蝶の巣

木古おうみ

第1話

 故郷へ向かう針葉樹に囲まれた一本道を走っている内に、悲しくなるかと思っていたが、涙は一滴も出なかった。


 六月下旬の空は石棺で覆ったように暗く、分厚い雲から黄色い陽光が薄く透けて見える。道路が空いていたので、予定より早く着けそうだ。ルームミラーを傾けて、自分の黒いネクタイの結び目を見る。着いてから喪服に着替える時間も充分にあったろうが、何となくあの家で無防備に服を脱ぎ着たりする気にはなれなかった。右の車窓から影が落ちる。視線を投げると、旅行用のバスが長い胴体を滑らせ、追い越していく。老人会が貸し切っているのか、窓に映る乗客はみな、還暦は超えているように見える。その中の老婆のひとりと目が合った。色の濃い眼鏡をかけ、隣の席の友人と何かを囁き合っているらしい。車中の声が聞こえたら、少女のようにはしゃいでいるのだろうと想像して、これから火葬される母が浮かんだ。六十一で発症してから八十にも九十にも見えるほど老い、誰からも望まれず、それでも医者に末期の胃がんを宣告されて二年間生き続けた母。

 視界が開けて、フロントガラスに移る光景が、一面田園風景に変わる。半分開いた窓から、焦げるような匂いが入ってきた。辺りが霞んで見えるのは、天候のせいだけでなく、どこかで稲藁を燃やしているのだろう。上京して五年近く経つのに、乾いた匂いをすぐに嗅ぎつけ、懐かしく思う自分がいて、アクセルを強く踏み込む。

 道路を囲む木々がまた増え出した頃、路傍の一角にぽつりと「九木家 葬儀式場」の看板がある。周囲の林を粗雑に切り開いたようなセレモニーホールの駐車場が目に入った。

 影のような喪服のひとびとがまばらに見える中、腹に傷を負ったように僅かに身を屈め、腕を組む痩せた姿が見えた。向こうも気づいたらしく、二、三歩こちらに進み、右手を上げてみせ、左手で斜めに方角を指し示す。そこに駐車しろと言うのだろう。

 いま唯一遺された肉親である兄は、交通取り締まりの警官のように僕を停めた。


 シートベルトを外していると、兄が手の甲で窓を叩く。キーを抜いた後だったので、窓を下ろさずドアを開けると、運転席を覗き込むようにしていた兄はたじろいだように一歩下がった。

「思ったより道が混んでてね、高速で来ればよかったんだけど……」

「いや、丁度いい時間だろ。仕事は大丈夫だったか」

 車窓から見たときは気づかなかったが、指の間に煙草を挟んでいる。今年で二十八になる兄は、半年見ない間に更に痩せていた。青黒い隈が薄くまぶたまで覆い、眼窩が少し落ちくぼんで見える。

「ああ、忌引き休暇で一週間もらえたよ」

「入社一年でよくとれたな」

「社長がいいひとでね」


 いいて、いいて。お前もあんにゃさも大変だなぁ。

 父が既に他界しており、兄が喪主をつとめると話したとき、二つ返事で答えた社長が浮かぶ。いい人間に違いないとは思うが、東京で保険会社を起業してから三十年、堂々と故郷の言葉を使い続ける屈託のなさに、いつも隔意のようなものを感じもする。


「で、僕は受付だっけ」

「ああ、急だけど頼んでいいか」

 わかったと頷き、斎場の入り口へ足を向けた瞬間、視界の端を何かが、不安定な軌道で掠めていった。細かい赤の火の粉を散らせ、自らに憑りついて離れない熱から逃れようと飛ぶ、羽に火のついた白い蝶。何か言おうとする前に、墜落するように蝶は木々の間に飛び込んで、消えた。


「今、火が、白い……」

 僕が言葉をまとめる前に、兄は短くなった煙草を吸いこんで、

「ああ、藁焼きだ。条例だ何だがうるさくなっても、お構いなしで……役所ももう何も言わねえんだろう」

 と、言って、咳こんだ。

「風邪か?」

「いや……」

 その先は続けず、兄はもう一度空咳をしてから、一斗缶に網を付けた据え置きの灰皿に吸い殻を投げ込むと、先に行く、と斎場の方へ向かった。僕は蝶が消えた木陰に一瞬視線をやって、後を追った。


 葬儀が始まり、読経が終わっても、兄は始終湿った咳をしていた。喪主として弔辞を読む際も、ハンカチは口元に当て、痰の絡んだ、ざらつく音を抑えるのに使われ、それが目元を抑えることは一度もなかった

 葬儀屋たちが、貴族に晩餐を給仕するように盆を掲げて、別れの花を運んでくる。僕は差し出された盆から、一番手近にあった黄色い花をつかんだ。親戚から、最後だからよく顔を見ておけ、と声をかけられ、僕は来てから一度も棺の中の母を見ていないことに気づいた。

