角砂糖三個分のキス【夜明けのコーヒー企画2より】

雅 翼

第1話

「ありがとうございました」


朝五時。最後のお客さんの背中に声をかける。カラン、とベルの音を響かせてドアが開く。次いで静かに閉まると、自然と長い溜め息が口からこぼれ出た。


closed、のプレートをドアにかける。カフェとしては珍しく深夜営業もやっているこの店の閉店は五時。夏も盛りの今は、店を閉める頃にはすっかり空は明るくなっている。

昼に比べて閑散とはしているものの、案外、夜中も無人になることは少ない。カフェインを頼りに勉強に励む学生、PCを持ち込んで作業する会社員、終電を乗り逃がしたカップル。

深夜営業を利用する人間は様々だ。


「アツ、お疲れ様」


「お疲れ様です、透さん」


最後のお客さんの食器を洗いながら、透さんがふわりと微笑む。深夜の時間帯は混雑することもないから、シフトに入るのは正規従業員とバイトの二名。今夜は俺と、この店の正規従業員である透さんだ。


「さーて、さっさと掃除しちゃいますか」


「待って、その前に」


掃除用具を取りに行きかけた俺を呼び止め、透さんが拭き終えたカップを指の先で軽く叩いた。


「仕事終わりの一杯、飲んでからにしない?」



がりがりがり、とミルの中でコーヒー豆を挽く乾いた音が響き始めると、店内を甘い香りが満たしていく。

小さい頃から、コーヒーの香りが好きだった。あたたかくて、心が解されるような心地良い甘さ。だけど口に入れると途端に苦味が押し寄せて、何で大人はこんなものを好んで飲むんだ、と不思議で仕方なかった。

ブラックコーヒーは未だに苦手だ。初めて飲み干せたのは、この店でバイトを始めてから。俺が……透さんを好きになってから。


「何でコーヒーって苦いんすかね?香りはこんなに甘いのに」


ドリップが始まると、香りが少しずつ焦がしたカラメルみたいな芳醇な甘さに変わる。本当に、香りだけなら大好きなのに。そう思ったら、自然と口が動いた。


「それ、初めて会った時も言ってた」


「え、そうでしたっけ?」


「言ってたよ。バイトの初日に」


視線は注がれるお湯から離さないまま、透さんは懐かしそうにふふ、と微かに声を漏らして笑う。ああ、そうだ。初めて会った時もそうだった。

すごく優しい顔でコーヒーを淹れる人。それが透さんの第一印象だった。



「あの時はまだ、アツと付き合うことになるなんて思ってもみなかった」


ふたり分のカップに注がれたコーヒーが、ゆらゆらと白い湯気を立ち上らせる。仕事終わりに透さんが淹れたコーヒーを飲めるのは、どうやら俺だけの特権になっているらしい。


仕事中はどうしたってじっと見ていることは出来ないけど、透さんが淹れるコーヒー目当てに来るお客さんもいる、とマスターが言うだけあって、流れるようにドリップを進めていく仕草は思わず目を奪われてしまう。

重たい前髪の奥の瞳を細めてコーヒーを見つめる透さんを眺めていると、本当にコーヒーが好きなのが伝わってくる。何より普段は物静かで控え目で猫背で、前髪が長くないと落ち着かないというくらい繊細で人見知りな透さんが、コーヒーと向き合う時はすごく無防備になる。

その瞬間を見ていたら、いつの間にか……本当にいつの間にか、恋に落ちていた。


「俺もです。だけど今は……この店に来て、本当に良かったなって」


授業についていくのが精一杯で、付き合ってた彼女にも愛想尽かされて。バイトを始めた頃の俺は、人生で一番のどん底にいた。

良く言えば要領がいい、悪く言えば中身がない。その場のノリで生きてきたツケが大学に入った途端に一気に回ってきて、何もかも上手くいかない。バイトをしようと思い立ったのもある種の逃避みたいなものだった。

だけど透さんと出会って、不器用だけど努力家で一生懸命な透さんを見ているうちに、少しずつ前を向けるようになった。

この人みたいになりたい。そう思ってからは、やけに視界がクリアになった。授業にも身が入るようになったし、初めてだったバイトも接客の楽しさが見えてきて、やりがいを感じるようになった。


