ホーンテッド六畳
あいそん
ホーンテッド六畳
*
八月中旬の昼間。
引っ越してきたばかりの、いわくつき六畳一間の安アパート。
貧乏学生の僕は、突如部屋に現れた女の子を前にして、どうしたもんか、と頭を抱えていた。
夏休み真っ只中にしてはやけに肌寒い空気が、僕の背筋を震え上がらせる。
ちらり、とエアコンに視線をやれば、昨日確認した時と同じように息を止めていた。
次に窓を見遣ると、結露滴るガラスを通して、蝉が五月蝿い喚き声をあげているのが分かる。
本日も快晴。
外は死ぬ程暑そうだ。
乾いた笑いが、力なく零れる。
「どうかされましたか」
「……いや。夏なのに死ぬ程寒いな、って思っただけ」
死人のような無表情で問いかける少女に、苦笑で返す。
透き通るかのような蒼白い肌と、光を吸い込みそうな漆黒の瞳孔とのコントラストが絶妙だ。
僕の引き攣った笑いに、少女はさしたる反応を見せなかった。
冷気に包まれた狭い部屋に、沈黙が広がる。
去年の盆に行った墓参りを思い出した。
あの時も暑さでやられそうになってたっけ。
今だけは、その暑さが無性に恋しかった。
「……ごめん、上着取りに行ってもいいかな」
「その必要はありません」
僕が席を立って、押入れから冬物を引っ張り出そうとすると、少女が制止した。
振り返れば、いつの間にか卓袱台の上にカーキのモッズコートが綺麗に畳んでおいてあった。
間違いなく僕のだ。
フードの部分に付いているふわふわが暖かそう。
すぐさま着込んで、暖を取りたい気持ちをぐっと抑え込んで、彼女に質問する。
「これ、いつの間に?」
「今です」
「……どうやったの? 君、今動いて無かったよね?」
震える声で恐る恐る尋ねると、彼女は涼しい顔で答えた。
「幽霊ですので」
ぱきり、と。
僕のふわふわが、音を立てて凍りついた。
*
霊感の無さに定評のある僕に、幽霊を見る機会なんて一生訪れないだろうと思っていた。
今日、この日この時までは。
意気消沈する僕に構わず、少女は自分の身の上を語り始めた。
「私はこのアパートの部屋で死んだ地縛霊です。元々病弱で、一昨年の、十七歳の時に風邪をこじらせて死にました。名前は米山純佳。恐らく、調べれば直ぐに分かると思います」
「いや……いいよ。君が幽霊だってことは、微塵も疑っちゃいないから」
幽霊でもなけりゃ、この部屋の冷気にも先程の超常現象にも説明がつかない。
「大家さんから出る出るとは聞いてたけど……まさか本当に出るとは」
「前の住人の方も同じことを言っておられました。
その十日後には引っ越されてしまいましたが」
「まあ、幽霊が出る部屋になんぞ、誰も住みたくないよな」
「いえ、食費がかさむと言われまして」
「……どういうこと?」
僕が首を傾げると、彼女……純佳さんは、ちょっと情けなさそうな顔をした。
「実は私、食事をしないと存在を維持出来ないのです」
「……幽霊なのに?」
「幽霊なのに、です。しかも、量をかなり必要としまして。
一般的な成人男性の二人前くらいは食べないと、消えてしまうのです」
「燃費悪いな幽霊……」
「……それで、出来れば私にご飯を恵んで頂きたく……」
申し訳なさそうに頼んでくる純佳さん。
直ぐに返事は出来ず、僕は天井を見上げて悩んだ。
幽霊のいる部屋なんて、真っ平御免……という程嫌な訳でもないが、
できれば遠慮したいのは間違いない。
見た感じ、彼女、純佳さんは所謂悪霊の類ではなさそうだけど、それはそれだ。
生憎、僕は進んでこの部屋に住みたいと思う程、酔狂な人間ではない。
だから、なるべくなら引越したい……のだが。
「金がないんだよなぁ……」
最大の問題はそれだ。
僕にはとにかく金が無い。
ボロくていわくつきの部屋に住んでも尚、僕の生活は困窮していた。
引越しの資金など、捻出できるはずもない。
必然、ここに住み続ける以外に、僕に選択肢はなかった。
だが、それにしても金が無いのは依然として重要な問題だった。
「純佳さん。何日間までならご飯食べなくても我慢できる?」
「もう三日も何も食べていないので、一刻の猶予も無いです」
「そっか……弱ったな」
一瞬、純佳さんの瞳に飢えた獣のような光が浮かんで消えた。
そんな目をされた後には言い辛いが、言わない訳にはいかない。
「実は、この部屋には食べ物がありません」
「知っています。昨日確認しました。がっかりです」
「ごめんなさい。……そして、更に悪い事に、今の僕の財布にお金は入っていません」
「……つまり?」
「つまり、今日食べる物は無いです」
途端、目の前の幽霊が泣きそうな顔になった。
「そんなぁ……。もうおなかぺこぺこなんですよ……」
「僕だってそうだよ……」
僕も、食事をしたのは昨日の朝、近所のパン屋で買ってきたパンの耳で最後だ。
僕の場合、バイト先の賄い飯があるから、彼女ほど切羽詰まっている訳ではないが。
「何とかなりませんか……? じゃないと私もう――」
「……消えちゃう?」
「――貴方をいただくしかなくなっちゃいます……」
「何とかしてみせます!」
反射的に返事が飛び出た。
前言撤回。この娘、悪霊だ。
それも命に係わるタイプの。
控え目に言って最悪だった。
「……とりあえず、バイト行ってきてもいいかな? そろそろ時間なんだ」
