沈黙の灯
@tutikawahiyu
第1話
【プロローグ】
■二○XX年六月一日
▼東京 あるビルの屋上
空を見上げると、赤い点滅がゆっくりと星の間を移動していた。おそらく、この時間だと最終便だろう。視線を正面に向けると東京の摩天楼が煌めいている。遠くない位置には、東京スカイツリーがオレンジ色を中に閉じ込め白く浮かび上がっている。今は何のイルミネーションを行っているのだろうか――
彼は、屋上から見るこの夜景が好きだった。不規則な瞬きの灯に埋め尽くされるビル群は、神秘的で、かつ夜空の向こうに広がる宇宙と不思議なくらい調和していた。
昨日、突然「使命」を受けた。その瞬間、一瞬が永遠となり、有限と無限の境界線は限りなく薄れていった。膨大な情報を受けた彼は、わずかな時間混乱し、そしてそれを受け入れた。
これまで、そういった「存在」が実在するとは思っていなかったし、当然、自分がそういった「存在」だったことを想像したこともあるはずがない。
だが今は違う。
自分が何者「だった」のか、そして、何をしなければならないのかは明快だった。また、その手段は彼に委ねられていた。
与えられた「使命」を、どういうプランで実行するのか、おおよその筋道は決めていた。どのような形で終結するかは分からないが、何も時間が限られているわけではない。自分は白いキャンバスを用意するだけだ。そこに誰がどういったデザインを描くのかは自然の流れに任せてよいだろう。彼は、「使命」を実現できるように、ただ導くだけだ。
もっとも――当事者として導くためには、普段は「意識」を閉じておくことが必要だろう。でないと、不要な導きを行いかねない。
もう一度、摩天楼を眺めた。
「美しい…」
思わず彼は呟いていた。
彼が好きなこの風景を失うことを想像すると、かすかな憐憫が心をよぎる。だが、だからといって彼が「使命」を放置することはない。なぜなら、彼はそのために「ここ」にいるのだから…
頭上からは、静寂を纏った月の灯が降り注いでくる。耳を澄ますと、眼下を流れる無数のヘッドライトから放たれる光が、河の流れを作り、そして籠った重い調べを奏でていた。その調べは、本来なら聞こえるはずの深々とした星々のざわめきを呑み込んでいる。
彼は、使命が求めるものと自分が抱える想いの矛盾に、かすかに顔を歪めた。摩天楼の輝きが彼の心を震わせ、そして月の灯を阻む。
タバコを取り出して火をつける。
屋上の少し強い風が、紫煙を真横へとなびかせた。
【第一章】
■二○XX年六月十一日
▼東京 警察庁サイバー特別調査課
カタカタカタカタ
キーボードを叩く軽快なリズムが部屋に響き渡る。あちらこちらから聞こえてくるその音は、協調した音色ではないが、耳障りでもない。
多野恭介は、その警察庁サイバー特別調査課の部屋で、パソコンを操作していた。
日本の警察組織の中で、サイバー犯罪に取り組んでいるのは、主にサイバー犯罪対策室と呼ばれる組織だ。
各都道府県の警察本部内にある、生活安全部に設置されている。出会い系サイトの摘発、不正アクセスやフィッシング詐欺など、ネット上で起きるさまざまな犯罪の取り締まりや、サイバー犯罪予防の広報活動まで、幅広い役割を担っている。
だが、サイバー犯罪対策室は「現実に起きている犯罪」に対応するための組織だ。
いわゆる既知の犯罪、現在進行形の犯罪を摘発するために存在しているのだが、未知の犯罪や、将来、犯罪を形成する恐れのある事案に対してまで捜査権は及ばない。
もちろん、そうした犯罪予備軍的な情報を放置することはないが、関係部署に連絡するに留まる。そうした犯罪予備軍と推定される初期情報を調査するのが警察庁サイバー特別調査課だ。
課員は数名だが、淡い情報から犯罪を推測しなければならないため、サイバーの専門家ではなく、プロファイルや心理学に優れた捜査員が全国各地の警察から出向の名目で集められていた。
そのため、組織は警視庁ではなく警察庁の中に置かれている。
全国各地の警察、そしてサイバー対策室から送られてくる雑多な情報から、今後、犯罪に結びついていく可能性が考えられる情報を見つけるのは至難の業と言ってよいだろう。
なぜなら、全国各地から寄せられる情報は毎日数百ある。芸能人の薬物犯罪から、宗教団体のテロ情報、隣の老人が大量殺人のために武器を作っている、かかり付けの医師のそっけない態度は自分を新薬の実験台にしているのではないか――こうした情報の多くは、ブログや掲示板などに書きこまれたものだ。
しかし九十九・九%は作り話か誹謗中傷、あるいは先走りといった類のものだ。さらに、推定される犯罪のレベルも、寸借詐欺程度のものから大量殺人まで幅広い。中には地震や隕石落下などの予言もあれば、宇宙人やゾンビが襲ってくるといった明らかにフィクションの情報もある。
だが、その情報を書いた人間が一定の地位にいる場合には、その地位に見合った犯罪が生じないかを推定しなければならない。
例えば、大手飲料メーカーの工場責任者が、海底から新生物が襲ってくるから、対応する準備が必要などというブログを書いた場合、
・もしかして、何らかの妄想に取りつかれているのか?
・もしかして、工場で生産している商品に何らかの異物を混入する恐れがあるのか?
というように、犯罪が起きないかを想像し、推測する必要がある。
調査課が設立されてから数年。
細かな案件の成果はあったが、個人や企業レベルのものだ。まだ、社会的に大きな影響もたらすような犯罪の摘発に至ったことはなかった。
というか、果たしてこんな想像だけで、しかも無理やり荒唐無稽な想像を組み立てて、それが実際の犯罪として芽生え始めていることを捉えることができるのかを恭介は疑問に思っている。
だが公務員は無情だ。上からの命令には従わざるを得ない。
「主任、一服しに行きましょう」
向かい合ったデスクに座る小野田博巳が、凝った肩をぐるぐる回しながら、声をかけてきた。
昔はデスクでタバコが吸うことが許されていた時代もあったが、禁煙の権利を主張する輩の勢力は強く、公務員は庶民の模範となるべし、といった通達で、いつしか、別室に押し込まれて燻されるようになってしまった。
ならばせめて喫煙ルームに高性能の空気清浄機を置いても罰は当たらないではないかと思うのだが、国民から頂戴する税金で成り立つ役所に、そんな予算が配分されることはまずない。
他の省庁では、屋上の「露天喫煙ルーム」しか与えられないところもあると聞くと、うちはまだましな方か、と慰めるしかない。
「そうだな」と首を軽く回してから立ちあがった恭介は、博巳と連れだって、部屋を出た。
警察庁は、霞が関二丁目にある中央合同庁舎二号館の一角にある。総務省が管理するビルで、二○○○年に竣工したまだ新しい建物だ。警察庁の他に、消防庁や運輸安全委員会、海難審判所などが入居している。
恭介は四十二歳。もう中堅といってよい年齢だ。長身で軽くウェーブがかかった髪が顔立ちをハーフっぽく見せている。若いころ街を歩いていると「ホストになりませんか」と声をかけられたこともある。並んで歩く博巳は二十九歳。恭介とは対照的に短く刈り上げた髪は、さわやかなスポーツマンのようだ。
他愛もない会話をしながら、階段を上り、一つ上のフロアの奥にある喫煙ルームに行くと、先客がいた。
課長だ。
テレビの刑事ドラマによく出てくるような、眼鏡をかけた初老の口うるさい外見をしているが、課員の受けは良く、尊敬もされていることは確かだ。良き上司と言えるだろう。
恭介と博巳は軽く頭を下げる。
パソコンに向かう仕事のせいなのか、課員の喫煙率は高い。ストレスと喫煙、両方とも健康に悪い要因だ。おそらく数年しないうちに健康を害する課員の割合も増えるのだろうが、だからといって今さら禁煙することは無理な話だ。割り切るしかないだろう。
「どうだ多野、例の内部告発のブログ、モノになりそうか?」
課長が尋ねているのは、ここ数日、恭介が追っている厚生労働省の職員を名乗る内部告発のブログの問題だ。
省庁では、公益通報者保護法に基づいて、組織の不祥事や隠ぺいを防ぐ仕組みがあるのだが、組織の上層部が関わる問題の場合、内部告発を監査する部署が圧力を受けることがある。そうなると、結果的に内部告発者が不利益を受けることが生じる。公益通報者保護法、などと大層な名前がついた法律も、実務上では役に立たないことが多い。
そこで、関係部署への内部告発を行うのではなく、ブログで私的に情報発信することがあるのだ。
今回は、薬事審議に伴う内部告発だ。自称、某部署に勤める厚生労働省の職員が、薬事審議を有利に運ぶための贈収賄が行われている、という内容をブログに書きこんだのだ。
とはいえ、ブログの内容をそのまま鵜呑みにもできない。なぜなら、同業の製薬メーカーが中傷しているケースも過去にはあったし、いたずらの場合もあるからだ。特に今回は、同じブログの中に、他にも内部告発がいくつか書かれていた。真偽はかなり怪しい。
「たぶん、ガセですね。課長」
恭介は、タバコに火をつけながら答えた。
「ブログのIPから発信者の情報を掴みましたけど、発信者はもちろん、家族構成の中にも厚労省の職員はいませんでしたから」
「じゃあ、後は裏を確認したらその件は上がりだな」
課長の言葉に恭介は軽く頷いた。
「上がり」とは、案件がガセで終了したことを意味する。
ものになる案件は「当たり」だ。
一応、厚労省に、ブログに書かれた事案の薬事審議が進行しているのか確認するが、おそらく今回は、ライバル企業の誹謗中傷などではなく、世間を騒がせたい誰かが書いているブログだった、ということになるだろう。犯罪が進行中、ということではないようだし、監視対象でもないだろう。
この仕事は、確認・ガセ・上がり、確認・ガセ・上がりの繰り返しといっても過言ではない。
仕事として行っている以上、成果がストレス解消の良薬になる。確認・当たり、がないと心は荒むばかりだ。
「そういえば小野田、今朝、渡した件は何かわかったか」
「いえ、さっぱり。課長が言う通りあれはサイバー班の仕事でしょう。うちの領分じゃないと思いますがね」
「あれって、何の案件だ?」
恭介が口を挟んだ。
「ああ、主任はまだ見てないんでしたっけ。大手掲示板に変な一斉投稿があったんですよ」
「変な投稿って?」
「飲酒運転を禁止する通達、って内容だったかな。後で見せますよ」
今の時代、変なヤツが多くなった。掲示板、変な通達、というと間違いなくガセ、それも自己顕示欲の強い、妄想型の人間が発する情報だろう。
良くあるパターンだ。
「ああ、頼む。たぶん今日は上がりだし、何かあれば手伝うぞ」
「うーん、たぶん平気でしょ。おかしなところは同一投稿された時間が全て同じだった、というところぐらいですし。たぶんハッキングでしょ」
小野田は二本目のタバコに火をつける。恭介もつられて次のタバコを口にした。
チェーンスモークが良くないことは分かっていたが、喫煙室にくると、どうしても二本から三本のタバコを吸ってしまう。しょっちゅう席を外すわけにもいかないからな、と自分の中で理由づけしているが、喫煙依存している人間の屁理屈に過ぎないことは分かっている。禁煙できるのなら、とっくの昔にタバコ代は酒代にでも替えることができただろう。もっとも、酒がタバコより健康によい理由はないだろうが。
「それより多野、最近、ちゃんと息子さんに会いに行っているか?」
タバコを持つ恭介の手が、軽く硬直する。課長は部下の行動を良く見ていると思う。それは良い上司の条件なのだと思うが、面と向かってあまり触れて欲しくないところに突っ込まれるのは心苦しい。
「ええ、まあ…」
言葉を濁す恭介に、課長は軽く頷いた。
その目は同情、というより恭介への思いやりが浮かんでいた。
タバコをグィっと灰皿につぶし、ポンと恭介の肩を叩くと、課長は喫煙ルームから出て行った。
多少の事情を知っている博巳は横を向いたままだ。
辛いのは自分だけだと思いあがった報いの代償を払わないまま、周りの思いやりを感じる状況は、何か落ち着かない。
なんとなく苦笑いした恭介は、博巳に「俺たちもそろそろ行くか」と言ってタバコを消した。
▼東京 ある病院
静寂な病室の中、単調な機械の音が生命の鼓動を告げていた。
白が基調になった部屋の中で、ベッドの横にオレンジ色に映える服を着た女性が佇んでいる。しかし、その色合いは決して派手ではなく、柔らかな暖かさを醸し出していた。
彼女はそっと、ベッドで横たわる少年の頬に手を当てる。おそらく、もう幾度となく繰り返してきた仕草なのだろう。手慣れた仕草だが、十分な愛おしさと、そしてわずかな哀しみが感じられた。
半分だけ開けた窓から穏やかな風が流れてきた。まだ梅雨を迎えていない六月の風は心地よい風だ。その窓からは鮮やかな新緑を眺めることができる。今の季節、緑の色はまだわずかな薄さを残し、その薄さが生命の力強さを現わしているように思える。だが、彼女にその力強さが伝わることはない。
ほぼ一日、この部屋で過ごすことが日課だった。
この病室を訪れた最初のころは、静寂が耳障りだった。心を病んで自分の時の流れを止めていた時期もあったため、動くことがない時間を過ごすことは苦痛でもあった。
それが愛する息子との時間とはいえ、いつ止まるのかという怯えと、いつまで動かない時間の中で生きなければならないのかという苦みを含んだ漆黒の感情が、彼女の中でせめぎ合っていたことは否めない。
もちろん、いつしか目覚めてくれることを夢見て、かすかな希望を苦痛と共に抱えていた時もあった。主治医からは、その希望を実現するには、望んでも掴めない奇跡が必要になると何度も聞いていたが、苦痛を和らげる何かは彼女にとって必要だったのだ。
夫とは別居状態で、事実上、家族が愛息子だけになっていた彼女には、記憶の中にある笑顔と声、そして抱きついてくる肌のぬくもりにもう一度接することを夢見ることだけが生きていく糧だった。
だが――
月日が過ぎゆく中でその苦痛も、そして希望もいつしか忘れ去っていた。目覚めることのない部屋の主人に、テレビやラジオ、ネットなどの機器は必要ない。ピコン、ピコンと単調なリズムで刻まれる生命維持装置の音も、もう耳慣れた。
今日も昨日と同じ時が流れている。たぶん明日も同じだろう。
■二○XX年六月十日(一日前の出来事)
▼千葉県 清水研一の部屋
清水研一は、今日、五本目の缶ビールのプルトップを親指で引き上げた。
シュワツ
白い泡が軽く溢れる。時計は昼の十二時を示していたが、カーテンを半分閉めたままなので部屋は薄暗い。
もちろん、わざと半分しか開けていないのでもないし、照明が切れているわけでもない。ただ、何もする気力が湧いてこないだけだ。眠りたくても、まとまった睡眠は取れていない。しかし、睡眠不足が続いているのに頭は妙に覚醒している。締め付けられる胸の痛みから逃れたいが、アルコールをどれだけ摂取しても酩酊できない。逆に、時折激しく押し寄せる感情の波が、大きな呻き声を呼ぶだけだ。
涙が枯れても「泣く」ことができることを研一は初めて知った。出てくるのは嗚咽だけだ。
「久美子…」
スマホの画面で微笑む娘は、もう聞くことができない声を耳に響かせる。
(お父さん)
久美子は小さい頃からパパとは言わなかった。
早くに妻が病死して男手一つで育てたせいもあるのだろうか、研一が強制したわけでないのに、小学生高学年の頃には久美子がほとんどの家事をしてくれた。男勝りな面がある一方、動物が好きで、人が好きで、老若男女関係なく優しく接する子どもだった。
そして、高校を出てすぐに働き始めた久美子が、「お給料が出たから、来週、食事に行こうよ」と誘ってくれたのがちょうど一カ月前。
その日、通勤に時間がかかるため、先に家を出る久美子が「お父さん、待ち合わせ七時だから。忘れないでね」と、とびきりの笑顔を見せてから靴を履いていた姿が今でも目に浮かぶ。「ああ」と軽く頷くだけで、気のない返事をしてしまったが、愛する娘との食事を一週間前から指折り心待ちにしていたことは、とても照れくさくて態度にも出せなかった。
だが――待ち合わせした本屋に久美子がくることはなかった。
会社を出たすぐの交差点で、見知らぬ老婆の手を引いて横断歩道を渡る久美子が、大型のワゴン車に撥ねられたことを知ったのは、待ち合わせ時間を三十分ほどが過ぎたときだった。
「仕事が終われないのかな」と気になり、かけた久美子の携帯電話に出た「どちらさまでしょうか?」という野太い男性の声に思わず「誰だ!」と声を荒げ、警察官を告げる声に胃臓をギュッと掴まれた研一は、一瞬で感じたその不安が現実のものであることを数分後に知った。
どこをどうたどって病院まで行ったのか、今でも思い出せない。
研一が覚えているのは、病院の前で赤く回る回転灯と、眠っているだけのように見える久美子の顔、そしてその横に立っている婦警の姿だけだった。
数日後に警察から聞いた話では、撥ねた相手は十九歳。久美子と同じ年齢の若者で、当時、危険ドラッグを使っていた。猛スピードで、赤信号で停車中の車数台にぶつかりながら交差点に進入、久美子と老婆を撥ね、さらに歩道を二十メートルほど暴走して十三名を撥ねてから、郵便ポストにぶつかりようやく止まった。
死者十名、重傷者五名という大事故は、久美子を研一のもとから永遠に奪ってしまった。
無免許だった運転手の少年も死者の列に名を連ね、向ける怒りの対象が霧散していることを知った研一は、呆然としたまま葬儀を済ませると、そのまま部屋に閉じこもった。
弁護士という職業柄、その後の展開は手に取るように分かる。
車を貸した所有者が道義的責任と補償の問題を抱えたとしても、ドラッグを販売した売人が警察に摘発されても、事故そのものの責任を追求して刑に服させる相手は、既にこの世にはいない。久美子の死は「不幸な事件」として取り扱われ、それで終わりだ。
十余名もの死傷者が出ているため、世間では大きく報道されたが、事故から二週間たった今では、報道陣が取材に訪れることもなくなった。もちろん、研一が取材に応じることは一切なかったが、葬儀場まで詰めかけてカメラを向け、マイクを向ける「手」には、人の死を心の底から悼む想いはとうてい感じられず、事故から立ち直れずにいる研一の心はより深い澱みの中へと沈んでいった。
盲目の老婆が横断歩道を渡る手助けをした久美子の姿は、さもありなんと心に描くことができる。その行動は、他人に関わらないことが当然という今の風潮の中、称賛あって然るべきだろう。研一もそう思う。
だが、一人の親の立場では悔しい、という思いしかない。目撃者の話では、老婆に話しかけた久美子は、渡れていた青信号を気に留めることなく、一緒に渡ろうと、次の信号を待ったそうだ。
――なぜ、老婆に話しかけた
――なぜ渡れた青信号で渡っておかなかったんだ
何度、身を捩る想いに気が遠くなりかけただろう。
むろん、無免許でドラッグをキメながら運転していた若者への怒りも大きい。危険ドラッグなど今風の軽い言葉に置き換え、だが下手をすれば覚醒剤よりもたちが悪いとされる薬物を法律の限界を言い訳に撲滅できない司法への怒りも、そしてその司法の一員でいながら何もできない、何もできないことが「分かっている」我が身への怒りも、毎日積み重なっていくビールの空き缶の山に比例するように大きくなっていった。
しかし――そうした後悔と怒りの感情は、涙が枯れるのと同じころに湧きあがらなくなった。
(久美子に会いたい)
ここ二日間は、そればかり考えている。もちろん、弁護士としての理性が、それを久美子が望むのか!と叱責してくる。弁護士という立場上、そういう想いを持つ依頼者を真摯に説得したこともある。
だが、久美子に会いたいという想いが日増しに強くなるにつれ、「死」が甘美な色合いへと変貌し、そしてゆらゆらと誘う手の振りが大きくなってきていることは分かっていたし、拒絶するつもりもなくなっていた。
もう、この誘惑には勝てない。楽になりたい。
心に積もり続けた澱は研一の心をがっしりと掴んでいたが、むしろその澱にそのまま沈んで行くことが自分の望みであることを研一は、理解していた。
冷蔵庫に残るビールも残り数本になった。全て飲みきったら、久美子に会いに出かけよう…
身寄りのない自分には、何も残っていないが、弁護士としての矜持が後始末をしっかりつけておくべきであることを告げていた。
研一は、遺書を書くため、ノートパソコンを取りに立ちあがった。
ブゥーーン。
コンセントを電源タップに差し込みスイッチを入れると、ハードディスクが回転する静かな振動が伝わってきた。
床に座り、ソファにもたれかかりながら、座卓の上に置いたパソコンが起動するのを待つ。手にした缶ビールから琥珀色の液体を口に含むと、冷たさはすでに失われていたがアルコールとしての機能を失ったわけではないので、問題はない。
そして、アルコールに身をまかせながら起動中の画面を見ていた研一に、突然、時折襲ってくる感情の津波が押し寄せてきた。頭からつま先にかけて血が落ちてゆく。それも「スーッ」と音を立ててだ。
その無音の音に(お父さん)と呼びかけてくる久美子の声が重なった。
体を、負の感情が包み込む。
なぜ――なぜ――
パソコンの前で研一は身を捩りながら口を押さえた。
小さい頃に握った手のぬくもり、今日はお父さんの好きなお味噌汁ね、と微笑む温かい声、お酒の飲み過ぎ!と目で訴え、缶ビールを取り上げたときの怒った表情――その全てが遠い彼方にあるのは自明の理だが、失われたものは自分の命を代償に捧げても届かぬところにあり、また失ったことを理解しなければならないと告げる己の理性が浅ましく、そして疎ましかった。
うぐぐぐぐ――
押さえた指の間から嗚咽が漏れ、ふと頬を熱いものが伝うのを自覚した。
涙はとうに枯れはてたと思っていたのに――しゃくりあげながら頬を手で拭うと、それは赤かった。
血の涙――そうか、やはり涙は残っていなかったが、血は流せるのか――どうせならこんな血など全て流れ出してしまえ!
心が漆黒の闇に覆われていく。思わず研一は、目を閉じて頭をテーブルに打ち付けていた。
ガシャッ!
頭を受け止めたキーボードがいやな音を立てる。ジンとした痛みが額を走り、目を開けるとパソコンの画面が何かを表示しているのに気がついた。
(なんだ?)
ブラウザが立ち上がり、黒い画面に白い文字が浮かんでいる。頭でどこかのボタンを押してしまったのだろうか…
白い文字は簡潔だった。
「日本ジャスティス実行財団のホームページへようこそ」
聞いたこともない名称が黒い画面に揺らめいていた。
その揺らめきを見ていると、頭がぼんやりしてくるのを感じる。きっと、さっき頭を打ち付けたせいなのだろう。
よく目を凝らしてみると、名称の下には、「Enter」と「Exit」のアイコンが浮かんでいる。
このホームページに入るかどうかを聞いているのだろうか――
心を覆った闇がその黒い画面に呼応したのか、研一は吸い込まれるように「Enter」をクリックしていた。
画面が切り替わる。
同じ黒いままの画面だったが、キーボードを叩くように一文字ずつ白い文字が現れはじめた。
「あなたが行いたい正義とは?」
俺が行いたい正義?
霞んだ思考の中、研一はぼんやりとその意味を考えた。
そして再び、心の闇が重さを増していくのを感じた。
俺が行いたい正義だと?
そんなもの、決まっている。
無免許でドラッグを吸いながら運転していた若者が憎い。
久美子を奪った交通事故が憎い。
――そう――交通事故が憎い!
飲酒、無免許、無謀運転などで、死にいたらしめる事故に繋がっても、殺人罪とはならない。刑法第二百八条の二で規定されていた危険運転致死傷罪は、平成二十五年に自動車運転死傷行為処罰法という新たな法律として制定された。だが、過失致死傷より重い故意の傷害罪に準ずる扱いにはなったものの、その適用には危険運転を証明する必要がある。証明できなければ殺人罪どころか、新たに制定された危険運転致死傷罪も適用できず、いままでと同じ「過失致死」の扱いだ。
今年に入って、ドラッグを吸って運転したため起きた死亡事故は一件や二件ではない。何度もニュースのトップを飾っていた。
そうしたニュースを知りながらも、ドラッグを吸ってさらに無免許で運転するなどもっての他だ。そこに生じる危険を、そのドライバーが認知していなかったとは言わせない。事故を引き起こすつもりがなくても、重大事故が起きやすい状況を自ら作り出した以上、それは「故意」以外の何物でもないはずだ。
弁護士の立場から、法の内容がどうであれ、仮に悪法であったとしてもその法が遵守されなければ社会が混乱することは十二分に理解できる。悪法ならば法の解釈を捻じ曲げるのではなく、実際に適法となるよう法律の改正を働きかけることが、法が持つ本来の意味合いを守ることにつながることも分かる。
それに、車社会の今、交通事故を減らす努力はできても、絶対に事故を起こさない社会を作ることは不可能だ。交通事故を完全になくす唯一の方法は、車を使わないことしかない。交通事故そのものが不可避なものである以上、必要以上に重い刑罰を与えることは、今の社会運営に齟齬を生じさせる恐れがあるから、基本は「過失」なのだ。
それは理解できる。いや久美子が事故に遭うまでは、職業柄、理解せざるを得なかった。
だが――今は違う。
もし、無免許運転や薬物、飲酒するなど正常な運転ができない状況では車が動かないシステムが作れていれば、あるいはそういった科学技術の進歩を待たなくとも、法律で重大に罰するようにしていれば、そうした違反は大幅に軽減されていたはずだ。
刑法は事実上、被害者を救うためのものとなっていないことがある。もちろん、加害者に対して、犯した罪にあった必要な罰を与え、そして更生に導くことが目的として存在していることは分かる。
しかし、実際の裁判の過程において、被害者の人権よりも加害者の人権が優先されているとしか思えない例は数多い。被害者の名前が報道されても加害者の名前が報道されない、というケースもその一つだろう。当然、それは法律にのっとった報道機関の判断によるものだが、その法律がおかしいと感じるのは自らが被害者の立場になったときだけだ。さらに、未成年だったり責任能力がなかったりすれば、罰そのものを受けないことすらある。
犯罪という行為を犯して、その被害を受けた者がいるにも関わらず、だ。
無免許、飲酒や薬物を使用しての運転行為は違法だ。違法ならば、相応の罰を受けるべきだろう。いや受けなければならない。
久美子を撥ねた犯人が仮に生きていたとしても殺人罪で裁かれることはない。無期懲役すらない。危険運転致死傷罪が認められ併合加重されても刑期は最大で三十年だ。十人以上を「殺した」のにだ。
ここに「正義」は存在していない。正義が存在するなら、行った行為に対して相応の報いがあって然るべきだ。そうでなければ、これからも同じ事故は繰り返されるだろう。
画面の中央にある白い枠は「文字を打て」といわんばかりに、大きなカーソルを点滅させていた。
研一は、一文字ずつ、ゆっくりとキーボードを叩いた。
「違法な運転が行えないようになること」
そう――全ては、違法と認識しながら運転するドライバーがいることが問題なのだ。
過失は、誰にでも皆平等に起こり得るし、そこには運という不確定な要素も関わっている。
どんなに慎重に運転していても、急な飛び出しには対応できない。極端な話、相手が自殺を考えて死角になる、例えば―――建物の上から突然飛び込んでくるのを必ず避けることなどできるはずがない。過失まで全てを厳罰化して裁いたならば、社会が成り立たなくなるだろう。
だが、ドライバーが違法な運転であることや、事故する可能性が高まることを承知していたならば話は別だ。過失につながる故意は、避けることができる。なぜなら、酒を飲んだら運転しない、無免許でハンドルは握らない、そういった違法な行為を行わなければ良いだけだ。ドラッグを吸っての運転はドラッグの吸引自体が違法だから問題外だろう。
まず違法な運転を完全に除外することが「正義」へとつながるはずだ。
悪いのは全て、違法運転するドライバーだ!
