第二部20崩御
玉と鏡と剣。
玉は常に宮中に奉られている。鏡は伊勢の社に奉られ、宮中にあるのは写しだ。剣は常には熱田の社に祀られ、即位の折に宮中に運ばれる。
その剣が、真礼の目の前にあった。
「剣を鎮め、よく奉れ。」
言われるまでもなく、それは真礼の役目だ。長くあるべき場所から引き離されていた剣の哀しみを癒し、鎮めなければならない。
この剣を運んだのが阿礼であることも真礼は知っている。そういう意味でも剣を祀るのは真礼の役割なのだ。
仕える時は、ただ真摯に向きあい仕える。
それはいつもと変わらない。
けれど、自室に下がると考えずにはいられなかった。
額田女王はどうしたのだろう。
阿礼が神剣を受け取る仕事を引き受けたのは知っていた。それをあえて止めようとは思わなかった。阿礼がつつがなく剣を運んで帰ってくるなら、それは神剣の意志なのだ。真礼にどうこうできることではない。
阿礼が神剣を無事に運びおおせたのは、別に不思議ではないけれど、額田女王が何か仕掛けた形跡のない事は少し意外だった。あの剣のありかは彼女の切り札だったはずだ。額田女王もまた古い
喪の一年が明けて早々に、真礼は宮中に戻った。サナのことは迷ったが、里の女たちに託してきた。宮中に入れるにはいくらなんでも稚すぎる。せめて七つをこえてから、どうするかもう一度考えても遅くない。
宮中に戻ればあとはただ猿女としての日々が戻ってくる。ただ仕えるべきものに虚心に仕えるだけだ。
御門の不調の噂は、復帰早々に聞こえてきた。御門が祟られているという噂も聞いた。祟っているとされる中に、熱田の神剣が入っていたのは、額田女王の差し金なのだろうと思っていた。
即位の折の神器に障りがある故に祖父が背負い込んだ祟りを、その神器に選ばれた孫が祓う。
文句のつけようのない美しい物語だ。
葛野皇子は一躍、跡目争いの首位に立つだろう。その皇子を古い豪族、
両祖父は
だが、結局そうはならなかった。
今上が剣を迎える役目を阿礼に任せたからだ。
阿礼がその役目をやすやすと遂げた事に真礼は納得している。もし仕損じていればひどく失望しただろう。
結局、真礼にとって阿礼は、今も「理想の猿女」なのだ。その事を自分の内側に確認して噛みしめ、苦笑する。人の心というものは、自分自身でさえもままならない。
ふと、違和感に顔を上げた。
同時に来たかと納得した。
これは
猿女のように削ぎ落とし、純化させた
ーなぜあなたの
ひらひらと夜に紛れ、仄かな灯火に浮かんだのは、あだっぽい紅い蝶だ。その蝶を介して、額田女王の言葉が流れ込んでくる。
たいしたものだと真礼は感心した。
俗を絡みつかせたような額田女王の気配は、この奥宮では弾かれる。徹底的に穢れを除いた奥宮に馴染まないからだ。真礼の私室と言えども、入り込むのは容易ではなかったろう。
「阿礼は
何一つ、嘘ではない。
ー詭弁だわ。あなたが
そうだ、真礼は妨げなかった。
阿礼を妨げようとは思わなかった。
阿礼がそう望むなら、それは神剣の意志なのだ。
真礼にはその確信があった。
額田女王の気配が揺れる。
傷ついているなと真礼は思う。
真礼は阿礼を妨げなかったけれど、額田女王が邪魔をしようとしなかったわけではないだろう。何か、何者かが、額田女王を挫いたのだ。
ーいったいこれからどうする気なの?
細い悲鳴のような問を残して額田女王の気配が消えた。
いったいこれからどうするのだろう。
自分でも他人事のようにそう思う。
ただ、誰かは奥宮で、神に仕えなければならない。誰かが祀りを行わなければならない。
ならば真礼はそれを行うだけだ。
今までと同じく、ただ虚心に。
遠くから僧の読経がかすかに聞こえる。御門が病み、読経が行われているのを知っているからそう思うけれど、知らなければただ重いうねりがあるだけだ。
真礼は目を閉じ、細く歌う。
天へ、一筋の煙のように。
歌は立ち上り静かに天へ溶けていった。
夫の死に顔を讚良は静かに見つめていた。
疲れ果てたような顔だと思う。
無理もない。
走って、走って、走り抜けたような夫の人生だった。
息の止まったのはついさっきのこと。
こうしてぽっかりあいた時間に、讚良は夫と向かい合っている。こんな時間が長く続くはずはなく、喪の仕事は数多い。讚良がこうしていることができるのは、おそらくこのひとときだけだろう。
まだ、道は半ば。
誰かが斃れた夫の代わりに、残りの道を駆けぬけねばならない。
それをなすべきは自分だという自負が讚良にはある。
ぽたり
思いの外大きな音がした。
夫の遺骸を覆う厚い絹地に、讚良の涙の落ちた音だった。
自分が泣いていると言う事実を、讚良は不思議な気持ちで受け止めた。人の死に涙するのは母が死んだとき以来だ。
弟、祖母、姉、そして父。
誰の死も、讚良を泣かせはしなかった。
夫の事を慕っていたかと問われれば是と答える。しかし一途に慕っていたかと問われれば、否と答えるより他にない。一途という感情の入り込む余地もないほどに、複雑な思惑の絡んだ夫婦だった。
叔父である夫に、讚良は同母の姉と嫁いだ。珍しいことではない。母の妹も父に嫁いでおり、その娘たちは異母ではあっても親しい姉妹だ。下の娘である阿部は今や讚良の息子草壁の
だから姉と同じ夫に嫁いだことに不満はない。だが、そこに絡んだ父の思惑と姉に抱かずにいられなかった感情の分、讚良の妻としての気持ちは複雑になった。
讚良たち姉妹の嫁ぐ少し前、夫の最初の妃が父の妃に直っている。額田というその
男と女の間など、そんなものだと言われればそのとおりだ。通う相手、通わせる相手が変わるのは当たり前。同時に幾人かを通わせる女も珍しくない。
だが、正式に妃と呼ばれる女はそういうものではない。
もちろん、額田が父の妃に直った事にも思惑はあったろう。それが何なのかもわかっている。しかし額田はそれをただの色恋の果ての、浮かれ女の気まぐれのように振る舞った。あまつさえ、父の妃になってからも夫を誘うような振る舞いを見せたのだ。
自分とは種類の違う女。
そう言ってしまえば簡単だが、そこには常に国にまつわる思惑が絡む。讚良にとって額田は無視する事のできない、落ち着きの悪い存在だった。
でも、もうそれは過去の事だ。
あの女の切り札は潰えた。
剣は稗田阿礼が迎え、女の色香は女である自分には効かない。額田の操る言霊は確かに強力だが、強い意志があれば退けられる。
衣擦れの音がして、戸口に人の気配が現れた。
「なにか。」
振り返らずに問いかける。
「熱田の使いが。」
夫の生前には間に合わなかった待ち人は、今頃になって現れたらしい。
「参りましょう。仕度を。」
讚良は顔を拭い、そっと夫の頬に触れた。
そして表情を引き締めると、静かに部屋を出ていった。
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