13 通歴940年5月27日
《通歴940年5月27日》
あの騒動から数週、地下書庫にはかつての平穏が戻りつつあった。
騒動後、ユディトとネヘミヤはトビトにこっぴどく叱られた。
後に分かったことだが、ネヘミヤはユディトがもしも自害した場合、後を追うつもりだったらしい。一人取り残されるかもしれなかったトビトはそのことにもひどく憤慨した。
どうやらトビトが声を荒げたのを見たのが生まれて初めてだった、流石のユディトも反省しひどく落ち込んでいた。
しかしそれも始めの頃だけ。今ではすっかり仲直りできたらしい。
「ところでユディト。私はあなたに謝罪を要求したいのですが」
「何故?」
妙に据わった眼で自分を見るエステルに、ユディトは怪訝そうな顔をする。
どうやらまったく心当たりはないようだ。
「神剣のことです。あなた、神剣の力で聖者の術を無効化できるのに、嘘をつきましたね」
王城に至るまでの道中、トビトから神剣の事実を知らされたエステルは、ずっとそれを言いたかった。
聖者の結界があるから外に出られないと言ったのに、無効化できるのを黙っていただけなんて卑怯だと怒りを覚えていたのだ。
おそらく、トビトに嘘をつかせたのはこの男だ。
「俺は何も言ってない」
「トビトさんが自ら嘘を言うはずないじゃないですか。結界があるから出られないなん…」
「それは言うな」
ユディトは慌てて制止した。
おそらく両腕があれば、無理やりにでも口を塞いでいただろう。
「どうして?」
「秘密だからだ。それは、例え壊れても、俺が守らなくてはいけない秘密だ」
いつになく真剣に訴える姿に、怒りの感情が削がれる。
「分かりました。でも、嘘は駄目です」
「面倒な奴だな…。しかたない、素直に謝罪してやるよ。すまなかった」
これいいだろう、とでもいうような史上最高に適当な謝罪に、納得できるはずがない。
「誠意が見えません、誠意が!」
「誠意なんてもの最初から持ち合わせていない」
あっさりとそういい捨て、ユディトはエステルに背を向けた。
その様子にため息を吐きながらも、それ以上は何も言わなかった。
「最低男。まあいいです、今の私はそれなりに機嫌がいいですから」
自分で言うだけのことはあって今日のエステルは上機嫌だった。
その理由は、未だに混迷の中にある王城に起因する。
王城の混乱には、シード家や神官たちの起こした反乱によるものだけではなく、数日前にもたらされたある嬉しい知らせによるものが含まれていた。
「まさか、お姉さまが懐妊さなっていたなんて・・・」
御前会議の場で正妃自ら自身の懐妊を明らかにした。
安定期に入るまでは、と王にすら告げていなかったらしく、不意打ちを食らった王は驚きを隠せていなかったという。
今振り返れば、エリヤがうじうじと悩んでいるときには既に、ルルはそれが解決されていることを知っていたのだ。
「まあそりゃあ、自分が不能なんじゃないかって悩んでたから、言葉も出ないくらい嬉しかったんだろうな」
しみじみとした表情でかなり失礼なことを、ユディトは躊躇いなく言った。
ルルよりもさらに先に神剣の力によってそれを知っていたユディトからしてみれば、エリヤの反応はおもしろくてしたがないらしい。
「また見なくていいものを見ようとして!」
「俺が望んだわけじゃない」
「だからって言っていいことと悪いことがあります」
しかしながら、エステルもかつてそのデリケートな部分に土足で踏み込もうとしたことがあるため、一概にユディトを叱責することができないはずだ。
しかし、本人は忘れ去っているようで、完全に棚上げである。
「正妃の子どもということはお前の甥か姪にあたるのか。お前もおばさんだな」
完全に馬鹿にして笑うユディトにエステルは反論の声を上げた。
「事実なので否定はしませんが、まだ十代の女の子にその言い方はひどいです。謝罪を要求します」
「十代つってももう成人してるだろ。立派な大人がこの程度のことで怒るとは嘆かわしい」
「いくつになっても乙女心は忘れてはいけないんです!」
さしたる意味も内容もない言い争いを続ける二人を見て、トビトとネヘミヤは苦笑を漏らした。
二人からしてみれば、どう見てもエステルがユディトのおもちゃにされているのだが、知らないほうが幸せとでも思っているのだろう、二人とも何も言わない。
「しかしながら、喜びに浸る間もないほどお忙しいとは、おいたわしい」