研一は、自分の昂った想いに少し指を震わせながら、白い枠の下に表示された「OK」ボタンをしっかりと押した。
再び画面が切り替わる。
さっきと同じように、黒い画面に一つずつ文字が現れてきた。
「基本ルールは?」
思考が揺らぐ。
偶然現れたホームページに、こんなことを書き込んでも何の意味も持たないだろうと、頭の片隅でふと思ったが、一瞬だった。心を覆う闇がその思いをかき消した。
意識を画面に戻す。
ルールとは何か?
今、自分は何をしていたのか?
そう、確か「違法な運転がなくなればよい」そう考えていたはずだ。
そのためのルールを決めろというのか?
いいだろう。決めてやる!
研一は、さっきと同じように白い枠の中に言葉を打ちこんだ。
「飲酒や無免許、薬物の使用など、法律で禁止されている運転行為は、これを全て禁ずる」
堅苦しい言い回しだが、具体性を示しながら禁止行為の範囲を示すのが法律の基本だから、これがルールで良いだろう。
――いや、ダメだ。
違法行為を禁ずるだけではダメだ。
そこには罰則が必要だ。罰則がない法律や条文の遵守は、結局のところ人の良心や道徳心に頼るしかない。だが、得てして遵守しない人間ほど、そうした良心や道徳心など道端の石ころ程度にしか考えておらず、蹴飛ばすことに何らためらいもない。実際、公判ではそんな人間を腐るほど見てきた。
罰を示さなければならない。
だが、人には不注意、という部分を誰しもが持っている。故意ではない、悪意のない過失や誤りは誰にでもあり得ることだ。したがって、一定の猶予規定もあって然るべきだろう。
「未成年や責任能力の有無に一切関わらず、違法な運転を行ったものは二度と運転ができなくなる罰を受ける」
「ただし、この罰は一度だけ猶予を与える」
研一の心に、これまでにも増してどす黒い感情が湧いてくる。
違法な運転を故意に行う者は相応の罰を受けるべきだ。それは、久美子をこの手から奪っていった社会への罰だ。
思考が飛躍し始めていることを研一が気づくことはなかった。ただ、やりきれない自分の思いが澱を重ねながら、取り戻せない我が子への無念と、誰かに責任を負わせたい怒りが絡み合ってその身を覆い尽くしていた。
そして研一は、ゆっくりと「OK」ボタンをクリックした。
三度、画面が切り替わる。だが、今度は黒い画面ではなかった。
どす黒い赤。それも鮮血ではなく澱んだ血のような赤だ。そこに、今度は白ではなく黒い文字が現れ始めた。
赤の画面に黒い文字。
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●基本ルールを受け付けました。
基本ルール一:飲酒や無免許、薬物の使用など、法律で禁止されている
運転行為は、これを全て禁ずる
基本ルール二:未成年や責任能力の有無に一切関わらず、違法な運転を
行ったものは二度と運転ができなくなる罰を受ける
基本ルール三:ただし、この罰は一度だけ猶予を与える
ルールの細部とルールの適用開始日は当財団において決定し、当財団が責任を持ってルールに沿ったジャッジメントを実行いたします。
ルールに基づくジャッジメント実行の間までしばらくお待ちください。
日本ジャスティス実行財団
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赤い画面は、心臓を鷲掴みするような不吉さを漂わせていた。気のせいか、息苦しささえ感じる。
研一の目から血の涙が頬を伝い落ちる。
研一の心を覆っていた闇はいつの間にか霧散し、代わりに甘美な安堵の想いが満ちてくる。
(お父さん)
久美子が呼んでいる。血の跡をつけた研一の頬がゆっくりと弛緩し、微笑みに変化していく。
そして――
ゆっくりとその体は、床に崩れ落ちていった。
静寂が満ちた室内では、赤い画面を表示させたパソコンだけが存在感を主張していた。
■二○XX年六月十一日
▼神奈川 新次郎の部屋
新次郎が引きこもりになってから五年は経っていた。引きこもりになったきっかけは、大学受験に失敗してからだった。良くある話だ。
毎日、夕方に起きて朝になってから寝る。起きている間は、オンラインゲームの世界に浸っている。食事は、母親が部屋の前に置いてくれるのを食べ、食べ終わった食器は、部屋の前に置いておく。風呂に入るのは一週間に一度。それも、家族が全員寝ているのを確認してからだった。
いつまでも続けていられない。
そんなことは良く分かっている。だが抜け出せなかった。
深夜。
起きてから、ひたすら続けていたオンラインゲームの手をようやく止めた。飽きたのではない。食事をするためだ。食事が終われば、またゲーム再開だ。
そっとドアを開けるといつものように、お盆が置かれていた。ラップがわずかな山を形作っている。今日の食事はおにぎりだった。
(ババァ、手抜きしやがって)
お盆を部屋に持ち込むと、文句を心の中で呟きながらも、片手でおにぎりを持って、もう片方の手はパソコンを操作する。そして、時々訪れている掲示板にアクセスして、毎日寝る間を惜しんでプレイしているオンラインゲームの新しい情報がないかと、ゲーム板をクリックした。
すぐに新次郎が遊んでいるゲームのスレッドが見つかった。人気ゲームだけあって上位に表示されている。昨日、最後にこのスレッドを見てから二十四時間ほど。レスは三百ほど増えているようだ。
マウスで画面をゆっくりとスクロールさせながら、昨日の続きから順番にレスの内容を読んでいく。そして、ちょうど今日の日付になってからの書き込みを見たとき、新次郎の手が止まった。
「何だこれ?」
書かれた内容を読み、他愛もないイタズラだと思った。この手のレスは良く見かける。気に留めずにスクロールを続けると、他のスレッドにさっき見たイタズラの書き込みがコピペされている、というレスがちらほら現れた。
そのうち、全部のスレに書き込みがされている、というレスを見た新次郎は「ほんとかよ」と呟き、スレッドの一覧に戻ると他のスレッドをクリックした。
確かに、このスレッドにも書き込みされている。他のスレッドはどうだろう?
次々にクリックしてみた新次郎は、どのスレッドにも書き込みされていることを知り、そしてあることに気がついた。それは、書き込みされた投稿時間だった。さっき見たスレッドに戻って、書き込みを確認すると全く同じ時間に書き込まれていた。
(こんなこと、どうやって出来たんだ?)
少しずつ、興味が湧いてきた。このコピペの内容が、もし本当だったら、面白くなるだろうな…
もちろん、その内容が本当のはずがない、ということを新次郎は分かっていた。ただ、何かが起きそうな予感だけはあった。引きこもっている自分に刺激を与えてくれそうな何かが。
▼東京 警察庁サイバー特別調査課
「これです」
喫煙ルームから席に戻ると、博巳は恭介にホームページを見せた。それは、有名な大手掲示板のニュース板のスレッドだった。
一見、特に変わったところはない。
今日の主なニュースを、タイトル名につけたスレッドが並んでいるだけだ。政治の話、科学の話、事件の話、規則性など何もなくスレッドが並んでいる。
「確か、さっきの話だと、一斉投稿があった、ということだったが…」
恭介がつぶやくと、博巳が一番先頭のスレッドをクリックした。画面をスクロールして、あるレスを画面に表示させる。
そこに書かれていたのは、「お知らせ」と称してはいたが、確かに内容は変だった。
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◆◆日本ジャスティス実行財団からのお知らせ◆◆
当財団に新たなルールの申請があり、厳正な審理を行った結果、その申請を受理いたしました。
そこで、次の通り、ジャッジメントを発動いたします。
■ジャッジメント
一、二〇XX年六月十五日午前零時をもって日本国内において自動車を、無免許や飲酒、
薬物使用などの、運転を禁じられている者が運転することを全て禁じます。
二、前項の運転を禁じられている者の基準は、ジャッジメント発動時の法律に準じます。
三、ジャッジメントの発動時以降、本ジャッジメントに該当する運転者が運転を行って
いた自動車の駆動は停止します。また、その運転者は以降、一切、運転することが
できなくなります。
四、ただし、初回の違法な運転時についてのみ、二十四時間後に猶予を与えます。
五、本ジャッジメントは、第二項の規定とは関係なく、責任能力の有無は問わずにず
発動いたします。
以上。
二○XX年六月十一日
日本ジャスティス実行財団
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「単なる、いたずらだろ、これ」
「そう思うでしょ。でも、他のスレを見てください」
そう言うと博巳は、ニュース板のページを再度表示させ、二番目のスレッドをクリックした。
「時刻は昨日の零時っと…」
画面をスクロールして、あるところで止める。そこには先ほどと同じレスが表示されていた。
「これ、この掲示板のスレッド全て、ニュース板以外にも全部、投稿されているんです。それも全く同じ時刻に」
画面を指差すと、投稿時間は全て、昨晩の零時零分だった。しかも、ご丁寧に百分の一秒まで表示される投稿時間は、全てゼロが並んでいた。
「まさか。この書き込みのレス全部が同じ時刻なのか。無理だろ、それって?」
掲示板の投稿は、投稿者が投稿ボタンをクリックすると、サーバー側で受け付けられた時間が表示される仕組みになっている。その時刻はサーバー側のちょっとした混雑具合で微妙に変化する。同じ内容のレスを、全てのスレッドに、百分の一秒まで同じ時間で投稿することとなるとまず不可能といえる。
理論上はあり得るが、手動で行うことはできない。なぜなら、投稿数と同じだけの違ったIPアドレスを持ったマシンが必要だからだ。
この大手掲示板には、テーマで分けられた「板」が百以上ある。各板ごとにスレッド数も百以上あるだろう。そして、機械をつかっての営業的な投稿を防ぐため、最初の投稿にはIPの認証が求められ、同じIPから投稿するには六十秒の間が必要だ。
つまり、全部で一万以上のスレッドがあるわけだから、そのスレッド全てに、同時刻で投稿を行うためには、物理的にIPアドレスの違う一万台のマシンが必要になる、ということだ。
さらに、百分の一秒まで全てゼロで揃えることなど、一投稿だけに限っても、狙ってできるものでもない。ストップウォッチを持って、十秒ゼロゼロ秒を目指して止めようとすれば、それがいかに困難なことかがすぐに分かるだろう。十分の一秒まではなんとかゼロで止めらられても、百分の一秒をゼロで毎回止めることなど不可能だ。
さっき、喫煙ルームで博巳は「ハッキングでしょ」と言っていたが、常識的にこの投稿を成立させるためにはサーバーにハッキングして、投稿時間を含めて直接書きこむしか方法はないだろう。
投稿内容は無論、荒唐無稽だ。
違法な運転を禁ずる、これ自体は理解できる。理解はできるが、禁じてどうなるというのだ?
言葉で言うだけでは、何の効力も持たない。言うだけなら誰にでも言える。
そこで、守らなかった場合の罰則として、三番目の項目が出てくるのだろうが、法律上で許されていない者が運転をすれば、車が動かなくなって運転者は二度と運転できなくなる?あり得ない。そんな方法があれば警察の出番はなくなるだろう。
どういった方法で運転ができないようになるのかまでは書かれていないが、マンガや小説など空想の世界でしか通用しない話だ。物理的に不可能だ。どうやって運転者が違法な状態であることを判断するのだろうか?
確かに、運転者の飲酒を検知するモデルの車が開発されていることは、小耳に挟んだことがある。だが、日本の自動車にその機能は標準装備されてはいない。
現行の法律で考えるならば、該当するのは道路交通法だろう。第六十四条から六十六条のところに、自動車などの車両を運転してはならない規定が書かれている。運転免許がない者、酒気帯びや過労、病気、薬物の影響その他の理由により、正常な運転ができないおそれがある状態で車両等を運転してはならない、と定められている。だが、こうした運転者の違法性を検知して自動で駆動を止めるシステムなど、今の自動車に備わっているはずがない。
物理的に不可能なことが書かれている以上、書き込まれた内容は、いたずらと判断して差し支えないだろう。唯一、考えるとするならば、物理的に困難と考えられる投稿方法だが、こちらの方は投稿内容とは違い、困難なだけであって、ハッキングなどの方法であれば物理的には可能だ。
そして、ハッキングだとするならば、これはサイバー対策室の仕事だ。調査課の仕事ではない。恭介は結論づけた。
「これはハッキングだろう。本庁行きだな。うちには関係ない」
「そうなんですけど…」
博巳の歯切れが悪い。
「何か気になることがあるのか?」
サイバー特別調査課は、未知の犯罪を暴かねばならない一面がある。常識では図れない、というだけで調査しないのでは、人知を越える犯罪の発生に関わることなどできやしない。
が、それでも限度というものがある。
物理的に不可能なことを可能にする材料がどこにもない以上、調査の対象にはできない。というか、こういった内容はネット上に山ほどあるわけだから、いちいち調査していてもキリがない。調査課の物理的な対応能力の限界を越えることになる。
だが、博巳は何かが引っかかっているようだ。
「投稿方法がもし不可能な状況だったと判明したらどうでしょうか?もし、一つ不可能なことができたなら、他の不可能なことも可能になるんじゃないかな、って思ったんです」
なるほど、確かに投稿方法が物理的に不可能な状況で行われていたなら、投稿内容自体も不可能だと言いきれない可能性が出てくるかもしれない。
既知の考え方で証明できないことが、後に発見された事象により新たに証明できるようになった、という出来事は、科学の世界で珍しいことではない。
しかし――今回の内容が実現されることは、恭介が知る常識で考えると、超常現象を目の当たりにすることに等しいように思う。
「確かに、不可能が一つ可能になれば、そういったことがあり得るかもしれんが――だが、投稿方法を調べるのはうちの仕事じゃないし、今、この案件で捜査できることなど、何もないだろう?」
博巳は少し考えていたが、渋々といった感じで頷いた。
「そうですね。うちの調査課で行える捜査、今回の件では何もないか…」
「いずれにしろ、あと四日後には、本当かどうかはっきりすることだ」
恭介は、果たして今回の書き込みがどういう結末を迎えるのかを思い浮かべてみたが、結局のところ、何も起きずにいたずらの投稿だったことが証明されるだけだろうという結論に至っていた。博巳が懸念しているような事態になったら、それこそ社会が「ひっくり返る」ことになるだろう。恭介が持つ常識からすれば、突然、太陽が西から昇るようなものだ。
やはりあり得ない。
まだ納得いかない顔の博巳だったが、恭介の「この案件は上がりだ、上がり」と告げる言葉に「そうですよね」と頷きながら、課長への報告書を作成するため席に座った。
「日本ジャスティス実行財団」を名乗る何者かの書き込みは、当日、ネット民の間でかなり話題になった。だが、それ以上の書き込みがなかったこともあり、翌日にはレスもつかなくなった。
マスコミのニュースでも一応、取り上げられたが、それは書き込みの内容についてではなく、一斉に掲示板に書き込みがされたことがハッキングされたのではないか、という事件性についてのものだった。
そして、掲示板の管理者は二日後に声明を出した。
投稿時間が百分の一秒まで同じ投稿を、どうやって行えたのかは不明だが、サーバーのログを全て調べたところ、侵入された形跡はなかった。事件性は考えづらく、大規模な「いたずら」が起きたのではないか、という内容だった。調査課でもこの案件はすでに警視庁に差し戻していたが、警視庁はコメントすら出さなかった。物理的にあり得ない、常識外の出来事が発生することを想定した捜査を行うことができるはずもなく、当然と言えるだろう。
こうして大きな騒動に至ることもなく、事態は収束したかに思えた。
六月十四日の夜には、掲示板に「明日は飲酒運転撲滅の日」「無免許の厨房が泣くのが目に見える」といった、今回の書き込みを揶揄するようなタイトルのスレッドがいくつか立ちあがった。騒動に便乗して誰かが立てたのだろうが、立てた本人も本気とは思えず、面白がってレスをする人間はいても、誰も真剣に捉えていなかった。
そして、六月十五日を迎えた。
■二○XX年六月十五日
▼大阪 御堂筋線
「ねえ、あの話知っとる?」
三原三江子が、助手席のサンバイザーを下げ、ミラーを使った化粧直しをしながら聞いてきた。
堺市の家に向かって車を走らせていた滝直哉は、うるさそうに「あ?」とだけ答える。
(オトコの前で、化粧直しすんなや、ボケ!)
心の中で思いっきり悪態をつくが、声には出さない。
付き合い始めてから二週間で、これだけ豹変するとは思っていなかった。最初の頃はうぶな女だと思っていたが――とんでもない、大間違いだった。一度、体の関係を持ったら、もう女房きどりだ。
顔もスタイルも良い三江子を、まだ捨てきれない直哉だったが、三江子の態度に今日は抱く気が萎えている。北新地で飲み過ぎたせいもあるのだろう。眠気もあって直哉はイライラしていた。
もうすぐ日付が変わる時間帯だが、土曜日の御堂筋線は混んでいる。今は、心斎橋から道頓堀のあたりだが、不景気を感じさせない人の波だ。冬のイルミネーションやライトアップで装飾された華やさはないが、一方通行の幅広い道路は、同じ方向に向けた車のライトで煌々と照らされ活気づいている。
直哉のそっけない返事も気に留めず、三江子は化粧を終えサンバイザーを戻した。
「もう飲酒運転したらあかんようになるって」
「そんなん、当たり前やろ」
直哉は、若さもあってか、飲酒運転することに抵抗を覚えていなかった。飲んで運転することがしょっちゅうあるわけではないが、今まで検問に引っ掛かったことはない。仲間には、免停をくらった奴もいるが運が悪かっただけだ。だが、飲酒運転が違反な行為であることは、当然だが知っていた。
「違うって、ジャッジメントの話やって」
ジャッジメントの話?聞いたことがない。
「知らんわ」
「なんか、明日から飲酒運転しようとすると、車が動かんようになるらしいよ」
「はぁ?なんやそれ」
三江子は、きょとんとした返事をする直哉に、数日前、大手掲示板に投稿されていた内容を教えた。三江子の記憶はうろ覚えだったため、単に、明日の午前零時から日本中でジャッジメントという何かが発動して、飲酒運転している車は動かなくなる、という話を伝えたのだが、直哉は即答した。
「そんなこと、出来るわけないやん、ふん」
運転中の車を突然止めることなどできるはずがない。しかも、飲酒運転している車に限って、などもってのほかだ。神様が罰を下す、とでも言いたいのだろうか。作り話だとしてもお粗末だ。出来が悪い。
直哉は鼻で笑った。
「でもな、千夏と夏樹が、ほんまやって言うとったで。ナオちゃん飲んでるから、この車も動かんようになるで、きっと」
直哉はため息をついた。友人とそんな低俗な噂で盛り上がる女だと分かっていたら、手を出すことはなかったのに…
「ほら、もうすぐ日付変わるで」
三江子の言葉に運転席中央にあるデジタル時計をみると、確かに、その針は間もなく午前零時を示そうとしていた。
渋滞して、のろのろと進んでいた車列の中、直哉の車はちょうど道頓堀橋の上で停止したところだった。左手には戎橋と有名なランナーの大きな電飾看板が見える。前の信号は赤だ。あと少しで難波を抜けられる。そうすれば、少しはスムーズに流れるだろう。
「十、九、八、」
時計の針を見ながら三江子がカウントダウンを始めた。電波時計だから正確に刻んでいる。
「やめとけ」
直哉の制する言葉に、逆に三江子は手拍子を打ち始めた。
「七、六、五、四、」
「やめとけって、言うたやろ」
声を荒げる直哉だったが、三江子は気にしない。
「三、二、一、」
「おい!コラ!」
もう我慢ができず、手を上げかけた直哉だったが「ゼロ!」と三江子が叫んだとたん、車内の明かりが突然消え、手を上げようとしたまま固まった。
「なんや?」
三江子も口を「ゼロ」の形のまま、ポカンとしていた。
エンジンの微振動も止まっている。キョロキョロと辺りを見渡すと、前の車もテールランプが消えていることに気がついた。
キースイッチを触り、いったん戻してから、スタート位置に回す。だがエンジンが回らない。空回りするようなキュルキュルとした音すら聞こえない。そればかりか、ONの位置まで回れば点灯するはずの運転パネルも消灯したままだ。車から一切の反応が消えていた。
(まさか――ジャッジメント?)
さっき三江子から聞いた話を思い出し、ゾッとした。本当に起きたのか?
ドアを開けて車を降りる。後ろを見ると、渋滞した道路のあちらこちらで、ヘッドライトが消えている車が見えた。車列は完全に停止状態だ。
プップゥーーーー!
そして、長いクラクションの音が鳴り響く。業を煮やした誰かが鳴らしたのだろう。
プップゥーーーー!
もう一台――やがてもう一台。
周囲は、クラクションが奏でる不協和音の合奏曲で満ちていった。
もしかして…自分は罰を受けたのか?
直哉は、足が震えるのを自覚した。
▼東京 首都高速三号渋谷線
君原悦男は不機嫌だった。
今日は二週間ぶりに休みが取れ、与えられた二日間の休日を、歌舞伎町で仲間と遊び倒す予定だった。しかも、土日の休みは久方ぶりだ。
悦男が勤めているのは小さな運送屋だが、ネット通販の利用が多くなったせいか、社会が不景気を騒いでいる中、仕事は休みが取りにくい程の忙しさだった。それほど高給ではないが、時間外の仕事もあって、三十歳という年齢を考えれば、生活に困らないくらいの稼ぎは得ていた。恋人もいない悦男の楽しみは、月に一、二度のキャバクラ通いで、今日は友人と一緒に、夜に備えて昼から居酒屋で飲んでいた。
だが、十五時頃に鳴った携帯電話に出たのが運のつきだった。
スマホから社長の声が聞こえた時、画面に表示されていたであろう名前を確認せず電話に出たことを悦男は後悔したが、時すでに遅かった。
予定していたドライバーが盲腸で緊急入院してしまい荷物が運べない、休みの日に悪いが配達してくれないか、と、社長が懇願していた。物穏やかな社長が電話の前で頭を下げているのが目に浮かんでくる。社員の休みを平気でつぶすような社長ではないし、随分面倒も見てくれていた。
悦男はため息をついた。仕方がない。
「社長、でも自分、今、飲んじゃってますから、すぐには無理ですよ。醒ます時間が必要です」
職業ドライバーにとって、飲酒運転はあってはならない。万一の事故は、会社の存続に関わることもあり得る。中には、飲酒どころかドラッグを平気でキメて仕事するドライバーもいるが、悦男はそんな真似は到底できないし、したくもない。
「構わんよ。明朝に大阪についていればよいから、出発は二十三時で間に合うだろう」
今が十五時。すぐに家に帰れば、五時間から六時間の睡眠は取れる。それだけの時間休めば、確かに平気だろう。今日はまだ、生ビールを大ジョッキで三杯程度飲んだだけだ。悦男は酒に強い方だ。夜飲んで、朝から仕事に行くいつものパターンとなんら変わりはしない。
肩を落とした悦男は「分かりましたよ、社長」と半ば嘆きながら「でも代わりの休みは今週中にくださいよね」と釘を指し「分かった、調整してなんとかする」とすまなそうに返事をする社長の声に、再び詫びている姿を重ねて、自分に頼ってくる社長の信頼感を想い、今日のキャバクラは諦めることにした。
友人に何度も詫びて家に戻り、酒が入っていたせいか布団に入るとすぐに熟睡した悦男だったが、二十二時過ぎに目覚めたとき、頭はすっきりしていた。酒が残っている感覚もない。
そして、約束通り二十三時には芝浦にある会社に出社し、何度も頭を下げる社長に「平気ですよ」と声をかけ、荷物を受け取ると大阪へと向かって出発した。
だが出発直前に、一緒だった友人から目当てのキャバ嬢が、店に出ていたことをラインで知らされ、気分は思いっきり凹んだ。休みの日にマリーちゃんに会えるなんて数カ月に一度なのに――よりによって、突然仕事が入るとは、ついていない。
不機嫌なまま、それでもドライバーの意識は保ちながら芝浦インターから首都高速に乗る。首都高速一号羽田線から浜崎橋ジャンクションで首都高速環状線へ、そして谷町ジャンクションで首都高速三号渋谷線に入るルートは慣れた道筋だった。
池尻インターを過ぎたあたりで時計を見ると、あと数分で日付が変わる時間だった。深夜ということもあり、車の流れは順調だ。東名も事故情報はなく、しっかり休憩を取りながらでも午前九時には目的地に着けるはずだ。
十二トンは積めるウィングボディのトラックは、型も新しく乗り心地は悪くない。だが運転そのものは好きな悦男だったが、ハンドルを握っていても、今日はいつものような高揚感が湧いてこなかった。
(ついてねぇなあ)
運転を始めて数度目のため息がこぼれる。でも仕事に入ったからには仕方がない。次の休みに期待するか…今週中に調整してくれる、という社長の話だったしな。
少し気を取り直した悦男は、サイドミラーで後ろから車両が来ていないのを確認し、前を低速で走る大型トレーラーを追い越そうと、右車線へハンドルをゆっくり切り始めた。
間もなく、三軒茶屋の出口が見えてくる頃だ。そして、ラジオが零時の時報を告げた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピ
なぜか時報が途中で音を途切れさせ、同時に、突然、ガクンと体がシートベルトに押し付けられた。
(え?何だ?)
ブレーキも踏んでいないのに急激に減速し始めたトラックを、アクセルを吹かしながら、追い越し車線から走行車線の方向へハンドルを切ろうとするが、ハンドルが全く動かない。
さらに、アクセルを踏んでいるのに加速感がないこと、そして車内が暗くなっていることに気づいた。ラジオも沈黙し、計器類が真っ暗だ。前方を照らしているはずのライトも消えている。
悦男は瞬時にエンストに思い至った。
(まずい!)
大型トラックは、当然だが油圧でハンドルを操作している。そのため、エンストすると油圧ポンプが停止してハンドル操作ができなくなる。油圧を使わずに二十トンを越える車体を操ることなど、世界一の力持ちでも不可能だろう。
エンストによりエンジンブレーキがかかって減速しているが、追い越し車線に向かおうと切ったハンドルはそのままだ。六十キロ以上のスピードを保ったまま、中央分離帯の壁に向かっている。
「ウォーーー!」
ブレーキペダルを思い切り踏み込み、大声を上げ、両手で必死にハンドルを回そうとするが、びくともしない。ハンドルロックの状態だ。エアブレーキの噴出する音が背筋を凍らせる。満載した荷物のせいでタイヤもロックして滑り始めたことに気がついた。
制動が効かない!