「……なんか、照れるな。朝っぱらからこんな話して」


「透さんが先に言ったんすよ?」


「まぁ……そうだけど」


両手をカップに添えて、困った顔で湯気を冷ます透さんは可愛い。年上の人相手にこんなこと思うのは失礼かもしれないけど、素直にそう思うから仕方ない。


「はい、これ」


すい、と透さんがカップと一緒にアンティークのシュガーポットを差し出してくる。

角砂糖三個分。透さんが見つけてくれた、俺が丁度コーヒーを美味しく飲める砂糖の量。

だけど、今日は。


「俺、今日はブラックで飲みます」


「え……」


驚きで目をまんまるに見開いた透さんを尻目に、俺は淹れたてのブラックコーヒーを喉に流し込む。甘い香りと、それを一瞬でかき消す酸味と苦味。

ああ、やっぱりブラックコーヒーは好きになれない。でも今日は、どうしても飲みたかった。

初めて飲み干した、あの時みたいに。




「透さん。俺、透さんが好きです」


バイトを始めて約半年が過ぎた頃、透さんに想いを伝えた。結局その場のノリで生きてきた俺は、深夜営業のあと、勢いに任せて告白してしまった。

季節は冬。五時の空はまだ暗い。


「ふふ、ありがとう。おれも」


「そうじゃなくて!」


カップとソーサーをしまいながらいつもの柔らかい微笑みを返してくる透さんを、食器棚と俺の間に閉じ込める。ドン、と棚についた手が思ったより強く音を立てて、透さんの華奢な肩がびくりと跳ねた。


「付き合いたいんです。男として、俺のこと見て欲しいんです」


「…………ッ」


前髪に隠れかけた真っ黒な瞳が俺を見据えて、不安そうに揺れる。しまった、そうだ、困らせたいわけじゃなかったのに。

じんわりと潤み始めた透さんの瞳を見つめていると、一気に後悔が膨れ上がった。

職場の同僚で、男同士で、歳も少し離れてて。そんな奴に突然告白されたら、誰だって戸惑うに決まってる。断られる?引かれる?それとも怖い、気持ち悪い、そんな風に思われる?

もしも、今まで通りに戻れなくなってしまったら。そう考えた途端に泣きたいような気持ちが押し寄せて、棚についた手を握り拳に変えて必死で耐える。

その時だった。


「分かった……少し、待ってて」


拳に重ねられた、透さんの細い指。促されるままに手を下ろすと、透さんは背にしていた食器棚に向き直り、カップをひとつ取り出してカウンターに置いた。

何が行われるんだろう。まったく予想していなかった展開に、ただ見守るしかない。ミルと豆、コーヒーメーカー。一式がカウンターに準備されて、ようやく透さんは立ち尽くす俺を振り返った。


「……これ、この店で一番苦味が強いコーヒー。もし、アツがこれをブラックで全部飲めるようになったら……考える」


それだけ言うと、透さんは黙々とコーヒーを淹れ始めた。けれどいつもの手馴れた様子とは明らかに違う。がたん、かしゃん。途中で何度も手を滑らせて、食器が音を立てる。そんなに緊張しながらコーヒーを淹れる透さんは見たことがなかった。

……それが、俺の人生で唯一飲み干せたブラックコーヒーだった。




それから二年半。透さんと出会ってから四回目の夏。

香りだけは甘いくせに相変わらず口に入れると苦さしかないコーヒーを飲みながら、前に飲み干した時のことを思い出す。

透さんが厳選したコーヒーは今飲んでいる豆とは比べ物にならないくらい苦くて。強く香りから酸味が効いていて、顔をしかめながら、残したくなるのを堪えるのに必死だった。


「アツ、無理するな。ほら」


シュガートングで角砂糖を摘んで、透さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。そういえば、あの時もそうだった。