あの一件以来、シード家や神官への後始末でエリヤは忙殺されている。顔には辛うじて出ていないが、ルルによると執務室の机に突っ伏して寝ていることが増えたという。
しかし以前よりも、御前会議で重鎮たちと言葉を交わす表情は何か吹っ切れたように清々しかった。
「でも、それがあいつの役目だろ?」
「面倒ごとを起こしたのはあなたです」
「俺がいなくても、いつかこうなっていた。前に言っただろう?今の体制は長くは続かないって」
初めて出会ってすぐのころに、確かにそういっていた。あの時は、義兄を否定されたような気分になってひどく苛立ったものだ。
「それは単に失敗するという意味ではない。あいつの考える道筋が、この国を根底からひっくり返す可能性を秘めているということだ」
「ひっくり返す?」
「このままエリヤが求めものを実現しようとすれば、いずれは王政の否定につながっていくだろう。そうなったとき、この国はきっと大きく揺れる」
「見えているのですか?」
「俺に未来は見えない。ただ、そういう可能性が考えられるということだ」
まるで実際に未来を見てきたかのようなユディトの話し方に、本当に見えていないのか疑わしく思える。 しかし、実際どうであるかはエステルには確かめようもないことだ。
「政教分離。それがおそらく、エリヤの終着点になる」
「信仰と政治を完全に分断するのなら、今でもできているような気がしますが」
「いや、これまでもそれの必要性を感じている人間は確かにいた。人の世のありかたとしてそれが一番正しいのだと考える人間も存在した。しかし、今までの王にはどうしてもそれをできない理由があった」
「神剣ですね。だからこれは、“神剣なき即位”といわれる陛下にしかできない」
「そうだ」
以前よりは自分で考えることができるようになったエステルに、ユディトは少し満足そうだ。張り合いがいが出てきたのかもしれない。
「だが、エリヤにはまだ、そんな未来に進むだけの覚悟があるとは思えない」
「心配なんですね」
「冗談言うな。俺は事実を述べているだけだ」
そうやって口では否定するものの、多分心配しているのだと思う。
あれ以来、交流をまるで持たなかったことによるいくつかのすれ違いは解消され、二人の距離はわずかではあるが縮まりつつあるらしい。
「俺はすべてをこの目で見て、記録するだけだ。これからのことは俺には関係ない」
「でも、今回はあなたの動きで未来が変わりました」
「偶発的なものだ。俺の故意ではない」
「そうですか?」
「この世には共通の真実なんて存在しないんだ。正義が時代によって変化するように、事実も見る人間の視点で変化する。お前と俺の間に見解の差異があっても、どちらが事実かなんて議論に意味はない」
詭弁だ。エステルはそう思ったがユディトがそうやって丸く納めようとしているのだから、わざわざ否定しようとは思わない。
「それに、これですべてが終わったわけではない。むしろ、問題を増やしてしまった」
「そうですね。結局私も、ここにいることになりましたし」
そう、例の仕事が終わったにも関わらず、エステルはまだ地下書庫にいる。それは単に、エリヤによって正式に地下書庫勤務を任命されたからだ。
「そもそも今まで地下書庫に、司書官が一人もいなかったことの方がおかしいですよ」
「まあ、俺がいたからな」
「そうであってもです」
エステルが継続という形で仕事を任されているのも、ユディトの存在を多少は理解できているからだ。普通の司書官では務めることはできない。
「もともと司書官を目指したのは地下書庫の本が目的だったので嬉しいのですが、唯一、あなたの存在が不服ですね」
「相変わらず失礼なやつだ」
心の奥底からユディトは落胆の声を上げる。
「言っておくが、司書官より書記官の方が官位は上だぞ。いわば俺はお前の上司」
権力を笠に着て脅すようなことを言うユディトに、エステルは複雑な表情を浮かべた。
この地下書庫において立場が変わったのはエステルだけではなかった。
エリヤによってユディトの移動命令は取り下げられ、そのまま地下書庫に住み続けることが決まった。それだけでなく、ユディトが個人で行っていた歴史書編纂が、正式に認められ、書記官ナザレの仕事となったのだ。
そして、歴史書編纂のためであれば地下書庫の史料を自由に扱うことも許されている。
よってユディトは、“愚王の遺産”としてだけでなく、正式な官吏としても地下書庫に居座る権利を得たのだ。