顔を上げると、中央分離帯が目の前に迫っていた。
最初の急な減速から、わずか数秒の出来事だったが、悦男にとっては、長い時間だった。
悦男は知らなかった。ジャッジメントのことを。
昼に飲んだ大ジョッキ三杯、約二リットル近いアルコールが解毒されるまでには、十時間近い時間が必要で、わずかにアルコールが残った状態にあったことを。
そして、呼気中のアルコール濃度が酒気帯び運転となる〇・一五ミリグラムを下回っていても、アルコールが体内に残っていれば、処罰の対象にならないだけで、道路交通法違反に該当していることを。
中央分離帯に斜めにぶつかった強い衝撃は、運転席側のドアサイドビームをへし折り、運転席を飴細工のように押しつぶしていった。悦男のトラックはそのまま横転し、道路を横にふさぐ形で甲高い音を立てながら横滑りし始める。そこに、背後からきたトラックが停止しきれずに追突した。数台が玉突き追突した数秒後、爆発音とともに火柱が上がるが、その光景はここだけのものではなかった。
▼東京 多野恭介の自宅
トゥルルルルル
トゥルルルルル
遠くで電子音が、鳴っている。一定のリズムで繰り返されるその音は、夢の中を彷徨っていた恭介に覚醒を促した。
目をつぶったまま、手探りで枕元に置いてあったスマホを掴み、顔の前に持ってくる。なんとか薄目を開けて画面を見ると、博巳の名前が表示されていた。体を起こし、ベッドに座り時計を見ると時間は午前三時。軽くあくびをしてから、通話ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし。博巳か」
声がかすれているのがわかる。喉を潤すために、常に枕元に置いてあるミネラルウォーターのペットボトルを掴んだ。
「主任、こんな時簡にすいません」
一口、軽く口をゆすいでそのまま水を飲み込んだ恭介は、そういえば博巳は今日、宿直だったな、と思い出していた。少しずつ頭がはっきりしてくる。
「構わんさ。何か起こったのか」
「ジャッジメントです」
一瞬、博巳が何を言っているか恭介は理解できなかった。沈黙を受けて博巳は察したのだろう、もう一度、繰り返した。
「ジャッジメントと思われる事態が発生しています。四日前にあった例の書き込みです」
四日前にあった例の書き込み?ジャッジメント?――恭介は、少しの間があってから、唐突に思い出した。
あの車が運転できなくなるという書き込みのことか――って、まさか!
「どういう状況だ?」
「さっき、交通局から連絡があって、全国で事故が多発して、高速道路や幹線道路では事故以外に動かなくなった車が溢れているそうです。警備局の方からも例の投稿に対する問い合わせがありました」
「課長は?来てるのか?」
「三十分ほど前に。これから官邸で緊急の対策会議が行われるということで、警備局の局長と一緒に、今、説明のため長官のところに行っています」
くそっ、何てことだ!単なるイタズラとして処理したはずの案件が、実際に起こるなんて!日頃から、調査課のスタッフには、想像力を忘れるなと言っていたのに!
恭介は、自分に腹立たしさを覚えていた。
「で、さっき課長から内線で、全員を緊急招集するようにと連絡がありました。主任が、今日は息子さんのことで休みを取っていたのは知っていたのですが…」
「そんなこと構わん。すぐに行く」
そうして電話を切ろうとした恭介の耳に「待ってください、主任!」と博巳の声が聞こえてきた。もう一度、スマホを耳に当てる。
「何だ?」
「都内の幹線道路は全滅と考えてください。交通マヒで、車はおそらく使えませんから」
そんなに状況が悪化しているのか。
「わかった。何とかする。じゃあ、後で」
そう言うと恭介は、通話を切ってからすぐに着替え始めた。
▼東京 首相官邸
午前五時。
竹岡庄治総理が、官房長官からの連絡を受けたのは十分ほど前。
昨夜は大詰めとなっている通常国会の対策会議が長引き、午前二時過ぎに就寝したため、ほとんど睡眠時間は取れていない。
だが疲れた表情を見せずに、仮眠を取っていた官邸執務室から地下にある危機管理センターへと降りていった。とはいえ、来年六十五歳を迎えるとは思えない黒々とした髪が一目で分かるほど乱れており、事態が緊急性を帯びていることを示していた。
先に来ていた松野伸章官房長官と錦田茂警察庁長官、そして原木多より子国家公安委員会委員長が立ちあがって総理を迎える。
原木多委員長の赤いスーツは、危機管理センター内の清潔だが無機質な室内では、華やいで見える。もっとも、還暦はとうに過ぎ、古希が間近の彼女に似合っていると錦田は思えなかったが、国家公安委員会は警察庁を管理する立場にあるから、その考えをおくびにも出すことはなかった。
「突然起こしてしまい申し訳ありません」と頭を下げる松野に、軽く手を上げて応えた竹岡総理は、大型液晶画面の正面に座った。三人の長も総理を囲むように着席する。
秘書官から起こされた時、全国で一斉に交通事故が発生しており、緊急の対策が必要であることは聞いていたが、詳細はまだ知らずにいた。
秘書官が、飲み物を総理の前に置く。総理の好みは緑茶だったが、他の三人と同じコーヒーが運ばれてきた。総理だけ飲み物が異ならないよう気を使ったに違いない。しかし、満足な睡眠も取れずに早朝からたたき起こされた身としては、多少気を使ってくれても良かっただろうに…と少しだけ嘆いたが、これは年寄りの僻みといえるだろう。
飲み物に口をつけ、苦さに顔をしかめた総理だったが、ゆっくりと三人の顔を見渡した。
「おいおい、君たちがこんな時間に顔を揃えるなんて、何が起こったのかね」
危機管理センターに、官房長官、警察庁長官、そして国家公安委員会委員長が招集されること、しかも午前五時という時間を考えると、尋常でない事態が生じている、あるいは生じかけていることを示すことは言われるまでもなく悟っていた総理だが、場の重い雰囲気を少しでも変えようと、軽い口調で言った。
三人の長が一瞬顔を見合わせ、そして何代か後の総理と目されている松野官房長官が軽く頷いた。まだ若手といって差し支えない五十代前半の松野は、沈着冷静の態度を崩していなかったが、その顔が少し強張っているのを総理は感じ取った。
「では、早速。まだ細かな状況は把握できていませんが、現在までに入っている情報をまとめると――」
松野が手元のパソコンを操作すると、液晶画面に数字を羅列した表が映される。
「本日、零時過ぎから全国各地で車両の事故が相次ぎました。この数字は、午前四時現在のものです」
北海道八十三件、青森県三十二件――一覧表には都道府県名と、事故の件数が並んでいる。
特に首都圏の数字は桁違いで、神奈川、千葉、埼玉は二百から三百件、そして東京に至っては五百件を越えた数字が記されていた。
「本日零時以降、警察に通報があった事故件数は全国で五千二百九十八件です。そのうち複数の車両が関係した多重事故は全体の三割を越えています。死傷者数は、判明しているだけでも、心肺停止者が三十一名、負傷者は重軽傷を問わずに三千名を越えています。またこの数字は、時間の経過と共に増えることは確実です」
警察庁交通局が発表した二○一三年度の交通事故発生状況は、事故件数が六十二万九千二十一件、死者四千三百七十三名、負傷者七十八万一千四百九十四名だ。一日当たり平均で、事故件数が千七百件、死者十二名、負傷者二千百四十一名だ。
(これは、ただ事ではないな…)
総理は、早朝から呼び出されたわけを悟った。今回は、零時以降でこれだけの事故が、しかも全国各地で一斉に発生したのだ。尋常なことではない。
「しかも――」
続ける松野の声は、沈着冷静と評される人物とは思えないほど震えていた。喉仏がゴクリと動く。
「今回発生した事故のほとんどが、午前零時に発生したものと見られています」
「午前零時?」
同時刻に、一度に数千件の事故が発生したというのか――とても信じがたい。
「ええ、そして、現時点で判明している事故状況は、原因がほぼ同一でした」
「同じ原因の事故が一斉に起きた、というのか?しかも全国一斉に?」
総理は指でテーブルを軽くトントンと叩いた。それが、いらつき始めた時、総理が無意識に行う癖であることを松野は承知していた。
「で、その原因とは何なのかね?」
松野は視線を錦田警察庁長官に向け「説明は錦田君から行います」と言った。
錦田は、咳払いをするとハンカチを取り出し額の汗を拭いた。錦田も顔色は青い。
「えー、午前四時の段階で、事故を起こした運転者から聞きとりできた報告は今のところ三百七十六件が確認されていますが、そのほとんどの運転者が、エンジンが突然止まったことを訴えています」
「走行中にエンジンが止まったとしても、なんで事故が起きるんだ?そのまま停止すればよいだけだろう?」
総理の鋭い視線に錦田は、再度、額の汗を拭く。
「現在の自動車はそのほとんどが、基本的に制動と操舵、つまりブレーキとハンドルは機械が操作、補助してくれます。ブレーキは油圧式か空気式、ハンドルも同じく油圧式や電動式です」
そして錦田は総理に、簡単な自動車の仕組みを説明した。
今の自動車は、ハンドルはパワーステアリング、通称「パワステ」が標準的に装備されている。重量が何トンもある自動車の操舵を人力だけで行うには、相当な力を必要とする。普通車にパワステが装備されていなかった時代は、ハンドル操作が重くパワステがついてない車を「重ステ」と呼んでいたほどだ。パワステの恩恵を知る簡単な方法は、停車中の車でエンジンをかけずにハンドルロックだけ解除して、ハンドル操作を行うことだ。相当な力が必要なことがわかる。
つまり、エンジンが停止した状態ではハンドル操作が思うように行えなくなる、ということだ。
同じくブレーキも、エンジンが止まると、基本的には全く効かなくなる。これも停車中の自動車でキーを差し込まないままブレーキペダルを踏めば分かるだろう。最初は数回踏み込めても、やがて深く踏み込むことはできなくなる。
そうした説明を行った上で錦田は、「今回の事故は、走行中にエンジンが突然停止したため、ハンドルやブレーキが効かなくなったことが原因と考えています」と総理に告げた。
だが、ふと総理は一つの疑問が浮かんだ。
「でも、最近は電気自動車とか、エンジンが動いていなくても走る車が多くなっているんじゃないのか?」
「おっしゃる通りです。ハイブリッド車や電気自動車は、エンジンシステムが起動していなくても、バッテリーで駆動しています。しかし、操舵や制動は機械的に行っていますから、あくまで車両が始動していることが必要です」
「始動?」
「そうです。今回の事故を検証している限りにおいては、事故を起こした車両は、単にエンジンが止まった、というだけではなく、始動していない状態になった、もっと分かりやすく言えば、キーを抜いて車が動かない状態に突然陥った、ということです。その原因はまだ不明ですが…」
実は、今の自動車は、こうした突然のエンストにもある程度は対応できるシステムを持っている。ブレーキも、何度かは踏み込めるし、重たくなってもわずかにハンドルは操作できる。
だが、車両がキーを抜かれた状態、つまり「停止」した状態に陥ったなら話は別だ。
ガソリン車、ハイブリッド車、電気自動車、どういったタイプの自動車でも、「停止」した状態においては制動システム、操舵システムは機能を喪失する。いったん、そうした状態に陥れば、運転者は自然と停車するまでの間、何もできることはなく、後は運任せ、といった状況になる。
実際、二○一一年から二○一三年の三年間を国土交通省が調査したところ、AT車でエンジンが止まり、ブレーキやハンドルに異常が生じたケースは百十一件だった、という報告がある。その中で死傷事故は八件、死亡者一名、負傷者十一名だった。原因は、「ブレーキを効きやすくする機能やパワステがエンストで効かなくなったこと」と報告書には書かれている。
このように、エンジンが突然停止することはかなり危険な状態だ。
こうした説明を行った上で錦田はパソコンを操作した。
「現在のところ起きた状況を推定するとこうなります」
担当者に急いで作らせたのだろう、簡単なイラストを元にしていたが、出来の良い動画が画面に映し出された。
右上にはアナログの時計が表示され、時刻は十二時前を示している。そして、画面中央にはライトを照らしながら走行中の車。夜のシーンをイメージしてか、背景は灰色に塗りつぶされている。
「まず、午前零時に、何らかの原因で多くの車両が走行中に突然停止しました」
右上に時計が午前零時を示すと同時に、走行中だった車のライトが突然消えた。
「そのまま車は、制御を失い、前方を走る車に衝突…」
動画は、車が前の車にぶつかるシーンを示していた。動画を作った制作者が凝り性なのだろう、衝突した瞬間、衝撃音を伴わせていた。その音が総理をわずかに身震いさせる。
「もしくは、中央分離帯にぶつかって横転したり、歩道に乗り上げて建物に衝突しました。これが、監視カメラが捉えた事故の映像です」
画面が、モノクロの少しぼけた動画に切り替わる。
(こ、これは…)
錦田が説明する内容に沿った動画を見た総理は、事態がどれくらい深刻なものだったのかが、理解できた。
高速道路らしき場所で、大型のトラックが中央分離帯にぶつかり横転、そこに後続の車が次々に衝突し、炎が上がる。歩道に乗り上げ歩行者を撥ねながら店舗に突っ込む車。赤信号なのに止まらない、いや止まれない夜行バスに、横から大型トレーナーが衝突、さらに反対方向からも乗用車が次々と衝突する。
「――こうした状況が、全国各地で一斉に起こったのか…」
動画が終わり静まり返る中、総理の呟きが虚ろに響いた。
しばしの静寂、そして総理は振り絞るように声を上げた。
「被害状況の想定は出ているのか?」
錦田とは向かい合って座っている国家公安委員長の原木多女史は、錦田の顔色が明らかに青さを増していることに気がついた。無理もない。先ほど原木多も被害状況の想定を読んだが、そこには信じられない数字と、今後、陥るであろう状況が書かれていたのだ。
「最新の状況報告想定では…」
手元の書類を取り上げた錦田は少し躊躇したが、続けた。
「死者は約三千名、負傷者は約三万名となっています」
「三千名!――」
総理は絶句した。戦争やテロ、自然災害以外で一度にこれだけの死傷者が出た事例は聞いたことがない。さらに、全国広範囲に発生しており、単なる「交通事故」で片づけられる問題ではない。終戦以降、大地震や噴火、台風など、多くの犠牲者が出た事例はいくつもあった。だが、今回の事例は異質といえる。
「深刻なのは事故だけではありません」
錦田の言葉に、総理は我に返った。
「事故だけでない?」
「ええ。現在、入っている報告では相当な数の車両が路上で立ち往生しており、交通が麻痺状況に陥っております」
「どういうことなんだ」
「今回、事故の原因となった自動車の突発的な停止状況は、走行中の車に限ったものではありません。信号待ちで停止中だった車両にも、同様のケースが発生しております」
そして、錦田はテーブルに設置されていた電話を取り上げると、「例の画面を出してくれ」と告げた。やがて画面に、「LIVE・東京」と右上に書かれた画面が現れる。
映しだされたのはニュース番組のようだ。ヘリから撮影されている映像は、早朝の淡い太陽の光が照らす中で、影を伴った東京のビル群を幻影のように映している。本来なら、まだ喧噪に目覚める前の穏やかな、そして乾いた雰囲気の東京の姿のはずだ。
だが、いたるところで立ち上る煙が、災害後のような異様さを現わしていた。ざっと道路を見る限り、動く車の数より、停止している数の方が明らかに多い。いたるところで緊急車両の赤い点滅を確認できる。パニック映画で出てくるワンシーンのような光景がそこにあった。
(これが、東京の姿なのか…!)
音声が流れない映像に総理は、言い知れぬ恐怖を感じた。
「都市部を中心とした多くの幹線道路、そして高速道路は、複数の車両が停車して動けない状態です。当然、事故車両もそこには混在していますが、緊急車両も満足に近づくことができません」
画面は、名古屋、大阪、福岡と大都市の有り様を次々に映し出すが、どこも似たような状況だ。
まだ早朝のため、事態に気づいていない人の方が多いのだろう、異常な状況にも関わらず、画像から喧騒は伝わってこなかった。
「全ての車両が動かなくなったわけではありませんが、相当数の該当車両があるため、道路は完全に塞がった状態です。また、動かなくなった車両は今のところ、その原因が不明で、始動ができない、何をしてもエンジンがかからない状況です」
総理は、自分が見ている光景が現実に起きているものだとは、信じられなかった。
このまま朝を迎え、人々がこの状態を知った時、どうなるのか?全国の幹線道路が一斉に使えない事態は、危機管理マニュアルにもない。いや、ないはずだ。一斉に発生した事故自体も大事だが、道路が使用できないことは、事故以上に深刻な状況を引き起こしかねない。
「松野君、現状に対する対策は何か考えているのか?」
総理は、官房長官に尋ねる。
「どの範囲まで道路が使用できないのか、また、復旧にどれくらい時間がかかるのかは、これからの調査によりますが――大きな決断を迫られています」
松野の声は心なしか震えている。
「大きな決断?」
「はい。まず復旧までの間、基本的な物流はその全てがストップすると考えられます。鉄道、船舶、航空による運搬手段はありますが、道路が事実上寸断されている状況では、荷物を、駅やターミナルから目的地に届けることができません」
総理は、数年前に東北地方で起きた大地震を思い出していた。
都内でも物流が滞り、多くの店舗から品物が消えた。スーパーは品物が届かないと営業ができないし、飲食店も材料が届かなければ店を開けることはできない。そうした品物や材料は、ほとんどが車両で運搬されている。工場も同じだ。材料を運び込むこと、できた製品を運び出すこと、それらができなければ、ほとんどの製造業がラインを稼働させられないだろう。
「株式市場も、大きな混乱を生じることは間違いありません。さらに警察、消防、救急の緊急活動も大きく制限されます」
国民の社会活動が大きく制限を受ける、ということか。
道路とは生活を営む上で、唯一といえる「最終の移動媒体」だ。全ての建物は、その敷地が必ず道路に面している。当然のことではあるが、公共性の意味合いを強く持つ道路は人と物の流れを作るための媒体なのだ。そして社会活動の多くは、直接的、間接的を問わず、車により運営、維持されていると言っても過言ではない。
「で、さっき言っていた大きな決断とは、何が必要なんだ?」
数秒の間、松野は沈黙した。だが意を決して総理に告げた。
「――非常事態宣言です」
思わず総理は表情を硬くした。
「自分が何を言ったか分かっているのか、君は!」
怒気がこもった総理の言葉に、松野は身を竦めた。
確かにこれから起きるであろう混乱は、一定の強権を持って対処しないと、拡大を招く恐れがあることは確かだ。治安の維持に関わる事態が生じてもおかしくはない。
一般的には、国家に対して運営の危機が生じた際、非常事態宣言を発する。だが、日本では非常事態宣言を発令する根拠法令が定められていない。戦前であれば、旧警察法に基づき、内閣総理大臣に国家非常事態宣言を出す権限が与えられていたが、今はない。戦後、一九四八年四月にGHQが発令したことがあるが、日本がGHQ統治下にあった占領期のことで、しかも、日本の領袖ではなく占領軍が発令したものだ。
類似した制度を探せば、内閣総理大臣が発する災害対策基本法に基づく「災害緊急事態の布告」と、警察法に基づく「緊急事態の布告」、あるいは自衛隊法に基づく「治安出動」「防衛出動」も似た意味合いを持ってはいる。しかし、非常事態宣言そのものではない。法令に基づかない非常事態宣言は強制力を持たず、張子の虎ほどの意味合いも持たないだろう。
「すいません、言葉が足りませんでした。もちろん、非常事態宣言が今の日本で発令できないことは承知しています。しかし、物流の停止がどれくらいの期間にいたるか分からない中、買占めなどの混乱から暴動への移行を防いで、また、警察や消防の緊急出動を妨げない体制を維持するために、何らか非常事態宣言の意味合いを持った布告の発令は必要と考えます」
(むぅ…)
最初は、政権を担当している閣僚の言葉とはとても思えず、声を荒げた総理だったが、松野の言葉に一理あることを認めざるを得なかった。
全国で一万件を越えるであろう事故の対処は、事故車両の撤去から行わなければならないが、いたるところで寸断された状況の幹線道路を考えると、撤去に必要なレッカー車が到着することすらスムーズに行えない。さらに、事故とは関係なく単に動かなくなった車両がどれくらいあるのかは、全く分かっていない状況だ。
先ほどの空撮された映像を見る限り、事故車両よりも少ないとは思えず、下手をすれば、十万台以上の車両を撤去しなければならないだろう。どれくらいの時間が必要になるのか――想像することも恐ろしい。
かといって、道を空けるために、そうした動かない車両を潰しながら集めて積み上げるような方法は取れない。動かなくなった、あるいは事故した、とはいえ、車そのものの財産権は所有者にある。勝手に処分することはできない。一時的にどこかに「大切に」保管する方法を取らざるを得ないのだ。
だが、復旧が遅れれば、経済への影響も計り知れなくなる。食品や必需品の物流が滞れば、国民生活への影響も甚大となるだろう。
そうした事態を極力防ぐためには、一定の強権が必要なのは確かだ。
だが――通常国会が終盤のいま、野党とせめぎ合いながらなんとか通せる見込みがついた多くの法案も、強権を布告すれば間違いなく議決は吹っ飛ぶことになる。国民のため、とはいえ、その結果を国民が納得してくれるのは、おそらく事態が沈静化した後になる。一時的に、国家権力の乱用と騒がれることは避けられない。
素早く考えを巡らせた総理は、先に確認したいことを口にした。
「決断が必要になることは分かったが、その前に、車が突然止まった原因について、何か手掛かりはあるのか?」
「いえ、今のところは残念ながら…」
総理の問いに、警察庁長官の錦田は首を横に振った。
事故が全国同時多発していることを知った警察庁では、急遽、警察車両の整備担当職員を呼び出し、停止中に動かなくなった車両を検分させたが、一時間ほどのわずかな時間では原因を見つけるに至っていなかった。
「ただ、現時点で調査しなければならないポイントは分かっています」
再び、机を指で叩き始めた総理を横目で見ながら、錦田は手に持った用紙をめくる。
「まず、偶発的な要因で全国一斉に、しかも同時刻で故障する、ということはあり得ません。何らかの外的要因がそこには関わっているはずです」
総理は頷いた。確かに、走行中、停止中に関わらず、突然、車が動かなくなった、という話はほとんど聞いたことがない。エンストや、走行中に燃料がなくなったことに気がつかず、ということはあり得るが、高い頻度で発生することはないだろう。まして、それが事故につながるケースは稀だ。午前零時に、万単位の車両が一斉に陥るものではない。
先ほど、錦田の説明では三年間で百十一件あったそうだが、それが同時刻に万単位で発生することは確率上あり得ないだろう。
「また、今回全ての車両が動かなくなったわけではありません。午前零時の時間帯、道路上にある車両は、ピークの夕方と比べると、二十分の一程度の量です。それでも全国では百万台以上の車両が動いているわけですが、動かなくなったのはその一部に過ぎません」
「動かなくなった車と、そうでない車の違いがどこにあるのか、分かっていることは?」
「残念ながら…ただ、該当車両の運転者に一部、飲酒運転だったケースがあることは分かっています」
「飲酒運転?飲酒運転と事故の関係はあるかもしれんが、車が動かなくなることと関係などあるはずないだろう」
総理の言葉に、錦田は国家公安委員会の原木多を見た。女性ながら国務大臣の職責を秘めた鋭い眼光を放つ原木多は、「総理、一つ情報が入っているわ」と立ち上がり、手にした用紙を総理に渡した。総理よりも年長の彼女は、言葉遣いにも遠慮がない。
総理は、受け取った用紙を一瞥すると思わず顔をしかめた。
(何が書いてあるんだ、これは?)
