第三部1出雲

 広い、明るい浜辺だった。

 阿礼は鮮やかな海に照り返す日の光に目を細めた。


 即ち其の船を蹈み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して、隠りき。


 それはこの浜の、沖での出来事だったのだという。国を譲って海中に隠れたと言う神は、今もそこでこの国を見つめているのだろうか。

 御門の崩御の後、まだ殯の終わらないうちに、阿礼は安麻呂と一緒に筑紫へと旅立った。船で辿る海路沿いにも、多くの物語が眠っている。二人はできうるかぎり道々でも物語を集めながら筑紫に向かった。

 長い旅だった。

 筑紫を拠点にさらに周辺の物語を集めた。

 天降った天孫を迎えた国津神。

 天孫と国津神の娘の婚姻。

 それらの物語の中には、比売田の祖である夫婦神も登場する。

 聞き取り、書き付けた物語を次々に都に送り出しながら阿礼と安麻呂は旅を続け、関を越えて陸路をたどり、ついに出雲にたどり着いた。

 出雲はサキの一族の本貫の地だ。

 阿礼がサキから聴き覚えた物語、そこからこの物語の収集は始まった。そのままでは消えてゆく物語を拾い集め、欠けた物語を寄せ合って失われた部分を埋めながら、ついには詔を受け、二人はここまでやって来た。

 最もまとめて書き留めたのが、サキの物語だったので、今でも集めた物語の中で特にまとまった大きなかたまりのようになっている。

 サキは海を見たこともなかったけれど、出雲は海の国だ。海にまつわる物語も多い。中でも阿礼にとって印象的だったのが、国譲りにまつわる物語だった。

 天孫に従う神に国を譲る事を迫られて、出雲の国造りの神は、自らの二人の子に判断を託す。一人は国譲りを認めて海に隠れ、一人は戦い敗走する。

 その、神の隠れた海を見晴らす浜に、阿礼と安麻呂は立っているのだった。

 サキの一族はここからやってきたのだ。

 豊かな国津神の物語を大切に抱きしめて。

 比売田に伝わっていた天孫の物語は、これまでに集めた多くの物語に補完され、大きな一つの物語の形となった。ところどころ、伝える一族によって違うところもあるが、大きな筋は変わらない。

 そしてサキの一族の物語も補完され、天孫に従い国を譲った国津神の物語が姿を現した。

 淡路に伝わる物語が、天地を分かち国を生む物語だとすると、出雲の物語は国を治め造り上げてゆく物語だ。

 いくつもの集落を訪ね、一つ一つ伝承を集めて、ついに物語はその全貌を現した。小さな物語の取り落としは、恐らく無数にあるだろう。異説がいくつもある話も多い。

 でも、大きな話の流れはあらわにできたのではないかと思う。

 阿礼の手が着物の上からサキの人形に触れる。

 やり遂げたという思いが、阿礼を満たしていた。

 

 阿礼がまた、変わった。

 安麻呂にはそう思える。

 海路を使った筑紫への旅、陸路での出雲への旅を経て、何か一段と軽やかで透明な気配を纏うようになった。

 あの時、サキが山狗に攫われた時、安麻呂は阿礼をサキに奪われるのではないかと恐れた。伸びることのない声で虚ろに歌っていた阿礼には、今にも彼岸に引かれて行きそうな危うさがあった。

 あの歌は、阿礼がサキのために行う殯だった。サキと、サキと共に失われる伝承を惜しみ、弔い、なろう事なら引き留めようとするものだった。このまま自身を霊屋に永遠の殯に引きこもろうとするかに見えた阿礼の歌う物語を、拾い集めるように書き留めたのは安麻呂だ。

 あれ以来二度と阿礼は歌わなかったけれど、阿礼が聴き覚えた物語を、安麻呂はひたすらに書き留め続けた。

 それがやがて御門の目に止まり、今では詔を受けての仕事にまでなった。御門の崩御の後も引き続き皇后おおきさきの命を受け、こうして二人で物語を聞き集めている。

 サキの本貫の地である出雲に至り、物語を収集した事で、おそらく阿礼の中で一段落がついたのだろう。

 淡路で集めた国生み。

 熊野で集めた東征と神剣の物語。

 そして筑紫近辺で天孫降臨の物語を集め、この出雲で国津神の物語と、国譲りの伝承を集めた。

 比売田に伝わる天孫の物語も、サキの残した物語も、補完し整頓して、大きな流れを掴むことができたと思う。

 阿礼は今、晴れ晴れとしている。

 そして軽やかに透明感を増している。

 あの時、サキに奪われまいとして、墓に埋めるように物語を書き留めた安麻呂だったが、時々ふと思うことがある。

 結局、阿礼はサキに奪われてしまったのではないのかと。

 ずっと、物語を集め、書き留めてきた。

 その書き付けを阿礼は物語の墓と呼び、そこに従事する阿礼を、真礼は墓守と呼んだ。

 その墓に収められているのは、サキの遺した物語から始まったものたちだ。

 阿礼が身体から離し、部屋に飾るようになったサキの人形も、それ以上に仕舞い込まれることはなかった。それどころか今のような旅の折には、布に包まれて阿礼の懐に大切に収められているのを安麻呂は知っている。

 そして何よりも、阿礼には女を近づけたらしい気配がない。すでに三十を越えた男に、馴染みの女がいないのは尋常ではなかった。

 もしかしたら阿礼は今も清童なのではないか。半ば確信をもって、安麻呂はそんな事を思う。サキは今も阿礼のただ一人の人なのだ。

 出雲は異界に近い土地だ。

 黄泉比良坂に通じるという坂があり、国譲りの浜がある。

 サキが好んでいたとかいう、小さな神も、海から来たりて常世に去る。

 杵築の社に鎮まる神は幾度も死から蘇り、根の国から妻を迎える。

 異界も死もここでは近い。

 ならば、サキと阿礼の距離も、いつもより近いのだろうか。

 

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