第3話 第二章 タキロスってやばい奴だ

第二章 タキロスってやばい奴だ


 どうして見知らぬ人にあんな約束をしてしまったのだろう、と、ラシュヴィーダは何百回目かに考えた。明らかに敵なのに。安全だという保障は何もないのに。


 行かなければいいのだ、と、無理に気持ちを変えようともしてみた。所詮、異民族だ。ヘルベベスとの約束なんて、守ろうという気もないのかもしれない。もしかしたら、約束だと思っているのはこちらの方だけで、向こうはただ、衝動的にそう言ってしまっただけなのかもしれない。だとしたら、行ってみても馬鹿を見るだけだ。わざわざ傷つきに行くぐらいなら、行かない方がましなのかもしれない。

でも、タキロスの笑顔、誠実な話し方、最後まで見送ってくれた責任のある態度に嘘はないようにも思えた。やっぱり行ってみよう、もし、向こうがいなくて傷ついたとしても、自分が行かなくて彼が傷つく方が辛いだろう、とラシュヴィーダは気を取り直した。


  「どうしたの? ラシュヴィーダ」


 突然、後ろからぽんと肩をたたかれてラシュヴィーダは飛び上がりそうに驚いた。いつのまにいたのだろう、友達のルミデュナが乳搾りをしている彼女のすぐ後ろに立っていた。


「ああ、びっくりした。いきなり現れないで」

「さっきからここにいたんだけど。手が止まってるよ?」

「別に……なんでもないわ」


 ラシュヴィーダは、ルミデュナと目を合わせないようにしながら、なるべくさりげなく見えるよう乳搾りの続きを始めた。ルミデュナは、黙ってしばらくその様子を見ていたが、ためらいがちに口を開いた。


 こないだ、一人で帰ってきた頃から、なんか変よ。一人で草原に出るのは危ないって言われてるけど、何かあったの?」

「なんでもないったら」


 ルミデュナは励ますようにラシュヴィーダの腕に手を乗せた。


 「話してみて。力になれるかどうかわからないけど、もし秘密にしてほしいなら約束は守るから」


 ラシュヴィーダは首を振った。こんな大変な心配ごとを、親友にまで抱えさせるわけにはいかない。

 秘密を抱えるのは苦しい。しかも相手はエルシノア人。もしかしたらルミデュナまで危険なことに巻き込んでしまうかもしれない。


「まさかとは思うけど誰かに脅されてるとか? それとも、全くその逆だったりして。内緒で好きな人ができたりとか」

「……っ!」


 あまりにびっくりしてラシュヴィーダは牛の乳を引っ張ってしまい牛に、ンモー、と怒られた。


「当たった」

「当たってない!」

「だって、わかりやすいんだもの」

「……本当に、違うから」 

「ラシュヴィーダ」


 ルミデュナは、ミルクを絞り入れる銅の鍋をちょっと正しい位置に戻しながら真面目な顔で彼女を見つめた。


「人を好きになるのって、とても素敵なことよ。隠さなくていいわ。もし、あなたが本気なら、私、協力する。ジャヒムもそう言ってるの。驚かないから話してみて。力になりたいの」


 気がつくと、いつの間にかルミデュナの恋人、ジャヒムが近づいて、二人の話をすぐ近くで心配そうに聞いていた。

 ラシュヴィーダは嘘が得意ではない。仕方なく、ぽつり、ぽつりとあの日のことを少しずつ話し始めた。ジャヒムが急に声を上げた。


「エルシノア人か! 名前、なんて言ったっけ?」

「タキロスよ。でも、もう忘れて。ジャヒムまで巻き込みたくないの」

「ええっ! タキロスって、あのタキロス?」

「知ってるの?」


 驚いてラシュヴィーダは聞き返した。そういえば、あの日、ドゥムルカンに名乗るとき、この名を知るものもあるだろう、と自ら言っていた。有名な人なのだろうか。


「うん。確か、タキロスってやばい奴だよ。エルシノアの黒い若獅子とか呼ばれてる。僕が兄さん達から聞いたのは、タキロスとかアルトリスとかガルディオとか、黒い髪のでっかい奴に会ったら逃げろ、って」