飲み干してすぐに、透さんの後頭部、緩い癖っ毛を掴んで引き寄せた。距離がゼロになる。初めて触れた透さんの唇は、三個分の角砂糖なんかよりずっと、ずっと甘かった。


今でも、あのあとOKが貰えたことが不思議だ。だけど今、大学四年生になった俺は、こうやって仕事終わりに透さんが淹れてくれる夜明けのコーヒーを独り占めしている。


「……今日、午後から面接があるんです」


空になったカップをテーブルに置いて、はぁ、と大きく息を吐いてみる。苦味を追い出したくて何度か繰り返したけど、一向に舌から逃げてはくれない。


「何で、そんな大事な日に夜シフトなんて……」


「だって、透さんの顔見たら、元気もらえるかなって思ったから」


店にいる間にふたりきりになれるのは、他の従業員も誰もいない、深夜営業が終わったこの時間だけ。就活以外にも論文やなんかに追われて、シフトが重なる日はあってもゆっくり顔を見て話すのは久しぶりな気がした。

付き合っているから連絡はいくらでも取れる。メールだって、電話だって。

でも直接会って伝えたいことだって、ある。

向かいに座った透さんの、俺よりほっそりしたつくりの指を両手で包み込む。コーヒーに触れた時だけ熱を持つ、冷たい手。大好きな人が大好きなことをするために使っている、大事な手。


「もし内定もらえたら……卒業して、ちゃんと働いて、そしたら。俺、透さんと一緒に住みたいです」


「アツ……」


ぴくり、と包んだ指が震えた。何か言いかけて、薄く開いた唇がまた結ばれて。顔を上げて、すぐに俯いて。伏せられた長い睫毛を揺らしながら、透さんはきゅう、と所在なさげに俺の手の中で自分の指を握りしめる。


もしかしてまた、俺は透さんを困らせているんじゃないのか。急に、想いを告げたあの日の感覚が蘇る。そうだ、三年前の冬だって、後先考えずに告白して同じように透さんを困らせた。

すっかり一人前になった気で、中身は何にも変わっていない。

なんだよ、俺、馬鹿じゃん。

こんなんじゃまだ、透さんを支えられる男なんて夢のまた夢だ。


「…………なんて、まだ何にも成し遂げてないくせに生意気っすね。すみません、今のは忘れてください!」


耐えられなくなって、努めて明るく言い放ったのは、精一杯の強がり。焦るな焦るな、そう自分自身に言い聞かせて。


「透さんはカップとか洗っててください。俺、掃除に入るんで」


大袈裟に咳払いをひとつして席を立つ。駄目だ、上手く笑えない。透さんの顔が見れない。恥ずかしさと、情けなさでぐちゃぐちゃだ。ぱん、ぱんと手のひらで頬を叩きながら、逃げるように掃除用具を取りに向かおうとした、俺の手首を。


「アツ、待って」


強く掴んだ、透さんの指と声。かたん、と席を立つ気配。目線が近くなる。どうしたらいい。どんな顔して振り返ったらいいんだろう。強ばる肩に、そっと手がかかる。


「……忘れ物」


くい、と肩を引かれて振り返る。瞬間、目の前には透さんの顔があった。爪先立ちで近付いた、距離がゼロになる。閉じた長い睫毛。鼻腔をくすぐる甘い香り。それから、柔らかくてほんのりあたたかい、唇の感触。


「…………頑張れ」


聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でそれだけ言うと、透さんは目を逸らした。その耳が、頬が、みるみる赤く染まっていく。

狡い。せっかくブラックコーヒーで覚悟して、気合を入れようと思ったのに。角砂糖三個分の甘さがあっという間に唇から全身に駆け巡る。心ごと伝染した熱に浮かされていく。

駄目だ。好きだ。……好きだ。


「……っ、頑張ります!」


思わず溢れ出した気持ちのまま、ありったけの力で抱きしめたら、痛いよ、と苦笑しながら透さんは俺の背中を優しく撫でた。



少しずつ街が動き始める。店の外に、朝の足音が響き出す。

一通り掃除を終えたら、間もなく早番の従業員たちが出勤してくる。引き継ぎを済ませて、業務終了。そうしたら、あとは帰って、少しだけ寝て身支度をして、いよいよ面接に行く。

ふたりきりのロッカールームで、最後にもう一度だけキスをした。

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