詩人は愛を詩えない
「さて、と。」
椅子にもう一度腰掛ける。
今思えば、父さんたちが彼のことを
"本をよく読み、頭が良く、教養があって、無垢で優しい"
と言ったのはあながち間違いではないのかもしれない。
本屋の常連客だった彼は本をよく読むし、故に教養がある。
頭も良いとは街の若い女衆の噂だ。
そして優しい顔立ちの通りまだ少しあどけなくて。
そんな彼と一緒にいる私は、ずいぶん幸せ者なんだとも思える。
「あら、まだいたのね。」
開いたままだったヘミングウェイの詩集の上には、先ほどの小鳥がいた。
いつの間にランプの上から詩集の上に移動してきたのかは知らないが、
相変わらず、朝起きぬけによく耳にするような、馴染みのある声で鳴いている。
まったく、逃げないなんてずいぶんと肝の座った鳥だ。
「ミカエラ。」
ふと、エドワードが私を呼ぶ。
小鳥に気を取られていた私は、一瞬たじろいで返事を返す。
「なに?」
振り返ろうとした時、背中に温かさを感じた。
首元に、彼の回された腕があった。
月並みな表現だけど、暖かい安心感があった。
その腕にそっと自分の手を重ねる。
「愛してるよ。」
いつになく優しい声で彼はそう言った。
それと同時に、ずっと逃げなかった小鳥が羽を広げて飛んでいった。
ぱさぱさと乾いた空気を小さく乱して。窓の外に。
「あら、小鳥もあなたの言葉に照れて逃げちゃったわ。」
そう言って、体重を少し後ろにずらした。彼と目が合う。
期待のような恥ずかしさのような、そんな色を含んだ目だった。
「あんまり変なこと考えてると、私も小鳥みたいに逃げちゃうわよ。」
そう言って顔をそらせ、彼の頬に自分の唇を当てた。
我ながら大胆だと思う。結局彼はまた照れてしまった。
まるで思春期の青年だ。
けれど、別に嫌だったわけではなかったらしい。
そう示すように私をさっきよりずっと強く抱きしめる。
「そういう皮肉屋なところもずっと好きだった。」
エドワードは、心の底から押し出すように、嬉しそうにそう言った。
皮肉屋な自分を恨んだことも特別ないが、嬉しいと思ったのは今日が初めてだろう。
こんな人と婚約の話が進んでいるのだ。私は紛れもなく恵まれている。
「あなたとなら、旅に出られそうね。」
嬉しくて、そう呟いた。
「どういうこと?まさか駆け落ち?」
彼は半分本気で、半分冗談でそう言った。
その声には幸せと笑みが含まれている。
「駆け落ちって…違うわよ。」
小さな驚きと共に彼の言葉を訂正する。
さっきエドワードがしたように、
詩集の開いてるページをトントンと指差した。
小鳥は空気が読めるらしい。
この状況にもってこいのページを開いていった。
「"愛していない人間と旅に出てはいけない"」
「つまり、あなたのこと愛しているから旅に出られるわねってことよ。」
小洒落た告白には、小洒落た答えが必要だろう。
そう思いながら、エドワードに笑いかけた。
彼とまた目が合う。鼻先が触れ合うほどの距離。
彼の目にはなんだか涙が浮かんでいるように見えた。
男の涙は見るものじゃない。そう昔何かの本で読んだ。目を閉じて。
「愛してるわ。」
彼にそのまま身を預けた。
唇に感じた温もりに、溶けてしまえそうだ。
詩人は愛を詩えない。 水無瀬 涙 @sally-glory
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