鬼門の職場

粉雪みるく

鬼門の職場

 これは私が実際に体験した事です。

 職場の人名などは変えてありますので、ご了解ください。

 勤務先だった大学の敷地は広く、その中で私が所属していた図書館は敷地の鬼門に当たる位置にありました。だからといって、機嫌の良い時には軽口を言う課長が、ここは不吉だの、悪いものが通るとか言うのを真に受けることはありませんでした。

 それが、ある冬、身近で妙な事が起こるようになりました。

 本の貸し出しを行うカウンター付近には、常に数人の職員がいます。

 始まりは、ある日、カウンター近くにいた全員が「はい」と声を重ねてカウンターを見ると、誰もいない、という出来事でした。

「え? 今」

「ええ、女の子よね」

「すみませんって」

「私も聞きました」

「ちいさい声だなって」

 困惑した顔を見合わせて口々に確認する声が、だんだん尻すぼみになっていきました。全員が女生徒さんらしい声を聞いたと言っているのに、誰一人として彼女の姿を見た者はいなかったのです。

 聞いたのが自分一人なら空耳だと言い切れますが、お互いの話を聞いてしまってはそうもいきません。一様に押し黙ってしまいました。

「すみません」

「はいっ!」

 すぐにカウンターに本を借りにきた学生さんの声で気まずい空気は切り替わりました。

 テストが近づくとコピー機の周りはノートをコピーする学生さんであふれ、職員が何度も注意に行っていました。待っている学生同士でのおしゃべりも目を配っていないと大きくなりがちで、雑誌の受け入れやレファレンスの合間に交代で声をかけます。

「図書館のコピー機で、ノートのコピーはしないでください」

 数年先輩の金川さんは段取り良くテキパキと仕事を進めるのが上手で、細い縁の眼鏡が似合う知的な雰囲気の方です。

「スマートフォンの忘れ物があったので事務所へ郵便物と一緒に持って行ってもらえますか」

 忘れ物は庶務や学生課がある事務所に預けることになっていたので、当番の金川さんに頼んでいると、机の端に置いたスマートフォンを通りかかった他の職員が手に取りました。カバーを開けて中を見、慣れた手つきで操作してから気楽な口調で提案されました。

