とある夫婦のお茶漬けの話
古月
とある夫婦のお茶漬けの話
長かった。長い一日、長い戦いだった。
男は敷居を跨げば七人の敵あり、などと
特に最後の奴は特別たちが悪い。頼むから下戸は放っておいてほしい……なんて、主催が上司となれば言えないのだけど。
足を引きずるようにしてドアの前に立つ。マンションの中階。夜風が冷たい。ふうっ、と息を吐いて指を伸ばし、一拍置いて、ようやくインターホンを鳴らす。
――真の戦いは、これからだ。
「アキオ君、おかえりぃー!」
ほとんど間髪入れず、セリフと同時にドアが開く。外開き。容赦はない。のぞき窓の少し下に付いたシミはこれまでの犠牲者が残したものだ。だが、こちらはもはや慣れたもの、即座に飛び退くべき距離はこの体に染みついている。鼻先すれすれをドアが掠めた。
が、油断は禁物。注意すべきはドアだけではない。むしろそちらは
「――ッ!」
間一髪。左手親指から中指までの三指で、何とか包丁の刃を摘み取ることに成功した。そのまま外側へと流す。次いで体当たりする勢いで突っ込んで来たその体を胸で受け止めた。柔らかい感触に次いで、胸板に遠慮の欠片もない頬ずりを喰らう。このシャツはファンデーションでもうダメだな。どうせ洗うけど。
「今日は遅かったね。また飲み会?」
「そうだよ。夕方、メッセージを送ったはずだけど」
「あ、ケータイは水没しました!」
同一機種で何度目だよもうキャリアサポートも効かないぞ――との言葉は呑み込んで。敬礼ポーズでお茶を濁そうとする愛しい妻を引き剥がした。
「そんなわけで、少し酔いが回っているんだ。まずは中に入れてくれないか」
「はぁーい。それで? お風呂にする? ご飯にする? それとも――た・わ・し?」
風呂掃除はまだなのか。いや仮に準備ができていたとして、酔っぱらいを風呂に入れないでくれ頼むから。生命保険の受取人は確かに君だけどもさ。
「酒の肴ばっかりで、腹がぺこぺこなんだ。何かすぐに食べられる、消化に良いものをくれないか」
「重曹とか?」
「ああうん、消火ね。はいはい」
単体で喰わせる気か。ガスで腹は膨れるだろうけど。
我が生涯の伴侶にして最愛の妻、ミカ。器量良しで美人で優しくてスタイルが良くて人当たりが良くて家事もできて胸が大きくていつも明るい彼女は誰もが羨む理想の妻だ。
ただ一つ、極めつけのドジっ子であるという一点を除いては。
今日は扉の前に怪我人が死屍累々と倒れていることもなく、部屋が爆発散華で消し飛んでいることもなく、お帰りの抱擁で一撃必殺を喰らうことも回避できた。極めて平和な帰宅だ。彼女の何事もなくニコニコと微笑む顔を見ることができて、ようやく本当に肩の荷が降りた気分だ。なお、平和の定義は変動する。
ああ、いけない。安心したら疲れが一気に押し寄せてきた。頽れてしまうより早く、しかし危うい均衡状態を崩さぬようにゆっくりと、リビングへ向かわなければ。ミカが入っていったキッチン横を通り過ぎ、そこにあるソファに突っ伏すように飛び込み――目の前に突き出たパラソルハンガーの足を払い除けた。あっぶねぇ、顔面を狙う位置取りじゃねぇか! 洗濯物は取り込んだらすぐに畳んでくれよぉ!
「どうかしたのぉ? すごい音だったけど」
無意識に仕掛けられた罠から無理やり逃れようと体を捻ったため、こちらの身体はソファから転がり落ちて床の上だ。しかも落ちてきた衣類が生き埋めにしようとしてくる。安心するにはまだ早かったか。未だこれほどの伏兵が潜んでいたとは。
「いや、何でもないよ。何でもない」
えぇい、ソファは諦めよう。とりあえずカバン置き、ネクタイを緩め、ダイニングテーブルに腰を下ろす。瞬間、鼻先に食欲をそそる香りが触れた。
キッチンとリビングを隔てる壁は一部がカウンターのように開いている。ダイニングテーブルに座ると、食事の準備を進めるミカの姿が見える。何を作っているのだろうか? 調味料を載せた棚が絶妙に視界を阻んで見せてくれない。少し腰を浮かせて覗き込もうとしたところで、ミカは盆を手にこちらへ回り込んできた。
「はい、おあいそ」
「それを言うなら、お待ち遠さま、かな」
まだ食べてもいないし。
目の前に出されたのは茶碗が一つ。少量の白米の上に塩昆布と梅干しを乗せ、白ゴマがまぶしてある。ミカはそこに同じく盆に乗せていた急須を取り、湯気立ち上る中身を注いだ。ほのかに漂う煎茶の香り。ご飯がちょうど浸るほどの量。
「なるほど、お茶漬けか」
確かに食べやすいし、消化も易い。それに梅干しや塩昆布は二日酔いを予防してくれる食材だ。急なリクエストに対して申し分ない選択である。
ミカはドジだが、バカではない。こちらのことを考え、気にかけてくれる。帰りが遅いことを心配してくれるし、お帰りの抱擁をしてくれる。夕飯をすっぽかしたことを怒らないし、それどころかこちらの身体を気遣ってこんな一品を用意してくれる。
「どうしたの? 食べないの?」
しばし茶碗を見つめてぼうっとしていたらしい。思い出したように――事実思い出して、箸を取る。何の変哲もないお茶漬け。今しばらく見つめていたい気持ちになるのを押し込めて、箸を付ける。梅干しを割って果肉を切り分ける。薄桃色のエキスが緑茶の中に漂い出る。
「いただきます」
「めしあがれ」
一口目を含む。梅肉の酸味が舌を刺激し、唾液の分泌を促す。白米は水でぬめりを洗い落とされており、喉を鳴らせばするりと口腔を抜けて食道へ流れる。二口目は塩昆布の塩味が口内に充満した唾液に溶け、これまた舌を満足させる。では三口目はどうなる?
「……美味しい?」
「ん?」
ふと顔を上げれば、向かいの椅子に座ったミカが頬杖をついてこちらを眺めている。ニコニコと微笑みながら、実に満足そうに。
――とんだ伏兵もいたものだな。心の蔵が破られてしまった。
「……旨いよ。もちろん」
「えー、うっそだぁー」
作った本人がそれを言うかね?
「でもアキオ君がそう言うなら、私も一口もーらおっと」
なんだか人を毒見役にした発言とも取れなくもないが、そこは無視しよう。ミカは手を伸ばしてカウンター越しにキッチンの水切り棚から箸を一膳取り、ひょいとこちらへ伸ばす。
その先端が、狙いを外してコツンと茶碗の縁を突いた。
「――あ」
「あ」
茶碗が傾いた。止める隙などありはしない。かたんと音を立ててテーブルに転がり、その中身は雪山の雪崩の如く崩れる。瞬く間にテーブルの端を流れ越えてズボンの上へと着地した。
無言で固まるミカ。せっかく作ってくれたお茶漬けがこれでは台無しだ。
「……口、開けて」
「え?」
「いいから、口、開けて?」
言われるままに口を開くミカ。
そこへ、ぽんと箸に乗せていた三口目を放り込む。
「美味しい?」
「……美味しい」
「君が作ったんだから、当たり前だろ」
アキオは少し顔を背けて、カウンター越しに台拭きを手に取った。それが、せめてもの反撃だった。
とある夫婦のお茶漬けの話 古月 @Kogetsu
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