14 追憶:通歴940年5月2日

《追憶:通歴940年5月2日》

 ずっと心は迷っていた。迷いに絡めとられた足は重く、階段を一段一段上るにつれてそれは増していく。

 外界に続く扉はもう目に見える距離にあった。その先にあるのは、十五年ぶりの外の世界。もう、扉は開いている。あとは、一歩踏み出すだけ。

 でもどうしても、その一歩が踏み出せなかった。胸の奥に詰まった感情が、最後の一歩を阻んでいる。吐き出しても吐き出しても、それはこの体の奥から絶えず湧き出て、止まっていた時が再び進み始めるのを拒んだ。

 処理しようにない感情を吐き掛けるように天を仰ぐ。

「叔父上、本当に私はこれでいいのでしょうか…?」

 視界に映る灰色の天井はその音を吸収し、答える代わりのその影を一層濃く見せた。

 身の内に隠された力が、その影の向こうに隠された透明な壁の存在を勝手に目の中に映しこむ。教えられずとも、そこにあるものの正体を自分は知っていた。

 だからこそ、今こうして動けずにいるのだ。

「答えてください。私の、この命の責任を取ってください」

 悲痛な声を上げ、目を瞑った。今は亡き人を思い、記憶の中の人物に縋ろうとする。

 閉ざされたはずの瞳は、瞼の裏に自分の知らない景色を見る。脳内に響く、誰かの心の声。映し出される、知らない世界の情景。

 神剣はいつも教えてくれる。時には望んでいないのに、自分に語り掛けた。

 だからこそ、自分はなんでも知ることができた。なんでも知ってしまうことができた。誰も知らない歴史の裏側を、大いなる流れにかき消された小さな物語たちを。

 そして神剣は、勇猛果敢な賢王と称えられる彼の真実を、この頭の中に映し出したのだ。



 先王ゼファニアは多くのことの後悔を抱いていた。勇猛果敢な王の陰には、いつも何かにおびえる臆病が隠れていた。

 彼は自らの妻と子を恐れた。

 運命を決めた十五年前の政争。あの時ニーベルク家は彼の妻と息子を人質にしようとしていた。

 結果としてその計画は潰えることとなったが、もしもあの日トビトが二人を連れて逃げていなければ、彼らはきっと殺されていただろう。

 それでも、彼は一度も躊躇しなかった。自分の行動が、妻とまだ見ぬ子を窮地に追いやることを知りながら、それでも彼は旗を上げた。

 やがて、彼は王となり、彼の隣には妻と子がいた。あの日、彼が見捨てようとした二つの命が、何も知らずに彼を羨望の眼差しを向けた。

 迫る罪悪感。二人が真実を知った時、怒りに殺されるかもしれないという恐怖。彼は妻と子を恐れた。

 次に彼は甥を恐れた。

 海から引き揚げた甥は既に息絶えていた――はずだった。しかし、甥は彼の見る目の前でひとりでに息を吹き返したのだ。

 彼はその時気付いた。失われたはずの神剣が、その幼い体の中に確かに存在していることに。

 同時に、自らがずっと恨み続けていた悪魔の正体が、まだあどけない子どだったことに動揺した。そして、神剣により、彼を殺すことができないことに焦りを覚えた。

 神剣が自分を守る限り、ゼファニアは自分を殺すことはできない。ゼファニアは自分を恐れた。いつか、自分に殺されるのではないかと、恐れた。だから、二度とその手で剣を握れぬように両腕を切り落としたのだ。

 処刑の日、ゼファニアは一度も目をそらすことなく見ていた。その両腕が損なわれる瞬間を、自分の目で確かめなければ信じることができなかった。動揺を押し殺し、なんでもないよう装い、その光景を見つめる。

 自分はただ、耐え忍ぶように口を閉ざし、血と涙にぬれた瞳で叔父を見下ろしていた。

愚かにも、安心を得るためのその行為が、ゼファニアにとってはただ恐怖を増長させることになってしまった。

 その瞬間が、ゼファニアの胸に刻まれる。



 過去の上映が終わり、そっと瞼を開いた。自らを見下ろす影が、水の中のように滲んで見える。重力に従い、穂の暖かい滴が頬を流れ落ちた。

 叔父は誰よりも臆病だった。自らが殺されるかもしれないという強迫観念に囚われ、それを押し隠すように虚勢を張り続けた。常に誰かの陰に怯え、誰もを疑った。

 表向きは冷静に、賢王を装いながら、生涯その秘密を隠し通した。

 でも、自分は知っている。賢王の秘密が、これだけでないことを。

「本当に臆病で…優しい人」

 再び前を向く。灰色の天から光あふれる外界へ。

 視線の先に阻むものは何もない。外へつながる穴がぽっかりと待っているだけ。でも、そこには確かに壁がある。叔父が残した呪いが確かにそこで待っている。

『お願いだ。私の知らないところで死んでくれ…!』

 耳の奥で、あの日の声が甦った。確かに聞こえる怨嗟の声。閉ざされた扉の向こうで、呪いの言葉を叫んでいた。

 聖者が張った結界を解くことは、今の自分には簡単だった。でも、それを容易にできない訳がある。

 全ては、神剣が教えてくれた。

 叔父は自分を信じたかった。だから壁を作り、試したのだ。壁がそこにあり続ける限り、自分を信じることができる。

 叔父にずっと憎まれていた。でも、あの日『生きろ』と言った叔父を、自分を想う叔父の姿をまだこの心は覚えている。

 否、忘れたことはなかった。忘れるはずがなかった。あの臆病も、あの優しさも全部知っている。だから、その想いに応えたかった。叔父の言葉を受け入れ、この場所にとどまり続けることを望んだ。

 叔父の葛藤が、この十五年という結果につながっている。この場所に繋がれたままでいいと、過去に囚われたままでいいと思っていたのは自分自身だ。

 でも、この場所で終えるには、この生は長すぎた。世界は変化しすぎた。

「『生きろ』と言ったのはあなただ。私に生きることを望んだのはあなただ。だから私は、今日この一歩を踏み出さなくてはいけない」

 その覚悟を自分に刻み付けるように、想いを声に出す。自分自身の心を揺らす言葉に、瞳から滴が自然と溢れ出した。

 濡れた頬をぬぐう手は、もうどこにもない。それは、十五年前に失われてしまった。

 でも、そのことを後悔したことも、誰かを恨んだことも一度もなかった。

 失われてしまったものの代わりに、本当に必要としていたものを得ることができたから。役目を、家族を、守るべきものを、見えない手は確実に掴んでいる。

 だからこそ今日、止まっていた時間を再び動かす。それがきっと、返礼につながっているから。

「ごめんなさい、叔父上」

 見えない壁に袖先が触れる。その一歩がようやく踏み出された。

 もう叔父はいない。この呪いは、もう消えるべきなのだ。これは叔父の弱さが生んだもの。英雄王として歴史に刻まれるあなたの、書には残されない姿。

 それは自分だけが知っていればいい。なくなっても、自分は絶対忘れないから。

「さよなら…」

 触れた先から、想いが崩れ、空気に溶けていく。最後の遺産が崩れ落ちていき、後にはいまだ目覚めぬ未来が広がっていた。

 そうして地下書庫の扉は開かれ、十五年もの間凍ったままの時が流れ出した。


 この秘密は誰にも、明かしてはいけない。

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ミスティ・レコード 杁山流 @iryama_rn

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