汐見橋駅

九紫かえで

しおみばし

 存在することに、意味なんて求めちゃいけない。



汐見橋駅



 思っていたよりも早くに打ち合わせが済んでしまって、手持ち無沙汰になってしまった真夏の午後三時。

 会社に帰ってやらなければいけない仕事は残っている。だが、今日は夕方まで帰らないと言っている矢先、そのまま帰るのはどこかばつが悪かった。仲の良くない同じフロアの社員の顔を思い浮かべて、僕はどこかで道草を食おうと決意した。

 難波まで歩けなくもない。難波まで行けば喫茶店でもネットカフェでも何でもあるし、どうせ会社には南海で帰らないといけないのでちょうどいい。

 だけど、炎天下の中を歩くのが面倒だった。すぐそばに阪神の桜川駅があるので、一駅だけ乗れば難波に行けるが、さすがにそんなことをするほど僕はお金を稼いでいるわけでもない。

 ということで。

「ぷはぁっ」

 僕は第三の、おそらく誰も選ばないであろう暇つぶしの方法を選んだ。

 自販機で買ったアクエリアスをぐっと喉に通すと、生き返った心地がした。だけど、西日が冷気を奪うのは時間の問題だろう。


 汐見橋駅。

 本来は南海高野線の始発駅であるこの駅はいつの間にか支線の末端駅へと転落し、三十分に一本しか電車の来ない都会の中の秘境と化していた。

 木製のベンチに貼り付けられた広告には、市外局番すら載っていない。昭和以外の何物でもない。

 そのベンチにはタンクトップ一枚のおっさんがビール片手に競馬新聞を広げていた。

 僕はおっさんの反対側に座ってぼおっと目の前を眺めた。阪神高速堺線に入ろうとする車の列が見えた。


 何もない。

 溜りに溜まった仕事も、ストレスも、はるか昔に抱いた夢や希望も。


 ベンチが少し揺れる。

 僕の左隣に座ったのは、この場にはあまり似つかわしくない女子高生だった。茶色がかった髪をポニーテールにしているせいで、汗ばんだうなじがまず目に飛び込んできた。

 僕のよこしまな視線を気にせずに、彼女は右耳にイヤホンを突っ込み、スマートフォンの画面上で指を躍らせていた。

 今は八月。このあたりに高校でもあって、部活か補習の帰りか何かだろうか。

 視線に気づかれる前に、僕は彼女から目を背け、自分のスマートフォンを取り出す。仕事関連のメールを三つ読んでいる間に、目の前に電車が入線してきた。

 ワンマン運転の二両編成の電車から、両手で数えられるほどの人が降りてきて駅の外へと消えていく。入れ替わるように、僕の後ろにいた競馬新聞のおっさんが電車に乗り込んだ。

 涼を取るために電車に乗り込むのも悪くない。だが、この電車に乗ってしまうと、会社に早く着きすぎてしまうので、せめてもう一本あとの電車にしようと僕は決めていた。


「乗らないの?」


 声が聞こえた左の方を見ると、例の女子高生が相変わらずスマートフォンをいじっていた。ただ、イヤホンは外れていた。

「次にしようと思って」

「三十分後だよ」

「知ってる」

「ふぅん」

 そう言って、彼女は指を止めた。

「暑くない?」

「暑いね」

「だったら他にも時間潰せるところあるんじゃないの」

「このあたりにはないよ」

 そういう君こそ、女友達と難波のカラオケにでも行っている方が似合うと思うけどね。

 なんてことは思っても言わない。彼女にもここで時間を潰す理由がそれなりにあるのだろう。

「お兄さんさ」

 彼女はスマートフォンをベンチに置いて、体ごと僕の方へと向き合った。

 きりっとした顔つきに、汗ばんだ頬。白いシャツはうっすらと下着のラインが見えて、華奢ながらも女性らしい丸みをおびた体を包んでいた。

 年甲斐もなく、顔が熱くなるのを感じた僕は、アクエリアスを少し口に含んだ。

「……なんだい」

 さすがに欲情してしまったことがばれたのではないか……が、そんな僕の心配はどうやら杞憂だったようで。


「私ってなんでいるんだろうね」


 ひどく抽象的な質問が降ってきた。

「なんでいる……?」

 はて。どの「いる」だ。

「そう。なんでいるの」

「もしかして、なんで存在するのってこと?」

「そう」

 これはまた思春期特有の難しい質問だ。うら若き乙女相手に親がセックスして生まれてきたなんて話をしても仕方ないし、かといって君は愛する人に必要として生まれてきたなんて宗教を展開しても仕方がない。

