第5話 ハッピーコミュニケーション

     ⑤


 またスマホが鳴っている。どうせ着信は京平だろう。

 そう思って左近は無視を決め込んだ。

 八つ当たりした布団に丸まり、自分の殻に閉じこもる。まるでこの生温い小さな闇だけが、いまある彼のすべてであるかのように

 遠い雷鳴のようにスマホのコール音を聞く。考えるのは彼女のことばかりだ。繰り返される後悔が、まるで津波のように左近の生気をさらっていった。

 自分の吐く息が彼の小さな世界を満たしていく、充満した二酸化炭素が脳の動きにブレーキをかけた。なにも考えられない、なにも考えたくない。全能であるはずの矮小な世界ですらままならないのだ。もう外の世界なんていらない。

 此ノ花和泉のいない世界なんて――

 闇に浮かぶ彼女の笑顔。ちょっとオヤジ臭いギャグがツボな彼女。好きな音楽、好きな服。次々と思い出す彼女との幸福な日々。たった数日、されど数日。もう和泉のいない生活なんて考えられない。

 謝りたい、いますぐにでも。だが許してもらえるだろうか、あんな酷いことをして。それに許してもらってどうする。彼女が同じ笑顔を自分に向けてくれるとは限らないぞ。

 延々と続く堂々巡り。

 左近は完全に思考の迷宮をさまよっていた。

 枕元ではまだスマホが鳴っている、ふと我に返り「しつこいな」と舌を鳴らす。

「ハッピー……スマホどっか持ってって……」

 布団に丸まり、ダルそうにつぶやく。だがいつものけたたましい電子音の返事はしない。スマホのコール音も鳴り止むことはなかった。

「ハッピー……」

 その状況に違和感を覚えた左近はようやく布団の中から這出ると、ハッピーの気配がいつからないのかと記憶を辿る。そうだ、さっき癇癪を起こした時からだ、と思いついた途端、妙な胸騒ぎがした。

 いつも傍らにあるのが当たり前で、いなくなることなど考えもしなかった。かつてない不安が左近を襲う。何故だか家にはもういない気がした。

 GPSで位置検索ができる――

 そう思った左近の手が迷うことなくスマホに伸びていく。が、いまだ鳴り続けるそのディスプレイを見て我が目を疑うと同時に全身が凍りついた。

 表示されている名前は京平ではなかった。

 此ノ花和泉――それは左近がいままで出会ったどんな名前よりも美しい。なにもかも投げ出してでも取り戻したい名前であった。

 だが何故だ?

 いくら彼女が菩薩のように優しい性格とはいえ、あんなことがあった後で向こうから連絡を取ってくれる訳がないのだ。それくらいは人間関係に疎い左近でも分かる。

 出たい、だが出たくない。

 一体どんなことを話せばいいんだ、謝り方すら分からない。

 左近は焦った。たかだか電話に出る出ないで、かつてこんなにも大量の汗をかいたことがあっただろうか。ディスプレイから目が離せない、通話アイコンのわずか三ミリ上空で親指が強震する。

 そこからさらに一分が経過。ついに左近の前に進む力が、未知への恐怖をほんのわずかに凌駕した。意を決して画面をタップ、手にかいた汗でスマホが壊れないかと心配になる。そして、

「も、もしもし……」

 搾り出した声は緊張で震えていた。きっと和泉も情けないと思っているだろう。

 しかし、左近が一日ぶりに耳にした和泉の声は、彼の予想をすべて超越していた。

『左近君ッ! ハッピーが……ハッピーがァッ!』

 嗚咽の混じる彼女の声。それを聞いた瞬間、左近は取る物もとりあえず、着の身着のままで自室を飛び出していた。


 何故、自転車を使わなかったのか。

 あまりの気の動転に、この問題には終生決着がつくことはないだろう。

 左近は走った。あの日、ふたりで通った舗装路を。息が苦しい、横腹が痛い。いまさらながらに己の非力を呪う。明日からは少し健康にも気を使おう、左近は不安を振り払うかのように自嘲した。

 寝巻きが透けるほどの汗をかいてようやく和泉の家に辿り着く。呼び鈴を押し、数秒待った。たった一瞬が永遠にも感じた。ゼェ、ハァと吐く自分の息だけが妙にリアルで、後のことなどもうなにも考えられない。和泉と顔合わす不安など、いつ間にやらどこかへ消えてしまっていた。

 ドアが開く。

 爽やかなミントの芳香剤が香り、同時に覗かせた彼女の顔は、しかし酷い有様だった。

 目をパンパンに腫らし、拭う間もなく涙が溢れ、嗚咽ともつかない声でなにかをいおうとするが、左近にはいっかな内容が伝わらない。

 ろくな挨拶もしないままに再会したふたり、左近は和泉の招かれるままに彼女の自室へと向かった。

 パステルカラーの壁紙とカーテンの隙間からもれる日の光。

 初めて入った異性の部屋だというのに、左近の意識が捉えたものなどその程度でしかなかった。もし違う形で招かれていたのならば、きっと緊張と興奮でキョロキョロと部屋の隅々までねめまわしていたことだろう。

 だがいまの左近には、和泉の顔はおろかただの一点しか見えない。

 部屋の中央で静かに横たわる、半壊したコミュットしか。

「ハッピー……」

 自慢のカメラアイはヒビ割れ、中からむき出しのレンズが覗く。樹脂製のボディは抉れ、すでに球形をとどめてはいなかった。基盤がショートし黒く焼け焦げている。折れたロボットアームは無残にもボディを突き破っていた。