「会議の直前に警察庁から入った情報だけど、四日前、ネットの大手掲示板に投稿された内容を印刷したものです」
********************************************************************************
◆◆日本ジャスティス実行財団からのお知らせ◆◆
当財団に新たなルールの申請があり、厳正な審理を行った結果、その申請を受理いたしました。
そこで、次の通り、ジャッジメントを発動いたします。
■ジャッジメント
一、二〇XX年六月十五日午前零時をもって日本国内において自動車を、無免許や飲酒、
薬物使用などの、運転を禁じられている者が運転することを全て禁じます。
二、前項の運転を禁じられている者の基準は、ジャッジメント発動時の法律に準じます。
三、ジャッジメントの発動時以降、本ジャッジメントに該当する運転者が運転を行って
いた自動車の駆動は停止します。また、その運転者は以降、一切、運転することが
できなくなります。
四、ただし、初回の違法な運転時についてのみ、二十四時間後に猶予を与えます。
五、本ジャッジメントは、第二項の規定とは関係なく、責任能力の有無を問わずに
発動いたします。
以上。
二○XX年六月十一日
日本ジャスティス実行財団
********************************************************************************
用紙には、掲示板をキャプチャしたものが印刷されている。
「これが、どうしたと言うんだね?」
総理は率直な疑問を口にした。書かれている内容は、意味不明なものでないが常識からは逸脱している。
確かに、今回の事故との関連性はある。午前零時、車両は駆動が停止、飲酒など、今まで聞いた内容と合致するキーワードはある。
しかし、この内容が今の科学技術レベルで可能でないことは、技術分野に詳しくない総理でもすぐに分かった。
「総理が言いたいことは分かります。常識であり得ないことだから。この投稿はすでに、警察庁のサイバー特別調査課でいったん検証の対象になったけど、単なるイタズラと判断されたの。そりゃそうね。空想の産物以外としか思えないわ」
それはそうだろう。総理も書かれた内容を一瞥したとき、誰かがイタズラで書いた、というイメージしか湧かなかった。
「でも、この投稿は、掲示板のスレッド全部、数にして約一万のスレッドに、百分の一秒まで同じ時刻に投稿されていたの。専門家の話では、こうした投稿を行うことは事実上、不可能、ということでした」
原木多女子は、簡単に掲示板と投稿の仕組みを説明した。そして、技術的にこうした投稿が不可能ではないが、その場合、ハッキングによりサーバーへ書き込みされたと考えられている。しかし、現在までに、ハッキングの形跡が見られないことから、原因不明となっていることを告げた。
「ただ、原因や方法が分からないだけで、こうした書き込み自体が、あり得ない話じゃないということなの」
「で、それが今回の事故と何の関係がある、というんだ」
「原因と結果が逆の可能性がある、ということです」
総理は、原木多の言葉に首を傾げた。
「簡単に言えば、四日前に掲示板に書き込みを行った者と、今回の事故を意図的に引き起こした者、あくまで今回の事故が人為的だと仮定しての話だけど――この両者は同じではないかもしれない」
まず、掲示板に愉快犯がハッキングなどの方法で書き込みを行った。その書き込みを見た誰かが、それに便乗して今回の事件を引き起こした、という見解を原木多は示したのだ。
確かに、掲示板に書き込んだ者と事件を起こしたものが同一でなくてもよいかもしれない。だが――
「君の意見はわかった。しかし、どうやれば今回のようなことを引き起こすことができるんだね?」
総理は、投稿者が書き込んだ内容を実現することが可能とは、どうしても思えなかった。
そこで原木多は、机に置いてあった眼鏡をかけると、別の資料を手にした。
「一つの例を挙げれば、EMP爆弾、電磁パルスによる攻撃ならば広範囲に影響を与えることが可能です」
(なるほど…)
強力な電磁パルスを受けた電子機器は、特別な防護措置を施していない限り、サージ電流で、損傷を受けたり誤動作に陥る。現在の文明社会は、電子機器がないと成り立たない。これは軍事面も同様だ。
例えば、核爆弾が高高度で爆破されると、猛烈なガンマ線が発生する。そのガンマ線が高層の大気と相互作用を生じることで、コンプトン効果が現れ、地磁気の影響を受けて、地球の中心に向かう電磁波の流れが作られる。敵国の電子機器を麻痺させるために、こうした核爆弾による電磁パルス攻撃戦略と、自国がその攻撃を受けた際の防御戦略は、各国で実際に検証されているのだ。日本も例外ではない。もっとも、核爆弾を持てない日本では、攻撃側の検証はされていないが。
当然、危機管理マニュアルには、EMP攻撃による想定もされており、総理もその影響については熟知していた。
「もちろん、今回の事例がEMP攻撃によるものと限られるわけでないわ。実際、サージ電流による影響が該当車両に確認されていませんから…でも、現在の技術で今回の事件と似た事象を作り出すことが不可能でないことは確かです」
なるほど、科学的な説明は一応可能なのか。だが、待て――
「では、その掲示板とやらに書き込みがあった、飲酒運転してた場合に事故や動かなくなることが起こったのは何故なんだ?」
「いえ、それがさっきの原因と結果が逆、ということです。実際、今回、事故が起きた加害者の中には、アルコール濃度の検知値が酒気帯び運転に該当しない値もあったわ。運転能力の可否を検知せずに正確に判断することなど不可能だから、今回の事件は、日本全体を覆うぐらい広範囲に影響を与える何らかの方法により、一部の車両が突然停車した、そして停車した車両の一部に飲酒運転に該当する人がいただけ、と考える方が自然じゃないかしら?」
そうか、意図的に運転者を選択したのではなく、たまたま、そうした飲酒運転など、掲示板に書かれた投稿に該当する運転者がいただけ、と考える方が理解しやすい。しかし、考えてみればどの車両が停止したのか、という問題より、そうした攻撃を受けた、ということの方が大きな問題だ。
総理は「攻撃」という言葉を自然と思い浮かべたことに、ふと背筋が寒くなったのを覚えた。
「――ということは、国内外問わず、何らかの武力攻撃を受けた可能性もあるのか?」
その問いに錦田が答える。
「現在、警察庁警備局に確認していますが、公安の方で特に情報は掴んでいません」
「外務省や防衛省は?」
今度は官房長官の松野が発言する。
「少なくとも昨日までに、危険因子が潜んでいる報告は上がっておりませんが、現在、確認中です」
(うぅむ…)
総理は考え込んだ。
現在までに分かっている情報をまとめるとこうだ。
まず、四日前に今回の事件を予告するような書き込みがあった。そして、今日の未明、自動車が突然停止する事象が生じて事故が多発し、また停止車両による交通麻痺が生じている。その他、書き込みと今回の事象の関連性や、どういった方法が用いられたのかなどは不明、こういったところか。
「よし、松野君、まずこの後、なるべく早く記者会見を予定してくれ。私が話す」
「はい」
「それと、錦田君と原木多君は原因究明を急いでくれ」
「わかりました」
「わかったわ」
三人の長は、総理の言葉にそれぞれ頷いた。
「さっきの緊急布告は、原因がある程度掴めてからだ。でないと、根拠となる法律も決められないからな。それより、事態の収拾とこれから起きる混乱を防ぐ対策が先だ」
今日は、慌ただしい一日となるだろう。国会どころではない。
これから行われる記者会見で伝えなければならないことを考えながら、何気なく各地のライブ映像が無音のまま流れるスクリーンを見上げた総理は、ふと灰色の地球のイメージを脳裏に思い浮かべた。漆黒の宇宙空間にポツンと漂うモノクロで彩られた地球の姿を。
なぜ、突然そんなイメージを抱いたのか分からなかったが、生気を失ったモノトーンの姿に、言い知れぬ不吉さを覚えた。
■二○XX年六月十七日
▼東京 警察庁サイバー特別調査課
「全国同時多発車両停止事件」
今回の事件につけられた名称だ。
全都道府県で例外なく発生していたため、本来は事故現場を所轄する警察署に設けられるはずの捜査本部は、警視庁や各県警本部の交通捜査担当課に設けられ、全ての情報を警察庁の交通局交通指導課に集約させる体制を取った。
そして、事件発生から丸二日が経過し、状況が明らかになるにつれて、人々は事態の深刻さを知った。
六月十五日午前零時に同時多発した事故件数は、全国で一万六千八百四十三件。その中で複数の車両が関係した事故は五千三百八十九件、死者二千九百五十一名、負傷者四万四千六百十名だった。
最近は、さまざまな安全対策や取り組みが行われることで、交通事故件数が増加しているにも関わらず、死傷者数は減少している。ここ数年は、おおよそ事故件数に〇・〇〇七を掛けた数字が死者数、一・二四を掛けた数字が負傷者数となっている。
今回、事故件数に対して死傷者が異様に多かったのは、エアバッグが作動しない事例が多かったためだ。
運転中に突然、停止状態に陥った車両は、一切の電源供給が断たれることになる。エアバッグもエアバッグECUという制御ユニットでコントロールされている。衝突検知→衝突判定→エアバッグのインフレータ着火→エアバッグ展開、という流れの中で、電源供給がないと衝突検知、衝突判定が行われず着火されないのだ。
また、制動装置、つまりブレーキが全く効かなくなったことも、重大事故が多くなった要因の一つだった。特に、ノーブレーキ状態で歩行者を撥ねた事故も数多く、死者と重傷者の数を増加させていた。
事件発生が週末だったことも災いした。深夜でも多くの人々が街に出かけていて、車の量も平日より多かったのだ。
そして、深刻な物流麻痺の状態を生んだ道路における停止車両は、全国で十五万台を越えていた。
幹線道路では、丸一日経過してから少しずつ撤去と復旧が進んだが、高速道路は、二日たった今も復旧の目処は立っておらず、物流網は寸断されたままだった。
復旧が遅れている原因の一つが、事件以降も、動かない車両が多発していることだ。もっとも、「道路」を運転中の車両が突然停止することは起きておらず、車両を動かそうとしてもエンジンが始動しない車ばかりだったのは、事件のときと違う点だった。
だが、警察や救急、消防の車両も同様に動かない車両が少なからずあったため、事態の収拾に大きな足枷となっていた。
午後十時。警察庁サイバー特別調査課では、まだ多くの課員が残っていた。恭介と博巳も、事件発生以降、調査課に詰めたままだった。仮眠室で数時間の仮眠を取っただけで丸二日間かけてパソコンに向かっていたが、捜査に大きな進展はまだない。
恭介が、しょぼつく目をこすりながら、掲示板に書き込みがあった日本ジャスティス実行財団の情報をネットで探していたところ、報道番組を見ていた博巳が呼びかけてきた。
「主任、日整連の会見が始まりますよ」
もちろん博巳は暇つぶしにパソコンでテレビ番組を視聴していたわけではない。最近の報道番組は、意外な視点で独自の調査を行うこともあり、何かのヒントがないかを調べていたのだ。
「日整連?」
「ええ、今回の事件で、該当車両の検査と実証実験を行った結果を発表するそうです」
日整連とは、一般社団法人日本自動車整備振興会連合会の略称だ。全国約九万の自動車整備事業を営む事業場が会員となっている公益法人で、いわゆる自動車整備のプロと言ってよいだろう。捜査本部は、各自動車メーカーだけでなく、自動車大学校や工科大学の研究室、そして日整連など、自動車の開発や整備を行っている専門機関に原因究明の調査を依頼していた。その中でまず、日整連の会見が今から行われるようだ。
博巳から説明を受け、「そうか」といった恭介は、作業を中断して立ち上がると、一度腰を伸ばしてから博巳のデスクへと向かい、隣の誰もいない席から椅子を持ってきて座った。 イヤホンで音が漏れないように視聴していた博巳がパソコンを操作して、外部スピーカーに音声を出力させる。
画面では、スチールの机に三名の作業服を着た男性が並んで、中央に座る眼鏡をかけた初老の男性担当者が書類を見ながら、マイクに向かっていた。
「――昨日から、駆動停止した車両及び、駆動停止が原因で事故を起こしたと考えられる車両、計八千三百七十一台を当連合会会員の事業場に協力してもらい検査しました。その結果、駆動系、電源系の異常を確認できない車両が多くありました」
すぐに記者から質問がとぶ。
「すいません、異常がなかった、ということはどういう意味ですか?」
「昨日からの検査で、駆動停止した車両の多くが正常に駆動した、ということです」
会場がどよめく。何人かの記者が手を挙げるが、男性担当者はそれには答えずに説明を続けた。
「しかし、昨日から新たに発生した駆動しない車両については、推定で二十四時間は駆動ができませんでした」
「推定?推定ってなんです?」
女性の記者だろう。マイクに良く通る声が拾われる。
「はい、昨日から駆動停止した車両で本日駆動したケースがあります。細かな状況を精査できたわけではありませんが、現状、最初に運転者が車を駆動させることができなかった時間から二十四時間経過後に、該当車両が駆動できるケースが複数確認されています」
会場が再びどよめく。
「もう一つ!駆動できなかったケースで共通していた点が分かっています」
説明していた担当者が声を大きくすると、会場のどよめきが小さくなった。
「全てではありませんが、駆動できなかったケースでは、整備員が前日の夜、飲酒していて、それも飲酒量が多いか、飲酒時間が遅い傾向がありました。逆に飲酒していない、あるいは飲酒量が少なく、早い時間帯に飲酒を終えていた整備員が検査した車両は駆動しました」
担当者の言葉に今度は、会場が静まり返った。最前列に座っていた朝の情報番組で見かける男性のリポーターが、少しよろめきながら立ちあがり手を上げた。
「まさかそれは、今、噂になっているジャッジメントが関係していることを意味しているんですか?」
リポーターの問いに担当者の顔が渋面になる。同時に会場のあちこちから「まさか…」という声が聞こえてきた。
「当連合会で、そのような噂は認知しておりませんので、お答えはできません」
しかし、認知していない、という担当者の表情が、明らかにその噂を知っていることを物語っていた。
巷では事件当日からすでに、大手掲示板に書き込みがあった「ジャッジメント」と関連づけるツィッターが拡散していた。だが、ジャッジメントの内容が「本物」だったとして、それを科学的、物理的な現象として説明を行えるものは誰一人いなかった。
当然といえる。
全国一斉に、運転する資格や適性を運転者ごとに判断した上で駆動システムを選択的に停止させる方法など、あるはずもないことは自明の理だ。そのため、拡散しているツィッターのほとんどに、「#神」「#悪魔」「#超能力」といった超自然的な意味合いを示すハッシュタグが付けられていた。
事故と物流の停止が大規模だっただけに、社会の混乱は大きくジャッジメントを肯定する意見は少なかった。だが、過去に交通事故で家族を奪われた人々の中には、もしジャッジメントが現実の出来事なら、飲酒運転など危険運転ができなくなる社会が実現することは歓迎すべきこと、という意見を述べるものも多かった。もっとも、そうした発言を行った者は、今回の事件で新たな被害者が生まれたことを糾弾されていたのだが…
いずれにしろ多くの人々は、未知の新たな技術で今回の出来事が起きたと考え、理論的な帰結を求めようとしていた。そしてジャッジメントを名乗る日本ジャスティス実行財団が、その未知の技術を開発した事件の「犯人」という認識でいた。
その後、ジャッジメントの言葉に混乱した記者会見の模様をしばらく見ていた博巳は、新たな情報は得られそうにないことを知ると「もういいですよね」というと、動画のサイトを閉じた。
「よし博巳、これまでの出来事を整理してみないか?」
恭介は、そういうと立ち上がり椅子を戻してから、「隣の会議室に行こう」と博巳を誘った。
会議室は、スチールの机が「ロの字」に並べられ、正面には七十型の巨大なタッチディスプレイが置いてある。ホワイトボードに書くようにタッチペンを使って書き込めて、書いた内容はそのままデータとして保管できる。タブレットやパソコンともワイヤレスで連携できる便利なツールだ。
博巳がディスプレイの正面に座ると、博巳はディスプレイにタッチペンを走らせた。
「今まで、確認できたことは――」
一、六月十五日の午前零時に、運転中、停止中に関わらず、一部の車が完全に動かなくなった。
二、動かなくなった車両の運転者は、飲酒や無免許などで運転を許されない状況の者が多かった。
三、二十四時間経過後には、一部の車両は駆動できるようになった。
四、これらは、六月十一日の掲示板に投稿された日本ジャスティス実行財団を名乗る書き込みの内容と一致している。
「こういったところか。問題はまず二番目と三番目だな」
「というと?」
「交通指導課の報告書は読んだか?」
恭介の問いに博巳は首を振った。
「いえ――」
「さっきの記者会見で言ってただろう、飲酒の量や飲み終わってからの時間が関係してるって」
「そうでしたね」
「警視庁でも、庁内の車両整備士を使って事件当日から停止した車両を調べていたんだが、当日はうんともすんとも言わなかった車両が、翌日、午前零時を過ぎたとたんエンジンが始動する車が出始めたんだ」
「三番目の二十四時間経過後、ってヤツですね」
「そうだ。しかもエンジンがかからない車もあって、それが特定の整備士に限られていたことから、いろいろ調べると、前日飲酒していた整備士だとかからない、酒を飲まない整備士は始動した、ってことが分かった。ただ…」
「ただ?」
「やっかいだったのは、エンジンがかからなかった車両は、他の車両のエンジンを始動させることができた整備士でもかけることができないことが分かった。もっと言うと、逆に一度エンジンが始動した車両も、エンジンをかけることができなかった整備士が乗ると…今度はエンジンが止まったんだ。いや正確に言うと、完全に停止した状態、今回の事件と同じ状況になったんだ」
「馬鹿な!」
博巳は恭介の言葉に唖然とした。
「全くその通りだな。とても現実の出来事とは思えん」
恭介は軽く首を横に振った。
「もう一つ付け加えると、整備士が停止車両を公道上で試験した場合には、動いたり動かないケースがあったんだが、レッカー車で整備工場内に運び試験した車は全てが動いたんだ」
博巳は沈黙したまま恭介を見つめていた。博巳の気持ちは手に取るように分かる。公道上か否かで結果が変わるとすると、道路交通法が関係しているのだろう。
「なるほど、だから昨日の午後、課長は、全員でジャッジメントの書き込みに関する情報を大至急で集めろ、と命じたんですね」
「ああ」
恭介はそう言うと、博巳の隣に座った。
「あの書き込みの内容覚えてるか?」
「そりゃ、昨日から散々見てますからね」
「実は――完全極秘の情報でさっき課長から聞いたんだが、今日から年配の警察庁OBを集めて、検証を開始したそうだ」
「検証?」
「そうだ。あのジャッジメントの内容が本当だとして――どうやってそういうことが出来るのかは置いといてだ、推測できることが二つある」
恭介はもう一度立ち上がり、タッチパネルの前に立った。そして慣れた手つきで横のボタンを操作すると、さっき書いた文章をファイルに保存してから消した。
「一つ目は――」
一、飲酒して車を動かそうとする二十四時間内は、同一車両でなくても動かすことが一切できない。
「まずこれだ」
博巳が頷く。
「これはすでに検証を終えた。三十名ほどの有志が協力してくれたが、量を人ごとに変えながら飲酒してもらい、その後エンジンをかけようとしたところ、わずかな量を飲んだだけの者も例外なく、動かすことは出来なかった。ちなみに、運転免許を持たないものも、エンジンを始動させることはできなかった。問題は次の二つ目の項目だ」
そして、横に並べて恭介は二つ目の文章を書いた。
二、二十四時間経過後に、再び飲酒してから車を動かそうとするとどうなるのか?
「そりゃ、動くはずないでしょ」
「そう、その通りだ。じゃあ、さらに二十四時間経過後はどうなると思う?」
博巳はしばらく考え込み、そして、顔が引きつった。
「まさか…」
「そう、あの書き込みが本当なら、猶予は一度、猶予の時間が過ぎてから同じことをもう一度行うと、その運転者は二度と運転できなくなる、つまり車を始動させることができない、ってことだ」
博巳は言葉を失った。
「だから、警察OBから有志を募ったのさ。免許は持っているが、すでに年齢が高くなったから運転をしなくなっていて、さらに今後、車が運転できなくなっても良い、ってOBをな」
恭介は言いながら苦い顔になった。無理もない。いくら事実を確認するためとはいえ、犠牲を強いているわけだから、人道的な観点からみれば本来許されることではない。外部に漏れたら、警察庁長官の首が飛んでもおかしくない問題に発展するだろう。
「それは――確かに極秘扱いですね」
「まあな」
これから、おそらく多くの実証試験が必要になるはずだ。それも、ジャッジメントの書き込みを知らない人が聞けば、頭がおかしくなったと思われても不思議ではない実験が必要になる。
例えば、ジャッジメントの発動基準は六月十五日午前零時時点での法律に準ずる、と書かれていた。つまり現在の道路交通法が該当法規だ。一般的に、道路交通法は「道路」でのみ適用されるが、人の往来がある駐車場も「みなし道路」として法律の適用を受けることがある。第二条で書かれている「一般交通の用に供するその他の場所」に該当する、とされた場合だ。
だが、この判断が難しい。
実際、駐車場において飲酒した状態で起こした事故により道交法違反で起訴された例は複数あるが、有罪となるケースと無罪となるケースに分かれている。
ところが、これまで行った実証実験では、駐車場は全て「アウト」だった。シャッターが閉まった個人住宅の屋内にある駐車場でもジャッジメントは発動した。人の往来が可能な場所は、往来そのものが違法、つまり住居侵入にあたったとしても関係ない、ということなのだろう。
今のところジャッジメントが発動しない場所として確認できたのは、整備工場内のリフトに乗せた状態は大丈夫だった。また、自動車メーカーが所有するテストコースやサーキット場もコース上では大丈夫だった。
さらに、従来、酒気帯び運転で処罰されない呼気中のアルコール濃度が〇・一五mg未満でも、ジャッジメントは発動した。道路交通法は第六十五条の第一項で「何人も、酒気を帯びて車両等を運転してはならない」と定めている。飲酒の量で処罰されるかどうか違いはあっても、微量でも飲んで運転することは「法律違反」に当たる、ということだ。
どういった条件がジャッジメントの発動基準に該当するのかは、現在行っている実証実験の結果を待つしかないが、今のところ道路交通法を厳しく解釈していると考えられていた。
こうした実証実験は、事実上、これまでの常識ではあり得ない出来事と言えるジャッジメントを認知しているに等しいが、「偶然一部の車両が停止して」「その停止した車両の運転手は偶然、全て法律違反の状態だった」と考えることの方が、確率上、常識的にあり得ない。おそらく、その確率は、小数点の下にゼロが一〇個以上並ぶことになるだろう。天文学的な確率と言える。
かなり大がかりな規模で行われる実証実験は、その規模に見合った犠牲を強いる可能性が高い。だが、ジャッジメントが実在すると仮定するなら、どこまでその発動に該当するのかを知っておかないと、社会基盤が揺らぐことになる。
恭介は小さくため息をついた。
誰かが、犠牲を負ってやらねばならないことを行っている。ならば自分たちも捜査員の立場で役目を果たすしかない。
「どちらにしろ、実証実験は結果待ちだ。それより、現在の捜査状況をまとめるぞ」
気を取り直して恭介は、もう一度タッチパネルに向かった。
一、掲示板に書き込まれた投稿者は、IPアドレスをたどったが不明
二、日本ジャスティス実行財団は、財団としての登録はなかった
三、掲示板のサーバーに侵入者の形跡はなく、同時書き込みの方法は不明
「まあ、ないないづくし、というやつだ」
「一番目のIPアドレスは、ひどい結果だったらしいですね」
恭介が頷く。
「ああ、IPアドレスは全て異なっていたが、全て警視庁と各県警のIPだったんだからな」
今回使われたレスのIPで最初に判明したのが、警視総監のパソコンだった。きっとIPを追った対策室のスタッフもうろたえたことだろう。
IPを偽造する技術は、珍しいものではない。プロキシサーバーやVANサービスを使う方法などいろいろある。だが、警察関係のIPアドレスのみに書き変える方法はとなると話は別だ。
また、投稿時間が全て同一だったという問題もある。
サーバーに進入せず、どのように偽造IPを投稿につけたのか、またどうやって全ての投稿時間を百分の一秒まで同一に出来たのかが全く分からない。
「犯人像」は、未だ雲霧の中にあり、わずかな輪郭すら現わしていなかった。
個人なのかグループなのか、男なのか女なのか?何も分からない。
また愉快犯として考えるには、騒動の規模がデカ過ぎた。もしかすると「テロ」と考えた方が良いのかもしれない。
ただ、テロだとすると、その対象となる相手が何だったのかを考える必要がある。
国なのか、車メーカーなのか、道路が使用不能に陥ったことを考えると道路公団も候補の一つになるだろう。
いずれにせよ、ありとあらゆることが不明な状況だった。
ただ、捜査の糸口は、掲示板への書き込みにあることは間違いない。警察関係者のIPアドレスを偽造した投稿だったことは、警察への挑戦とも考えられる。
だが恭介には、物理的に不可能なことが重なっている今回の事件は、警察への挑戦などという生やさしいものではないように思えていた。
▼神奈川 新次郎の部屋
ジャッジメントの投稿が最初にあった大手掲示板は、多くの板で接続しにくい状況になるほど賑わっていた。
これだけ多くの人が訪れたのは、この大手掲示板でも初めてのことだっただろう。一つの騒ぎに便乗して投稿することを掲示板の世界では「祭り」と言うが、史上空前の祭りが展開されていた。
新次郎も祭りに参加していた一人だった。
アニメや空想の出来事が現実に起きた、それだけで身が震えるほどの興奮を覚えた。
事件以降、あれだけのめり込んでいたゲームも一切、行っていない。いや、睡眠も食事も二の次になっている。ひたすらネットサーフィンを続けながら情報を集め、いろいろなスレッドに煽る文章を書き込んでいた。
「ジャッジメントって神の仕業だよな。で、おまいらは猶予もらっても、また酒飲んで運転するんだろ。誰も助けてくれんぞ。ざまぁw」
「飲酒検問してた警察官がジャッジメント受けたらしいw」
社会から隔絶した生活を選んだのは自分だったが、新次郎にとって、その生活を選ばせた責任は社会の構造にあった。少なくとも、新次郎はそう信じていた。
自分が能力を発揮できる場は社会にあるのに、自分が望む形で受け入れないから逆に自分は社会を拒絶するんだ、という新次郎の考えは歪んでいたし、当初はそれが何もしないで済む引き籠りの生活を続けるための理由づけであることは新次郎自身が自覚していた。
だが、引き籠りから脱することができない生活が続き、いつしかその生活の居心地が良いことに気づいてから、その自覚は消えていった。
これまで、魔法や超能力が存在し、そして自分を信奉する美少女たちがいる世界は、空想の中だけに存在していた。空想であることを自覚することは苦痛だったが、自分の中にある「常識」が自覚を促していた。その自覚を、社会を加害者とした被害者意識で何重にも厚く覆い隠すことでようやく自我を保っていた、といってよいだろう。誰かが、その覆いを剥ぎ取れば精神が崩壊することは分かっていたし、だからこそ家族との接触も断っていた。
しかし――今回の事件は、新次郎の「自覚」を一変させた。それも劇的にだ。
新次郎の「常識」で、今回の事件が、これまで自分が望んでいた非日常的な色彩で覆われていることは明らかだった。
ドライバーを意図的に選択して車を動かなくさせる、しかも全国一斉に同時刻で起きるなんてことが科学的、物理的に可能であるはずがない。だが、実際にそうしたことが起きている。
これで、自分が思い描く、これまで空想だった世界が現実となり、これまで現実と思われた世界が空想の立場へとポジジョンを逆転する。これまでの世界で確かに自分の居場所はなかった。だがこれからは違う。自分の居場所は必ず作られることになる。だって、非日常が日常にとって変わったのだから…自分は非日常の中で生きてきたのだから…
新次郎は、一つの非日常的な現象が、他の非日常的な現象につながると勘違いしていたが、掲示板の「祭り」で狂乱の舞を踊り続けている今、その勘違いに気づくことができなかった。
■二〇XX年六月二十二日
▼東京 警察庁サイバー特別調査課。
「今日で一週間…」
博巳は椅子に座ったまま、大きく背伸びをした。
「進展は一切なし、か」
「ああ、そうだな」
恭介の顔にも疲労の色がにじみ出ている。
博巳が嘆くのも無理はない。
一週間経った今も事件の原因はおろか、犯人像も全く掴めていなかった。
連日、事件の特集が組まれ報道されているが、明らかになったのは被害状況だけ、と言ってよいだろう。各分野の専門家が出演し、見解やコメントを出したが、いずれも「物理的に起き得ない」ということを裏付けるだけだった。同時に、ジャッジメントの内容を裏付ける現象が次々と起きた。
ジャッジメントが発動するのは自動車だけで、自動二輪車や自転車、電車、飛行機、船舶など他の乗り物は平気だった。
また、一度ジャッジメントを受けた者が、二十四時間後には車に乗ることができたのもジャッジメントの内容通りだった。さらに、一度猶予を受けた者が二度目に同じ行為を行った場合には、以降、どれだけ時間が経っても車両を始動させることはできなかった。
事件発生当初の混乱は、ジャッジメントの発動条件が広く知れ渡ることで沈静化していった。動かなくなった車両も、運転可能な者が翌日には動かせたので、四日ほどで停止車両は撤去することができて、道路の麻痺状況もなくなったからだ。
ただ、その原因が分からないことは、人々に暗い影を落としていたのも事実だ。
科学が基盤となっている今の文明では、説明できない超常現象が発生していること自体があり得ないことだった。そのため、社会全体に言いしれない不安を広げていた。
もっとも、守るべきことを守れば日常生活が取り戻せることが分かったことで、少しずつ人々の生活は元に戻っていた。同時に、事件当初はジャッジメントに否定的な意見が多かったが、飲酒やドラッグ、無免許などの危険運転がなくなったことは事実であり、それを歓迎する者も少しずつ増えていった。とはいえ、当然、事故がなくなったわけでないのだが。
また、無免許運転が完全に行えなくなったため、少なからず職場で懲戒を受ける者も出てきた。車を運転する職業の場合、運転できないことが明らかになったからだ。これは警察、消防、救急の現場でも同様だった。
そして政府は二日前に、国民に向けてメッセージを出した。
・飲酒後は最低二十四時間は車に乗らないこと
・車に乗るものは、一度に四単位以上のアルコールを摂取しないこと
・ドラッグなどの薬物を使用しての運転、無免許運転など法令違反に該当する行為は絶対に行わないこと
つまり、原因が分からないから、関係する可能性がある行動は慎むように、ということだ。
アルコールの場合、二十グラムのアルコールを一単位と呼ぶ、一単位あたり、体質の差はあるが、体内で分解されるのに四時間かかるとされている。一単位の目安は、ビールならば五百ミリリットル、日本酒で一合、ワインは二百ミリリットルとなる。
五百ミリリットルの缶ビールを四本飲んだら四単位となり、分解に必要な時間の目安は十六時間。同じビールでもアルコール濃度が違う場合もあるし、体質の問題もあるから安全域を五十%と見て、二十四時間は乗らないように、となったのだ。
外国でも日本の事件は大きく報道されていた。ジャッジメントの対象となった車は無論、国産車のみではない。そのため、各国の自動車メーカーは技術者を日本に派遣し、自社の該当した車両を調査したが、今回の事象の原因を突き止めることはできなかった。
最初は、日本国内で報道された「超常現象」としての扱いを「クレイジー」と表現していたが、日本政府が国民に向けて出したメッセージを「クレイジー」として扱うことはもはやできなかった。
物理的に起き得ないことが何故発生しているのか…
世界中の自動車メーカーで、開発に関わる全ての者たちが頭を抱えることになった。
一週間たった今も、事件そのものは何の展開も見られなかったが、世の中は大きく変化することになった。
まず、株価は大きく値を下げた。
リーマンショック、そして東日本大震災の影響から少しずつ立ち直り始めていた日本経済も、今回の事件で大きくブレーキを踏むこととなった。
まず被害を受けたのは、自動車メーカーと販売店だった。ユーザーからのクレームに対応するための回答が見つからない。動かなくなった車の代わりを提供しようにも、ジャッジメントを受けたドライバーは、車を動かすことができない。二十四時間の猶予で、事態に気づいた者はほとんどおらず、多くの人々が自動車の運転ができなくなっていた。現在、判明しているだけで、自動車のエンジンをかけることができない者は全国で百万人を超えていた。
そして、物流業界も大きな痛手を受けていた。事故当時の影響も大きかったが、事態が落ち着いても、トラックを動かすことができなくなった社員が出たためだ。その割合は、どの運輸会社でも三割を越えていた。
物流が滞ることは、社会全体の経済活動も制限を受けたに等しい。
酒類の販売も大きく落ち込み、それは居酒屋やスナック、バーなど酒類を提供する店舗も同じで、客足は半減していた。
法令に則った運転を行うことが、どれだけ守られていなかったのか…人々は、現実を直視せざるを得ない状況にあった。
そして原因が分からずに焦っていたのは、警察も同じだった。
識者を集めて原因の究明を図っても、誰もそれを説明することができない。不可思議な現象を引き起こしたジャッジメントを肯定することはできず、かといって、科学的な証明もできない。政府が、国民に向けてジャッジメントを肯定するようなメッセージを出すことに、もっとも反対したのは捜査に当たる警察庁だったが、運転不能になる人々が右肩上がりに増えている現状では認めざるを得なかった。そのため、警察の面目にかけて解決することを、それも速やかに解決するよう、関係する全ての警察諸機関が厳命されていた。
そして恭介は、独自に解決の糸口を探ろうとしていた。
「これから、大学時代の恩師の一人、ある先生に会いに行くんだが、一緒に来るか?」
「今回の事件に、心理学が何か関係しているんですか?」
恭介が大学、そして大学院で心理学を専攻していたことを博巳は知っていた。
「いや、心理学じゃない。超常現象の研究家だ」
「超常現象?それって何か怪しい人なんじゃ――」
今回の出来事を超常現象とする意見は、マスコミでも数多く出ており、そうした専門家を番組にコメンテーターとして招いていた。科学の常識を無視した出来事が発生しているのだから無理もないが、超常現象の専門家と称するだけあって、その意見は、常識外のものが多かった。
「車の事故にあった人の怨念が原因」
「人知外の神のような存在が、人々に罰を与えたもの」
「超能力者が引き起こした」
など、警察の捜査範囲に入れることができない意見が多く、もちろん裏付ける証拠は何もなかった。
博巳も、そうした報道を眉つばで見ていた。
「いや、超常現象の研究といっても、幽霊や超能力といった怪しい研究じゃあないから大丈夫だ」
「そうですか…」
少し釈然としない博巳だったが、他に捜査のきっかけを見つけられない現状では、渋々ながらも同行することにした。
▼東京 八王子の研究所
警察庁がある霞が関から、地下鉄とJRを乗り継いでやってきたのは八王子市。JR八王子駅の改札を出て、南北をつらぬく駅ビル二階のコンコースを北口方面に向かう。
ロータリーに降りて、タクシーに乗ると恭介が運転手に行き先を告げた。タクシーは、駅の正面から伸びた大通りを進み、浅川大橋を越えて、長いトンネルに入った。トンネルを抜けると中央自動車道、八王子インターの看板が目に入った。そのままさらに直進すると、景色が一変して緑豊かな山が見えてくる。その山沿いをしばらく進んだところで、タクシーは止まった。
三階建てで古ぼけた外観のビルには「八王子超常現象研究所」の看板が出ていた。無論、看板にも赤さびが浮いている。博巳には、まともな研究所に見えなかった。
ギーッ
外階段を上がった二階にあるホコリまみれのガラス戸が、きしんだ音を立てた。ホコリの厚さを見ると、おそらく年単位で掃除されたことがないのだろう。廊下は薄暗く、夜は本当に超常現象が起きそうだな、と博巳は思ったが、廊下の突き当たり右側にある八王子超常現象研究所の部屋は、外の雰囲気とは違い、整然と壁に並んだ本が威圧感を与える大学の学長室のような雰囲気を持っていた。どちらかというと、本や書類が雑然と積み上げられた大学の研究室をイメージしていた博巳にとって少々、拍子抜けだった。
ノックもせずに部屋に入った恭介たちを、正面の大きな木彫の机に座った部屋の主が、顔も上げずに声だけで迎えた。
「今少し調べ物があるから、座っておれ」
恭介は「はい、先生」とだけ答えて、博巳を促して、机の前の応接セットに座る。
手持ちぶさたの博巳は、部屋の壁をびっしりと埋める本棚を眺めた。専門書なのだろう、英語以外が背表紙に書かれた書物も多い。中には象形文字としか思えない文字が書かれた本もあった。
やがて、白髪、白ひげの、これだけは博巳がイメージしていた風貌と一致した、少し気難しそうな老人が「待たせたな」といって正面のソファに腰かけた。たぶん縦長の黒い帽子をかぶれば、易者と見間違われるだろう、と博巳には思えた。
「お久しぶりです。易化先生」
恭介が軽く頭を下げる。
部屋の主、八王子超常現象研究所所長、易化一二三は「一年ぶりなのに、土産の一つも持ってこんとはな」と憎まれ口を叩くが、言葉とは裏腹な温和に恭介を見つめる目を見れば、師弟の関係は容易に想像できた。
近況を報告し、軽い世間話が少し続いたあと、恭介は切り出した。
「ところで先生、用件ですが――」
「ああ、今、テレビで話題となっておる事件のことだな」
一二三老は頷くと、軽く腕組みして目を閉じた。交わす言葉は短かったが、互いが互いの意思を十分に分かっているのだろう。横で博巳が聞いていてもテンポ良く進む会話に嫌味はない。
「物理的に起き得ないことが、発生したのはなぜでしょうか?」
恭介の問いに、少しの間を置いてから一二三老は目を開けた。
「多野くん、物理的にあり得ない、とはどういった意味合いを指すと思う?」
「意味合い、ですか?」
「そうだ」
今度は、恭介がしばらく考えた。
「一言で言うならば、常識的にあり得ない、ということでしょうか?」
物理の法則は、科学の根幹をなしているといってよい。もちろん、後に新たな発見があって、その法則が変化することはあるだろう。だが、少なくとも現在行われているさまざまな研究や技術の開発は、現時点における物理の法則を基本にして組み立てられたものだ。つまり、現時点における「常識」と置き換えることができるだろう。
そういったことを恭介は一二三老に説明した。
「そうか――では多野くん、ちょっと立ってくれ」
一二三老が何を言いたいのか理解できずに、恭介はソファから立ち上がった。横で聞いている博巳も不思議そうな顔をした。
「立ちましたが、これが何か?」
「どうだろう、君は今、動いておるか?」
「いえ、動いていませんが」
「いや、君は動いておる」
一二三老が何を言いたいのかが、恭介には分からなかった。確かに厳密に言えば、完全に静止することなどできやしない。呼吸をすれば胸は膨らむし、まばたきもする。そのことを言っているのだろうか?
