場所を目指して、一歩一歩を進んで行けばきっとたどり着けるはずだ。

 稗田阿礼が死んだ。

 それは大きな損失だ。

 それでも歩みを止めるわけにはいかず、ただ進んでいくより他にない。

 阿礼を失い

 大津を殺し

 夫が彼岸へと去っても

 遺された讚良はただ、進むだけだ。

 夫と目指した、強く美しい国を目指して。

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