「背が高かったわ。馬の上だったからはっきりしないけど、手も足も長くて体が大きくて」

「多分そうだよ。まだ若い奴らしいけど、何人もタキロスに殺されてる。とにかくあいつとは戦わない方がいいらしい」

「そんな人がどうして私を……」


 またうつむくラシュヴィーダの横顔を、ジャヒムは優しく覗き込んだ。


「気に入られちゃったんだな。君は綺麗だから。でも、やめた方がいいよ。いくらヘルベベスがエルシノアの敵だからって、部族の女性を好き放題にさせるのは許せない。そいつ、思い上がりもいいところだ」

「でも、ラシュヴィーダはその人のこと、好きなんじゃないの?」

「なに言ってるんだ、君は。エルシノア人なんて信用できるわけないじゃないか。あいつら、魔物だろ?」


「魔物?」


 急にラシュヴィーダは怖くなった。ジャヒムは少し声を落とした。


「そう。エルシノアは魔物の国だ。特に、タキロスとか、ああいう不気味な連中は魔族の血を引いてるそうなんだ。近づかない方がいいよ」

「でも、悪い人には見えなかったけど。それこそ、ドゥムルカンの連中の方がずっと悪かったわ。あの人は、それを助けてくれたのよ」

「じゃあ、大丈夫なんじゃない? 女の子には優しいのよ、きっと」


 ルミデュナは楽しそうに言った。彼女のように気楽にタキロスを信じられたら、どんなにいいことだろう。いったい誰の言葉を信じたらいいのか、わからなくなってしまった。


「それで、ラシュヴィーダはどうするの? 約束したんでしょ?」

「ええ、行ってみようかと思ってる。だって、約束を破ったら悪いわ、せっかく助けてくれたのに」

「甘いな、君は。それが罠かもしれないじゃないか。どうするんだ、今度は君を捕まえようと待ち伏せしてたら」


 またラシュヴィーダは怖くなって、同時にとても悲しくなって、涙が浮かんできた。


「わからない。どうしたらいいの? でも、もし、本当にいい人だったら? 私は親切なエルシノアの男の人を一人、とても傷つけてしまうことになるわ」


 彼女が返事をしたとき、タキロスはあんなに素直に嬉しそうだった。最後に振り向いたときも、ずっと彼女の安全を確かめるように見送ってくれていた。悪い人だとは、とても思えない。


「ラシュヴィーダ」


 顔を覆って涙を拭うラシュヴィーダの肩にルミデュナがそっと腕を回した。


「迷ったときは、心に聞きなさいって、おばあちゃんが言ってた。あなたの心に従うといいと思う。あなたは行きたいんでしょ? だったら、私たちにできることは、あなたがなるべく危険のないように協力することよ。ね? ジャヒム?」

「え? 俺も?」


 ジャヒムは、とばっちりを受けたような顔をしていたが、ルミデュナに睨まれて慌てて答えた。


「あ、ああ、うん。そうだね。わかったよ。ええー、そうだな、どうしよう。まあ、ちょっと考えてみる」

「早くね。それから、あんまり人に話しちゃだめよ。特にラシュヴィーダのお父さんなんかにばれたら、絶対反対されるから」

「うん、わかってるけどさ……」

「ちゃんとしてね。あなた、ラシュヴィーダのこと、大事じゃないの?」

「いや、そりゃ、大事です、はい」


 ラシュヴィーダはジャヒムがちょっとかわいそうになってきた。


「もういいのよ、ジャヒム。ありがとう。危険なのはわかってる。だから私一人で行くから。でも、誰にも言わないでね。それだけは約束して」

「もちろん言わないよ。でも、一人で行かせるわけにはいかない。俺も行くよ。ただ、ちょっと計画を考えようかなって……」

「ありがとう! ジャヒム、素敵!」


 飛びつくようにジャヒムに抱きついたルミデュナを、ラシュヴィーダは微笑んでちらりと見たあと、恥ずかしくて目をそらした。


 ラシュヴィーダは恋を知らない。いつか父の決めた人と結婚するのだと思っていた。部族の女の子はほとんどみんなそうしているから。

 ルミデュナのように恋人ができてしまった場合は、家族が認めれば結婚を許される。

 でも、ラシュヴィーダは族長の家系だ。ヘルベベスにも身分の上下はある。氏族長を出すような家柄の娘は、ほとんどが親の決めた相手と結婚する。そういう生き方に不満を持ったことは一度もなかった。