 棺の縁に手をつき、中を覗くと、棺桶の大きさに不釣り合いなほど小さい母親の死体がある。眠っているように見えるどころか、何百年も前に死んだミイラのように見えた。ただ、若年性アルツハイマーを患ってから、いつも惚けたように乾いた前歯を覗かせていたら口はしっかりと閉じられ、口紅がひかれていた。化粧の下から、死斑とも痣ともつかない青色が頬に浮かんでいた。首元に蛭のようなケロイド状の傷がある。


 視線を感じて振り向くと、髪をひとつにまとめた葬儀屋の中年の女性が盆を持ったまま後ろに立っていた。

「九木柊一様の……」

「弟の、浩二ですが」

 女性は納得がいったような表情をして、こちらに近寄ってきた。

「お母様は長らくご闘病なさっていたようで、私どもはお化粧だけでなく、お顔をふっくらさせるエンバーミングもお勧めしたのですが……」

 彼女は耳元に口を寄せ、

「お兄様が、あとは焼くだけだから、と」

 非難の色を込めた口調で囁いた。何かと思えば、要は費用を渋った文句をつけに来たわけか。

「結構ですよ。僕も、そう思いますから」

 葬儀屋は呆れたような顔をして、何も言わず離れていった。僕は体温で既に萎れはじめた花を棺に投げ込んだ。花は母の腹の辺りに落ちた。一瞬、その腹が呼吸で膨らみ、花が転げ落ちるのを想像した。死装束の下の躰は微動だにせず、花は白い帯の中央に乗ったまま棺が閉じられた。


 火葬場まで向かう途中、兄は遺影を身体から少し離して持っていた。両手が塞がっているためか、咳をするときは肩に顔を埋めて隠すようにしていた。

 僕は大学四年生の秋に死んだ父の葬儀を思い出していた。心不全で倒れ、入院先で呆気なく死んだ父。帰省すると言った僕に、今一番大事な時期だから心配するな、と言った電話が最後に聞いた声だった。

 母がマルチ商法に貯金のほとんどを騙し取られたとき、兄と僕を大学に行かせるため、父は深夜に警備員のアルバイトもしていた。


 火葬が終わり、納骨の時間が来る。

 腰を痛めたのを理由に、パートも内職もすぐ辞め、いつも座って何かを摘んでいた母の骨は、父のそれよりよほど太く頑丈に見えた。


 葬儀後の会食は、親戚たちの緊張も解れはじめ、祭りのような雰囲気だった。酒瓶を座敷の外に出すのを口実に、喧騒から離れようとしたとき、伯父が僕の後を追ってきた。

「浩二、ちょっといいか」

 はい、と答えると、伯父は後ろ手にふすまを閉めた。

「柊一のことなんだけどな、あいつ、爺さんと同じ病気じゃねえのかな」

「……明日にでも病院に連れて行きます」

 伯父はおう、と頷き、宴会の輪に戻る。黄色い照明のせいか、アルコールのせいか、兄の肌は年嵩の親戚たちの誰よりもくすんで見える。


 参列者を見送ってから、行きは葬儀屋の車で来たという兄を車に乗せ、実家に向かった。兄は後部座席に、ジャケットや荷物と一緒に、母の骨の入った桐箱を投げ捨てるように置いた。運転席に座り、シートベルトを探っていると、助手席の兄が、葬儀屋からもらったというお茶のペットボトル二本を差し出した。僕が受け取ると、兄は車内に視線を泳がせてから、ペットボトルを手で弄びながら聞いた。

「これ、どこに置けばいい」

「内股」

 と、答えると、兄は苦笑した。今日初めて兄が笑ったのを見たと思う。

「安くレンタルした車だからね。ホルダーがなくてもしょうがない」

「免許なんて持ってたか」

「営業で必要だから取ったんだよ。正月に帰省したとき、車で僕が母さんを山村医院まで連れてったろ」

 兄は憶えにないというように、目を伏せ、首を左右に振った。

 車を走らせると、路傍に並んだ木の葉の隙間から漏れる光が尾を引いて後ろに流れていく。

「お前、仕事は何してるんだっけ」

「保険の営業だよ」

 それも前に話したろう、と言いかけて口を噤んだ。父が死後、母の介護のために兄は勤めていた印刷会社を辞めた。

「大学のときいた彼女は? まだ続いてるのか」

「もう別れたよ。就活で、僕が決まった後も彼女がなかなか内定とれなくて、だんだん気まずくなった」

「これも前に聞いたな」

 兄は呟いて、ネクタイを解いた。

「もうあのときは、お袋が呆けきってて、同じことを毎日何度も何度も……こっちまで気が狂わないように、話なんかまともに聞かなくなってたんだよ」

 僕は前を見つめたまま、ハンドルを握り直した。木々に囲まれた道を抜け、ガソリンスタンドやコンビニの灯りが見える明るい道に出る。住宅街に入ると、路傍の水銀灯‪や民家の磨りガラスからの光が、アスファルトを水面のように輝かせていた。枯れた椿の垣根に囲われた実家が見える。ガレージに車を停めるとき、コンクリートがタイヤに噛み付く音がした。僕たちは何も言わず、車から降り、後部座席の荷物を回収した。