 震える手で自らの最高傑作を抱える。

 けたたましいくらいに鳴っていたあの電子音声も、もう聞こえない。

「出掛けようと思って……げん、玄関に……」

 後ろからは和泉のすすり泣く声がした。あまりの動揺で言葉にならない。

 不思議だった。

 たかだか機械相手に、お互いこんなにも胸を痛めるだなんて。つまらない意地や、わだかまりも、いまのハッピーの前では意味をなさない。

 ただただ哀しかった。

「――コイツ。なにかいってる……」

 むき出しとなったカメラ本体の、レンズが僅かに動いているのに左近は気付いた。まるで人間の瞳孔が開閉するかのような、しかしスムーズとは言い難いぎこちない動き。

 ハッピーは残された最後の力でなにかをふたりに伝えようとしている。

 左近は慌てて周囲を見渡した。

 ベッドの隣、綺麗に整頓された和泉の机がある。その机上、ペン立てにささるカッターナイフが視野に入った。

「い、和泉さん! イヤホン持ってたよね!? スマホのヤツ!」

「う、うんッ」

 訳も分からずといった風の和泉を急かすと、左近はペン立てのカッターナイフを取り出した。そして「あとで弁償するから」と早口にいうと、和泉から手渡されたイヤホンのジャック部分を切断し、配線を露出させる。さらに左近はハッピーのボディから、破れたスピーカーを取り出し切断、そこからリード線を引き出し、イヤホンからの配線とより合わせて応急的に接続してみせた。

 左近は神妙な顔つきで和泉を見つめる。手渡したのは片耳のイヤホン。まるであの日の再現だった。ふたりはイヤホンを分け合い、鳴り響く音に耳を済ませた。

「こ、これは――」

 左近が呻く。すると和泉が「『ロミオ』の……」とつぶやいた。

 彼らの耳に届いたのは、あの日も聞いた同じ曲。ハッピーが左近の鼻唄からサンプリングしたという、和泉の好きな曲だった。

 ところどころ音は飛び、ノイズも酷かったけれど。

 ハッピーは一生懸命「歌って」いた。

「おまえ……和泉さんにこれ聞かせるために? ボクがこの歌覚えてるってこと教えようとしたのか? そんな……そんなことって……」

 コミュットは人の笑顔のために生まれた。 

 そんなことは分かっていたつもりだったのに。命なきものの献身はただのプログラム。ずっとそう思ってきたのに。

 なんだこの胸の痛みは。

 和泉は泣いていた。そして左近も。

 また大切なものを失ってしまう。その哀しさにくれる。

「ずっと……謝りたかった……でも……どうしても嫌だったんだ。君がその……」

 自分の知らない男にあの笑顔を向けていただなんて――

 そんなことを思うたび、左近のこころは張り裂けそうになる。

「左近君は……左近君だよ」

「え……」

「私、あなたのこと誰かの代わりだなんて思ったことない」

 腫れぼったい顔で和泉はいった。すすり上げる涙の音が、未熟な左近を責めたてる。

「すごく……傷ついたんだから」

「ご、ごめんッ」

 左近は慌てた。この機会を逃してしまったらまた会えなくなってしまう。耳の中で反響するハッピーの歌が、全部吐き出せと背中を押した。

「でも、こんな気持ち初めてだったんだ……君の笑顔を独り占めしたいだなんて。分かってるよ、気持ち悪いよね。だけど……だけど……」

「ちょ、ちょっと待って!」

 和泉が両手を前に突き出して左近の言葉を遮った。

 そして真っ赤になった頬を膨らませてプイっと横を向いてしまう。

「そんなこと急にいわれても…………困るッ」

 和泉の横顔を目にすると、左近も急に気恥ずかしくなった。俯き、目も合わせられない。

「でも」

 ためらいを感じた数秒間。

「うれしい――」

 その一言を聞いた瞬間、左近の胸を締め付けていた闇が払われた。自分の吐いた息で窒息しそうな矮小な世界は切り開かれ、無限に続く宇宙へと結びつく。

 こころの跳躍。

 ワープとはこのことをいうのだろうか。

「い、いまのはッ!?」

「あ、誤解しないでよッ。まだそういうのじゃないんだからねッ。さっきもいったけど本ッ当に傷ついたんだから! しばらく許してあげないッ!」

「そ、そんなこといったら君のビンタだってすごく痛かったよ! オヤジにだってぶたれたこと……は、あるか……や、そういう問題じゃないッ」

「フフフ」

「ハハ……」

 他愛もない会話と笑い声。

 いつもの彼女が戻ってきた。

 ただそれだけで。他のことなど左近にはもうどうでもよかった。

 最高に幸せだ――

「でも、許してくれるまでの「しばらく」ってどれくらい?」

 左近が真面目くさった顔で聞いてみる。すると、

「それは勿論……」

 和泉が耳から伸びるコードの先を見つめていった。

「ハッピーを直してくれるまで」

 左近もそれにならい物言わぬ機械仕掛けの友達に熱い視線を注ぐと、「そうだね」と淋しくつぶやいた。

 やがて曲の再生も終わり、イヤホンから音が遠のいた。

 その一番最後にとても小さく。ふたりはハッピーからのメッセージを聞く。


 サコン イズミ ワラ ッテル レレレッ――


                           おしまい

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハッピー 真野てん @heberex

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