「バイト終わったら、食べ物買ってきてくれますか……?」
「店長に、給料の前借り頼んでみるよ……」
「お願いします……うう」
最初の頃とは、まるで別人のような振る舞いを見せる純佳さん。
彼女には悪いが、今日食べ物にありつける確率は低い。
正直、期待薄ではあるが、それでも頼んでみないことには仕方ない。
もしダメだったら……大家さんに頼んで、お金を貸してもらおう。
それもダメなら、もうお手上げだ。
なんとか宥めすかせるか、それとも……。
嫌な想像を、頭を振って追い払う。
立ち上がって、制服をリュックに突っ込み、扉を開けた。
外界の茹だるような熱気が、今だけは心地よかった。
*
幸運なことに、給料の前借りは上手く行った。
僕がバイトをしている喫茶店の店長はドケチなのだが、
どういう訳か今日に限っては金を渡してくれたのだ。
理由を聞かれた時、今日金が無いと死ぬんです、
と言って脅しをかけたのが良かったのだろうか。
気味悪そうな顔をしながらも今月分を渡してくれた。
ともあれ、目先の危機は去ったことになる。
よかった、助かった……。
少しだけほっとした気分でスーパーに寄り、食料品その他を買い込んでアパートに戻った。
ドアを開けると、途端にぞっとする冷気が僕を包む。
外の、じっとりと張りつくような暑さからの落差で、身体がおかしくなりそうだった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
返事があった。
一瞬だけ面食らって、すぐに声の主に見当がついた。
純佳さんだ。
彼女は最初と同じ無表情で、卓袱台の前にお行儀よく座っていたが、
心なしかさっきよりも目が死んでいるような気がする。
部屋に入るとすぐさま、彼女の視線が僕の持つスーパーの袋に吸い寄せられた。
「ご所望の物、どうにか用意できました」
「ありがとうございます!」
瞬間で彼女の顔がぱぁっと花開いた。
余程お腹が空いていたのだろう。
早速、袋の中身を物色しにかかる。
見るからに生き生きとした表情だ。
顔色は相変わらず死人のようだが。
……しかし。
「ねぇ、純佳さん」
「何でしょう! あ、大丈夫ですよ! これだけ食べ物があれば、一週間は余裕です!」
「いやそれ一ヶ月分のつもりで……って、そうじゃなくてさ」
「はい?」
怪訝そうな彼女に、僕は一つ聞いてみたい事があった。
「何で、幽霊になったの?」
幽霊になるには、この世への強い未練が必要だと、何かの本で読んだ。
だとすれば、彼女には現世への強い執着があったことになる。
実際、食べ物がないと聞いた純佳さんは、僕を殺して食うことすら厭わないようだった。
それほどまでの未練。
一体、それは何なのだろうか。
返事を待つ僕に、彼女は困ったような顔でこう返した。
「分からないんです」
「……は?」
間抜けな声が口から漏れた。
「多分、私には強い未練があったと思うんです。でも、それが何なのかは分からなくて。
ただ漠然とした、『消える訳にはいかない』って意識だけが、私を突き動かすんです」
「……詳しい事は、分からない、ってことか」
僕の言葉に、彼女は申し訳なさそうに頷いた。
そして、改まったように、僕の方に向き直る。
「貴方に、頼みたいことがあるんです」
「……何でしょうか」
「私の未練を探して欲しいのです。
私はどうも地縛霊のようで、この部屋から外には出られません。
頼めるのは、貴方しかいないんです」
「……それは」
「ほんの片手間でいいんです。……どうか、お願いできませんか?」
僕は言葉に詰まった。
彼女は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
十七歳という短すぎる生涯を終えたと思えば、理由も分からぬままに幽霊になり、
よく分からない衝動に突き動かされて、存在を保ち続ける。
どれほど不安だったろうか。
想像もつかない。
そして、彼女が頼れるのは、僕だけ。
……僕は一介の貧乏学生に過ぎない。
特別秀でた才能もない。
ただの一般人に過ぎない。
だけど。
それでも。
「僕が――」
――きゅるるるるる。
そんな音が部屋に響いた。
僕じゃない。
とすれば。
僕は純佳さんを見た。
「あううぅ……」
みるみる顔が赤くなって俯き始めてしまった。
「……思うにさ。君の未練って、ただの食欲なんじゃないのかな」
「うう……私もちょっと、そうなんじゃないかと思い始めてきました……」
恥ずかしさと空腹の狭間で悶え死にそうになっている幽霊。
とても可愛らしくて、おかしかった。
僕は大声で笑いだしたくなる衝動を堪えつつ、立ち上がって、キッチンの前についた。
「……じゃあ、御期待にお応えしましょうか。何が食べたい?」
「何でもいいです! あ、塩分控えめで!」
リクエストを投げかけると、すぐに元気のいい返事が戻ってきた。
やはり、彼女の未練は食欲で間違いなさそうだ。
苦笑を噛み殺してコンロに火を点ける。
冷気で満たされた部屋に、暖かな光が灯った。
ホーンテッド六畳 あいそん @younger17
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