 兄が重い引き戸を開けると、閉じ込められていた埃と熱気が噴き出した。魔物に息をかけられたような感覚が、懐かしいが不快だった。

 ドアを閉め、手探りで電気のスイッチを探す。明かりをつけると、蜜蝋のような照明に、折り畳んだ車椅子やガムテープを解かれていない段ボールで散らかった廊下が浮かび上がった。薬品と尿の混じったような臭いがする。母の部屋からだった。靴下越しにもわかるほど床がベタついている。

「お前の部屋は少し物を置いてるけど、ほとんどそのままにしてあるよ」

「わかった」

「じゃあ、俺はもう寝るから」

 階段を上がる兄の背中に向かって、声を搾り出した。

「あのさ、兄さん……明日病院行った方がいいんじゃないか」

 骨箱を脇に抱えたまま、兄が振り返った。

「伯父さんの話してたあれか」

 僕は息を呑む。

「まだそうと決まったわけじゃないけれど。行った方がいい」

「そうだな」

 そう笑った顔はひどく疲労が滲んでいた。

 ワイシャツの裾がだぶつくほど痩せた兄の背を見送って、自分の部屋に行った。僕が来る前に簡単に払ったらしく、部屋の端に埃が寄せられていた。昔使っていた勉強机の椅子にタオルがかかっている。嗅いでみると漂白剤の匂いがした。

 下の世話をするようになってから、潔癖症ではなかった兄が、母の服やタオルはすべてハイターにつけてから洗濯するようになった。

 ベッドに寝転ぶと、半年前の帰省のとき聞いた声を思い出す。父が生きていたころ、夜中でもトイレに呼び出されるのを見兼ねた兄がオムツを買ってきてから、母は自力で立つこともしなくなった。オムツが汚れると誰かに助けを求めるが、着替えさせようとするときは、警戒したように頑に力を抜かなかった。

 兄の怒鳴り声と、ハイターの匂い。棺に納められた母の痣とケロイド状の傷。

 僕は枕に片耳を押し当て、もう片方を腕で隠すように眠った。


 朝、隣家からの網戸越しでくぐもったラジオの音で目が覚めた。

 一階に降りると兄はもう起きていて、そのまま電子レンジにかけたせいで縁が溶けた惣菜のパックが並んでいる。一昨日のだけどまだ大丈夫だ、と兄は言った。木製のテーブルと椅子は小さな黴が張り付いている。父が死んで、それを落とす者は誰もいない。明るくなって気づいたが、床には綿のような塊がそこら中に落ちている。

 兄の向かい合わせに座ると、黒い七分袖のTシャツから覗く肋骨の浮いた胸元に、火の粉のような赤い湿疹が散っているのが見えた。

「今日、山村さんに行くけど、お前も行くか」

「母さんも世話になったし、挨拶くらいしとくよ」

 世話か、と兄は少し肩をすくめたように見えた。


 祖父が最期を迎えたのも、山村医院だった。見舞いに行ったのは、夏休みの真ん中で、窓の外は陽炎ができるほど暑いのに、冷房が効きすぎていた。院長の山村先生は祖父と変わらない年齢に見えた。ベッドに横たわる祖父は瘦せ細って、たくさんの管に繋がれているというより、管を幹に生える、萎びた実のように見えた。くの字に身を折り曲げて祖父がえずくと、看護師が洗面器を差し出す。吐き出された胃液の中に、二匹の蝶のような塊が浮かんでいた。


 病院のロビーは昔と変わらず、冷たく清潔な消毒液と患者たちの日焼け止めの匂いがした。

「仰る通り、柊一さんは蝶吐き病です」

 ビニール椅子に座って向かい合った院長の山村先生は、僕の目を見て静かに言った。兄は今、別室で血液検査を受けている。

「確かですか」

「検査の結果を待つまでもないでしょう」

「やはり治療はできませんか」

 山村先生は深く息をつきながら、老眼鏡を押し上げた。その仕草も、まばらに染まった白髪も変わらない。

「ご存知だとは思いますが、蝶吐き病はこの土地だけでしか見られない風土病です。研究もほとんどされていませんし、未だに正式な病名もついていません。気管が炎症を起こして、剝離した皮膚が蝶のような形で吐き出されるので、蝶吐き病と、民間で呼ばれていたのを私たちも使っています。原因も遺伝が関係しているようなのですが、それ以上は」

「根本的な治療法はないんですね」

「私の父の代で、声帯ごと切除する手術があったそうですが、それでも成功率は三割未満です。何より戦中の薬もまともにないような時代のことですので」

 山村先生は目を伏せた。

「お兄さんにはお伝えいたしますか」

 僕ははい、と答えた。

「わかりました。御母堂のこと、ご愁傷様です。いろいろなことが重なってお辛いでしょうが……」

「いえ、母がお世話になりました。兄のこともよろしくお願いします」

 僕が立ち上がると、山村先生が顔を上げた。

「九木さんの家系は、代々蝶吐き病の方が多いだけでなく、発症から亡くなるまでの間が短くなっています。柊一さんは既に発症しておりますので……」

 そう言い淀んだ。兄はもう長くない。そして、それは僕もいずれ発症したら、間もなく死ぬことを示しているのだろう。


 病院の外は、室外機から吹き出す温風でさらに蒸し暑く、激しい陽光が庇の影を一段と濃くしている。終わった、と、折り畳んだ処方箋をジーンズのポケットにしまいながら兄が出てきた。兄は一度咳をして、呟くように言った。