「これロックかかってないし、お家に電話したげたら?」

「それはプライバシーの侵害ですよ」

 金川さんはきっぱり言うと、カバーを元通りにしてスマートフォンを事務所へ持って行きました。

 後に残った人同士は有無を言わせない背中を見送った後、苦笑しながら話していました。

「金川さんって、しっかりしてる」

「でも、ちょっと頭が固いよね」

 いつでもしっかり意見を言える金川さんを尊敬の目で見ていた私は気が弱く、あからさまに金川さんの肩を持つことができず、あいまいに周りの人に話を合わせました。

「……正しいことなんだとは思いますけど、そうですね」

 定時になると職員の大半は退勤します。カウンターには大学が業務委託している会社の方が入り、夜勤の職員が二人残っていました。

 黒田さんという男性職員がコーヒーを口に運びながら、ぼそっと言いました。

「夜勤、嫌じゃない?」

 課長がいなくなると、職員同士で仕事のグチや業務についての情報交換など、普段できない話が出る事は珍しくありません。

「はい。夜遅いのって疲れますよね」

 黒田さんは目をそらし、少しためらってから私が思いもしなかった事を口にしました。

「気味悪くないの? ここ」

 私が思ったのは、あの姿が無かった女子学生さんの一件でした。

 幽霊なんているわけが無い、と自分の連想を打ち消して、ことさら明るくとぼけた返事をしました。

「そうですか? 人が少なくなって、寂しくはなりますね」

「本がさ、落ちる音とか聞いたことない?」

「え、学生さんが落としちゃったんですか?」

 まれに混み合った本棚では、たくさんの本が乱雑に押し込まれて、一冊を引き出した拍子に他の本が落ちることがあります。黒田さんは首を横に振りました。

「学生がいない時。閉館してから」

 冗談を言っている目ではありませんでした。

 私が黙って考えこんでいる、というように首をかしげると、念を押すように聞かれました。

「無いの? ガタッて椅子を動かすみたいな音とか」

「無いですよ~。やめてくださいよ黒田さん。怖いですよ、そういう話」

 私は怪談などが苦手だったので、きっと黒田さんの聞き間違いか、よその音が反響して館内の音のように聞こえるのだろうと勝手に決めつけました。

「俺だけじゃないよ」

 黒田さんは、どこか悔しそうな顔で唇をぐっと引き結んでコーヒーを飲みました。

「すみません。嫌ですよね。夜の学校なんて」

「うん。気持ち悪いんだよ、ほんと」

 結論を下して黒田さんは手元のデータ入力に戻りました。

 私の目は、何の気なしに室内を泳ぎ、給湯室の上の壁に貼られている白い紙の上で止まりました。いつから貼られているのか、うす黒くなった白い長方形の札は、近くの神社からお祓いに来てもらった時のものだと聞いていました。

(効いてないのかな)

 お札を見つめていると悪い事を考えそうな自分が嫌で、そちらを見ないように残りの勤務時間を過ごしました。



「金川さん、あのー、大したことじゃないんですけど」

 昼の休憩時間にモヤモヤしていた話を切り出したのは、夜勤の後、他の人からも感じの良くない話を聞かされたからです。

「地下に人の気配がするとか言う人がいて、夜勤の最後確認に行くじゃないですか。金川さんは、どうですか?」

 私も地下の空気が悪いとは思っていました。地下には製本した雑誌を収納した電動の本棚がぎっしり並び、利用者は多くありません。地下書庫と呼ばれているその場所は静かで窓が無く、湿度が強いため夏は蒸し暑く、冬は底冷えがして居心地の良い場所ではありません。

「何かあった?」

「いえ、そういうわけではないです」

 夜遅くまで開けている日は、最後に地下書庫の確認をするのは気が重いと漏らす人がいました。私は、皆でそんな話をしているせいで、それぞれがお互いを怖がらせているのだと思うようにしていました。

「こう、他の方が夜の図書館がなんだか、とか、気持ち悪いとかって、面白がってるっていうか、盛り上がりすぎですよね」

 金川さんが共感してくれれば安心できる。

 科学的では無いとかいう言葉を期待していました。

 それが、金川さんは手作りのお弁当を食べる手を休めて、じっと私を見ました。

 白いブラウスの衿を整えるように一撫でしてから、その手を握りしめてテーブルの上に置き、私の方へ体を寄せて声を潜めます。

「何かあったら、すぐに言ってね。約束、して」

「……はい」

 他の人の話は聞き流しておきなさい、などと言われなかったことに、私は意外でなりませんでした。



 数日後、私は事務的に日々の業務をこなしていました。

「ラベル貼り行ってきます」

 雑誌を製本した物のラベルを貼り直す作業があり、職員は交代で割り当てられたラベルを修正しに地下へ行っていました。

 地下の通路の行き止まりの場所は、片側が本棚で、片側が壁。ブックトラックを作業台にして黙々とラベルを修正したり、貼ったりします。

 どれぐらい時間が経ったでしょうか。ふと気がつくと背後から誰かがじっと私の方を見ている気配を感じました。地下書庫を利用しに降りた学生さんが、立ち止まって私に質問しかねているようです。