だが、一二三老は恭介の考えとは全く違う答えを示した。
「地球は自転も公転もしているからな」
ハッと恭介は気づいた。
確かに、見かけ上は静止して見えても、宇宙を細かく区切り、それぞれの位置を座標で表せば、自転、そして公転している地球上にいる場合、常に異なる座標に移動していることになる。
地球の自転速度は緯度により異なるが赤道上で時速約千七百キロメートル。公転速度は時速約十万キロメートルだ。もちろん慣性の法則が働いているので、その自転や公転速度を体感できることはないが、体感できないからといって、移動している事実そのものは否定できない。
「多野くん、昔話したことがあるから覚えておるだろう。オルバースのパラドックスを」
「何ですか、オルバースのパラドックスって?」
横から博巳が聞いてくる。
確か、オルバースのパラドックスとは、宇宙の広さが無限で、光を放つ恒星も無限にあるならば、宇宙は光で満たされているはずで、夜空が暗いのと矛盾する、といった内容だったはず。記憶を思い起こしながら、恭介は簡単に博巳に説明した。
「だが、今では宇宙学も発達してパラドックスが成立するためには、今の十兆倍以上、星の密度が必要になると分かっている。だから、夜空が暗いのは、何もない無限の空隙や見えない星があるためではなく、百億年以上前のビッグバン後しばらくたった原初の宇宙の姿のせい、とされていたはずだ」
博巳にはよく理解できなかったが、夜空が暗いことは今の科学で証明されている、ということなのだろう。
「じゃあ、その謎はもう解明されている、とういことですよね?先生」
「そういうことだ。しかし、このパラドックスが成立するためには、百三十七億年前にビッグバンが起きたとすることが前提となっておる。さらに現在も宇宙が膨張をしておる、ということも必要な条件となっておる」
「でも、それが現在の宇宙学の常識でしょう。仮に新たな発見があって、いずれその説が覆されることがあったとしても、夜空が暗い、という事実は変わらないのではないでしょうか?」
恭介の言葉に一二三老は頷いた。
「そこだ。夜空が暗い、という事実はいかなる理由づけをしようとも変わらない、というところが大切なのだ」
博巳が首を傾げた。恭介にも、一二三老の言葉の意味が理解できない。
「今回の件も、大切なのは、常識で考えられない車両が停止する現象が起きた、という事実だけだ。そこに至る理由など、現在、我々が得られている知識で分からなくても大した問題ではない、ということだ」
「ということは、今回の事件が起きた現象の原因を突き止めるより、車両が停止したという事実を重視しろ、ということですか」
一二三老は頷く。
「そうだ。正しく言えば、我々の知識、常識で理解できない事象が起きたことを重視した方がよい、ということだ」
博巳が一二三老に尋ねる。
「でも、それでは事件は解決しないでしょ?」
そして、一二三老が博巳の方を向き直って言った一言に恭介は背筋が凍った。
「君は、単発の事件だとでも思っておるのかね?」
まさか…
「同様のことが起きないと、なぜ言えるのか?」
博巳も意味を理解したのだろう。表情が固まった。
そのとき、恭介の携帯電話が鳴り出した。画面に通知されている番号は、調査課のものだった。このタイミングで鳴った電話に、不吉な予感を覚えながら通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは、課長の震える低い声だった。
「多野、新しい書き込みが現れたぞ」
まさか!
「先生、すいません、パソコンを借ります」
一二三老の同意を待たずに正面のデスクに回り込むと、起動したままのパソコンからブラウザを立ち上げ、例の掲示板を検索する。そして、板の一番上にあった適当なスレッドをクリックした。横から一二三老と博巳が覗き込む。すぐに書き込みが目に入った。
内容を一読した恭介は絶句した。
「こ、これは――!」
【第二章】
■二○XX年二月八日(過去の出来事)
▼東京 忍の店
その日、東京都内は夜半過ぎから降り始めた雪で白一色に染められていた。二十年ぶりの大雪だった。実浦忍(みうらしのぶ)は、店の入り口に立って、細かな雪が舞う外を見ていた。雪の勢いは多少弱まったようだが、路面は全く見えない。二十センチメートル以上、積もったようだ。
(今日は、早く店じまいするしかないわね…)
こんな天候では客も訪れないだろう。忍は、準備中の札を取りに店の奥に向かった。
十五坪ほどの小さな店は、忍が苦労して手に入れた「お城」だった。子どもの頃から夢だったアンティークを扱う店は、雑誌でも取り上げられるぐらい評判がよかった。
もちろん、最初から順調だったわけではない。二十年勤めたOLを止めて、わずかな蓄えを元に借金して作り上げた「城」だ。店が軌道に乗るまで五年はかかっただろう。
だが、好きで始めた店だ。夢中で取り組むことができた。一人で外国に出かけ、他では手に入らないであろう品を集めてきた。時計や工芸品、ビンテージ物の絨毯など、狭い店内に置けるだけの品を、訪れた人が気持よく選べるように丁寧に並べた。
自分が気にった品ならば、アンティークが好きな人なら絶対気にいるはずだ。信念を持ち続けることで少しずつ常連客が付いてくれた。場所も良かったのだろう。かなり無理をして世田谷区成城の高級住宅街近くに構えた店は、忍が持つ人あたりの良さも手伝い、今では人を雇えるほどの売上が計上できるようになっていた。
今日の大雪は予想されていたため、従業員の美知子には出勤しなくていいと昨日のうちに伝えていたが、忍は徒歩圏内に住んでいたので、一応、店に出ていた。
だが、午前中かなりの量、降り続いた雪は、客足を完全に止めていた。
私だってこんな日に買い物に出かけようとは思わない。午後三時を過ぎて雪の峠は過ぎていたが、今日はもう店を閉めることにした。
チリン――
ドアに取り付けたベルが来訪者を知らせる。忍は、手にした札をレジ横に慌てて置くと、店内に戻った。
「いらっしゃいませ」
両手を前で合わせて丁寧に腰を折る。老若男女、誰が来ても忍は同じ挨拶を繰り返す。ショップの店員らしからぬグレーを基調としたコンサバ系の服は「できる女」を強くアピールしていたが、フィッシュボーンに編んだロングの黒髪が、温かさと優しさを相手に伝えていた。
例えなじみの客であっても、少しよそよそしいその態度を変えないことが、かえって訪れる客の信頼を得ていることを、忍は知っていた。
寒さに身を震わせながら店内に入ってきたのは、若い女性だった。
見た目は中学生ぐらいだろうか。ピンクのハーフコートに、白いスカートとひざ上までのソックスがお似合いの少女だった。今風のメガネのレンズが室内の暖房で曇っている。
メガネを外して息を吹きかける少女。整った顔立ちだが、忍は何か違和感をふと感じた。理由は分からない。
半分ぐらい曇りが取れたメガネを掛けると少女は、黙って店内を見始めた。きょろきょろしながら、何かを探しているようだ。
「何かお探しのものはありますか?」
相手が少女であっても、忍が口調を変えることはない。
黙ったまま横に首を振る少女。
そう、店員に話しかけられるのを好まぬ客もいる。忍は「ゆっくりご覧ください」と軽く一礼して、奥にあるレジ横まで身を引いた。
少女の様子を静かに見守る忍は、どうやら少女の目的が時計にあることを知った。だが小首を傾げる。
少女に購入の意思はあるのだろうか?
忍の店は良い品を適正な価格で販売することを身上にしている。アンティークに似せたまがい物を置くことはないし、状態が良い品を展示していた。したがって、適正価格であっても、それは決して金額が安いことを示してはいなかった。
少女が何度か行き来しているところにある時計は、レジ横の陳列ケースに並べた時計ほど高額ではないが、万単位の商品だった。果たして、少女に手が届く金額なのだろうか…?しかし、身なりはこぎれいにしているから、見た目どおり中学生だったとしても、対価を支払う十分な金額を所持していても不思議ではない。
来店する客を主観で判断することが、店にとって大きなマイナスになり得ることを、忍はこれまでの経験で知っていた。
まあ、今日はこの少女が品物を購入するにしてもしないにしても、最後の客となるだろう。天候も回復してきているようだから、外の雪がこの後、強まることはないだろうし、今日は特に予定があるわけでもない。十分でも二十分でも満足いくまで店内を見てもらえれば、今日は購入しなくても、もう一度来店する動機になるかもしれない。
もしかすると今日は、雑誌で忍の店を知った少女が、気に入った品があるかどうかを見定めにきただけかも知れない。次の来店で両親と一緒に来るつもりかもしれない。
実際、そういう客は多い。
微笑みを絶やさずに、ゆっくりと少女を見守っていた忍に、ポケットに入れていた携帯電話の振動が伝わってきた。
ヴウーン、ヴウーン…
取り出した携帯電話には、仕入れを行っているバイヤーの名前が表示されていた。少女は時計を見るのに夢中でこちらを向いてはいなかったが、忍は軽く一礼してから、レジ横のドアを開けて事務所に入った。
店内を客だけにするのは防犯上も良くないことは分かっていたが、契約している警備会社に監視カメラを勧められ、一ヶ月ほど前から店内の二箇所に設置していた。事務所にいても、店内の様子は二台のモニターでほぼ死角なく把握できる。
モニターを見ながら忍は通話ボタンを押した。
「お世話になっています。忍アンティークです」
電話であっても忍の対応は丁寧だった。声だけ聞けば電話を耳に当てたままお辞儀しているのではないかと思わせるほど、落ち着いた優しい声だった。
正月明けにフランスへ買い付けに行った際に見つけた品物を、先週、並行輸入で送ってもらうよう依頼したのだが、それについての連絡だった。バイヤーと話しながら、何気なくモニターを見ていた忍は少女の挙動がおかしなことに気がついた。少女が、忍がいる事務所の方を何度もキョロキョロと見ているのだ。
これは、まさか…と忍が思ったときに見たのは、少女の手が素早く動き、一つの時計を制服のポケットに入れた姿だった。
(万引き!)
忍の店では店内に客が溢れるようなことはあまりなく、無造作にならんだ品物が頻繁に万引きの被害に遭うことはなかったが、それでも年に何度かは、品物がなくなることに気がついていた。
警備会社が監視カメラの設置を強く勧めたのも、これ以上、万引き被害に遭わないためで、そして監視カメラを設置していることが万引きの抑止効果になる、という説明も納得できた。
忍は、バイヤーが話している途中で「すいません、後でこちらから連絡します」と中断すると、電話を切って急いで店内に戻った。
ドアが開く音に、首だけ振り向いてこちらを見た少女は、ハッとした顔をして、そのまま店の出口に足早に向かう。
「待ちなさい!」
忍が鋭い声をかけると少女は、ビクンと体を震わせ直立不動で立ち止まった。
ゆっくりと少女に近づく。
こういう場合には、言葉尻一つで相手に対して抑制効果を生むことがある。外国での経験豊富なバイヤーを相手にした仕入れは、決して上品なだけでは立ち回れない。忍はわざと強い口調で少女に詰め寄った。
「ポケットに入れたものを出しなさい」
少女はモジモジして下を向いたままだ。
「さっきの行為は、モニターで見ていたわ。もし出来心なら、自分がしてしまったことを理解して反省することが大切よ」
少し声のトーンを落とし、諭すような忍の言葉に、しかし少女は下を向いたままで反応を示そうとしない。しばらく待ったが、少女の態度に変化が見られなかったため、忍は少女の肩を掴み顔を上げさせようとした。
だが肩を掴んだ瞬間少女は、忍が想像していなかった行動に出た。
「ウギャーーーッ!」
突然、顔を勢いよく振り上げると、可憐だった口が大きく開けられ、耳をつんざくような奇声が店内に響きわたった。
視線があらぬ方向へと流れ、開けられた口からはよだれが垂れる。掴んだ肩から少女の体に強い力がこめられ始めたのが分かる。
次の瞬間、忍は両手で突き飛ばされていた。
小柄な少女とは思えない力と、突然の出来事に、忍の体は対面の棚に打ち付けられた。
「キャッ!」
棚で腰を打ち、倒れこんだ忍が小さく悲鳴を上げると、再び少女の奇声が聞こえた。同時にガシャン、と何かが割れる音が立て続けにする。倒れこんだまま忍が顔を上げると、飾ってあったティーセットを次々と辺りかまわず投げつけながら、出口に向かう少女の姿が目に入った。
「やめて!」
慌てて立ち上がりながら、少女を制止しようと大声を上げた忍だったが、少女はすでにドアに手をかけていた。
「待って!」
何とか起き上がった忍が手を伸ばしてドアに向かおうとすると、一瞬、忍を見た少女は手荒にドアを開けて駆け出した。
!!!!
少女と目があった忍は、その目に潜んでいた狂気の色を感じ取り、思わず立ち止まった。そして最初、少女が店に入ってきたときに感じた違和感に思い当たった。
そうか、あの時すでに、少女はその目に狂気を漂わせていたのか…だが、思い悩む暇はない。少女を捕まえなければ。忍も急いで店を飛び出していった。
店を飛び出した瞬間、体のバランスを失う。雪が降っていたのを忘れていた。
ズボッ!
長靴など履く暇もなく、ヒールのままだった忍は、雪に勢いよく足を踏み入れてしまい転倒した。手を付いて踏みとどまろうとするが、もちろん手も雪の中に埋もれた。肘のあたりまで雪に埋もれ、そのまま顔が雪に触れる。
(冷たい!)
もう追いつかない。こんな雪では走って追いかけることなどとても無理。あきらめつつ、片手ずつ雪の中から引き出し顔を上げた忍の目に、その光景が目に入ってきた。
十メートルほど先の歩道に横たわる白いソックス。その向こうにはピンクのコートが見える。少し不自然な向きに投げ出された手。
そう、逃げ出した少女が倒れていたのだ。たぶん足を滑らせたのだろう。
よろよろと半ば這うように近づき、そのまま少女の横に跪く。
近所の子どもたちが雪遊びしたのだろう、数メートル四方に踏み固められていた雪のほぼ中央に、仰向けに少女は倒れていた。少し離れた所には、小さな雪だるまがこちらを見ている。頭に載せられた黄色の小さなバケツが今にもずり落ちそうだ。
「あなた、大丈夫!」
上向いて目を閉じて倒れている少女の肩に手をかけようとした忍は、黒髪から赤いものが雪を侵食しつつあることに気がついた。
頭から血が出ている!
なんで?
どうして?
忍は、わけが分からないまま、慌てて携帯電話を取り出すと一一九番をプッシュした。
■二○XX年六月二十一日(一日前の出来事)
▼東京 忍の店
「わかりました…」
か細い声で返事をする忍は、別人のように見えた。携帯電話を切って、正面のキャビネットに目をやると、ガラスに疲れ切った中年女性が映っている。
そこに「できる女」はもういなかった。
化粧に気を配る時間も、そして心の余裕もなく、それでも無意識のうちに選んだ服は、ボサボサの髪型にまったく合っていない。半年前の自分が、この姿を見たなら絶句しているだろう。
忍は、事務所の机に肘をついて、両手で顔を覆った。
破滅への坂道を転がり始めたのは、あの雪の日からだった。
忍の店で万引きをして逃げ出した少女は、踏み固められていた雪で足を滑らせ転倒した。だが場所が悪かった。転んだ頭を受け止めたのは、ちょうど、街路樹を囲っている少し高くなった縁石の部分だった。
脳挫傷に外傷性くも膜下出血が合併していた。雪で救急車の到着が遅れたことも関係したかもしれない。一時は回復の見込みもあるとの医師の説明だったが、二日後、び慢性脳腫脹が見られ、再度、精密検査を行ったところ脳底部のくも膜下出血が見つかったことが致命的だった。結局、意識を一度も取り戻すことなく、少女は三日後に死亡した。
事故当初は、警察も周囲も忍に同情的だった。万引きを見つかって逃げた末に転倒。
誰の目にも、その責任が少女にあることは明らかだった。
だが、状況は一変した。
■二○XX年二月十六日(過去の出来事)
▼東京 ある斎場
「人殺し!」
少女が帰らぬ人となってから五日後、葬儀に参列した忍は、後ろからいきなり腕を掴まれて罵声を浴びせられた。
周囲から参列は止めた方がいい、と言われたが、自分の目の前で亡くなった少女のことを思うと、忍はいたたまれなかった。ご焼香だけでも、と思い斎場を訪れ、記帳していたときにそれは起きた。
振り向くと、目を吊り上げた中年の女性が忍を睨んでいた。
「うちの娘を返して!」
唐突な怒りを向けられた忍は、突然のことに戸惑った。この女性があの少女の母親であることは、病院のICUで会っていたからすぐに分かったが、罵声を浴びせられたことが理解できなかった。
事故の翌日、少女を見舞うためICUを訪れた忍に、父親と揃って「申し訳ありません」と頭を下げていた姿は何だったのか…
本来なら被害者である自分に対して、人格を否定するような「人殺し!」と言われたことに少しムッとした忍は、黙って掴まれた腕を振り払った。それも勢いをつけて。
後で聞いた話では、溺愛していた少女が亡くなったことで、母親は相当な混乱状態に陥ったそうだ。誰かにやり場のない怒りの矛先を向けない限り、精神の安定が保てなくなっていたのだろう。
だが、そのことを忍は知らなかった。
もし、黙って頭を下げて、その場をそっと離れていたなら、大事には至らなかったのかもしれない。あるいは涙を流して、母親の手を握り締めたらなら、忍が負った悲しみの重さを分かってくれたかもしれない。
しかし、ここ数日、警察の聴取、そして店の後片付け、取材にきたマスコミへの対応などで、忍は疲れ切っていた。
さらに間の悪いことに、葬儀に参列する直前に会った弁護士からは、未成年の少女によって店が受けた損壊の損害に対して補償するのは監督責任がある両親であること、そして、こうしたケースでは争いになることもあるため、被害者の立場にあることを貫いて、亡くなった少女に哀悼の意を表すことは構わないが、事故のことを謝ってはいけない、と忠告を受けていた。
いつもの忍なら、決して取らなかったと思われる、何するんですか!と言わんばかりに強く腕を払ったその態度は、少女の母親の逆鱗に触れていた。
忍はいきなり突き飛ばされた。バランスを崩して転倒する。
「病気だったのよ!うちの子は――心の病気だったのよ!」
少女の母親が、倒れて見上げる忍に指を突き付けた。
騒ぎに気付いた人々が遠巻きに円形状で囲んだたため、中央で倒れている忍は、まるで裁きを受ける罪人のようだった。その様子を、取材に来ていたテレビのクルーが人々の後ろからカメラを回していた。万引きして自損とも言える事故で亡くなったことはニュース価値があったのだろう。実際、何度か報道番組で取り上げられていた。他にも雑誌の記者やカメラマンもいたが、母親に対峙している忍が気づくことはなかった。
「あんたが…あんたが、娘を興奮させるようなことをしなければ良かったのよ!」
確かにあの時、少女の形相は普通ではなかった。気がふれているようにも思った。だが悪いことをしたのは少女の方だ。それを咎めることなく放置することは正しいことなの?しかし、母親の剣幕に押され、忍は自分の想いを口にすることが出来なかった。
唇を噛みしめ、何も言えない忍を見ながら、母親は言葉を強めていった。
「防犯カメラの映像、見たわよ。私は」
母親の眼光が強くなったように感じる。確かに、防犯カメラの映像は、証拠として警察に提出していた。おそらく警察が、両親に当時の状況を説明するために見せたのだろう。
「あんた、うちの娘の肩を掴んだわね。何を言ったの!」
母親が詰問する。映像に音声は入っていない。
「注意したのですが、黙ったままだったので――」
忍の言葉を母親は途中で遮った。
「違うわ!あんたは、ひどいことを言ったのよ。警察に突き出されたくなかったら金を出せとか、服を脱げとか!」
忍は唖然とした。どこをどう考えたら、そんなことを思いつくのかが分からない。
「そんなこと言ってません!」
「嘘よ」
母親は腰に手を当てて忍を見下ろした。
「週刊誌の人に聞いたわ。あんたレズなんだってね」
「!!」
忍は言葉を失った。なぜ、そんなことを週刊誌の記者が知っていたのか理解できない。顔が青ざめる。
黙ったままの忍の様子を、肯定したと取ったのだろう。
「ほら、見なさい。やっぱり言ったのね!」
母親の目がさらに吊りあがった。
「うちの娘は淫らなことをされると思って、パニックになったから雪で滑りやすくなっていることなんて忘れて逃げ出したのよ!」
「違います!」
「違わないわ!あんたが変なこと言わなければうちの子は死なずに済んだのよ!」
母親は倒れた忍を蹴飛ばした。さらに掴みかかろうとするところを、ようやく騒ぎに気づいて駆けつけた父親や親族と思われる人々に体を抱えられた。
「あんたが、あの子を殺したのよ!」
やめなさい、と父親が母親を連れ去ろうとするが、体を抱えられたまま顔だけ向けて母親が叫ぶ!
「死ね!」
忍はビクン、と体を震わせた。
「お前なんか、死んでしまえばいいんだ!」
引きづられるように連れて行かれる母親は「お願いだから、うちの子を返してよ!」と泣き叫ぶが、もうその言葉は倒れたままの忍の耳に入ってはこなかった。
(私のせいなの?)
(私が悪いの?)
(なんで万引きした子が悪くないの?)
よろよろと立ちあがると、人の輪はなくなっていたが、冷たい視線が体に突き刺さっているように思えた。
(みんな、私が悪いと思ってるの?)