「だろうとは思ってたけどな」

「うちは蝶吐き病の家系だってさ……」

 兄は僕を見据えて、呆れたように笑った。

「何でかわかるか? 他の家はこの病気が遺伝だってわかってから、ガキを作らなかったからだよ。わかっても結婚してガキを作り続けたのはうちだけだ。九木の人間は馬鹿ばっかりだったんだ」

 何と返せばいいか、わからなかった。兄は頭を振って冗談のように言った。

「産まなきゃよかったのになぁ。産ませた親父も、産んだお袋も両方馬鹿だよ」

 産まなきゃよかったのに。兄が暗い目をして言ったのは、母が借金を作って、僕たちを大学まで行かせられないと言ったときだっただろうか。母は胎児のように蹲って泣きながら、ひたすら繰り返していた。浩ちゃんは違うよね……。浩ちゃんは違うものね……。


 正午を少し過ぎた頃、テスト週間なのか、通りは日に焼けた中学生たちであふれている。冷蔵庫に食品ほとんど食品がなかったので、食料を買い出しに来た。兄は今頃役所や寺に持っていく書類を書いているのだろう。僕が通っていた頃と同じ中学の制服と、ひなびた商店街と、朝の打ち水の染みがまだ残るアスファルト。どの光景もすんなりと自分の中に浸み込んで、一昨日まで確かにいた職場のビル街が既に薄れていく。

 東京にいても、いずれこの土地の病気で死ぬのだろうか。麹町にあるマンションの一室で、椿の木に囲まれた我が家で死ぬ兄と同じように、蝶の形の肉片を吐くのだろうか。

 浩ちゃんは違うよね、違うものね。

 同じだよ、と思った。母さん、僕も兄も同じように、あんたを嫌って、産まないでくれればよかったのにと、思ってるんだよ……。


 スーパーと呼ぶには小さな、老夫婦の経営する商店が見える。川平ストアと記された電飾は「川」と「ト」の字が点かないのを知っている。入り口の灰皿の前で、胸ポケットから煙草を取り出すと、汗を吸ったのかじんわりと湿っていた。一本摘まんで火をつけると、自動ドアが開き、紺色のワンピースの女性がトートバッグを下げて出てきた。俯いたとき、影の落ちる長い睫毛と通った鼻筋に憶えがあった。彼女も僕の顔に視線を止め、驚いたような微笑むような表情を作った。

「浩二くん?」

「京香、久しぶり」

 僕はほとんど吸っていない煙草を灰皿に捩じ込んで、軽く手を挙げる。京香とは高校時代に付き合っていたが、僕が上京してから段々と連絡も取らなくなってしまった。

「こっちに帰ってきてたなんて全然知らなかった」

「母の葬儀でね」

 嘘、と口元を抑える仕草がまったく変わっていなかった。

「ごめん、それも知らなくて。ご愁傷さまでした」

「いや、大丈夫だよ」

「仕事は東京の方でしてるの」

「うん、営業だけど」

「いつまでこっちに?」

「今週はずっといる」

「……じゃあ、時間あるとき一緒にご飯でもどう」

 僕はもちろん、と答えた。京香は汗で湿った髪を一束耳にかけ、

「じゃあまた今度ね」

 と、手を振って別れた。東京にいた時間が噓のようだった。


 家の前に着くと、玄前に人影があった。黒い鞄を抱えたスーツ姿の男で、引き戸にもたれるように立った兄が対応している。僕は他人の家に忍び込むように、声がもっと聞こえるまでに近寄った。漏れ聞こえる会話で、男が、母が生きていた頃にもよく来ていた貴重品の押し買いだとわかる。寂しがり屋で見栄を張りたがる母がいちいち招き入れて、結婚指輪まで査定させるので、僕か兄が追い返すのが常だった。

 兄が苛立たし気に前髪を掻き上げた。

「昨日、母の葬式を終えたばっかりなんですよ……」

 押し買いが、明るい声であ、と言った。

「でしたら、お母様のお着物なんか遺っていらっしゃいませんか」

 兄の目が暗く見開かれたのに、男は気づかない。

「あの女が、そんなもの遺すと思うか……? 入院する金も、なかったのに?」

 男が顔に笑みを張り付けたまま黙りこむ。その抱きかかえた鞄に、兄が踏み込んだ右足が勢いよく沈み込む。蹴り抜かれた男はコンクリートに手をついて倒れた。

「帰れつってんのがわかんねえのかよ! 死にたくなきゃ、消えろって言ってんだよ!」

 兄の剣幕に、押し買いは鞄を掻き抱き、足をもつれさせながら立ち上がった。

「頭おかしいよ、あんた」

 上ずった声で呟くと、男は僕に気づきもせず、すぐ横を通り抜けて走っていった。玄関先に残された兄が、ゆっくりとしゃがみ込む。何かを拾い上げる動作に見えたが、そのまま口を押えて、背中を震わせる。聞こえるか聞こえないかの嗚咽の後、兄は何かを吐いた。地面に手をついたままの兄と目が合う。兄は何も言わず、口を押えたまま、家の中へ戻っていった。

