ごめんな

梧桐 彰

ごめんな

「お帰りなさい」


 ミカが複雑そうな顔で、ぎいっと開いた戸に目を向けた。ためらいのせいで、夫の顔をまっすぐ見るまでに少し時間がかかった。


「ただいま」


 上下そろいのウィンドブレーカーをガサガサと鳴らしながら、アキオが入ってきた。かすかな汗の匂いがリビングに流れ込んでくる。ミカがアキオへ目を向けた。


「勝ったのかな」


 ミカが言った。それからためらいがちに顔を上げた。アキオの愁いを含んだ穏やかな微笑を見て、ほっと息をつく。その顔なら、答えは聞かなくてもわかる。


「勝ったよ」


 アキオが答えた。挨拶の時と変わらない声で。


「そっか、おめでと」


 ミカがにっこりと笑ってテーブルを挟んだ向かいの椅子に手を出した。どこか痛めているのか、アキオはぎこちなく腰かけた。


「ごめんな」


「何言ってんのよ。いいことなのに」


「明日、午前に準決勝。勝てば午後に決勝だ」


「やっぱり見にいきたいな」


「いやあ、やめとけよ」


 アキオがぼそっと言った。ミカが、テレビつけようかという。アキオが、よしてくれ、うるさくて、と答える。


「相手、どうだったの。楽勝だったの」


 ミカが脇を開いて左右にグーの手を作り、えいえいと交互に前に出す。それを見てアキオが笑った。


「強かったよ。それに立派な選手だった。運が良かっただけだ」


 アキオは空手の指導で生計を立てている。夕方から子供の指導、夜は一般の指導。去年、師範から4段をもらい、自分の道場を開くように言われた。


 指導者、それも道場を開く身になれば、選手として活動する人は多くはない。ところがアキオは現役を退かず、試合に出続けていた。


 アキオは35歳になる。ベストの体重は77.1キロの中量級で、今回の調整ではぴったり80キロにした。出場した心錬会のトーナメントは30人がエントリーしていて、初日の今日は3回戦までを終えた。ルールはフルコンタクト。顔を手で殴ることと、金的、背中、膝頭を狙う以外の打撃はほぼ自由に認められ、規定時間内にどちらかが倒れるまで打ち合う格闘競技だ。


 1回戦はシード。2回戦は序盤の膝蹴りがいい位置に入って、完全にペースをつかむことができた。3回戦がてこずった。相手のローキックは変幻自在、どの間合いからどんな技を出しても的確にカウンターで入ってきた。痛む足を引きずりながら、相手の胸板へスナップを利かせて左右の拳を叩き込んだ。


 3分の本戦で決着がつかず延長戦。激痛を押し殺して表情を消し、1分が過ぎたあたりで渾身の左を振り上げた。心錬会本部道場の黒帯は、アキオのハイキックをまともに受けてばったりと倒れた。副審四人が一斉に白の旗を高く上げ、それまで響いていた大声の声援がぱったりと止んだ。


 オープンと言ってもほとんど心錬の選手が占めるこの大会で、村杉昭夫という立ち上げ直後の道場から来た無名選手が、準決勝に上がったのだ。応援に来ていたホームの門下生たちが唖然としていた。アキオの弟子たち3人だけが、誇らしそうに手を振り上げた。それが数時間前の話だ。


 ミカは、空手のことはわからない。もちろん手足を叩きつけあう競技だということは知っているし、道場の指導を見たことは何度もある。それでもアキオはミカに試合を見に来るなと言った。理由は一つだけ。心配してほしくないからだ。そのことがミカには寂しい。たとえ夫がどんな姿になっていても構わないと訴えてきた。それでも、アキオは試合場に来ることを許さなかった。


「何かして欲しいことある? ご飯は勝つか負けるかで違うものにしたほうがいいって聞いたから、まだ作ってないの」


 ミカがアキオに言う。


「悪いな。手早く食べられる物でいい。飯と梅干しがあればいい」


「そんなのでいいの」


「サプリとプロテインで調節できるからな。いい時代だ」


 ミカは分かったと台所に行った。


 妻の顔が見えなくなると、気が抜け、痛みが一気にアキオの全身を駆け巡った。過酷だった。上段前蹴りが顎に、中段回し蹴りが両腕と両肩に、左右の連打が胸に。腹にもさんざん食らった。それ以上に両方の太ももに刻まれた打撃は強烈だった。ウィンドブレーカーの前を開けて、ベルトを緩めてもなかなか引かなかった。


 台所でミカがお湯を沸かしている。音に合わせてずきずきと苦痛が両足を走っていた。できるだけ時間をかけてくれと思う。辛そうにしている顔を見せたくない。


 少したって、ミカが台所からリビングに戻ってきた。


「お茶漬けだよ? ごめんね、こんなので」


「十分だよ。いつもありがとう」


 アキオが打ち身に響かないようゆっくり椅子を引いた。


「私も久しぶりに食べたかったの」


 ミカは茶碗に軽く1杯。アキオは丼に1合。玄米に粟と黍、麦が混ぜてある。その上に鮭茶漬けと梅干、小魚を少しと醤油がひとたらし。


 一口つけて、アキオが笑った。何もかも質素な生活の中、唯一、この家にある高い消耗品が使われているのがわかったのだ。


「雁が音ほうじ茶か」


「うん。二人で京都に行った時の」


「高級なお茶漬けだ」


「ごめんね。なんか本当は、もっと明日に向けて気合が入るようなの作りたかったの。トンカツとかさ。でもどんなのがいいかわかんなくて、なんかちぐはぐなのになっちゃって」


「いや、これが食いたかった」


 雁ヶ音ほうじ茶というのは、煎茶の一番茶から茎の部分だけを丁寧に選んでほうじたお茶だ。琥珀色になると言われるこの茶は、茶葉でなく茎を使う、香ばしくてやさしい味のお茶として知られている。


「ごめんね」


「うまいよ」


「でもなんかごめん」


「うまい」


「ありがとう」


 結婚して2年。ごめんと繰り返す毎日だった。空手は普通の仕事に比べれば金にはならない。それに夜と土日もつぶしてしまう仕事だ。アキオは毎晩のようにそれを申し訳ないと言う。ミカはそんなことを気にしなくてもいいし、アキオの役に立つことが嬉しいと言う。そして、お互いに、ごめんな、ごめんね、と言い続けている。


 お茶漬けを食べているとき、ふと、アキオは自分が空手の事を考えていないと気がついて、それを驚いた。1日24時間。ずっと人を倒す事ばかり考えていた。どう殴るか、どう蹴るか。それ以外の生き方を何も知らない。心が空手から離れたのは本当に久しぶりだった。そろそろ引退なのかもしれない。


 アキオが顔を上げた。


「明日、見にくるか」


「いいの?」


「ああ」


「無理しないでいいんだよ」


「いや、いいんだ。そのかわり、みっともなく負けても笑わないでくれよ」


「そんな事、するわけないでしょう」


 明日の準決勝では優勝候補に当たる。相手は3回戦までノーダメージ。おそらく勝てない。それでもいい。一度くらい、妻に自分がやってきたことを見てもらいたい。


「じゃあ、頼む。ごめんな」


「ごめんじゃないよ」


「ありがとう」


「うん」


 アキオはそれ以上何も言わなかった。

 ミカも何も聞かなかった。

 お茶漬けをすする音だけが響いた。

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ごめんな 梧桐 彰 @neo_logic

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