第三部2謀反

 大津皇子を処刑した。

 正妃むかいめの山辺は亡骸に取り縋り、そのまま池に身を投げたという。

 美しい悲劇だと讚良は思う。

 その悲劇の語り継がれる限り、讚良の名は悲劇の首謀者として残る事だろう。

 大津は讚良の亡き姉太田と、大海人の間に生まれた皇子だ。讚良所生の草壁と年も近く、姉が大海人の即位まで存命なら大津が大兄になった可能性も高い。姉妹で嫁いでいる場合、やはり姉の方が重く扱われるのが普通だから、讚良が皇后おおきさきになる事もなかったのではないかと思う。

 大津は愛されやすい青年だった。

 少し軽々しくはあるが明るい性格で、鷹揚で自信に満ちていた。

 真面目で、少し神経質なところもある草壁とは対象的だ。

 太田亡き後その二人の子は、太田の父である葛城の手元で養育された。だから大津は大海人の吉野行にも同行していない。姉の大伯は斎宮として伊勢に下ったけれど、大津は都と呼ばれる場所以外で生活した事はなかったはずだ。

 大津がもう少ししっかりした青年なら、草壁の右腕になれたかもしれない。いっそ大津の右腕に草壁がなるのでも良かったと思う。真面目な草壁は頂点に立つよりも、補佐に向いているのではないかと思ったことは何度もあった。

 だが、駄目だ。

 大津は流され易すぎた。

 情が深く、惚れやすく、他人を信じやすい。

 それは人間としては魅力的であっても、天皇すめらぎという地位にあっては欠点となるものだ。草壁がどれだけ真摯に支えても、大津はすぐに揺れるだろう。他者の意見に揺らぎ、草壁以外の言葉にも、もしかしたら大津の敵の言葉にすらも、公平に耳を傾ける。そうして裏切る自覚もなしに、草壁を、大津を支える人々を裏切るだろう。

 それではこの国をまとめる事などできるはずがない。

 ただ、大津がただの廃れ皇子になる事が難しい事も確かだ。

 皇后おおきさきの姉の所生の皇子。

 額田の孫である葛野が切り札を失った今、草壁に対抗できる魅力的な駒なのだ。

 そして誰に唆されたのか、大津は謀反を企んだ。

 謀反が形になる前に讚良にわかったのは、この事のあるを予想して讚良が張っていた網に、見事に大津がかかったからだ。

 川島皇子は讚良にとっては年の離れた異腹の弟にあたる。

 祖父のもとで育った大津には、特に親しい。その川島に大津は謀反の企みを話し、川島はその話を讚良に報せた。讚良がそのような話を聞きつけたら、報せるように川島に言い含めておいたのだ。

 情が深く、惚れやすく、人を信じやすかった大津。

 一度女を取り合って勝ち取った経験から、大津は草壁を侮っていた。

 悪気なく周囲を振り回す大津は、何度も川島を振り回していた。

 川島は親しいからこそ大津が讚良に、そしてその子の草壁に勝てないことを知っていた。大津は国を率いる器でないという讚良に、同意せざるを得なかった。

 大津は魅力的な男だった。

 多くの女が彼を選んだ。

 そうして、幾度も自覚なく裏切り続けられた正妃むかいめが取り乱して殉死を選ぶほどに、大津は魅力的だった。

 多くの男は彼を鏡に夢を見た。

 だからこそ、大津は国にとって危険だったのだ。


 崩御とそれに続く殯の間、宮中で神器を奉るはふり達は、朝廷とのつながりを絶たれる。神器が穢に触れてはならないからだ。

 宮中自体が普段は穢を極力排除しているが、天皇すめらぎの殯ばかりはそうもいかない。殯が終わるまでは正式な即位もない。神器はそれほどに穢から隔離されている。

 普段であればそれほどに清浄を保つはずの神器が、長い年月を外部の小さな社でなんの問題もなく過ごした事は、驚くべきことだった。鏡や玉ではなく剣であったことは、関係があるかもしれない。

 天叢雲剣は、戦で使われた事のある剣だ。

 当然、多くの血を吸った事があり、日常的に穢にふれてもいた。

 それでも盗み出され、海に放り出されるという扱いを受けながら、剣が仮の社に鎮まっていたのは、祀る人々の真摯な敬意によるものであったろうと真礼は思う。

 剣のために真礼は歌った。

 剣の勲を讃える歌、剣を手に戦う英雄の物語を。

 剣の中の英雄と共にあった喜び、英雄を失った悲しみが、真礼に伝わってくる。英雄を慰めた美女の祀りが、英雄を失って猛る剣を慰めたように、英雄と剣の勲を讃えることによって、真礼は剣を慰めようとする。

 慰めて、静かな微睡みに導こうとする。

 神剣は、荒れた。

 みすみす新羅僧に盗み出されたことを、危うく新羅に持ち出されかけたことを、海に放り出された事を、長い年月見つけ出されなかった事を、何一つ許していない。

 真礼は歌った。

 ひたすらに、ただ一途に剣を讃えた。

 殯によっていつもよりもいっそう外部から切り離された奥宮で、剣の怒りと悲しみに向き合う。夜の眠りの内にさえ剣の感情が流れ込み、真礼は剣に向き合う以外の事を一切忘れた。

 剣は元々大蛇の尾から取り出されたものだ。八つの首を持ち、山々を取り巻く程に大きな蛇。剣はその生命と膨大な霊力の結晶なのだ。

 真礼は夢を見る。

 剣の物語を夢に見る。

 見た夢をさらに歌う。

 歌って、歌って、歌って。

 ぽかりと意識に阿礼が浮かんだ。

 阿礼と、阿礼とともにある娘、サキ。

 比売田に伝わる剣と英雄の物語。

 そしてサキの一族に伝わっていた、大蛇と剣の物語。

 二つの物語を携えた阿礼だからこそ、剣を容易に持ち出すことが出来たのだ。

 阿礼、真礼の理想の猿女。

 日々の潔斎を続けているわけでもなく、女でさえないのに、それでも阿礼は阿礼なのだ。母の胎内の内からともにある、真礼の唯一の同胞はらから

 そして、ふと思う。

 額田女王はどうやって、剣を葛野皇子にもたらすつもりだったのだろう。

 俗世の英雄と共にあった剣なら、俗のはふりたる額田におさめられると思っていたのだろうか。しかし剣は英雄を愛した美女に深く結びついている。そのような剣に額田の持つ女の手管が通じるだろうか。まして葛野皇子はまだ稚く、英雄たることなど望みようもない。

 もしかしたら額田女王は手を出しあぐねていたのかもしれない。

 そんな風にも思う。

 結局こうなるしかおさまりどころはなかったのだろう。

 先帝の皇子大津が謀反の罪によって死んだという噂は、ずいぶんたってから聞こえてきた。大津は皇后おおきさき鸕野讚良皇女の子、草壁に対抗できる唯一の皇子と噂されていた皇子だ。

 誰かが大津を唆した。

 そして大津は失敗した。

 唆したのは額田女王かもしれない。

 そんな風にも思ったが、もう二度と額田が浮かび上がって来ることはあるまいとも思った。

 そしてそんな思いも全て、日々の祀りの中に紛れていった。

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