 私はごく当たり前のように「ああ、男子学生さんが何かわからないことがあるのを、聞きかねているのだ」と悟りました。

 私が背を向けていた通路には本棚と向かい合わせに古新聞を乗せるラックが置かれており、通路の幅はは人一人ずつがやっと行きかえるほどです。

 視線の主が立っているところは、そのラックの前あたりでした。

 背中に視線を感じながら作業を続けていても、後ろの男子は声をかけて来ず、しまいにじれったくなった私の方が、何の質問があるのか聞こうと後ろを向きました。

 そこには、誰もいませんでした。

 無人の通路を見て背筋が冷え、頭に浮かんだのが先の疑問です。

 私が後ろを見る前に「男子」と感じた理由は何だったのでしょう。

 深く考えないようにして業を終わらせた私は、上へ戻ると金川さんを給湯室へ呼んで、感じた視線の話をしました。

 大まかに話したところで金川さんが腕を組んで顔を近寄せました。

「その人がいたのはラックの前でしょう」

 的を射た言葉に驚きました。

 私が感じていたことそのままだったからです。

「知ってたんですか」

 金川さんは苦笑いを浮かべて、なんとなくね、と答えました。



 私の気持ちが決定的にぐらついたのは、同じ日に閉館後の地下書庫へ一日分の新聞をまとめて置きに行った時です。

 新聞を置くラックの近くまで行くと、歩く速度が落ちました。ですが、むやみに怖がることは無いと自分に言い聞かせて新聞をそれぞれの位置へ重ねます。

 その途中、手に、ぶにょりと冷たいものが触れた時、まだ数束が腕にありました。

 まるで粘っこいゼラチン質に突っ込んだような感触。

 全身の毛がぶわりと逆立ち、持っていた新聞紙を落とし、後ろを見ずに上に上がりました。

 金川さんに電話をかけようとした手はブルブルと震えていました。

「今、あの、地下で」

 しどろもどろにあった事を聞いた金川さんは、早口で、ご自分の事務机の一番上の引き出しを開けるように言いました。

 指示された引き出しを開けると、そこに入っていたのは食塩の袋でした。

「触った手にかけて、体にもお塩かけて。下へは、そうね、明日の朝は一番に私が行くから、もう鍵閉めとくだけでいいから」

「はい。はい……すみません。ありがとうございます」

 塩の袋を持ってトイレへ行き、まず体へかけようと手の平に塩を出すと、それはなんとグズグズと水気を帯び、泥のようになってボタボタと床へ落ちました。私は声も上げられない有様で、もう一度手の平に塩を出しました。幸い、今度は粒の状態を保っていた塩を必死でわけのわからないものに触った手や体に振り掛け終わるまで生きた心地がしませんでした。

 次の日、私は金川さんを昼休みに使った塩を返すついでに話を聞こうとしました。

「何なんですか、地下のは。教えてください」

「気にしすぎたらダメ。思い出したくないでしょう」

「そんなこと言われても気になります! お祓い、できないんですか?」

「……うん。でも、湿気が多い所に……あ、ううん。方角が悪い所だから、お塩は持っておいた方が良いよ。私、仕事多くて、もう戻らないと」

 いつもと違って歯切れが悪い金川さんは、助言を残してそそくさと立ち去りました。

 誰か、他に詳しい事を知っていそうな人はいないのだろうか。落ち着かない気分だった私は、かえって気にしてしまったのです。

 それで午後、課長にお茶を出した時、気楽な会話を装って地下の話を口にしました。

 課長なら創立当時の大学の様子も知っていて、皆の怖がる顔を楽しむ節もありました。ただ、何でもいいから話を聞ければという気持ちでした。

「下って水っぽいからねぇ」

「はぁ、水、ですか」

 課長は強張った顔の私にニヤニヤと笑いかけ、クルッと椅子を回しました。

「ここにくる坂道の途中に、草で埋もれてる場所があるの知ってる? バスから見えるでしょ。家がさ、あったんですよ」

 嫌な予感がしました。

 それ以上聞いてはいけない気がしましたが、課長は焦らすように言葉を切り、私の反応を見ながら話し続けます。

「火事、だったんだって」

「女性と……ッ」

 言いかけた途端にガタンと閲覧室で椅子が倒れる大きな音がしました。私が反射的に、座っていた金川さんに目で助けを求めると、厳しい顔で首を横に振られて言葉を切りました。

 課長は慣れた様子で面白そうに目を細めます。

「知ってるんじゃない。下のもさ、水吸ってたのかも、ね」

 何とも言えないゼリーのような感触が手によみがえり、私は聞いたことを後悔しました。

「まだ足りないんじゃないの」

「さぁ、わかりません」

 席へ戻ると、目の前の壁をさっと背を屈めた人の形の黒い影が横切りました。

 私は蚊の鳴くような声を絞り出しました。

「金川、さん」

「……見なかったことにして。返事したら来る」

 押し殺した声を聞いて、私一人の錯覚ではないのだと知ると共に、察しがつきました。

 地下にいる誰かは、おそらく出ていけないのです。

 上にいる誰かは、おそらく探し続けているのです。

 事務室に貼られたお札は、ある意味では役に立っているとわかっても、割り切れない気持ちは無くなりませんでした。

 この日以来、私も金川さんにならって塩の袋を黙って事務机に忍ばせておくようになったのは、言うまでもありません。


 -終-

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