 コンクリートにできた楕円形の黒い染みに近づくと、粘った液体に混じって、白い三角形の二枚の薄い紙切れのようなものがある。見つめるうちにそのふたつが震えたと思うと、蝶の形になって飛び立った。思わず上空を見上げると、蝶はいない。もう一度足元に視線を落とすと、歪な欠片は地面に張り付いたままだった。


 兄の咳の音が聞こえる部屋で、ベッドに寝転がり、父はなぜ母と結婚したのだろうと思う。

 ふたりとも昔の人間にしては晩婚だった。都内で働いていた頃、周りから急かされて、同じ職場の母と結婚して、田舎に帰ったのだろうか。母は、こんな田舎に来る前の自分は美しかったという。父さんはどこにも連れていってくれないと嘆きながら、母は若い頃のアルバムを僕に見せた。ツアーで行ったスキー場、一番隅にいて企画者だという男の隣で笑みを作る母は、髪がほつれ、妙な柄のスキーウェアを着ていた。写真の中のどの女よりみすぼらしく見えた。なぜ父は、母を選んだのだろう。


 ふと、同じことだと思った。蝶吐き病だろうとそうでなかろうと、人間が必ず死ぬのに変わりはない。死の運命にあるとわかっていても、親が子を産み落とすのは今まで生きてきた人間がみなやってきたことだ。僕らはみな、喉に蝶の巣を持って生まれてくるようなものだ。それなら、僕も病気など気にせずに、結婚して、子どもを作って、この土地で死ぬのもいいかもしれない。

 そう思うのは、昼昔とまるで変わらない京香と会ったからだろうか。


 母の骨の入った桐箱を抱えながら、寺へと続く坂道を上っている。

 数歩前を行く兄は、少し進むたびに咳を繰り返した。病の進行度は思うより深刻かもしれない。歩きながら自分の身体を見下ろすと、木漏れ日が、食い破られたような影をいくつも作っている。

 母の墓は作らないと兄は言った。永代供養納骨堂に骨壺だけ納めた方がはるかに安上がりなのだという。母の遺産はほとんどなく、兄が死ぬまであと何年かかるかを考えると、僕は反対しなかった。


 坂を上り切ると、強い日射しの差し込む本堂の前に、ニスの光沢を放つ木魚や、額に入った地獄絵図など本来室内にあるはずのものが、砂利の上に敷かれたブルーシートの上に並べられていた。中から人懐こい笑顔の住職が、大きな額縁のようなものを抱えて現れた。僕も兄も会釈する。

「すみませんね、丁度本堂の掃除をしていたものですから」

「いいえ、こちらこそ、こんなときに……」

 兄がそう答える横で、僕は住職が持つ額縁の中にあるのが仏でも地獄でもなく、ところどころ立体的に浮き出した切り絵のようなものが押し込められているのに目が留まった。僕の視線に気づいたらしく、

「ああ、これですか」

 と、住職は僕たちの目の前に額を表向きにして見せた。この土地の山を描いた貼り絵のようだが、使われている画材が、和紙を一度くしゃくしゃにしてから千切って上から絵の具を塗ったように見える。

「蝶……じゃない、皮膚か」

 兄が呟いた。住職は眉を葉の字にして苦笑した。

「昔この土地に住んでいた画家さんが、蝶吐き病になりましてね。遺作にと、自分が吐いた欠片を貼り絵にしたそうです。檀家さんが寄贈してくださったものなので無下にはしたくないんですが、置いとくとお子さんなんかが怖がるもんですから、いつもは奥にしまってあるんです」

 自分の喉から剥がれ落ちた皮膚の欠片を唾液の中から取り出し、乾かし、色までつけて、一枚一枚張り付けていく。見たこともない画家のその姿を想像すると、肩甲骨の間を流れ落ちる汗が冷水に変わったような感覚がした。


 兄が住職と話をする間、僕は境内の裏の墓地を歩く。砂利の隙間から彼岸花の球根が先端だけ顔を覗かせていた。

 墓石の隙間から、人影が現れた。昨日のようにトートバッグを提げた京香だった。昨日と違うのは、胸の前にギンガムチェックのおんぶ紐で赤ん坊を抱いていることだった。僕が声をかけるか迷っていると、京香の方が