涙が溢れてきた。顔を上げることもできず、忍は逃げるようにその場を立ち去った。
斎場での出来事は、その場にいた誰かが「万引き犯の母親が錯乱」とツィートすることで、またたく間に世間に知れ渡った。翌日にはツイッターの検索キーワードで上位になるほどだった。
そして掲示板でも専用のスレッドが立ちあがった。
最初は、万引きをする方が悪いのでは?という至極当然な意見が多かったのだが、「万引きした子は境界性人格障害っていう精神病だったみたい。責任能力ないね」「店主はレズで、万引きをネタに少女を手ごめにしようとしたらしいぞ」というレスを発端に、「鬼畜だな」「そりゃ少女も逃げるだろ」「精神障害あったらなら仕方ないだろう。追いこんだらいかん」といった中傷のレスが増え始めると一気に炎上した。
中には「幼女への犯罪歴があったってよ」「滑って転んだんじゃなく、突き飛ばしたらしいぞ」「JDです。あの店で買い物したら、店主にお尻触られました」という事実無根の作り話もあった。
世間の論調は、「万引きした少女が悪い」ではなく「忍が悪い」へと傾いていった。
無論、そうした論調に歯止めをかけようとする意見も多数あった。
「お前ら、適当な書き込みしてると訴えられるぞ」「本当に悪いのが誰か、もう一回、考えろよ」「精神障害あっても罪は罪だ」といった意見は黙殺された。そして、店の情報が掲示板にさらされ「凸電」が呼びかけられた。
■二○XX年二月二十日(過去の出来事)
▼東京 忍の店
忍の店は、電話が鳴りやまなくなった。無言の電話がほとんどだったが「死ね」「人殺し」と怒鳴って切れる電話も多かった。携帯電話の番号も掲示板でアップされたため、忍は仕事ができない状況に陥った。
警察にも相談した。しかし、「偽計業務妨害罪や威力業務妨害罪に該当する可能性がありますが、相手が不特定多数の場合、立件は難しいですよ」と言われ、事実上、放置された状態だった。
例えば、無言電話の場合、特定の誰かから反復継続してかかってくるのなら、威力業務妨害罪の対象になりえる。しかし、不特定多数の場合、もしかするとたまたま間違い電話をかけた人が多数いるだけの可能性もある。もちろん事実上、そんなことはあり得ないわけだが、そういった事例において立件することは難しいというのが警察の見解だった。
だが、こうした騒ぎは拡大するのも早いが収まるのも早い。一週間も経つと電話はほとんどかかってこなくなり、抜いていた電話線も元に戻した頃、事態は大きく動いた。
その週に発売された女性週刊誌に大きく取り上げられたのだ。それも、少女の母親を取材した内容が中心だった。
確かに、忍の携帯電話にも、留守電に週刊誌の編集部を名乗る取材の電話が何件も入っていた。だが、こんな状況の中、取材を受ける気持にはなれず、全て無視していた。取材を受けなかったのがいけなかったのか、当事者一方の話だけで作り上げられた記事は、読んだ忍の顔を青ざめさせた。
記事のストーリーは、母親が斎場で忍を罵倒した内容とほぼ同じだったが、多くの裏付け取材が行われ、母親の話がさも信憑性が高い、と読者に伝わるものだった。
忍が同性愛者であること、少女には境界性人格障害があったが薬物で日常生活はコントロールされ支障はなかったこと、そして少女は同時に強い潔癖症もあり、主治医の話として、もし淫らな行為を要求されたとしたらパニックに陥ったことが容易に考えられる、というコメントまでついていた。
テレビに良く出ている有名な弁護士も、精神障害を患っている場合、特に今回は十四歳未満でもあったため、万引き行為に対して責任能力はなく刑事罰は受けないこと、弱者は忍ではなく少女の方であって、もし少女が何らかの理由で追い込まれた状況にあったなら、その責任は忍にもある、と解説していた。
さらに、粗悪品を掴まされたため、数年前に取引を中止したバイヤーが、「忍から偽物のアンティーク品を納品するように求められた」という嘘の証言をしたことで、世間は鎮火しかかっていたこの問題を、当初よりもさらに大きく再燃させた。
テレビのワイドショーでも取り上げられ、忍の愛人だったという女性が、すりガラス越しに出演した。声は変声機で変えていたが、忍にはその女性が、店員だった美知子であることがすぐに分かった。店を開けられない状態が続いていたこともあり、美知子には店の再開時に復職してもらうことを条件に、いったん退職してもらったのだが、その後、連絡が取れずに心配していた。
忍は、まさかこんな仕打ちを受けることになるとは想像もしていなかった。
週刊誌の編集部には電話をかけた。テレビ局にも連絡した。だが――相手にしてもらえなかった。
「取材した内容で話をまとめるのが雑誌社の仕事だ。話を聞こうと連絡はしたはずだ。取材を受けない自由は忍にあるが、そのことで文句を言われても困る」
「テレビに出演した女性が誰かは守秘義務があるからお教えできない。事実と違う、ということであればBPO(放送倫理・番組向上機構)や司法に相談した方が良い」
けんもほろろの対応に、怒りを覚えた忍は、担当の弁護士に相談した。
だが、何度も弁護士の元に足を運んだ忍が聞かされたのは、記事の取り下げや名誉棄損の訴えは、内容が事実でないことを忍の側が証明しなければならず、証拠が残っていない以上、非常に困難であること、仮に証明できたとしても途方もない時間と費用がかかるだろう、などの事態を打開することにつながらない話ばかりだった。
そして、まずは話題が沈静化するのを待つことが良い、とアドバイスされたことに愕然とした。
(嘘を書かれて、なぜ黙っていなけれならないの?)
納得できない忍に、弁護士は追いうちをかける話を伝えた。
「実は、少女によって店が受けた損害ですが、親権者、つまり両親に請求することが難しいことが分かりました」
確かに、刑法三十九条では第一項で「心神喪失者の行為は罰しない」と記され、さらに刑法四十一条は「十四歳に満たない者の行為は罰しない」とある。
少女は十三歳だった。加えて境界性人格障害を持つ少女の行為は、二重の意味で刑事罰の対象とならない、ということは理解できる。
だが、民事では親がその保障をしなければならないのでは?
事件後、ネットを使って知識を得た忍は、弁護士に訴えた。
「確かに、未成年者の犯罪であれば、その監督責任は保護者にあり、親権者である両親が損害を補償することを求められ、実際にそういった判例は、いくつも出ています」
「じゃあ――」
「ですが、今回のケースは、未成年者であることに加え、精神障害を持つことが問題になります」
「精神障害を持っていても、誰かに迷惑をかけないようにすることは親の責任になるんじゃ――」
「いえ、民法七百十四条一項では『前二条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、監督義務者がその義務を怠らなかったとき、又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったときはこの限りではない』とあります」
言葉が難しすぎて忍にはよく分からない。そのことを弁護士は察したのだろう。普通の言葉で説明してくれた。
「簡単に言うと、第三者に損害を与えないよう適切な治療を行っていれば、両親の責任がなくなる、ということです」
(人に迷惑をかけないような治療さえ行えば、責任がなくなるって――そんなことが許されるの?)
忍には信じられなかった。
では――誰も責任を取らなくて良いというのか?自分は、泣き寝入りするしかないのか?
どうしても納得できなかった。
「一応、民法七百九条で『故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。』とあるのですが、この場合も、不作為行為があることが要件になっています。簡単に言えば、保護者が監督していなかった場合ですね。でも、この不作為行為自体がさっき説明した民法七百十四条一項の規定にあるという解釈がされているんですよ」
再び、忍が分かっていない、と思ったのだろう。弁護士は分かりやすい言葉に再度、置き換えてくれた。
「つまり、今回のケースで言うと、少女が忍さんの店に損害を与えたのは、少女に対する両親の境界性人格障害治療が適切でなかったことを証明することが必要なんです」
「え――?」
なぜ、被害を受けた自分がそんなことを証明しなければいけないのか?
法律とは、被害を受けた者を守るためにあるのではないのか?
理不尽としか思えない弁護士の言葉に忍は涙を浮かべた。
「もちろん、今回の事例が裁判になったとき、違う判断が下されて、そういった証明なく損害を補償してもらえる可能性も否定はできませんが――ただ、確実に補償をしてもらうには、そういった証明ができた方が良いのは確かです」
「その証明って、治療が適切でなかった、っていう証明はできるんですか?このままじゃ店を続けらないんです!」
店が受けた直接の被害はもちろんだが、雑誌に載ったことでの風評被害はもっと大きかった。店を再開できる環境にはなく、売上がゼロの状態で店を維持できる期間は長くない。休業に追い込まれた補償も忍には必要だった。
だが、すがりつくように訴える忍の言葉に、弁護士は、ため息をつくと、俯きながら違うことを答えた。
「あと、言いづらいのですが…まだ受理されたわけではありませんが、両親から警察に、少女に対する猥褻行為未遂の告訴状が提出されたそうです」
自分が追い込まれていることを忍は悟った。
■二○XX年六月二十一日(一日前の出来事)
▼東京 忍の店
顔を両手で覆ったまま、長い時間が経っていた。夜も随分と更けていた。だが、取引銀行から手形が決済できなかった連絡を受けた忍には、もう時間が過ぎることは、たいしたことでなくなっていた。
全てを無くしてしまった…
来月にはこの店も明け渡さなければならない。すぐに差し押さえが来るだろう。
結局、一度も店を再開することはできなかった。少女の両親が提出した告訴状受理されなかったが、提出された、という事実は報道された。電話も再び頻繁にかかってくるようになり、店には中傷する紙が張られ、ウィンドウガラスは投石によるヒビがいくつも入っている。落書きもされた。
店が高級住宅地の近くにあったことも、一度、こうした悪い話題が広がった場合には災いした。
お得意様だった近隣に住む上場企業の社長婦人からは、いったん店を閉めて時間を置いてから、店の名前と場所を変えて再開したほうが良い、とアドバイスを受けた。だが忍のことを思ってアドバイスしてくれたのではなく、本来なら静かなはずの家の近隣を、マスコミが徘徊する現状が気に入らなかったのだろう。
今の忍にとって、他の地で店の名前を変えて出店し直すことなど、資金的に不可能な状態だった。そこで、なんとか店にある品を転売して資金繰りを行おうとした。しかし、傷がついた店の名前ではオークションに出しても高値はつかず、ましてバイヤーには思い切り足元を見られた。
それでも四ヶ月間は頑張った。
マスコミが頻繁に訪れていたのも一ヶ月間だった。凸電はつい最近まで時々あったが、一週間ほど前に起きた全国同時多発車両停止事件以降はまったくかかってこなくなった。
だが――もう、店には売れる品が、何一つ残されていない。店、そして自宅の土地と建物は、銀行からの借り入れどころか、街金からも資金をひっぱったので、売却しても借金しか残らない状況だった。
そして今日、不渡りという最後通告を銀行から知らされた。
事実上の倒産。
借入金に個人保証もしていたので、忍自身の破産は免れないだろう。いや、街金から借りた金は、相手が相手だけに、破産しても事実上、免責はできないだろう。
本当に――本当に、何も残っていない。全てを失った。
「私のお城が…」
両手の間から、うめくような忍の声が漏れてくる。
どうして――どうして、こんなことになったのか。
忍は万引きした少女を咎めようと思ったわけではない。まして、猥褻な行為など考えてもいなかった。
ただ、諭そうとしただけだ。
人は誰だって間違いを起こすことはある。忍にだってある。
それが犯罪なのか、ちょっとしたゴミのポイ捨てなのか、犯した間違いのレベルには違いがあるかもしれないが、間違いを犯した事実に変わりはない。ならば、次にそうした間違いを犯さないことこそが大切だと思う。そして、子どもの場合は特にそうした間違いを犯さないよう、周囲が見守って導くことも大切なことではないのか。
少なくともこれまで忍はそう思ってきた。
だが世間は違っていた。
一つの出来事を面白おかしく騒ぎ立てて事態を大きくし、事実でないことを事実として認めようとする。
忍の店にかかってきた電話の中に「たかが万引きぐらいで、子どもを追い込んでどうするの!」というのがあった。
だが忍には、少女を追い込む意思などまったくなかった。少女が、心から反省してくれれば、警察に通報することなく帰していただろう。
なぜ、そんなことを言われなければならないのか。しかも、たかが万引きと言うが、万引きは犯罪行為だ。責任能力がなくても、その行為自体が店に損害を与える犯罪であることに変わりはない。子どもだから、責任能力がないから、悪いことをしても許さなければいけないのか…
全てを失った絶望感の中で、忍の心に、どす黒い何かが込み上げてくる。それは、怒りと悲しみが強く入り混じった感情だった。
大切な「お城」を失った悲しみ、そして失わせた何かへの怒り――
顔を覆った両手を外すと、その手は赤く染まっていた。
いつしか涙を流していたのだ。それも血の涙を。
正面のキャビネットに目を向けると、頬に異様な赤い筋をいくつもつけた顔が映っていた。だが、忍はそんな自分の姿に愕然となる前に、前に置かれたパソコンの画面に目がいった。
黒い画面に、白い文字。
「日本ジャスティス実行財団のホームページへようこそ」
確か、銀行からの電話がくる前にパソコンをつけていたが、ブラウザは立ち上げていなかったはず…
ふと気がつくと、窓には薄明の光が見える。時間の経過に気づかず一夜を過ごしたようだ。もっとも、一夜も二夜も、全てを失った今の忍にとってあまり大きな意味はない。無駄な時間すら体感できなくなった。なぜならこれからの時間は全てが無駄になったのだから。
黒色は他の色の中でこそ分かる。黒色の中で黒色は存在意義を失ってしまう。
ぼんやりとしたたまま、特に意識もせず、忍は画面の下に位置した「Enter」のボタンをクリックした。
■二○XX年六月二十三日
▼東京 警視庁の捜査本部
恭介は、朝から警視庁へと出向いていた。
警視庁と警察庁は、霞ヶ関の同じ一画に位置している。総務省、国土交通省、消防庁、海上保安庁、海難審判庁がある一画だ。隣のビルに向かうだけだったが、すでに日差しは夏の強さで路面を照らしており、首筋に汗が伝う。今年は、どうやら空梅雨となりそうだ。通りの奥には桜田門の交差点が見え、その向こうは皇居のお堀だ。
昨晩見つかった、ある変死体が、今回の「全国同時多発車両停止事件」に関わりがあるのではないか、という連絡が警察庁サイバー特別調査課に入った。そこで、恭介が変死体事件の捜査本部へ話を聞きに行くことになったのだ。強行犯を担当する捜査一課と、サイバー犯罪を担当する捜査二課が合同で捜査班を編成していた会議室は、多くの捜査員で混雑していた。
無理もない。
変死体そのものは、争った跡や目だった外傷もなく、鑑識は自然死の可能性が高い、としていたが、今回の事件に関連していると思われる「物」があったため、本来、殺人など凶悪犯罪を扱うはずの捜査一課も加わっていたのだ。
恭介は、連絡をくれた顔なじみの捜査二課に所属する捜査員を見つけると声をかけた。
「大下さん!」
恭介が軽く手を上げると、丸顔の少し頭頂部が薄くなったサイバー犯罪を担当する大下も手を上げて答えた。
「おお、多野主任。よく来たな。こっちだ」
軽い挨拶を交わしたあと、大下は恭介を近くのデスクに座らせ、自分も隣から椅子を持ってきて座る。そして、パソコンを使いながら本題を話し始めた。
「まず、現場の写真を見てくれ」
画面全体に大きく写真が映し出される。現場の全景を撮影したのだろう。ソファの床に人型のチョークの跡が書かれ、テーブルの上にはビールの缶やパソコンが載っている。
「ガイシャは清水研一。四十二歳。弁護士だ。同居の家族はいない。発見したのは職場の同僚だ。事情があって二ヶ月近く休んでいたが、休み明けで出勤するはずなのに来ていないことを心配して家を訪ねて見つけたそうだ」
「事情とは?」
「事故で一人娘を亡くしたそうだ。奥さんもすでに亡くなっているから、たった一人の家族を失って、周りが心配するくらい落ち込んでいたそうだ」
(それは…)
恭介は胸が痛んだ。最愛の娘だったのだろう。それを事故で突然奪われたなら、しばらく職場にいくことができなくても仕方ない。また、職場の同僚もその身を案じてくれていたから、心配して見に来たのだろう。
「ガイシャは床に倒れていたのだが、鑑識の見立てで死因は、おそらく急性の心筋梗塞ではないか、とのことだ。死後十日ほど。詳しくは司法解剖後だな。状況からは床に倒れる直前までパソコンを操作していたとみられる。次の写真だ」
大下がエンターキーを押すと次の画面に切り替わった。
「ガイシャの写真だ」
ソファとテーブルの間で横たわった姿は、ただ寝ているようにも見えた。暑い日が続いてはずだが、死体に大きな傷みは見られない。おそらく、エアコンがつけられていたのだろう。
「ガイシャの状況はあとで説明する。次」
画面が次の写真を映し出す。
「これが、多野主任を呼んだ理由だ」
パソコンの画面を写した写真は、よどんだ血のような赤い画面に黒い文字を映し出していた。
**************************************************************************
●基本ルールを受け付けました。
基本ルール一:飲酒や無免許、薬物の使用など、法律で禁止されている
運転行為は、これを全て禁ずる
基本ルール二:未成年や責任能力の有無に一切関わらず、違法な運転を
行ったものは二度と運転ができなくなる罰を受ける
基本ルール三:ただし、この罰は一度だけ猶予を与える
ルールの細部とルールの適用開始日は、当財団において決定し、責任を持ってルールに沿ったジャッジメントを実行いたします。
ルールに基づくジャッジメント実行の間まで、しばらくお待ちください。
日本ジャスティス実行財団
**************************************************************************
「これは!」
赤い画面が不気味な雰囲気を漂わせていたが、書かれていた文字は今回の事件がなければ、現場の証拠写真以上の価値はなかっただろう。
「日本ジャスティス実行財団!」
「そう、例の謎の団体だ」
恭介は書かれていた内容を、何度か読み返してみる。
まず、ルールを受け付けました、とある。そして、その次に書かれている基本ルールとは、今回掲示板に書き込まれていたルールと内容は同一だ。猶予の時間を二十四時間と書かれていたルールは、文面を読む限り、この日本ジャスティス実行財団が補足ルールとして追加したのだろう。
考えながら画面をじっと見ていた恭介は、何か違和感を感じた。なぜ違和感を感じるのかが分からない。何かおかしなところでもあるのだろうか。
そしてハッ、と気がついた。
「アドレスがない」
表示されている画面は、上部についた台形のタブと、右隅にある三本線の設定ボタンからグーグルクロムのブラウザだと分かる。インターネットエクスプローラーやファイヤーフォックス、オペラのタブは長方形だし、サファリのタブはバーの中ほどにある。普通なら、タブの下にあるアドレスバーに、今画面に表示されているページのアドレスが表示されているはずだ。
だが、この画面のアドレスバーは空白だ。
ページを表示させてからアドレスをデリートキーで削除することはできるから、もしかすると表示後に誰かが操作した可能性はある。だが、その場合も履歴には残っているはずだ。
「履歴はどうなっていました?」
「履歴は、今日の分はなかった。過去の履歴はあったがな」
「今日の履歴がなかった?」
グーグルクロムの場合、過去の履歴は履歴ごとに削除が可能だから、今日の分だけ消すことは難しくない。しかし、現場の状況を推測するとパソコンの操作途中で突然死したと思われるガイシャがわざわざそんな操作をしたとは思えない。
「パソコンの解析は?」
「今、行っているところだ」
こういった履歴の情報はパソコンの操作で削除できるが、ハードディスクに情報が書き込まれた位置情報を消去するだけだ。同じ位置に新たな情報が上書きされない限り、データそのものは残っている。ハードディスクを解析することで、情報を取り出すことは不可能ではない。
だが、時間はかかるだろう。
「他に、現時点で分かっていることは何かありますか」
大下は、ガイシャの愛娘が事故に遭った状況を説明した。恭介も、その事故は覚えていた。ドラッグを吸った少年が運転する乗用車が暴走して、死傷者十五名の大惨事を引き起こした事故だ。そして、この状況は恭介に新たな仮説を思いつかせた。
(急いで課に戻って検証する必要があるな)
「大下さん、情報を一通り貸してもらえますか?」
大下は、「ああ、用意しといたよ」といって、USBメモリーを渡してくれた。
▼東京 ある病院
午後九時四十分。
ピーポー、ピーポー
救急車が救急入口に止まると、一人の医師と二人の看護師が飛び出してきた。救急隊員が後部を開けてストレッチャーを降ろす。額にいくつも汗の粒をつけた老人が、ストレッチャーの上でうめきながら腹を抑えていた。
「バイタルは?」
医師が救急隊員に尋ねる。
「バイタルサインは取れてます。呼吸数、脈拍は高め、血圧は正常です。体温は三十九度」
「了解」
ぐぅっと、うめく男性に「大丈夫ですよ」と看護師が声をかけ、ストレッチャーを押して病院の中に運んだ。腹痛の原因がすぐに分かればよいのだが――場合によっては緊急の開腹手術が必要になるかもしれない。
若い男性の医師は、検査の手順を頭の中で反復しながら、ストレッチャーを追った。
▼東京 警察庁サイバー特別調査課
恭介は、会議室のタッチパネルに向かっていた。
大下から受け取ったUSBメモリーに収まった写真を、博巳と一緒にもう一度ひと通り見て、自分の仮説を確認した恭介は、いくつかの項目をタッチパネルに書いた。
一、ガイシャは大切な娘を、ドラッグによる危険運転をした若者の事故に巻き込まれて亡くした
二、ガイシャのパソコンに謎の団体のホームページが映っていた
三、残っていた文章は、今回の事件の原因に関わっていると推測される
「今回、これらのことが確認できている」
恭介はタッチペンを机に置くと、博巳の横に座って、自分が書いた文字を反復して読んだ。
これまで分かったことをまとめると、ガイシャは、二ヶ月ほど前、未成年者の危険運転で最愛の娘を奪われた。違法と知りながらドラッグを吸って運転した加害者に怒りをぶつけたくても、その加害者はすでに同じ事故で死亡している。大事な家族、おそらく自分の命よりも大切に思っていた家族を理不尽に奪われた苦しみはいかほどのものだっただろうか…
検視の結果、ガイシャの顔には血の痕が残っていた。結膜にも血液が付着しており、状況だけを優先して考えるなら血の涙を流したことが伺える。
もし本当に血の涙を流したなら、精神を相当追い込まれていたのだろう。
「血の涙って、そんなことあり得るんですか?漫画の世界だけでしょ」
博巳の問いに、恭介は簡単に説明した。
そう、ヒトの涙に血が混じることは涙腺の炎症や結膜に大きな損傷を受けた場合など、一部の疾患ではあり得るようだが、悲しみや笑いで普通に流れる涙に血が混じることはない。だが、ガイシャの眼底から結膜、涙腺まで、眼球の部分はどこにも異常が見られなかった。顔に付着した血液がガイシャのものだったことはDNA検査で分かっている。内臓を含めて体のどの部位にも出血の形跡はなく、もしこれが血の涙が流れたのでないとすると、以前、自分の血液を採取しておいて、それを顔に塗ったことになる。普通に考えてあり得ないことだ。
まあ、今回は常識では計れないことがたくさん起きている。
一二三老が言ったように、常識の範疇で原因が分からなくても、起きた事象については、そのまま受け止めておいた方が良いだろう。だから、ガイシャは「血の涙を流す」ぐらい感情が高ぶった状態だった、と認識しておこう。
そしてここからは、完全に推測になる。
絶望していたガイシャは、理由と方法は不明だが、日本ジャスティス実行財団のホームページに行き着いた。以前からガイシャが、この団体のホームページを知っていたかどうかは分からない。
そして、その後に起きた状況と画面に残された文字から推測すると、今回の事件のルール、違法な運転ができなくなり、もしそれを行った場合には運転ができなくなる罰を受ける、というルールをガイシャが決め、それを財団が受け付けて「ジャッジメント」を実行した、こういう流れになる。
ガイシャは心疾患で死んでいた。おそらくルールが受け付けられた後にだ。飛躍しすぎるかもしれないが、ガイシャは自分の命を代償に、今回の事件を引き起こせる誰かに依頼したのではないだろうか?あるいは、命を差し出すことは頭になく、ルールが受け付けられたことで命を奪われた、という可能性もある。だがその場合も、結局、命がルールを受け付ける代償だった、ということになるだろう。
例えば、悪魔に命を代償に差し出して願いを叶えてもらう、といったところか。
もちろん、偶然、そのタイミングで心臓発作が起きた、ということも考えられる。というか、常識ではその考えが正しいだろう。だが、聞き込みの結果、ガイシャに心臓の持病などは確認できなかった。
その死が恭介には、どうしても偶然と思えなかった。
恭介は立ち上がると、もう一度、タッチペンを握った。
●仮説一
ものすごく追い込まれると、日本ジャスティス実行財団のホームページが現れる
今回の状況から、ガイシャが精神的に相当、追い詰められていたことが伺える。愛する家族を失った失望感は、生きる望みを奪っていても不思議ではないだろう。
●仮説二
日本ジャスティス実行財団のホームページに、願いとその願いを叶えるために必要なルールを書き込むのではないか?
これは、結果からの逆算だが、ルールだけを聞いてくるのはどう考えてもおかしい。そのルールに行き着くための出発地点がないからだ。
まず、ガイシャに、今、何を願っているのかを聞く。あるいは何をしたいのかだ。
おそらくガイシャは、失ったものを取り戻したいという願いか、あるいは娘を奪った「理不尽な状況」による事故を恨んで、それを無くしたいと願ったのではないだろうか?
