第2話

 酷い吐き気でまみこは意識を取り戻した。胸を焼いて食道を這い上がって来た胃液と嘔吐物が口から溢れた。

 そこはまみこの知らない部屋だった。

 壁には美少女アニメのポスターが張り巡らされ、机の上にも同種のフィギュアが所狭しと並べられていた。さっきまでシャワー室にいたはずなのに何故自分が今この部屋にいるのか、まみこには分からなかった。


 もっと分からないことが三つあった。

 まず、この部屋でまみこがベッドの上に生まれたままの姿で仰向けに寝かされていること。

 次に、制服も下着もくしゃくしゃになってそこらに散らかっており、それらに何かの染みができていること。

 最後に、まみこの上にげっそりと痩せ細った男がまみこ同様全裸で乗っていることだ。


 しかもまみこはその男に見覚えがあった。笑うと骨張った容姿のせいもあって骸骨を彷彿させる容貌、目尻の吊り上がった細い目、五分刈りの頭髪。普段かけている度のきつそうな眼鏡は外している。

「どひ……?」

 土居と、名前を口にしようとして吐瀉物に邪魔され、それが零れる。

 土居こと土居修一はまみこのクラスメイトだが、まみこと特に親しい訳ではない。どころか、まみこがクラスで一番嫌いな人間だった。

 土居は女子とすれ違う時に意図的にぶつかってきては、その後女子とぶつかった箇所を触りながら恍惚とするのだ。

 まみこも幾度となくぶつかられた経験があり、それらの内に偶然は存在するのか分からない。まみこはそんな土居に学校でいつも見られている気がしていたが、こんなことになるとは思いもしなかった。土居は気持ち悪くはあったがぶつかる以上のことができる男ではなかったからだ。

 土居はまみこの嘔吐を見て戸惑っていた。だが、戸惑いながらもキスでもしたいのか、四つん這いになって土居はその顔をまみこのそれに近づけてきた。鼻息は荒く、唇はすぼめられている。それがどんどん近付いてくるが、どうしたことかまみこは動けない。

「だめじゃない、まみこ。あなたは周りに合わせて御機嫌を取るだけのお人形さんでしょ。だから土居君を受け入れてあげないと。ね?」

 馬鹿にしたような声が聞こえた。夜のまみこだった。どうやらこの状況は全て夜のまみこの仕組んだものらしい。これまでの昼間の奇行も夜のまみこがまみこを操ってしていたのなら、まみこの自由を奪えても不思議ではない。

 この状況も、シャワー室で声が聞こえてその後の意識がないことから、夜のまみこが制服を着て教室に戻り放課後に土居に迫って家に押し掛けた、といったところか。

 そして土居は吐瀉物で満ちたまみこの口の中に口唇を浸けた。


 ずぶぶぶぶ……ずぶぶぶぶ……

 口付けたのではない、唇を口の中に浸けたのである。土居は麺類を食べる時の音を数倍下品にしたような音を立ててまみこの胃液を啜り吐瀉物を咀嚼した。その顔は苦さと臭気に歪みながらも幸福そうな表情を作ろうとしていた。そうして嚥下すると、

「おいしいよ、まーみん」

 と言って口の両端を吊り上げた。それはまみこが本当は嫌だけど皆が呼ぶから呼ばせるがままにしているあだ名だった。

 まみこはおぞましさに絶叫したかった。土居の行為に対してあらん限りの悪罵を叩きつけてやりたかった。だができない。口の中にまだ物があるからではなく、身体が夜のまみこの制御下にあるからだ。

 周りに流されることが正しいと思うようになっていたから、まみこには久々の感覚だった。

 望んでいるのにそれができず、嫌で仕方ないことを強要されているという、最早懐かしさすら感じる感覚。

 土居に口の中を啜られる度に理性が飛びそうになり、いっそ発狂させてくれとまみこは何かに懇願した。


 吐瀉物がだいぶ食べられて口腔が比較的すっきりしてきた時、土居の様子に変化があった。

 舌を絡ませて口の中の物を残らず舐め取ろうとしていた土居が急に顔を上げたのだ。目を剥き、くぐもった声を出したかと思うと、土居の頬が餌を口一杯に詰め込んだハムスターのそれの様に膨らんだのだ。まみこは背中に冷たいものを感じた。