「よく会うね」

 と、微笑んでこちらに向かってきた。そうだねと笑い返そうとしたとき、白い小さな蝶が目の前を通り過ぎて行った。呆然とする僕に、京香がわずかに首を傾げた。

「どうしたの?」

「いや、蝶が、飛んでたんだ……」

「蝶?」

「こっちに来てからよく見るんだ。家の近くで。巣でもあるのかも」

 口元に手を当て、京香はくすりと笑った。

「浩二くん、蝶は巣を作らないよ」

「そうだったんだ……知らなかった。二十四にもなるのに」

 僕が苦笑すると、京香は声を上げて笑う。

「巣がないなら、どこで休むんだろう」

「どこだろうねえ」

 そういって、彼女は赤ん坊を指であやした。

「その、子は?」

「瑠璃っていうの。女の子。今は五か月かなぁ」

 抱き上げられた赤ん坊が、風船のようにまるまるしていて、針でついたら血でなく空気が吹き出しそうに思えた。

「そうだ、旦那がね、銀行員なんだけど、もしかしたら都内に転勤になるかもしれないから、東京のこと詳しく聞きたいって」

「そうか、じゃあ、今度会ったときにでも」

 突然、赤ん坊が泣き出した。京香は慌てて、じゃあよろしくね、と言うと坂道を下っていく。丁度話を終えた兄が本堂から現れた。


 兄と僕は並んで坂道を下る。もう蝉の声が聞こえてきた。兄は空咳をしながら、ポケットから煙草の箱を取り出した。

「煙草は吸って平気なのか?」

「止めて治るもんでもないしな」

 僕も煙草を取り出し、一本咥える。歩くたび伝わる振動のせいでなかなか火がつけられずにいると、兄がジッポラーターを差し出した。

「ありがとう」

 ライターを返すとき、触れた指先が氷のように冷たかった。

「俺が死んだときも、墓はいらない。葬式もいい。その話も住職としてきたんだ。火葬だけして、あとは納骨堂に入れるか散骨にしてくれ」

「……わかった」

「家は……俺が死んだら誰も住まないだろ。業者入れて片付けた後売るなり何なりすればいい」

「僕が来て片付けるよ」

「毎週末? 東京から?」

「こっちに住んだっていい。兄さんもひとりじゃこの先大変になるだろうし」

「住むって、仕事はどうするんだよ。ここからじゃさすがに通えないぜ」

「辞めてもいいよ。ここで適当な仕事を見つける。父さんみたいに心不全にでもならない限り、どうせ僕も病気にはなるんだから」

「……お前は死なないよ」

「そういうの、よせよ」

 違う、と兄は立ち止った。押し買いの男を蹴ったときと同じ目をしていた。呆けた母を見下ろしていたのと同じ、あの暗い目。


「親父は俺が産まれるまで病気のことは黙ってた。それを知ったお袋が、東京の男とガキを作った。それがお前だよ」

 蝉の音が止み、木々のざわめきと自分の心音だけがうるさい。

「お袋が詐欺に遭ったこと、あっただろ。お前がまだ中学生だったから言わなかったけどな。お袋と不倫した相手も既婚者で、相当もめたんだよ。最終的に金で何とか決着つけたんだ」

 兄は煙と一緒に咳を吐き出した。

「だから、お前に蝶吐き病の血は一滴も入ってない。心配いらないから、東京に、帰れよ」

 短くなった煙草が兄の爪を焼き、短く舌打ちして煙草を放した。兄の捨てた吸い殻は地面を跳ねて、側溝に消えた。痰の絡んだ咳をし、喉元を抑える。

「悪いけど、先に行ってる。吐きそうだ」

 兄は僕の横を通りすぎて、坂道を下っていき、見えなくなった。僕はずっとそこに立ち尽くしていた。路傍に雨と土に汚れて縫い目のとれた野球ボールが転がっている。僕は吸い殻の浮かんだ側溝にそれを蹴落とした。


 夕方、兄は高熱を出した。発熱も蝶吐き病の症状だという。何か食べないと山村先生からもらった薬が飲めないと言ったが、作ったものは一口も食べずにベッドに倒れていた。

 自分の部屋にいても、兄の咳が聞こえて、僕はテレビもつけずに、台所の椅子に座って、空き缶を灰皿に煙草を吸っていた。ラップをかけた皿の数々が、窓からの西日に照らされていて、僕も昼から何も食べていないことに気づいたが、腹は減らなかった。流しには今朝からの洗い物が溜まり、包丁が腹を見せた魚のように刃を上にしている。

 母は一度手を切ってから、刃物をほとんど研がなくなった。うちにある包丁で誰かの胸を刺しても、きっと心臓まで届かないだろう。


 玄関の方から近所の子どもの声がする。

 あの重い引き戸は出入りには不便だが、役にも立った。母は一番強い鎮痛剤を使っていても、痛みを敏感に感じ取り、すぐに救急車を呼びたがった。兄が携帯を取り上げると、隙を見て逃げ出し、隣家に助けを求めようとした。そのとき、たいてい引き戸が開けられず、出ていく前に音で気づけた。

 家の床のそこら中に張り付ている、黒く細いものの塊は、母の髪ではないのだろうか。ひとに聞かせるように、わざと痛いよぉと、叫ぶ母の髪をつかんで、引き戻す兄。

 母は自分の痛みには敏感で、他人の痛みに驚くほど鈍感な女だった。昔、僕が火傷をして思わず声を上げたとき、近くにいた母が最初に言った言葉は、

「ああ、びっくりした。心臓が止まるかと思った」

 兄さん、僕だけが母親に愛されてたと思うか。違うよ。あの女は、自分以外の誰も愛してなかったよ。

 両腕を伸ばし、手で蝶の形を作ってみる。節くれだった歪なそれは、蝶というより獲物を待ち構える蟹のように見えた。指と指の間に白い首を想像する。僕は力を込める。頭の中で、首は筋を強張らせた。首の持ち主は、母だろうか。兄だろうか。それとも別の誰かだろうか。


