大と小のミステリ手帖

鯖谷

第1話 小田の手帖-前書き

 まるでペンキを撒いたような、作りものなのではないかと疑ってしまう程の青空が広がっている。がんがんと照りつける日光で頭頂部が熱くなってくる。近くにある街路樹からは、みんみんみんみん、という蝉の鳴き声が聞こえて頭に反響する。

 日本の夏、という言葉をこれでもかというほど視覚、触覚、聴覚で体現している光景はしかし、たったひとつ嗅覚によって台無しにされている。

 生臭い鉄の匂いーーー血の匂いだ。

 コンクリート造りのアパート前にひかれた「立ち入り禁止 keep out」と書かれた黄色いテープに触れながら、近くに控えている制服の警官に声をかける。

「ご苦労様です。小田です」

 さっ、とテープを押し上げてくれたので屈むことなくアパートの玄関へと入る。血の匂いが濃くなった気がした。

「小田さん」

 夏らしく日焼けした若い男が話しかけてくる。顔見知りの刑事だ。周りでは他の刑事やら青い服の鑑識やらが慌しく動き回っている。その中に私が探している人物はいない。

「大川さんは一緒に来ていないんですね」

 大川、まさに私が探していた人物だ。

「別にいつも一緒ってわけではないですからね。あいつは仕事が終わり次第現場に向かうと言っていたので……もしかしたら先に来ているかもと思いましたが、当てが外れました」

 刑事はふむ、と頷いた後、私に視線を合わせるように中腰になる。

「では、先に現場とホトケの説明だけさせていただきますね。大川さんが揃ったら、詳しい状況をお話します。こんな暑い中いつまでも待ってもらうのも気が引けますし」

「そうですね、お願いします。今回の事件も……殺人事件ですか」

「ええ、ご覧の通りです」

 眼前に広がる血の海。その真ん中に突っ伏している男は、ひと目見ただけでもはや手遅れだと言うことが分かる。人間にある筈の質量を伴う何かが、彼にはもう無いのだ。人はそれを命と呼ぶ。静かに手を合わせる。死体は何度見ても慣れない。

「ホトケは蒲田祐介32歳、住所はこのアパートの302号室、職業は…」

 刑事の話に耳を傾け、準備していた手帖にメモしていく。


 私は刑事ではない。小説が趣味のしがない画像編集者だ。

 この事件の関係者でも、遺族でもない。もちろん、容疑者でもない。

 ではなぜ、私のような一般人が当たり前のように殺人現場に居座り、刑事に事件の事を聞いているのか。

 それは私が県警から一目置かれた「警察協力者」だからだ。

 私はここにはまだ来ていない大川という女と共に、数年前から警察と協力して殺人事件の解決に臨んでいる。その内の何件かは、あわや迷宮入り、ともなりそうだった事件を私達の力で解決した事もある。その功績もあり、今では県警でも顔が知れ、以前と比べてもすんなり刑事たちに受け入れられているのだ。


 え?そもそもの切っ掛け?

 それは、話すと少し長くなる。事件の概要は、この手帖にしっかりと残してはいるのだが。じゃあ、次のページにその時の事を小説調にして記すことにしよう。そうそう、その日は五年前、今日みたいにうだるような猛暑の日だった……。

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大と小のミステリ手帖 鯖谷 @sabatani

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