 とりあえずわかるのは、この少女は自分の存在が揺らぐような何かを最近経験した、ということだけだ。

「生まれてきたから」

「…………」

「そしてその後、今日まで死んでないから」

「馬鹿にしてるの?」

 彼女が求めるものを探るつもりだったが、どうやら言葉とは裏腹に怒っているわけではなさそうだ。

「それじゃ問題です」

 僕はある答えをもって、彼女に質問を返した。


「どうしてこの駅は存在しているのでしょう」


 ちょうど目の前を停まっていた電車が岸里玉出に向けて出発していった。

「え、そんなの……」

 彼女は一瞬困った顔をして。

「あるから……じゃん」

「もっとよく考えてみて」

 この空間には、僕と、彼女と、古びた駅と、うだるような暑さだけが残っていた。

「駅があるということは、やっぱり……必要とされていたからだと思う……」

「うん」

 この駅ができた当時を僕は知っているわけではない。歴史的な知識として、高野線の始発駅としてかつては賑わっていた、ということくらいだ。

「じゃぁ、今は?」

「今……」

 一説によると、なにわ筋線ができるときのためにこの駅が残されていたという。

 だが。

「なんであるんだろう……」

「君はいつもこの駅を使ってるの?」

「うん」

「なくなったら困る?」

「うーん……」

 最近ニュースになっていたけど、どうやらなにわ筋線は難波に接続するらしい。

 では、難波も近く、支線しか走っていない、一日あたりの利用客数が五百人程度のこの汐見橋駅の存在意義とは何だろう?

「困らない……かな」

 だろうね。

 結局、今に存在価値などなくても。一度できてしまったものは、なくなるその日まで存在するのだ。

 自分の会社に居場所すらない、この僕だって。

「でも」

 僕が話をまとめようとしたところで、彼女の横やりが入ってきた。


「ぼおっとするところがなくなるのは、困るかも」


 僕のプランは脆くも崩れ去った。

 あったのか。こんな秘境駅にも存在価値が。


「負けたな」

「……何が?」

「いや、こっちの話」

 僕はわざとらしく肩をすくめた。

「それで、私が存在する理由……」

「なんでだろうね」

「めんどくさがってる」

「そんなことないよ」

 お互いの身の上を話せば、もしかしたら見つけられるかもしれない。彼女や僕を必要としている誰かを。

 だけど、彼女を導いてあげるのは僕ではないはずだ。

「正直、僕だってわからないし」

「わからないけど生きてるの?」

「わからないけど生きてるよ。なんで自分なんて存在するのかわからないけど、だらだら仕事して、飯食って、風呂入って、寝てます」

 きっといいのだ、それで。

「ふぅん」

 彼女はそうとだけ言って、またスマートフォンに目を落とした。

 彼女の家庭に居場所がないのか。学校でいじめにあっているのか。彼氏との交際が行き詰ったのか。

 理由が気にならなくはなかったけど、彼女の歩みに肩を貸してあげられるほど僕は力持ちでも器用でもない。

 いずれにしても、もう彼女と人生が交わることはないだろう。


 一分。

 三分。

 五分。


 十分。



 二十分。



 照り付けるような日差しは雲が出てきたおかげでやわらいだ。もうそろそろ電車が来る頃合いだろう。

「あのさ」

 再び左隣から声がした。僕は振り向いたが、彼女の視線はスマートフォンの上だった。

「やっぱり私、知りたい」

「存在する理由?」

「うん」

 彼女の中では整理できていないのかもしれないけど、彼女の「存在理由」とは「必要とされること」だろう。

「だからさ」

 一度ポニーテールをかき分ける仕草をしてから、彼女はこちらを向いた。


「セックス……しよ?」


 潤んだ瞳に吸い込まれそうになる。

 存在を主張している胸に手を触れたくなる。

 柔らかな体をぎゅっと抱きしめたくなる。

 桃色の唇にキスしたくなる。

 彼女の中に僕を刻み付けたくなる。


 大都会の中で時が止まるこの駅のように。

 このままここで時が止まるのなら。よっぽどそうしたかった。


「また、ここで会うことがあったらね」


 電車が入線してきて、時が動き出す。

「もう来ないつもりでしょ?」

「どうだろうね。君は?」

「私は来るよ」

「そうかい」

 僕だけがベンチから立ち上がる。


「さようなら、変態さん」


 電車に乗り込もうとする僕に彼女は笑みを浮かべながら手を振った。


「またな」


 お互いの想いと反対の言葉を口にして。あまりに魅力的な少女とのひと時は終わりを告げた。



 汐見橋駅を僕はまた訪れることがあるのだろうか。

 今の僕にはわからない。



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