 翌日、空はアルミ硬貨のような色をしていて、シャツの袖やズボンの裾から入る風が冷たく、死人にまとわりつかれているようだった。

 台風が来ているらしい。兄の熱は下がらない。


「布団、取り換えようか」

 頼んでいいか、と聞いた兄の声は掠れていた。じっとりと汗を含んだ布団を回収する。枕元の洗面器は空で、かすかに濡れていたが唾液でなく水だった。祖父のように肉片を吐いた後、夜中になんとか自力で片付けたのだろう。


 兄の部屋に押入れはないので、一階へ行く。夏用の掛け布団を取り出す際、花柄の布団が転げ落ちた。母のものだとすぐにわかった。茶色い脂染みがひとの形に見える。

 僕は、台所の引き出しから一番大きいごみ袋を取り出す。すぐに母の布団を詰め込むが、入らない。キッチンばさみを持ち出して、布団に思い切り突き立てた。湿った綿が飛び散った。はさみを逆手に握り直し、何度も突き刺す。その度に舞い上がる綿が蝶に見えた。稲藁焼きの火に炙られた蝶。墓場で見た蝶。兄が吐き出し、空へ飛んで行った蝶。

 気配を感じて顔を上げると、憔悴しきった顔に困惑の表情を浮かべた兄が立っていた。そのとき僕は布団を届け忘れていたことに気づく。

「ごめん、今、汚れた布団が、あったから、捨てようと思って」

「お前、手から血出てるぞ」

 言われて初めて、左の小指の付け根から流血しているのに気づく。

「顔にもついてる」

 頬に触れると、血の染みた綿が剥がれ落ちた。

「お前、大丈夫か?」

「何が」

 兄さん、お前の方がずっと大丈夫じゃないだろう?

 僕が布団を渡すと、兄はそれを受け取りながら、そうじゃなくて、と呟き、手の中の小さな長方形のものを見せた。

「お袋の携帯電話、解約するの忘れてたんだ」

「僕が店まで行ってくるよ」

 受け取ろうとすると、兄は手を引いた。

「いや、今日じゃなくていい。台風が来てる日に……」

 兄の左手ごと携帯をつかんだ。

「車でいけばいい」

 兄は僕の顔を一度見てから目を反らし、携帯を手放した。


 車を走らせていると、昨日の坂道での兄の言葉を思い出す。

 東京に帰れよ。帰るだって? ここは故郷じゃないっていうのか?

 ハンドルを切り、アクセルを踏み込む。携帯ショップではなく、帰省のときに使う故奥堂の方へ。帰ってやるさ。お前はこの土地で死ねばいい。ここの土地の人間の血は、僕には流れていないのだから。


 コンクリート橋を渡るとき、一度端に停めて、窓を開け、川を覗き込んでみた。既に水量と勢いを増している。僕はポケットを探り、母の銀色の折り畳み式携帯に電源が入るか試してみた。液晶が輝き、画面に「ボイスメモ 一件」と表示される。母は機械の扱いに疎く、留守番電話と思ってボイスメモを入れるのはよくあることだった。再生を押し、耳に当てる。

「浩ちゃん……」

 生々しい母の肉声に思わず息をのむ。

「私が悪いの、私が悪いんだけどね……」

 体勢を変えたのか、ざらりというノイズが響いた。

「お母さん、お兄ちゃんに殺されちゃうかもしれない……」

 録音はそこで途切れた。死体になった母の痣と傷。落ちた毛髪。

 僕は窓から携帯を投げ捨てた。濁流に呑まれ、一瞬で見えなくなる。車内に静寂が満ちた。それを破るように、突然降り出した豪雨が窓を叩く。僕は車を発進させ、家へと方向を変える。


 傘を持っていなかったせいで、車から家に入るまでの間にずぶ濡れになった。玄関を閉めると、兄が立っていた。

「だから、いいっていったのに。ずぶ濡れだぞ、お前」

「うるさいんだよ!」

 家に響いた大声が一瞬誰のものかわからず、正気に戻って自分の声だと悟った。僕は何も言えずに濡れ切った頭を抱えた。兄は目を丸くして、しばらく黙っていたが、僕に首をもたげると、掠れた声で言った。

「雨戸を下ろす。手伝ってくれ」


 すべての雨戸を下ろすと、外からは、悲鳴のように尾を引く風の音と、ときどき何かが割れたり落ちるような鈍い音だけがわずかに聞こえてきた。電気をつけない家の中は暗く、廊下に兄と僕の影だけが蠢く。お互いに雨と汗で全身濡れていた。暴風と水が一斉に戸を叩く。