飲酒運転や違法ドラッグを吸っての運転で事故率が上がることは周知の事実だし、危険を知った上であえて運転したとなると、奪われた命は過失によるものではなく、故意、つまり殺人に近い、と考えてもおかしくはない。特に、ガイシャは弁護士という立場にあったから、法律が抱える矛盾と法律を遵守しなければならない意識で苦しんでいたかもしれない。
そして、その後のルールを読めば、後者を願ったと恭介は考えていた。
違法な運転を行うから事故が起きる、意図的に違法な運転を行う者は二度と運転ができなくなってしまえ、と。
●仮説三
日本ジャスティス実行財団は、手段は不明だが、そうした願いをかなえる力を持っている。ただし、願いをかなえる代償に命を奪う
常識で説明できないことを「日本ジャスティス実行財団」は行ったことになる。掲示板への書き込みも不可能な方法だった。違法な運転者だけを選別して、車両を停止状態にする、といったことも不可能だ。
だが現実は可能だったわけだ。
不可能でなかった理由を追うことは、今の物理常識を他の体系にどう置き換えるのかを考えるようなものだろう。すぐに解明などできるはずもない。物理学の素人である恭介が考えても、そんなことは分かる。
実証と検証、その積み重ねが科学だ。実証ができない以上、検証の意味すらない。だったらやはり、起きた事象はそのまま受け止める方が無難だ。理由は時間をかけて誰かが明かせばよい。
そして命の件は、さっき考えたとおりだ。
本人が望んだのか、望まずそうなったのかは分からないが、いずれにせよ命を代償に、日本ジャスティス実行財団が、投稿で書き込んだルールに沿った「ジャッジメント」つまり、審判を発動させたのだろう。
仮説というより空想の類の見解だが仕方ない。今、目の前にある材料だけで調理すれば、どうしてもこういった帰結に行き着く。
「じゃあ、主任のこの仮説を前提にすれば、昨日、現れた新しい書き込みも、何か分かることがあるんですかね」
恭介は軽く頷づいた。
そう、一二三老のところで読んだ新しい書き込みは、ジャッジメントが現実のものだと仮定すれば、その内容は衝撃的だった。
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◆◆日本ジャスティス実行財団からのお知らせ◆◆
当財団に新たなルールの申請があり、厳正な審理を行った結果、その申請を受理いたしました。
そこで、次の通り、ジャッジメントを発動いたします。
■ジャッジメント
一、二〇XX年六月二十七日午前零時をもって日本国内の広義に解釈された店舗において、
万引きやそれに類する行為(以下、当該行為)を全面的に禁止します。
二、前項の類する行為とは、窃盗や強盗など損害を与える違法行為全般を指し、過失、
故意は問いません。
三、ジャッジメントの発動時以降、当該行為をを行った場合、失っていない器官で、
手足、視覚、聴覚の先頭にくる器官の機能が即座に失われます。また、当該行為が
第三者から脅迫等により強制されたものであった場合には、当該行為を行った
者ではなく強制したものが器官を失う対象となります。
四、ただし、前項で失われた器官の機能は、二十四時間以内に警察に自首を行うことで
無期限の猶予が与えられ回復します。ただし自首後、事実を覆したり隠蔽した場合
には、その猶予は即座に取り消されます。
五、前項の無期限の猶予は、一器官あたり一回とします。
六、本ジャッジメントは、責任能力の有無に関わらず発動いたします。ただし十歳未満の
場合には、十歳の誕生日を迎えた午前零時に無期限の猶予が一回限り与えられ、
失われた機能が回復するものとします。
以上。
二○XX年六月二十二日
日本ジャスティス実行財団
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契約書の文章を思わせるような、かた苦しい文章が書かれているが、ようは、店での窃盗行為は全て禁止、もしルールを破る者がいた場合には、手足が消失するか動かなくなるということだ。
横のデスクに置かれたパソコンに表示された投稿の内容を読んで、博巳がつぶやいた。
「目には目を、の世界ですかね。確かタリオの法でしたっけ?」
「いや、ちょっと違うな」
確かに、犯した罪によって体の器官を失う、というルールはハンムラビ法典に書かれたタリオの法が思い出される。
ハンムラビ法典は世界で二番目に古い法典で、千七百五十年にバビロニアを統治したハンムラビ王が発布した法典だ。「目には目を、歯には歯を」の言葉は有名だが、ハンムラビ法典は犯罪に対して厳罰を加えること、つまり復讐を目的としているのではない。今の日本における司法制度と同じく、何が犯罪行為なのかをはっきりさせ、犯罪行為に対しては刑罰を加え、社会の治安を維持することが目的だ。無限の報復合戦に至らないよう、報復は社会で限度を持って与えることを規定している。
今回の「ルール」も、前回の事件と同様に、一見すると「悪いことをすれば罰を受ける」という点で、理にかなっているように見える。特に、今の日本で、万引きが処罰されるケースは少なく、表面化していない被害は膨大だ。
小売店における万引き被害は、二○○九年度の警察庁の推計では四千六百十五億円だ。一日あたり約十二億六千万円。毎日十億円以上もの被害が発生しているのだ。
だが今回は、今の日本、いや近代国家が掲げる司法制度の理念を根本から崩すルールが設定されたと言ってよいだろう。強盗は別だが、万引きは重犯罪ではない。体の器官を一部といえど失わせるのは、日本の司法で考えれば明らかな「不当量刑」に当たる。社会の治安を維持することが目的とはとても思えない。
また、子どもは、最初から大人と同じ心の持ち方ができるわけではない。社会のルールを知り、道徳を知り、少しずつ経験を積み重ねながら、自分の中で規範を組み立てていく。規範が固まっていないからこそ、現在の法律では十四歳未満の犯罪は処罰せずに、まずは更生を促すことになっている。
もっとも、犯罪の低年齢化が社会問題になっていることも確かだから、処罰を与えない対象年齢に対する議論はあって然るべきだろう。
だが、例えば、五歳の子どもが初めて店に連れられていって、窃盗行為が何かを知らずに興味のあるものをポケットに入れた場合、手足を失うべきなのだろうか?
恭介は、そうは思えなかった。
「でも、今回のルールって、窃盗犯罪がなくなるだけで、一般人にはあまり関係しないんじゃないんですかね?」
「本当に、そう思うか?」
博巳が不思議そうな顔をした。
一応、今回のルールでは、一定の猶予は設けられている。
二十四時間以内に自首した場合、そして子どもは十歳になった時点だ。だが、それも刑の執行が無期限で猶予された状態だけのため、次に同じ行為を犯せば、即、手足は動かなくなる。手足をすでに失っていた場合には視力を失う。
手足が動かずに万引きなど行えるのか、とも思えるが、命じられた窃盗行為は命じた方が罰を受ける、とあるので、それを想定しているのだろう。
しかし、この猶予は生活を著しく縛ることになる。
「博巳、お前、今年の春に飲みに行って、飲み過ぎたのを覚えているか?」
恭介の問いに、博巳は顔をしかめた。
「あのことは忘れてください」
課内の異勤に伴う歓迎会を行ったとき、新橋で博巳は、ぐでんぐでんに酔っぱらったのだ。
「最後の店、お前、途中で帰っただろう」
「すいません、よく覚えてないんです。気がついたら家で寝てました」
博巳は頭をかいた。
「あの時、会計せずに帰ったよな?」
「ええ――でも次の日、主任に割り勘分、返したじゃないですか?」
「そうだな。でも、もし一人でああいう飲み方していて、会計せずに帰ったらどうなると思う?」
博巳はようやく気がついた。
「まさか――」
「そうだ、なじみの店でツケが効くならまだしも、一見の店で同じことしたら無銭飲食で『アウト』だ」
アウト、を恭介は強調する。
「店舗に損害を与える行為とあるから、無銭飲食も該当するだろう。過失もダメらしいからな」
「そ、それって、ちょっとした不注意もできなくなるんじゃ――」
「そうだ」
恭介が頷く。
「店内を歩いていて服の袖に引っ掛け品物を落としてしまった。見ると少し凹んでいたが慌てて元に戻して立ち去った。この場合はどうだ?」
「それは――」
「次にその品を手にした客が凹んだから買わない、となれば店は損害を受けたことになる」
「それも、アウトですか」
「ああ、たぶんな」
ちょっとした事例を考えれば、いくらでも挙げられるだろう。
「これは、かなりヤバいんじゃないですか?」
そう、前回の事件は、ジャッジメントを受けても車の運転ができなくなる、といった被害だけで済んだ。だが今回の、四肢の機能を失うという被害は甚大だと言えよう。
万引きの被害だけで一日約十二億円。二○一○年の警察庁の犯罪統計資料によると全国で万引き犯の認知件数は十四万六千五百四十四件だが、あくまで警察で認知された件数だから実際の件数はもっと多い。
年間の推定被害総額が二○○九年度で四千六百十五億円。認知件数で割ると一件当たり三百十五万円。
万引き被害の一件あたりの被害金額が、平均で三百万円もあるはずがない。
仮に、一件あたり一万円の被害金額だとしても三百倍の件数が想定される。年間で約四千万件。
一人が複数の万引き行為を行っている可能性は高いが、それでも今回のジャッジメントの対象は年間数百万人以上、ということになるだろう。
可能性だけの話だが、日本の人口、数十人に一人、手足が動かなくなる状況になれば社会はどうなるのだろうか?
もちろん出来心から万引きした事例も多くあるだろうから、ジャッジメントにある猶予で回復することが基本とはなる。しかし、初犯を犯した人は、下手に店に出かけることもままならなくなるだろう。どんな不注意、不測の事態に巻き込まれるかが分からないからだ。
毎年、手足が動かなくなる人が増加していく。そして、そういった人を支えるための人口は、少子高齢化の現在、年々減少していくことが予想されている。遠くない未来、今の社会制度が維持されているのか、そら恐ろしくなる。
それに、と恭介にはある不安があった。
もしかすると、厳密な解釈で考えると、今回書かれていた猶予は、実はあってないようなものの可能性があると。一度、詳しい誰かに聞いてみないといけないかもしれない。
「確かにヤバい状況だな」
心に暗雲を抱えながら恭介は、パソコンを操作し、もう一度、大下から預かったUSBメモリーに保存されている写真を一枚ずつ確認していった。
心にひっかかる新たなものはないな、と考えながらマウスをクリックしていった恭介は、ふとある写真で手が止まった。横で見ていた博巳が「その写真が何か?」と尋ねてきたが、「いや――」とだけ答えた恭介は、再びマウスをクリックした。
(健太も、こんなシャツを好んで着ていたな…)
手が止まった写真に写っていたのは、親子三人の姿だった。ガイシャの妻がまだ生存していたときのものだろう。ガイシャの子どもが着ていた半袖の白いシャツには、昔からある有名なアニメのキャラクターがプリントされていた。恭介の息子もこのキャラクターが好きで、同じようなシャツを着ていた。
そのことを思い出した恭介は、心がチクリと痛んだのを感じた。
▼東京 恭介の部屋
その日、恭介は久しぶりに自宅へと帰った。
(四日ぶりの我が家か――)
本当なら、帰らずに捜査に当たりたかったが、課長が恭介に「今日は帰れ」と命じたのだ。博巳からも「昨日は、僕が家に帰ったんだから今日は主任の番ですよ」と言われた。確かに、適度に休むことは捜査の効率を上げるためには不可欠な要素だ。ただがむしゃらなだけでは、想像力も鈍くなる。
上着を脱いで、テーブルの椅子にかける。
リビングのソファに座り、近所のコンビニで買ってきた弁当を広げると、恭介はリモコンをテレビに向けた。一緒に買ってきた缶チューハイを開け、ぐぃっと一気に喉に流し込む。微炭酸の喉ごしが気持ちよい。
夜中でも呼び出しがかかることはあるが、ぐっすり眠るための薬のようなものだ。万一、呼び出されてもこれぐらいの量なら問題はない。恭介は車も持っていないから、ジャッジメントを受けることもない。
牛丼を口にほおばりながら、チャンネルを報道番組に合わせた。
「――ということが想定できると思うのだが」
中年のダンディな解説者が話している。良く見かける顔だ。画面が切り替わり、丸いメガネをかけた、顔も丸い男性が早口でまくしたてた。
「でも、これは超常現象の類としか思えないじゃないですか?じゃあ、万引きしたら手足が動かなくなる、なんてことが医学的に可能なことですか?違うでしょ」
少し甲高い声が耳障りだ。そしてダンディな男性が応える。
「車の事件とは違う。確かに運転者をどのように識別しているのかは不明だが、例えば車を突然動かなくする方法は、他の方法なら考えられる。パルス爆弾とか実用化されているものもあるだろう。だから車を突然止める、ということは物理的に不可能ではないということだ」
どうやら、今回の事件がどのように引き起こされたのかを議論しているらしい。かなり熱がこもっているのか、二人とも険しい顔だ。
「だが、今度の万引きの話は、あれは無理だ。医学的にもおき得る話ではない。催眠術で罪を犯したら体が動かない、と思い込ませることはできるかもしれんが、日本の国民全員に対して催眠術がかけられるはずもない。今回の投稿は、どこかに愉快犯がいて、単に最初の投稿を真似したいたずらだった、とも考えられるんじゃないかね」
残念だが、今回の投稿が模倣犯の仕業であることは極めてあり得ない。なぜなら、情報は公開していないが、最初の投稿と同じく書き込まれた投稿のIPは警察関係のものが使われていたのだから。
だが、催眠術は考えていなかったな――恭介は、議論に少し興味がわいてきた。
「そりゃ、言い切れないでしょ。でももし現実に万引きして手足が動かない、なんてことが起きたらどうするんですか?世の中おかしくなっちゃいますよ」
「手足が動かなくなるって分かっていて、万引きする人間などいると思うのかね」
少々ムキになったダンディな解説者に、甲高い声の男性は小ばかにしたように両手を挙げた。
そのことに関していえば、恭介は「手足が動かなくなると分かっていても万引きを犯す人間はいる」と断言できる。常習性がある万引き犯の場合、万引きをする目的が快楽を求めている場合もあるからだ。万引きという行為事態がスリルを伴うことで止められなくなるのだ。ギャンブルの依存症と似ているだろう。あるいは麻薬の常習性も似たような面はある。
確かに、多くの人は「手足が動かなくなる」という事実があれば、万引きという行為を思いとどまる。しかし病的な依存性を持っていた場合には、完全な歯止めにはならない。
甲高い声の男性は、恭介と同意見だったようだ。
「そりゃ、自制する人はいますよ。でも全員は無理ですね」
「き、君は、人の良心というものを信じていないのかね!」
ダンディな解説者は頭にきたようだ。そこから罵倒合戦のようになったため、恭介は興味を失った。テレビ局としては視聴率が取れるかもしれないが、意味のある番組とはとても思えない。
ちょうど、食べ終わったところだったので、恭介はテレビを消して、ソファに横になった。まだ、缶チューハイは残っているが、ここしばらく無理をしたせいか、疲労感もあって急激に睡魔が襲ってくる。
横になったまま、大きく伸びをした恭介だったが、すぐにスースー、という寝息を立て始めた。
恭介は夢を見ていた。まだ、家族が一緒にすごしていた昔の夢だ。
「健太、ほら蹴ってみろ!」
休みの日、見晴らしのよい近所の公園に出かけた恭介は、一面に広がる芝生の上で、幼稚園に入ったばかりの息子に向かってボールを蹴った。辺りは同じようにキャッチボールや、追いかけっこしたりして遊ぶ親子で溢れている。少し横にそれたボールを追って、大好きなキャラクターがプリントされた白いシャツを着た健太が走る。
「健ちゃん、がんばって!」
少し離れたところでレジャーシートに座る妻の明美が声を掛けた。ボールに追いついた健太は、「いくよー!」と叫んで恭介に向かってボールを蹴り返した。
テン、テン、と弾んでくるボールは、恭介の心も同じように弾ませていた。
場面が変わる。
「あなた、健太は来月、中学受験があるでしょ」
「ああ」
夕食を食べながら、恭介が返事をすると、明美が湯飲みにお茶を注いでくれた。
「それで、最近、インフルエンザが流行っているから、予防注射を受けさせておこうと思うんだけど」
「予防注射?そんなの必要ないだろ」
「必要あるわよ」
気のない恭介の言葉に明美は少しムッとした。
「一緒に受験する、山口さんのところの厚司くんも先週、受けたそうよ」
確かに恭介の職場でも、インフルエンザの予防接種を受ける人は多い。だが、先月、捜査の関係で厚労省の職員から話を聞いた恭介は、雑談の中で、インフルエンザの予防接種は流行する型が違えば効かないし、今のように複数の型が流行している場合、有効率は五十%を切ることもあると耳にしていた。子宮頸がんワクチンのように、副作用が現れることもある。
もっとも、生命に危険が生じたり、後遺症が残る確率は、約百万人に一人ということだった。
ジャンボ宝くじは、千万本を一ユニットとして一等が一本入っている。一枚あたりの一等が当たる当選確率は千万分の一。普通は十枚単位で購入するだろうから、事実上の当選確率は百万分の一と考えてよいだろう。つまり重篤な副作用が生じる可能性は、宝くじで一等が当たるようなものだ。だから恭介も、本気で副作用が出ると心配したわけではない。ただ、ムキになる明美に少し反発したくなっただけなのかもしれない。
一応、副作用のことを明美に話してみたが、「バカじゃないの。そんなこと気にするなんて」と取り合ってもらえなかった。
こうなると議論しても無駄だ。明美の性格から、結論ありきで相談を持ちかけられていることは、これまでの付き合いで痛いほど分かっていた。
「じゃあ、好きにしろよ」
恭介が折れると、明美は「わかったわ。あなたって本当に心配性ね」と満足そうに頷いた。心配性は余計だ、と思った恭介だが、口には出さず、残ったおかずに箸を伸ばした。
再び場面が変わる。
パソコンに向かって、捜査報告書を作成していた恭介の携帯電話がブルブルと震えた。
職場で持たされている携帯電話はもちろん音が鳴るようにしているが、個人の携帯電話はマナーモードにしておくのが暗黙のルールだ。
画面の表示を確認すると明美からの電話だった。
キーボードを片手で操作しながら、もう片方の手で通話ボタンを押す。
「もしもし」
そして、耳に飛び込んできたのは明美の悲鳴だった。
「あなた、助けて!」
「どうした!」
手を止めた恭介は、携帯電話を耳に当てたまま立ち上がった。
前に座る同僚が、何事かと恭介を見上げていた。
「健太が、動かないのよ!」
「何があった、どうしたんだ!」
だが、混乱している明美は同じ言葉しか喋らない。
「目を開けないの。息もしていないの。目を開けないの。息もしていないの」
「明美!しっかりしろ!」
思わず、恭介は大声を上げた。電話の向こうで明美が身を竦めるのを感じる。
課内にいる職員全員の視線がこちらを向いていることに気がついたが、頓着している暇はない。
「落ち着け。まず状況確認を、いや救急車は呼んだのか」
「救急車…」
「そうだ、救急車をまず呼ぶんだ」
明美に指示しながら恭介は、へその下に向かって何かが落ちていく感覚にとらわれていた――
画面がみたび変わる。
「ばかやろう!だから言ったじゃないか!」
恭介の前で明美は呆然と、椅子に腰掛けていた。泣きはらした目は真っ赤だが、表情はうつろだ。
思わず大声を出してしまったが、ここは病院、しかもICUの前だ。騒ぐ場所ではない。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
だが、理不尽さへの怒りや悲しみの思いが、口には出していけない言葉を吐き出させてしまった。
「お前が――お前が注射を受けさせたんだぞ!」
口にしてから、すぐに「まずい」と気づいたが遅かった。
「悪い?私が悪いの?私が健ちゃんをあんな目に合わせてしまったの?」
その目は焦点を失いつつあった。
予防接種を受けてから三日後、学校から帰ってきてすぐに、突然嘔吐した健太は、その後、意識を消失、自発呼吸も止まった状態になった。いわゆる心肺停止状態だ。
あとで医師から聞いた話では、インフルエンザの予防接種により起きる副反応の一つ、急性散在性脳脊髄炎が起きた、ということだった。病院に搬送後、蘇生したのだが、搬送に時間がかかり過ぎた。脳への酸素不足が長時間だったため、脳死の一歩手前の状態に陥ってしまったのだ。
あり得ない確率。宝くじに当たるような確率。だが、百万人に一人という確率は、百万人予防接種を受ければ一人は重篤な副作用を受けることも、統計上意味していた。宝くじも誰かには必ず当たる。
恭介は健太の身に生じた出来事を理不尽だと思った。
なぜ、健太なんだ。
どうしても、恭介は健太の身に起きたことが受け入れられなかった。医師から、回復の見込みが失われたことを告げられ、座り込んでしまった明美に恭介は、やり場のない思いから、追い討ちをかけるようなひどい言葉を投げつけてしまったのだ。
「い、いや、言い過ぎた。すまん」
慌てて跪き、明美の肩を掴んだ恭介の声に明美は目を伏せ、沈黙で答えた。
気がつくと、あたりは乳白色に覆われ、そして恭介の手は何も掴んでいなかった。
「明美!、健太!」
立ち上がり二人を呼ぶが返答はない。
なぜ返答がない?
ここはどこだ?
意識が混乱する中、もう一度、二人の名を呼ぶ。
「明美!、健太!どこにいる!」
意識が唐突に覚醒した。額はびっしょりと汗で濡れている。鼓動が早まった心臓の音が、耳に響いてくる。
起き上がりソファに深くもたれかかると、恭介は頭を軽く振った。
数年ぶりに見た夢だ。
健太が医療事故にあった直後は、毎日、うなされていたが、「時」は慈悲深い。悲しみに浸っていても生きていくための生活は続けなければならない。
医療事故から五年がたった。
仕事に追われていく中で、少しずつ記憶の引き出しに、それも重い引き出しにしまったのだろう、ここ一年ほど夢にうなされることはなくなっていた。おそらく、今日、パソコンの画面に写っていたガイシャの家族写真が、深いところにしまったはずの記憶を呼び起こしたのだろう。
キッチンのカウンターに置かれた時計を見ると午前五時。体感よりも寝ていたようだが、夢のせいか疲労感が残っている。
恭介はタバコを取りだすと火を付けた。深く煙を吸うと、いくぶん心が落ち着いた。
明美のことを思う。
恭介は、生きる糧を得るために仕事を続けなければならなかった。
だが明美は違った。
恭介に追い込まれたことが引き金になったのかもしれない。極端な感情鈍麻と重度のうつ症状が見られるようになった。健太が遷延性意識障害、いわゆる植物状態ではあったが、命を取り留めたのは幸いだった。もし、健太が命を失っていたなら、間違いなく明美はその後を追っていただろう。
感情を失った明美が回復したのは、実家に戻ってから二年後だった。だが、その二年の間に夫婦関係は完全に破綻した。最初は、頻繁に明美の実家に様子を見に行った。だが、恭介の言葉に一切反応せず、人形のように一点を見つめて動こうとしない明美の姿を見るのは辛かった。実家を訪れる間隔が一週間になり、そして一カ月になった。
明美の両親から、しばらく別居する形をとって、様子を見た方が良い、と告げられたのは、三か月ぶりに訪れた時のことだった。恭介の家から明美の荷物を両親が運び出すのを手伝いながら、ピキン、と何かが割れる心の音を聞いた。
明美が両親に連れられ健太の病室に通うようになって少しずつ、表情に変化が出たそうだ。愛する我が子と触れあううちに、例え動くことのない体であっても、肌の温かさは感じられ、そしてわずかな息遣いも聞こえる――それが良かったのだろう。
最初に明美が口にした言葉は「けんた」だった。
そこから明美が現実の世界に適応を取り戻すまでに、さほどの時間を要しなかった。今は、健太の病室で過ごすことを日課としている。
だが、恭介は一度も明美には会っていなかった――いや会えなかった。
事務手続きもあるため、年に数回は健太の病室を訪れるが、向こうがその日を察知しているのかどうか、病室で顔を合わせたことはない。明美の両親からは籍を抜いても良い、と言われていたが、健太が生きている間は、とやんわり拒否したのは、自分が傷つけた明美への贖罪が済んでいないことを心の中で自覚していたのだろう。
健太の身に起きた急性散在性脳脊髄炎とは、非常に稀な副反応だった。
二○○九年度に厚労省から通知された実施要綱に基づいて受託医療機関で行われた新型インフルエンザの予防接種回数は延べ二千二百八十三万三千百三十七回。その中で、急性散在性脳脊髄炎が否定できない、とされた副反応症状を示したのは、わずか五名だった。
四百四十万分の一の確率。
確率に思いを馳せると改めて、なぜ健太なんだ、という理不尽さへの怒りが湧き上がってくるが、起きてしまった事実はどんなに憤慨しても変わらない。元の生活は夢の中でしか得られないのだ。
だが幸いにも、健太の症状はスムーズにインフルエンザの予防接種による後遺症として認定を受けられた。二○○九年十二月四日公布された「新型インフルエンザ予防接種による健康被害の救済等に関する特別措置法」は、公布以前の被害も救済するとされていたため、そういった救済制度により、健太の命は病院という限られた空間の中でだが、繋ぎとめておくことができた。
そうでなければ、公務員といえど恭介の薄給では、いつか生命維持装置を外す選択を迫られていただろう。
昔のことを思い返しながら、吸い終わったタバコを灰皿に押し付けたとき、携帯電話がメロディを奏でた。職場からの連絡だ。
やれやれ、あと二時間ほどはベッドで眠れると思ったのだが…
電話は博巳からだった。
「主任、早くにすいません」
「構わん。ちょうど起きたところだ」
恭介は、電話を肩と耳で抑えて、生乾き状態のワイシャツを脱ぎながら答えた。確か、前にも同じような状況があったような――
そう、最初のジャッジメントが発動した日だ。胃がキュンとするのを覚える。
「何があった?」
「第二のガイシャが見つかりました」
恭介は場所を確認し「すぐに向かう」と告げた。
【第三章】
■二○XX年六月二十四日
▼東京 忍の店
タクシーから降りると、静かな朝の光景にそぐわない赤色灯の点滅が目に入った。夏至を過ぎたばかりで、午前六時前でも太陽はすっかり昇りきっていた。
何箇所かクモの巣状にヒビが入ったガラス戸越しから見える店内は、品物が載っていない陳列棚がバラバラに置かれていて、寂れた店だったことが伺える。店の奥だけ明るくなり、人の姿が見えるが、紺色の服を着ているのは鑑識だろう。
ガラス戸を押すと、チリンと鈴の音がなった。
店に入った恭介は明りが見える奥に向かう。店の中を歩きながら、埃にまみれたガラスケースを何気なく覗き込むが中には何もない。この店から活きた雰囲気は伝わってこないな、と何か物悲しさを感じながら奥の部屋に入ると、先に着いていた博巳に声をかけられた。
「主任!」
決して広くはない部屋は、事務所のようだった。
デスクトップのパソコンが置かれた机が一つ。机の反対側には、大きなガラス戸のキャビネットがあった。机には、ガイシャと思われる女性がうつ伏せている。
鑑識が撮影するカメラのフラッシュがいくつも閃く中、顔見知りの捜査員に手を挙げ挨拶しながら、恭介は博巳に近づいた。
「おはようございます」
博巳は挨拶すると、すぐに「早速ですがこれを」とパソコンを指差した。
挨拶を返しながら恭介は、パソコンを見る前に周囲の状況を確認した。机にうつ伏した女性の横顔は土気色で、すでにこと切れているのが見てとれた。頬が少し汚れている。
次にパソコンを見ると、昨日、写真で見たのと同じ、赤黒い画面に漆黒の文字が映されている。
博巳に「見てください」とうながされ、恭介は、黙って表示された文字を読んだ。
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●基本ルールを受け付けました
基本ルール一:万引きを禁止ししてください
基本ルール二:もし万引きしたら責任能力に関わらず罰してください
基本ルール三:でも更生するための猶予は与えてください
ルールの細部とルールの適用開始日は、当財団において決定し、責任を持ってルールに沿ったジャッジメントを実行いたします。
ルールに基づくジャッジメント実行の間まで、しばらくお待ちください。
日本ジャスティス実行財団
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恭介は、掲示板に投稿されていた内容を思い出しながら、表示されている文章と照らし合わせた。
「鑑識の所見だと、外傷は特になく、心疾患、おそらく心筋梗塞が原因と思われるそうです」
「死亡したのは?」
「詳しくは司法解剖を待つ必要がありますが、推定で、死後四十八時間ほどだそうです」
博巳が、メモを見て答えるのを聞きながら恭介は考えていた。死亡原因は最初のガイシャと同じで、掲示板への投稿があった日の早朝に亡くなった、ということか――
もし、これが最初と同じ現象につながる、つまり、ここに書かれたルールを元に作られたジャッジメントが実際に実現する、と仮定した場合、日本ジャスティス実行財団はアバウトなルールから、かなり細かなルール作りを行ったことになる。
例えば、ここに書かれたルールでは、「もし万引きしたら責任能力に関わらず罰してください」とあるが、罰の内容までは書かれていない。だが実際には「失っていない器官で、手足、視覚、聴覚の先頭にくる器官の機能が即座に失われます」となっていた。
また今回は「してください」という依頼調の文章になっているが、この女性が依頼人だとすると、その意図を独自に解釈しているという節がある。強制されていた場合には強制した方を罰する、というのも、その一つだろう。
問題は、この書き込みが新たな事件を生むことになるのか?ということだろう。
二つの異なる現場で、同じ状況が再現されている。恭介は、手帳を取り出すと、思い浮かんだことを書きとめた。
一、掲示板へ書かれた内容につながる画面が表示されていること
二、書いた当人が死亡していること。それも自然死で。
そして、恭介はあることに気がついて鑑識官を呼んだ。
「頬の汚れは、何だと思う?」
呼ばれた鑑識官は顔を近づけ、いろいろな角度から見ていたが、やがて頷いた。
「おそらく、血液の痕だと思いますよ」
やはり、と恭介は思った。
「正確なことはルミノールで調べると分かりますが、あとで反応を取っておきましょうか?」
「ああ、お願いしておこう」
「分かりました」
鑑識官は、メモを取り出して書きこみながら、前の現場も担当したのか「これが前のガイシャと同じ、血の涙の痕かは分かりませんがね」と肩をすくめた。鑑識官は、科学に基づいた捜査を行う。非常識をもっとも嫌う職業の一つといっても良い。
おそらく、今回いろいろと起きている「あり得ない現象」は、彼らをかなり困らせ、そして、いらつかせているに違いない。
だが、怖いのは「あり得ない現象」である非常識が常識となった時なのではないか、恭介はそう思っていた。一つの非常識が常識になるとき、他の非常識も常識となる恐れがあるからだ。非常識が連鎖するとき、恐怖も同じように連鎖するだろう。
「ところで博巳、今回のガイシャは、万引き被害にあっていた、という事実はあるのか?」
恭介の問いに博巳は、用意していた雑誌の記事を見せた。
「うちの課にあったんですが、これ、読んだことないですか?」
目に入ってきたのは「レズの店主、中学生の万引き犯を死に追い込む!?」と書かれた大きな見出しだった。?マークは付いているが、読んだ方は疑問符がついていることを意識しないだろう。センセーショナルなタイトルがついている。
記事を読んだ覚えはないが、この事件は知っている。今年の冬に、万引きした中学生が店主に見つかり逃走、雪道で転倒して頭部を強打し、亡くなった事件だ。その後、テレビのワイドショーでも、未成年者、それも精神障害を患っていたこともあり、店主の対応を非難する内容で取り上げていたはずだ。
(今回のガイシャは、この女性店主だったのか――)
博巳から雑誌を受けとり、記事を斜め読みすると、状況がなんとなく想像できた。
万引きの被害にあった店主が、相手が死んだことで非難され、さらにテレビや雑誌で取り上げられて、社会的な注目も集めてしまった。そういえば店のガラスにヒビが入っていた。周囲から多くの中傷を受けたのではないだろうか。そのせいで店を続けられなくなったのだろう。
少女への猥褻行為など、記事の内容がどこまで事実かは分からない。しかし、ルールとして書きこんだ内容を読む限り、事実とされた多くは違っていたのではないだろうか?