 タキロスにもう一度会ったとして、彼が悪い人でなかったとして、いったいどうしようというのだろう、と、まだ心は迷い続けている。敵国だし、ましてや魔族と言われるエルシノア人だ、ルミデュナとジャヒムのようになれるなどとは思っていない。


 もう一度会って、お礼を言うだけだ、それっきり、もう二度と会うことはないだろう、と自分に言い聞かせる。今までどおり、エルシノアはヘルベベスの敵なのだから。



 ここ数日、ティトライカのテントには、よその部族の族長たちが従者や家族を連れて訪れていた。族長会議が開催されているのである。

 ヘルベベスはいくつかの部族に分かれているが、所有している家畜の数がそれぞれ膨大なので、普段はそれぞれの部族はお互いかなり距離を置いて生活している。あまり近づいてしまうと、どの部族の家畜かわからなくなって争いが起きたり、草を食べ尽くしてしまうことになるからだ。


 部族同士交流があるのは、共通の敵に備えたり、その年の移動の場所を話し合ったりするためだ。それが、年に二回開催される族長会議。ラシュヴィーダの父はヘルベベス全体を束ねる大族長なので、会議はここ、ティトライカで行われている。


 あの日、ラシュヴィーダを追ってきたドゥムルカンの男の一人を会議場の周りで見た。ドゥムルカンの族長の一族なのかもしれない。


「ドゥムルカンの族長の弟がラシュヴィーダを欲しがっている」


 という噂を友達から聞いた。兄に確認してみたけれど、


「おまえはそんなこと、気にするな。父さんが許すわけはない」


 と言われた。ドゥムルカンとティトライカは仲が悪い。ドゥムルカンについて次々と伝え聞く噂は悪いものばかりだ。

 よその部族の家畜を泥棒する、族長会議で『あまり他国を刺激しないよう、略奪するにしても無駄な殺生はしない』と決めたにも関わらず、罪のない村の家々に火をかけて皆殺しにした。 


「あちこちの部族の金髪の少女がドゥムルカンに誘拐されているらしい」


 という噂も聞いた。


「だから、おまえも気をつけろ、一人でなるべく出歩くな」


 と兄に注意された。こんな時に、どうやってタキロスに会いに行けるのだろう。満月まではあと三日。それまでには族長会議は終わるはずなのだけれど。


ーーーーーーーーーーーーーーー


読んで下さってありがとうございます<(_ _)>


ヘルベベスの家畜は馬、牛、羊、山羊です。一部族あたり何千何万という単位で飼っています。


遊牧民の主食は乳製品です。牛乳やチーズ、ヨーグルトでほぼ毎日の食事を済ませます。


ヘルベベスは農耕をしないので、パンの原料となる小麦も野菜も作らないので、野の果物を採るか、交易か略奪で手に入れます。

パンのようなものはたまに食べますが主食ではありません。


お酒は馬乳酒を作ります。それ以外の果実酒、穀物種は交易か略奪で。


部族同士の野営地はだいたい60キロまたはそれ以上の距離を開けます。

家畜が大量なので、そのぐらい開ける必要があるらしいです。


なので、族長会議を招集するのも一大イベント。

各部族にそれぞれお使いを出して集めます。

お使いの使者も、草原を一人では危ないので十人ぐらいセットで送ります。


これからもよろしくお願いいたします(^^♪

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お前は遊牧の民、敵国の王子などと恋をしてはいけない 猫洞 文月 @Nekogahora7Fuzuki

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