12-7

『…人生の分岐点は突然目の前に現れる。しかし、それに気付くものはそう多くない。

 時を経て過去を振り返った時、人々考える。どこで自分の運命は分かたれてしまったのだろうかと。

 しかし、どれほど後悔しようと時を巻き戻すことはできない。

 人は失敗から学ぶものであるが、同時に失敗からしか学ぶことができない存在でもある。

 故に、一つでも失敗を減らすには、過去に学ぶことが必要なのだ。

 しかし、今に残る過去の記憶が全て正しいとは限らない。

 正義は勝者にあり、勝者は強者である。歴史は常に勝者と共にあった。

 しかし、我々は忘れてはならない。

 強者の陰で否定される屈辱と、突然悪になる恐怖にさらされる敗者の存在を。

 敗者の正義は誰にも理解されない。歴史は常に勝者の正義によって繋がれ、敗者の正義は間違いの一言で過去に埋没する。

 故に、我々は学ぶべきことは敗者の正義にある。


 だから私はこれを記す。

 私もまた、敗者である。故に、私は私の間違いをここに記す。

 あの日私から失われてしまった正しさを、歴史の奥に埋もれた多くの秘密を。私はここに書き記し、その存在を残してゆきたい。

 それこそが、今日まで私が生き続ける理由であり、誰にも奪うことのできない唯一のものである。』


 すべてを暗唱し終えたエステルが見たのは、喜びと悲しみ、驚きと安堵、そういった感情と呼べるものすべてをごちゃまぜにしたようなユディトの表情だった。

「なんで…」

「言ったでしょう?私の特技ですって」

 あの日、ユディトがあせって隠そうとしたが、そのとき確かにエステルの目は序文を映していた。

 エステルは一度見た文章は決して忘れない。たとえ一瞬であったとしても、目に映ったのであれば一言一句違えることなく再現できる。

 だからこそ、エステルはこの結論にたどり着くことができた。

「あなたのもう一つの役目。それは歴史に埋没しつつある者たちを救い出し守ること」

 それは地下書庫にある文献たちであり、神剣が保持する記憶たちでもある。

 歴史の教科書から抹消された、現代においては無価値、または消えるべきと考えられているものたちに手を差し伸べ、記録という形で守ってやるのがユディトのもう一つ役目だ。

 そして、その役目こそが本当にユディトを生かす存在であった。

「でも、だからこそ、あなたは地下書庫を出たがらなかったんですね。あそこにあるものたちを守ることが、あなたを生かす理由だったから」

 エステルは心のどこかで思った。

 もしかしたらユディトは、地下の禁書たちに自分の姿を重ねていたのかもしれない、と。そして先王もそれを知ったうえで地下書庫を幽閉先に選んだのではないかと。

 地下にとらわれ、歴史の奥に埋没していくその存在たちに、歴史の表舞台から消し去られた自分の姿を映し、同情に似た感情を抱いたのかもしれない。 

 そして同時に、都合の悪いものとして隠されたそういった存在に怒りを抱いたのだろう。地下書庫に隠すことは、目を逸らすことでしかない。

 だから、そんなものたちを一つ一つ拾い上げ、丁寧に埃を払ってやった。日陰者たちに、いつか陽の目を見せてやろうと、時が来るまで消えないように抱えていた。

 全ての秘密が眠る地下書庫で、それらを守る番人。それこそがきっと、この男の正体なのだ。

「『信じていた正義が否定され悪になる恐怖。奪われることへの恐怖』。生きる理由を奪われるくらいなら、役目を全うして自ら命を捨てよう。恐怖から逃げるためというにはいささか、大仰な考えだとは思いますが、理解できないわけではありません」

 エステルは議場の隅で気配を消して佇んでいるその人を見た。

「今日という日にすべての正義を否定して、死を選ぶ。あなたがそれを望んだから、ネヘミヤさんはそれに従った。それがあなたの選んだ人生だと思ったから」

 ネヘミヤの肩が小さく震えるのが見えた。

 トビトとは違うあり方を選んだ彼女は、ただ手を出すことなくユディトがその人生を終える瞬間を見届けようとしていた。彼女の本心とは関係なく。

「…奪われるくらいなら役目を全うして死ぬ。そもそも、役目のために生かされた俺が、それを失ってまで生きている理由がない」

 ネヘミヤの想いも、トビトの想いも知りながら、それでもユディトは止まらなかった。止まれなかった。

「地下にあるものは、表に出ればそれだけで現在の情勢をひっくり返してしまうほどの力を持っている。歴史の外にいるからこそ、俺はそれらを使って歴史を見直すことができる。過去の肯定は、いずれは現在いまの否定に至る。それはきっと、誰も幸福にしない」

 頑なに閉ざされていた真実の扉が、ほんの少しだけ開かれ、本心という名の欠片が零れ落ちた。

「だからこそ、過去を肯定するには、歴史の外にいる必要があった。表舞台から姿を完全に消しさり、忘れ去られて初めて、俺という存在は意味を成す」

「地下書庫から出れば、いやでも表の世界に関わることになる。それが、あなたはどうしても受け入れられなかった」

「ああ」

 ユディトの考えは分かった。だからこそ、エステルははっきりと告げた。

「愚か者はあなたよ。この浅慮め!」

 普段のユディトの口調を真似するように言えば、いつものようにその顔が不機嫌に染まった。

 してやったり。エステルはどこか嬉しそうに続ける。

「あまりにも浅はかすぎるわ。嫌なら嫌と、私を通じてはっきりと言えばいいのに。何も言えない、守秘義務だ、お前には関係ない。そんな言葉ばかり使っているから極論しか出てこない」