「兄さん……母さんを殺した?」

 暗闇で、兄の表情は見えない。兄の右手の影が口を覆い、咳をするのが聞こえた。えずきが完全におさまるのを待つ。再び聞こえるのは嵐だけになった。

「殺したかったよ……お袋も、親父も。でもな、殺せなかった。明日は殺そう、明日は殺そうと、そう思ってるうちにふたりとも死んだ」

 兄はむせながら、ゆっくりと息を吐く。口を覆っていた手が額へ動き、両目を隠した。

「親父とお袋死んだとき、やっと終わったと思った。でも、それ以上に何で殺さなかったんだろうと、思った」

 兄の手が一度、自分の濡れた前髪を掻き上げると再び口元に移る。

「俺を、恨んでるか?」

 僕は必死に声を出そうとするが、喉の奥に張り付て出てこない。遠くで雷鳴が響いた。

「……お前は、後悔するなよ」

 兄の手が口を離れたと思うと、壁に触れ、廊下に明かりが点いた。もう兄は背を向けていて、表情は見えない。その後ろ姿が二階に消えるのを見送っていた。どこからか風が吹き込んでくる。台所だ。


 べたつく濡れた床を裸足で歩く。風上へ進むと流しの上にある小窓が開いていたのだ。シンクに乗り上げ、窓を閉じようと手をかける。

 その瞬間、何十何百もの白い蝶が一斉に飛び去った。蝶の群れが左右に割れ、跡形もなく消えた後、風の吹きすさぶ、蝶の羽より一段明度の低い空があるだけだった。僕は流しから、包丁を一振り、抜き出した。


 階段を上る。二階の電気は点いていない。

 兄の部屋の扉を押し開けると、薄暗がりの中にずぶ濡れのままの兄がいた。僕の右手の中にあるものを認めると、静かに目を伏せ、うなずく。

 左手で軽く肩を押すと、抵抗なく兄は床に倒れた。僕はしゃがみ、馬乗りになる形になる。兄の腹を挟んだ腿に、細い腹の骨の形と微熱のある体温が感じ取れた。兄を見下ろし、右手の包丁を振り上げる。

「恨んでないよ」

 兄は痩せた頬に子供の頃のような笑みを浮かべた。僕は包丁を振り下ろした。



 晴れきった空の下、蝉の声がし、陽炎ができるほど暑い道を僕は歩いている。兄に花を買った。白い菊だ。家族に花を買ったのは、これが初めてだ。いや、祖父が入院中に一度見舞い用の花を買ったかもしれない。

 自転車を押す小学生の兄弟がはしゃぎながら、汗だくの僕の横をすり抜けていった。着いた先は、山村医院だ。


 ロビーで名前を告げると、受付の肥った女の看護師が聞き返す。

「九木柊一の弟です」

 看護師は、カウンターの奥にいた同僚と目を合わせて囁きあった。無理もない。

 奥から院長の山村先生が現れた。僕は会釈する。

「もう面会できると伺って」

 山村先生は眉をひそめて渋い表情を浮かべ、僕の目の前で立ち止った。他には聞こえないよう僕の耳元に口を近づけ、先生が小声で言う。

「警察には、お兄さんの自殺未遂だと話しておきました」

「ご迷惑を」

「私の代にもなって、戦前と同じ手術をするとは思いませんでした。声帯の切除だなんて」

「山村先生、ありがとうございました」

 僕は苦笑する。先生は頭を振った。

「前も申しましたが、三割未満です。また発症しないとは限りませんよ。三〇一号室です」


 僕は礼を言って三階に向かった。病室のドアを開けると、四つのベッドの内三つは空で、窓際右側のベッドに兄が横たわっている。僕を見留ると、喉に包帯を巻かれた兄はジェスチャーで早く閉めろと示した。

 後ろ手にドアを閉めて中に入り、兄の腹の上に花束を投げた。兄は一瞬顔を歪め、僕を睨んで口を動かした。嫌味か、と。

「そうだよ」と、僕が言うと兄も苦笑した。

 スチール椅子を引き寄せ、ベッド脇に座る。

「今日で忌引き休暇が終わる。一旦東京に戻るよ」

 兄は何も言わず、窓の外を眺めている。

「次の休みには戻ってくる。母さんのことでやらなきゃいけないこともあるし、あの家を売るにしても、また住むにしても片付けないと」

 窓から温風と言うには熱すぎる風が吹き込んだ。兄は頷いた。

「仕事は? こっちで探すならそれでいいし。東京に、来てもいいんじゃないか」

 さあ、というように、兄は首を窓の方へ傾けた。僕は肩を竦めた。

「ここを出る前にひとつ、頼んでもいいかな」

 兄はゆっくりと振り向き、僕を見た。

「傷口を見てみたい」

 嫌そうな表情をした。山村先生が怒るのが目に見えているのだろう。だが、兄は上体を起こすと、首の後ろに手をやった。

 さなぎが破れるように、だんだんと包帯が解けていく。緩み切ったところで、兄は喉元でたわんだ布をつかみ、一気に下ろす。僕は思わず笑い、兄も声を出さずに笑う。

 昼白色の光の中、むき出しになった兄の白い喉に、赤紫の蝶のような大きな傷跡が羽を広げていた。

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蝶の巣 木古おうみ @kipplemaker

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