 瞬間、土居の口内からまみこのそれにあるのと同種の物がほとばしった。顔全体に吐瀉物がまき散らされたが、それを拭うこともまみこにはできなかった。

 最悪なのは、まみこの口は未だ開かれたままで、胃液と黄色味を帯びた未消化の食物が滝の如くまみこの口内へと注がれる。

 まみこのそれを無理に食べた結果、土居も吐き気を催してしまったのだ。

 土居はまみこの吐いた物を食べる前に脂っこい物を食べていたのか、嘔吐物はまみこのものよりずっと脂ぎっていた。容赦なく吐き出されるそれから、まみこは顔を背けることすらできなかった。

 腐臭に等しい饐えた臭いと強烈な苦味を伴うそれをまみこは飲み込んだ。

 否、正確には夜のまみこが飲み込ませたのだったが……。

 まみこはいっそ死にたいと思いながら、自らもまた小間物屋を開いた。


 嘔吐の応酬の果てに、土居は「ごめん」とへらへら笑いながら謝ってきた。しかし、手では吐瀉物をかき集めて自らのペニスにかけて自慰を始めている。胃液に塗れた土居のペニスがみるみる怒張していく。

 ぴちゃぴちゃと生温かいものがまみこの陰部に落ちてきた。土居の自慰の過程で飛び散った吐瀉物だった。

「このまま入れてもいいですか」

 この男は、どこまで生理的嫌悪感を煽れば気が済むのか。

 土居が訊いてきたが、まみこの答えは言うまでもない。不意に身体の自由が戻った。まみこの恐怖と怒りが夜のまみこの支配に打ち勝ったのかだろうか。まみこは吐瀉物を口から吐き捨て、裂帛れっぱくの気合いを込めて言った。

「お願いします!」

 言おうと思っていた拒絶の言葉とは、真逆のことを口が勝手に喋った。急いでそれを取り消そうとするも、「お願いします」と口にしている時点で身体の主導権は夜のまみこに没収されているのだ。嬉しそうにする土居を撥ね退けようとするもそれもかなわない。束の間の自由は夜のまみこがまみこの絶望を増長させるために与えたものだったのだ。

 土居はまみこの上で自慰を続けていたが、やがてその手を止めた。そしてペニスをまみこの陰部に宛がい挿入してきた。どんなに嫌悪を感じても絶叫すらできずにまみこは土居に侵入されるがままでいるしかなかった。


 足に肉を蹴る感触があった。まみこは手足を滅茶苦茶に動かしている自分に気付いた。そして、土居も自分の上にいない。急に動けるようになったまみこにベッドから蹴落とされたのだろう。床で、痛いよまーみん、などと呻いている土居の声が聞こえる。

 まみこは急いでベッドから降りると、素早く制服と下着を拾って着衣もそこそこに部屋を飛び出し土居の家から逃げ出した。

 高らかに響く夜のまみこの哄笑を聞きながら。



 翌日登校したまみこは、クラスメイトの様子が変わっているように感じた。己を殺したことで仲良くなったはずの彼ら彼女らがまみこを避けている様に感じた。クラスメイト達は、時折まみこの方を見ては嘲けるような笑みを浮かべ、ひそひそ話をしている。

 不安になったまみこが、誰かにどうしたのか訊こうとして教室を見回すと、ちょうどまみこが自分を殺す前からの友人、三浦祥子を見つけた。

 祥子は教室の奥、隅の窓際で友達と話をしており、まみこはその後ろからこっそり近付いた。その際にまみこは聞いてしまった。他ならぬ祥子が自分に背を向けて他の女子に、

「いくら飢えてるからって、何も土居とヤるなんて。最近のまみこったらホント、オカシ……」

 と、冗談めかした風に話しているのを。

 祥子の向かい側に立っていた友人の一人が慌てて口の前に人差し指を立てた。が、それに反応した祥子が、まみこの方を振り向いた時には既に遅かった。

 奇行が人前で行われていたことから、夜のまみこが皆の前で土居を誘惑したことは想像に難くない。引き攣った顔でまみこを見る祥子につられたのか、まみこの口の端も引き攣っていった。三日月状に開いた口からは笑い声が漏れた。

 感情も個性も殺してまみこが求めた「皆と同じ」。それが、殺したはずの自分の意趣返しによって崩壊してしまった。皆と馴染もうとして却って変人の扱いを受けることになってしまった。

 夜のまみこが土居とセックスすることを明言したのか、それとも憶測なのか。まみこには分からない。







 呆然としていたまみこを強烈な吐き気が襲い、それと同時にまみこは床に叩きつけられた。

「やっと取り戻せたわ、わたしの身体」

 嘔吐されたまみこは夜のまみこに踏みつけられ、醜く潰れて広がった。

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夜と吐瀉物 亜倉 飴麺 @kuchinawa-13

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