 何もかもを隠されてしまえば、こちらは何もできなくなる。どれほど知ろうとしても、硬く閉じられた扉を抉じ開けるのには限界があるのだ。

「『異端見聞録』があれば十分、あなたを地下書庫に留める理由になる。これは私個人の意見じゃなくて、司書官しての意見」

 しかし、ユディトはどこまでの懐疑的で頑固だった。

「誰が俺の言葉なんかを信じる?今だってここにいる人間が俺の言葉を信じるのは、神剣があるからだ」

 その言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。

 ユディトの言葉を信じようとしなかったのはエステルも同じだった。ユディトが懐疑的になるのも仕方のないことなのだろう。

 しかし、今のエステルはその苦しみを知っている。そのことを深く反省している。

 だから、はっきりと宣言することができた。

「私が信じます」

 ただ直向きに、真剣に視線を交わらせる。

「私はあなたを信じます。だから、ユディトも私のことを信じてください。これが、私の願いです」

 約束の代償。どんな形でもいい、今は、ユディトから信頼を引き出す必要があった。

「あなたは否定しましたが、私はあなたの願いをかなえます。最も私が良いと考える方法で」

 ユディトは、それを無理だと言った。

 エステルが王に幻想を抱き、公私の区別をはっきりとできていないうちは、それは決して正しくないと。

「陛下もユディトも、そしてかつての私も、先入観にとらわれ、互いの本当の姿が見えていなかった。だから、私たちはすれ違い、離れていく」

 だからこそ、エステルはその疑いを打ち消すためにも自らの力で解決できることを示すのだ。

「離れていくのなら、私があなたたちを繋ぐ懸け橋になります!」

 そう宣言すると、エステルはエリヤに向き直り、膝をついた。

「司書官として陛下に上申いたします」

 臣下としての礼を完璧にとり、エステルは一官吏として王の前に立つ。

「『異端見聞録』の執筆を、特別書記官ナザレ・ミスティの正式な職務としていただきたく」

 その提案に、エリヤは息をのんだ。

 書類の上ではナザレの仕事であっても、その実動いているのはユディトだ。歴史書編纂を正式な仕事にすれば、ユディトが地下書庫に居続けることに、実利的な価値が生まれる。

 ユディトとしても、追い出される可能性がなくなって問題は解消される。

 エステルの提案は、多くの問題を一気に片付けるのに有効だった。

「どうして?」

 しかし、どれだけその提案が求めていたものであっても、理由を聞かずに判断を下すことはできない。

 だから、エリヤはそれを認められるだけの理由をエステル求める。

 その期待に応えるように、エステルは口を開いた。

「この書は、これからの陛下の御代に、そしてさらに後に続くこの神国にとって非常に重要な役割を果たすと考えました」

 過去を知り、過去から学ぶことの重要性を説く。今までの歴史書では駄目な理由を、『異端見聞録』が必要とされる理由を、誰もが分かるように知らしめるのだ。

「陛下、過去を知ってください。さすれば、目の前の霧をはらす方法も自ずと見つかりましょう」

 エリヤは、自分の王の資質を悲観していた。

 しかし、エステルの言葉はそれを否定する。エリヤに足りないのは才能ではない。足りないのは知識と経験なのだ。

 それを手っ取り早く補うには、過去を学ぶことが一番効果的だと、エステルはここ最近学んだ。

 そして、おそらくそれには『異端見聞録』がもっとも効果的であろうことも、体感的に理解していた。

 だからエステルははっきりと伝える。

「特別書記官ナザレは誰よりも忠実に職務を果たすでしょう。それは、わたくし自身が身をもって知っています」

 エリヤはユディトが地下書庫にいることで誰かに利用されることを恐れた。

 しかし、エリヤが思う以上にユディトは自分というものははっきりと持っている。その自分のためであれば死すらも恐れぬほどに、強い。

 地下書庫への永住権さえ与えれば、ユディトは決して危険に身をさらすようなことはしない。危険が近づいても、自らそれを排除するだろう。

 たとえその姿がエリヤの理想に反していても、今のユディトはそれが本当の姿なのだ。

「陛下。思い出に縋るのは止めましょう。もう、かつてのサムエル王はどこにもいないのです」

 ユディトを特別書記官に任命したのはエリヤだ。

 おそらくは三年前、ユディトからの返信を受け、任命書を送ったのだろう。

 トビトが言っていた。かつて二人はとても仲が良かったのだと。優しいユディトを、何も知らないエリヤはただ直向きに慕っていたのだと。

 エリヤがまだ、ユディトがあの日のままであると信じているのなら、そんな行動に出るのも不思議ではない。

 書記官に任命すれば、いつか自分が困ったときにきっとあの優しい兄は助けてくれる。そんな甘い考えを抱いてしまったのかもしれない。

 サムエル王の幻影にエリヤは囚われている。それが、全ての発端であり、全てのすれ違いの始まりだった。

「…はぁ」

 エリヤは小さくため息を吐いた。その表情は、どこか疲れ切っていたが、その反面どこか安心しているようにも見えた。

「知らないとは、恐ろしいな。自分が間違いを犯していても、それに気づくことすらできない」

 ぽつりとエリヤは零す。

 しかしすぐに王の顔に戻り、エステルに向き合った。

「特別書記官の職務に関しては、今すぐには結論を出せない」

 「だが」と言葉は続く。

「移送命令は撤回する。大罪人に慈悲をくれてやろうとした私が愚かだった」

 言葉遣いは冷たい。しかし、それを発する表情は、いつよりも優しい顔をしていた。

 盛大なすれ違いの果てに、一世一代の大芝居を打った者たちは安堵のため息を吐く。

 物陰でずっと見ていたネヘミヤとトビトがユディトに抱き付いた。

 大の大人二人に抱きしめられながらユディトはエステルを見た。


 その時、その唇は確かに「ありがとう」と呟いていた。

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