これらは形式的な変化であり、特段、今までの生活から変化が起こるわけではない。しかし、歴史を重視するユディトにとっては名前や役職というのは、無視できない重要な要素なのである。
「上司だというならもう少し、上司らしくしっかりしてください。というか、ずっと疑問に思っていたことがあるのですが」
「なんだ?」
「どうして『異端見聞録』をナザレの名で書いたんですか?非公認の仕事でもないことに、名前や形式を重視するあなたがわざわざナザレの名を使うなんて」
「特に深い意味はない」
ユディトの視線が微妙にそれたのをエステルは見逃してはいなかった。
「嘘ですね。どうせ、いつか公開する予定だったんじゃないですか?そのために問題のないナザレの名前で書いていたんでしょう?」
得意げに推論を述べるエステルに、ユディトはあからさまに嫌な顔をした。
「別に、そこまでは考えてない。本当は、公開してもしなくてもどちらもいいと思っていた」
どうやら推論の後半は正しいらしい。はっきりとは認めないが、言外にそう告げている。
「ただ、本は読み手がいないとただの紙切れだ。いつかは公開しなくてはいけないのだと思う。ただまだ、その時ではないだけ」
「じゃあ頑張って執筆してください。完成したら私にも読ませてくれるんでしょう?」
かつて交わした約束をエステルは忘れていない。とっさに胡麻化そうとしてついた嘘を本気にとらえられ、ユディトは苦笑した。
「ああ、分かっている。あと、『異端見聞録』は仮題だ。正式名を考えないと」
『異端見聞録』。その名前は、ユディトが自身の歴史書につけた仮の名だ。
異端による見聞録。名前そのままの意味の文章。しかし異端という言葉は、ユディト自身が自らを嘲るために用いたようなものだった。
故に、エリヤは正式な名をつけるよう求めた。
しかし、ユディトはいまだそれを決めかねていた。
「ナザレの歴史書…。そうですね…、『異端見聞録ミスティ・レコード』なんてどうでしょう」
エステルの提案にユディトは一瞬ぽかんとした後、急に笑い出した。
「ははっ!単純すぎ!」
いたって真剣に考えたにも関わず、ユディトは大笑いしている。
「嫌なら自分で考えてください」
「いや、いいんじゃないか?『異端見聞録ミスティ・レコード』。分かりやすくて」
あまりにも馬鹿にされ過ぎている様な気がするし、人生を捧げているはずの著作の名前にこだわりを示さないことにもなんだか不満を覚える。
「あーそうだ、聞き忘れていたことがあった」
ひとしきり笑った後、ユディトは何かを思い出したかのように、おもむろに話を切りだした。
「お前、俺を恨んでないのか?」
「どうして?」
「お前の母親のことだよ。オリアスに訊いたんだろう?」
今更蒸し返すようにその話を出してきたことに疑問を覚える。
しかしユディトが珍しく真剣に話しているため、下手に口を出せずにいた。
「お前の母親を不幸にした一端は俺にもある。お前に恨まれていてもしょうがない」
その言葉に、今度はエステルが笑う番だった。
「そんなことですか。意外とそういうこと気にするんですね」
「失礼な」
「大丈夫ですよ。別に何も思っていません。というか、私はその過去を悪いものとは思えないんです。私はこの生に感謝しています。育ててくれたモルディアスの家族に、私を産んでくれた母に、モルディアスの家を選んだシードのお爺様方にも」
ひどいことをされようと、自分の源はシード家にある。
彼らの行いは下劣だった。でも、それを受け止めることこそが、今自分がすべきことなのだと思う。
「だからこそ私はエステル・モルディアスとして生きます。それが、私が愛し皆が愛してくれた私です。私は、他の人間にはなれません。私は私の自由な意思の元に生きます」
はっきりとそう宣言するエステルを、ユディトはどこか眩しいものを見るように見ていた。
だからこそ、エステルのためにその疑問を提示する。
「父親が誰なのか知りたくないのか?」
口ぶりから、おそらくユディトはその答えを知っているのだろう。しかし、エステルの答えはいつでも同じだ。
「いいえ。今はまだ、必要ありませんから」
知ることは怖い。でも、知らなくてはいけないことがこの世界にはたくさんある。
何を知り、何を知らずにいるのか。それを判断するにはまだ、知識も経験も何もかもが足りなかった。
だから、もっとちゃんとした判断が下せる人間になるまでは、まだそれは秘密のままでとっておきたかった。
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