おそらく、少女に万引き行為を注意し、そして諭そうとしたのだろう、と恭介は考えた。本当は、このガイシャは心根が優しい女性だったのではないか。でなければ、罪を猶予するというルールを、わざわざ書きこむことはないはずだ。
「ひどいな…」
一言感想を口にした恭介は、この女性がルールに込めた心情を思い、心が重くなった。
今回、恭介は書きこまれていたジャッジメントの内容から逆算して、万引き被害にあって苦しんでいるか、万引き被害をきっかけに事件に巻き込まれた人を調べるように、警察庁内の合同捜査本部に上申していた。
自分の考え通りだったが、やるせない思いを感じた。
▼東京 首相官邸
「で、対応は何か考えているのかね。錦田君」
竹岡総理大臣は、疲労感を隠そうともせずに尋ねた。
「有効な対策はありません。常識で考えると、実際に窃盗行為で身体に異常をきたす、ということが信じられませんので…」
錦田警察庁長官の顔色もさえない。
夕方、首相官邸では、国家安全保障会議が開催された。いわゆる日本版NSCだ。本来なら武力攻撃に関する外交問題や国防問題など安全保障政策を審議するが、今回は「国民の生命、財産に関する事項」として緊急事態大臣会合を開催した。出席者は官房長官、副総理に加えて全閣僚、そしてオブザーバーとして警察庁長官と国家公安委員会委員長が加わった。
今回の会議は、今朝、ある女性が死体で発見され、現場に残されていた状況から、数日前に大手掲示板に投稿された内容が、実際に起きるのでないかと危惧した警察庁長官からの上申がきっかけだった。
総理には、いまだに起きている事態、いや、これから起きようとしている事態が信じられない。
空想の世界でもあるまいし、万引きしたら手足が動かなくなる、自首すれば猶予が与えられ動くようにはなるが二回目の猶予はない、手足は二度と動かなくなる――どう考えてもあり得ない話だ。
猶予?誰が猶予を与えるというのだ。誰が責任能力のない子どもすら裁こうとしているのだ。
十日ほど前に起きた、「全国同時多発車両停止事件」も信じられない大事件だった。いまだに、その影響から日本の経済自体が抜け切れていない。
その上で、もっと深刻な事態が起きようとしているのか?
「森条君、学者の意見はどうだ」
問いかけられた、同じ派閥に属する文部科学大臣は首を振った。
「何も分かっていない。前回の騒動ですら物理、科学の両面からあり得ない出来事だった。今回は、さらに輪をかけて異常といえる」
「有村君、日本医師会の見解は?」
総理は、次々と閣僚を指名する。誰か、この問題の答えを示せないのか?
だが――有村厚生労働大臣の返答も、他の大臣と変わりがなかった。
「基礎、臨床の両面から、専門の研究機関に意見を求めましたが、専門家の意見は皆同じです。不可能だ、と」
「では、これは神の仕業なのかね」
その問いに答えるものはいない。いや答えられるはずがない。
もしかすると、最初の車両停止事件を模倣した単なる愉快犯が、あのような書き込みをした可能性もあるのではないか?もう一度、会議の冒頭で確認したことを聞こうとしたが、意味をなさないことに気がついた総理は言葉を飲み込んだ。
サーバーに侵入しない限り、ああした掲示板への同時書き込みは不可能、さらに書き込み者のIPが二回とも全て警察関係のIPだった、となれば、「同一犯の書き込み」以外の答えは不要だった。
「もし、今回のジャッジメントやらが本当だった場合、どのような事態が想定されているのかね?」
総理は原木多国家公安委員会委員長の方を向いて尋ねた。
指名された委員長は書類を手に立ち上がった。相変わらず赤いスーツを着ているが、現政権の閣僚は男性ばかりなので、まさしく「紅一点」だ。しかし、その表情は冴えず、苦渋の色が滲んでおり、華やかさを感じさせることはなかった。
原木多女史は、リモコンを操作し、正面に設置された八十型液晶画面に、パワーポイントで作られたデータを映す。畳一畳の大きさが売りで、発売されたばかりの大型液晶は、水平千九百二十、垂直千八十画素を表示できる。その画面に、機能を生かす必要もない単なる文字の羅列が並ぶ。
「材料が乏しく、まだ一次段階の推定に過ぎないわ。けれど一応、専門家を集めてシミュレートさせました」
だが、原木多の言葉は誰も聞いていなかった。皆が画面に表示された一行だけの数字に釘付けになっていた。
一日目 四肢の機能喪失者七十五万人
「ほ、本気でこの数字を出したのかね」
総理の声は震えていた。出席している他の閣僚も、唖然とした表情でその数字を眺めていた。確か、ジャッジメントを受けた者には、一回限りの猶予が与えられていたはず。だがその猶予は、自首が必要になる。そして、自首者を受け付けるのは警察だ。
二○十二年度、警察が一年間で検挙した人数は交通業過を除く刑法犯だけで二十八万七千二十一人。それがたった一日で七十五万人も自首された場合、対応できるはずがない。
拘置所で、一日当たりに留置されている人数は全国で一万数千人。留置施設のキャパシティも東京、大阪など大都市では百十%を超えている。
七十五万人に及ぶ大量の自首者に、今の警察が持つキャパシティで、果たして、対応することが可能なのか?
「こんな人数の自首者を、警察は捌くことができるのかね、錦田君」
だが――総理も他の閣僚も、まだ事態を正しく把握しきれていなかった。
錦田が答える前に、原木多が口を挟んだ。
「勘違いしないでくださいね、総理。これは自首の人数ではありません。四肢の機能喪失者、つまり手足が動かなくなる人がこれだけ想定される、ということです」
「何を言っているんだ。万引きして手足が動かなくなっても、みんな自首しないというのか君は!」
総理は思わず、テーブルをドン、と叩いていた。
だが、原木多は冷静だ。
「いいえ、自首の成立要件の解釈を考えると、こうなります」
「まさか――『発覚』のことを言っているのか!?」
錦田の顔が青ざめる。
「どうした?錦田君」
ごくりと唾を飲み込んだ錦田は声を絞り出した。
「じ、自首とは――自首が成立するためには、犯罪事実が全く捜査機関に『発覚』していない場合、とされているんです」
「どういうことかね。分かりやすく説明してくれ」
「そもそも、『発覚』とは、犯罪事実が発覚、犯人が発覚、という二つを指しています。この二つが両方揃ってしまうと、いくら犯罪を犯した、と申告しても自首は成立しないんです」
だが、総理はまだ分かっていないようだ。不思議な顔をしている。
「今回は、万引きを行った段階で、即座に手足が動かなくなる、と書いてありました」
「そうだが?」
「万引きを行うと手足が動かなくなる、つまり万引きをすれば、いきなり倒れることが考えられます。そうなれば当然、店側に、犯罪事実と犯人が誰かということが即座に判明してしまうということです」
ようやく総理も理解できた。
「じゃあ――」
「そうです。ほとんどの万引き行為は自首が成立できずに、手足が動かなくなってしまう事態に陥る、ということを意味している恐れがあります」
再び、閣僚全員が言葉を失う。そして原木多が発言した。
「おそらく、自首が成立できる要件について、専門チームの意見では、通販で購入した場合、じゃないか、ということだったわ」
「通販だと、なぜ自首できるんだね」
「通販の場合、代金を支払わないことで店に損害を与えたことになります。これは厳密に言えば窃盗行為ではなく詐欺行為なんだけど、ジャッジメントに書かれた『店に損害を与える行為全般』に含まれると考えられるわ」
「でも、店側に買った客が代金を支払う意思がない、と判明した段階で、同じ状況になるんじゃないのかね?」
「いえ、少し違うわ」
総理に向かって原木多は首を振った。
「通販の場合、後払いならば支払いまで一定の期間が普通はあるわ。そして客が代金を支払わないことを決めるのは、買う前、品物が届いてから、支払い期限を迎えた時と、いろいろなタイミングが考えられます」
「それで?」
「おそらく、手足が動かなくなるのは、客が代金を支払わないことを決める、そして品物を入手している、この二つが揃った段階でしょう。これならば、店側に知られる前に自首することは可能だわ」
原木多の説明に総理は、なるほどと頷いた。
確かに、通販での購入なら、手足が動かない状態になったとき、犯罪事実を知る店側の人間がそばにいることは、ほぼあり得ないだろう。
こういった特別なケースのみが猶予の対象となるのか――
だが、この猶予という恩恵――本当は、恩恵でも何でもないが――を誰しもが受けられるわけではない。
もし、このジャッジメントが事実ならば、店での万引きや窃盗行為が少なくなることは確かだろう。だが、少なくなるまでに、相当の被害、いわば教訓が必要だ。
国民がこの事実を知った時、どう考えるのだろうか?
歓迎する者もいるだろうし、不快に思う者もいるだろう。数は多くないが、窃盗で生計を立てている人間もいるのだから。人の道徳心、良心が試されることは間違いない。
総理は、社会が大きく変わる予感がした。
同時に、ジャッジメントを行おうとしている何者かの嘲笑が聞こえたように思えた。
▼東京 警察庁サイバー特別調査課
「おい、ちょっと今、いいか」
足早に部屋に入ってきた課長の言葉に、パソコンを見ながら話し合っていた恭介と博巳は振り向いた。
「なんですか?」
「さっき、本庁の会議で、政府の方針が示された」
「政府の方針?」
「そうだ」
そういうと、課長は向かい合った机の椅子を引き出して座った。
「政府は、二つ目のジャッジメントが事実だった場合に備えることにした」
「それはどうやって?」
恭介が尋ねる。
「まず、起きるであろう事象について世間に周知させること、これが第一だ」
ということは、ジャッジメントが起こることを政府が公認した、ということになる。
「次に、そうした行動を、つまり万引きなどの窃盗行為をくれぐれも行わないこと、そして不注意による同じような状況もジャッジメントの対象となる恐れがあると、強く警告する」
「じゃあ、対象者が膨大な数になった場合、自首者への対応はどうするんですか?警官の数、足りないでしょ?」
博巳の質問に、課長は首を横に振った。
「政府は、自首の成立要件から、自首が認められる事例は少ないと考えている。おそらく通販購入での未払いなど、一部に限られるのではないかということだ」
やはりか…
昨日、恭介も自首の定義から、もしかすると事実上、自首はできないのではないか、という不安を感じた。ただ、猶予をわざわざ書いている以上、救済措置としての位置づけもあるのでは、と思ったのだが、ジャッジメントの判定は甘くないと政府は考えたようだ。
博巳も仕事柄、当然だが「自首の成立要件」は承知している。
「そっか、万引き行為は即、動けなくなるんでしたね」
「そういうことだ」
課長が頷いた。
だが、ということは事実上、万引き行為は即、障害を負うことを意味することになる。悪意すら感じるこの非情さは、ルールを定めた女性店主のものではないように思えた。
もしも、この超常現象を人ならぬものが行っているのなら、それは神ではなく悪魔の仕業だろう。
「だが、一応、ジャッジメントが自首の解釈を緩やかに捉えていた場合は、相当数の自首者が現れると想定している。その場合、簡単な調書を取り、いったん自宅に帰す予定だ。たぶん、その準備は無駄に終わりそうだがな」
「被害想定は?」
「公安の専門チームの推定では、一日目で手足に異常をきたすことになる人数は七十五万人という数字が出ている。それも猶予が与えられていないケースでだ」
「七十五万人――!」
博巳がうめいた。恭介も、そこまで大きい数字は考えていなかった。
「ちなみに、二日目以降は不明との報告だった」
想定できない、ということか。七十五万人は少ない人数ではないが、今の人口から考えると百五十人に一人ぐらいの割合となる。身近に該当者がいれば、さすがに自制することになるだろうが、ニュースで流れる数字だけではピンとこずに、犯行を犯してしまう者もいるだろう。人とは、かくも愚かだということだ。
「被害を受けた者への対応は?」
「とりあえず、転倒時に頭部を強打するなど治療が必要な場合を除いては、自宅での介護を要請することになる。とても病院で対応できる数じゃないからな」
「確かに――」
恭介は同意した。手足が動かせなければ、事実上、全く行動ができないことを意味する。車椅子を自分で動かすこともできない。寝たきりの状態だ。
一日で出現した七十五万人の多くは病院で治療を求めるだろうが、治療の手段があるかどうか分からない。というかジャッジメントの内容から考えると、治癒は望めないと思った方が良い。また、予想されているジャッジメントを受けるであろう「被害者」の数は、病院で介護できるキャパシティは軽く超えているから、社会を維持するために自宅での介護が必要になることは確かだろう。もっとも、その「被害者」の大半は、犯罪行為を犯した者たち、ということになるのだが…
「自首が成立できないケースがあることを、しっかり周知できればいいんですがね」
恭介の言葉に課長は「周知は無理だろう」と答えた。
「今回のジャッジメントをいくら政府が警告しても、信じない人間は必ずいるからな」
自分が触れられるものだけが実在するものだ、と考えるような人にとって、理解と常識を超えた事象を受け入れられなくても仕方ないことかもしれない。
ジャッジメント発動まであと三日。
願わくば、できるだけ多くの人が事態の深刻さに気づき、いたずらや嘘でないことを信じて欲しい。そして、もし今回のジャッジメントがいたずらだったなら、万一起きた場合の重大さと比べれば笑い話のようなものだ、と寛容するぐらいでいて欲しいと恭介は思った。
「ところで、何か新しいことは見つけられたか?」
「残念ながら…」
恭介は首を横に振る。
今回のガイシャが操作していたと思われるパソコンは、第一のガイシャと全く同じ状況だった。アドレスが表示されていないこと、履歴が残っていないこと、などだ。「戻る」ボタンで前のページを確認できないか、とも考えたが、残念ながら「戻る」ボタンはグレーアウトした常態でクリックできなかった。
第一のガイシャの場合、その後、パソコンが接続していたサーバーも調べたが、表示されていた日本ジャスティス実行財団のホームページへアクセスしたログを見つけることはできなかった。
恐らく今回のガイシャも同じだろう。
そのとき、ふと恭介は、さっき博巳と交わした会話を思い出していた。それは「ガイシャ」の位置づけについてだ。
警察の隠語で、被害者を「ガイシャ」そして被疑者を「マル被」と呼ぶ。
今回、ルールを決めた二人の男女は、不可思議な力で日本ジャスティス実行財団に殺された「被害者」なのか、それともルールを決めることで社会を混乱に陥らせようとしている「被疑者」なのだろうか?
少なくとも現在の法律に照らし合わせると、犯罪行為を行ったわけでないから、常識を前提にすれば「ガイシャ」となる。だが、あり得ないできごと、つまり非常識を前提にすれば「マル被」となるだろう。
また、ジャッジメントを「悪」と位置づけて考えてよいのかも難しい命題だ。 なぜなら、今度のジャッジメントは、少なくとも犯罪をなくすことに繋がるからだ。おそらく、店舗における窃盗被害は、全て一掃されるだろう。万引き行為や窃盗行為そのものは、ジャッジメントという抑制があっても、完全になくなることはないかもしれない。だが、その「行為」が完遂される前に、ジャッジメントを受けてしまうのだから、被害は出ようがない。その点だけ見れば「善」の部分があると言える。
しかし――ジャッジメントが実行された場合には、社会に大きな混乱が起きることは避けられず、「悪」の意味合いもかなり強い。。
そこには矛盾があった。
――犯罪行為がなくなり、代わりに社会が混乱する。
――社会が混乱しない代わりに、犯罪行為が起きる。
果たして、人々はどちらを求めるのだろうか?
これからの捜査方針を課長と打ち合わせしながら、恭介は今回の出来事が持つ意味合いを掴むために、一二三老をもう一度、訪ねてみようと考えていた。
■二○XX年六月二十六日
▼東京 ある病院
夕方、若い男性医師は、救急センターでお茶を飲み、一息ついていた。今日は、搬送されてくる患者は多くない。だが、これから夜間にかけては気が抜けない時間になる。
数日前の夜勤では、立て続けに患者が搬送されてきた。
最初は交通事故で足を骨折した女性だった。次が嘔吐を続ける小児、最後に原因不明の腹痛で倒れた老人が運ばれてきた。
救急センターは内科系医師と外科系医師の二名で勤務体制をとっている。男性医師は外科系の医師だった。最初に運ばれてきた交通事故の女性への治療は、男性医師の専門領域だった。二番目の小児は、すぐに小児科に回した。小児の嘔吐は、容態が急変することも多く、慎重な検査が必要だし、外科が専門の男性医師にとって、少々、荷が重かったこともある。
最後の老人は、場合によって開腹手術も必要かと思ったが、レントゲンでは特に異常が見られず、中毒症状も考えられたから、とりあえず内科に依頼した。
最近は、救急医療でも誤診で医療訴訟が起きたりする時代だ。
救急医療は、勤務時間と勤務内容を考えると長くは続けられないな、と思いつつ、最後に診た老人のことがふと気になり、ちょうどカルテを持ってきた看護師に尋ねた。
「この前、原因不明の腹痛だったクランケは、結局何だったか知ってる?」
「えっと、お年寄りの患者さんでしたよね?」
「そうそう」
経験豊富な落ち着いた感じの看護師は少し考えながら答えた。
「確か、緑膿菌感染症でしたよ」
「緑膿菌?それで、あんな強い症状だったの?」
「リウマチで免疫抑制剤を使っていて、皮膚への感染が内臓に広がった、と言ってました」
男性医師は思わず顔をしかめた。緑膿菌とは、健康であれば感染する恐れはほとんどない毒性の低いグラム陰性好気性桿菌のことだ。いわゆる日和見菌。
だが、抵抗力が低い老人や小児、あるいは免疫抑制剤などを使い免疫力が低下していると、局所感染を引き起こすことがある。万一、血管内に感染し、さらに悪化して緑膿菌敗血症になると大変だ。致死率は約八十%に及ぶ。
もう一つ、日和見菌の緑膿菌が恐れられているのは、院内感染を引き起こすことがあるからだ。特に、病院内はさまざまな消毒薬や抗生物質が日常的に使われている。
(多剤耐性緑膿菌が発生しなければ良いのだが…)
小さくため息をついて、男性医師は看護師が持ってきたカルテをめくり始めた。
▼東京 ネットカフェ
加世は、ネットカフェ難民だった。もう半年になる。
仕事はコンビニでのバイトだ。二日に一度のバイトでも、ネットカフェでは十分に暮らしていける。難民になったきっかけは、両親との不和だった。よくあるパターンと言えるだろう。半ば家出同然で飛び出したが、友達の家を泊まり歩くのも限界がある。持ち金も多くはなく、自然と難民になっていた。
シャワーを浴びた加世は、個室でくつろぎながらネットを立ち上げた。ポータルサイトのトップページは、ニュースの半分が、最近話題のジャッジメントだった。
「そっか、明日ね」
そう、二つ目のジャッジメントの発動まであと五時間ほど。
十日ほど前に起きた、全国で一斉に車が動かなくなった事件は加世もびっくりしたが、そうしたことがあるんだ、ぐらいの認識でしかなかった。テレビやネットでは、その非常識さを解説していたが、加世は運転免許を持たないから他人事でしかなかった。だが、今回のジャッジメントは違う。
万引きしたら手足が動かなくなる?
そんなことってあるの?
とても信じられなかった。しかし、政府が毎日、強く警告しているのを見ると、半信半疑のまま、それでも興味が湧いていた。
「現在、話題になっているジャッジメントの内容は、実際に発生する恐れがあります」
「二十七日以降、絶対に万引き、窃盗などの犯罪行為を行わないでください」
「通販で購入した商品の代金は、必ず期限内に支払ってください」
「万一、ジャッジメントを受けた家族が、手足共に動かない状況で倒れていた場合には、その日のうちに近くの派出所、警察署に本人を連れて出向いてください」
「自首の定義を必ず確認してください」
政府は、これらの情報を、しつこいぐらいにマスコミを通して繰り返し報道した。常識ではあり得ない事象が起きようとしていることを疑問視する報道もあったが、政府の強い要請もあったし、何より前回の事件が常識外の出来事だった。前回「非常識」が起きたなら、今回も「非常識」が起きない、という理由はなくなる。そのため、疑問視する声は、あくまで少数意見としての取り上げ方だった。
バイト先のコンビニでも、その話題で持ちきりだ。
ひと通り、ニュースに目を通した加世は、いつも見ている掲示板を立ち上げた。ジャッジメントが投稿された掲示板だ。予想通り、どの板もジャッジメントのスレが占めていた。
普段の相手を煽るようなレスよりも、真剣に議論しているようなレスが多いことが、問題の深刻さを現わしている。
多くの意見は、万引きや窃盗という犯罪を神のような存在が罰してくれる、とジャッジメントを肯定している。少数の意見は、だからといって万引きがなくなることはないし、与えられる罪も重すぎる、世の中が混乱して大変になることを心配していた。
それに対しても、犯罪者を擁護してどうするんだ、悪いことをする方がいけないのであって罰の重さは関係ない、という意見が圧倒的で、ジャッジメントで世の中が良くなる、と歓迎していた。
不思議なことに、医学的にも物理的にも不可能な、「ジャッジメント」という現象を疑う意見はほぼ皆無で、ジャッジメントは世の中に受け入れられていた。
そればかりか、他の犯罪もジャッジメントの対象にすべきだ、という意見も出始めている。
ただ、どうやってジャッジメントを依頼できるのかは、誰も分かっていなかった。もちろん警察は、現在までに掴めている情報は、全て極秘として扱っており、一切公表していない。
そういった中、日本ジャスティス実行財団を名乗る偽のホームページは、雲霞のように現れた。断片的な情報から想像したホームページは、それでも第三者からはそれらしく見えるものもあった。
「世の中を変えるためのルールを、決めてください」
「あなたの恨みを晴らすためのルールを書きこんでください」
「どんなことでも実現します。希望するルールを投稿してください」
普段なら、誰も相手にすることはなかっただろう。だが、政府が半ば公認した形となった今、そうした偽サイトも賑わうことになったのは皮肉といえる。
しかし、警察はそうした偽ホームページを放置することはなかった。管理者を即座に逮捕、そして公表したことで、今は沈静化の方向に向かっていた。
加世は、そうしたジャッジメントをめぐる社会の流れについて、だいたい把握できていた。
(まあ、悪いことしなければいいだけだから、私には関係ないし――)
もしかすると、明日、バイト先のコンビニで、誰かがジャッジメントを受ける現場に立ち会えるかもしれない。実際、万引きの被害は、加世のバイト先でも決して小さいものではなかったのだ。
きっと、ジャッジメントを目撃できるに違いない。
加世は、ちょっとした刺激のあるイベントに参加できるぐらいの考えだった。
▼東京 八王子の研究所
「遅くにすみません」
夜九時。恭介は博巳を連れて八王子超常現象研究所を訪ねた。新たなジャッジメントは午前零時を持って発動する。もし、発動する、としての話だが。
警察庁は、警視庁と各県警に警察庁長官名で、今日から全職員でジャッジメントに備えるよう通達していた。
ここ数日間、新たな手掛かりも得られず、せめて何かのヒントをと思い、恭介は一二三老を尋ねた。極秘になっているこれまでの資料は、パワーポイントにしてあらかじめ送っておいた。ばれたら懲戒の対象になるだろうが、今はそんなことを考えている場合ではない。ジャッジメントの事件が解決できるなら、喜んで泥をかぶる覚悟はできていた。
「おお、よくきたな」
「今日も手土産は持ってきていませんが…」
頭をかく恭介だったが、遅い時間にも関わらず、いやな顔一つせずに一二三老は迎えてくれた。
勧められソファに腰掛けた恭介は、早速切り出した。
「手身近に。解決のヒントがないかを聞きにきました」
「ジャッジメントを解決する、ということかな」
「そうです」
恭介は頷いた。
この前一二三老を訪ねた時、自分たちの常識で図れないことでも、起きた現象はそのまま受け止めて次に備えることが大切であることを教わった。
だから、なぜこうした事象を起こすことができるのかは考えずに、ただ事象を解決できる方法を探ろうとしたのだが、糸口すら掴むことはできなかった。
明日、ジャッジメントが発動することは、もう止めようがない。おそらく、社会的に相当な混乱、そして影響が見られることになるだろう。これは今さらどうあがいても変えることは無理だ。だが、ジャッジメントはこれで終わり、とはとても思えない。これから連続して発生することも考えられる。
恭介は、少しでもジャッジメントの真実に近づき、そしてジャッジメントを止める方法を知りたかった。
「方法は二つだな」
「え?解決するための方法があるんですか」
「机上かもしれんが、理論上は、な」
博巳がびっくりして聞く。
恭介も驚いた。こんなあっさり「解決する方法」を口にするとは――
「なんだ、気づいておらんかったのか」
「それは――」
当たり前でしょう、と言いかけた言葉を恭介は呑み込んだ。
今までの手掛かりで、何か見落としていることがあるのだろうか?
「まず一つ目は、管理下の元、ジャッジメントを発動させる方法だ」
「そんなこと、どうやって」
「小野田君だったか、もし君がジャッジメントを発動したいならどうする?」
「…」
博巳は考え込んだ。恭介も自分がジャッジメントを発動したい、と思った場合どうするかを考えてみた。
ガイシャの研一と忍に共通していたのが何か?
まず一つ目は、絶望に追い込まれていた。
研一は、交通事故で、それも違法ドラッグを吸引した若者による理不尽な事故で唯一の家族を失っていた。忍は、万引きを咎めた少女が事故で亡くなったことで店を閉めることになった。他人からは、たかがそれだけで、と思われる部分があるかもしれないが、本人たちにしか分からない理由で絶望を抱いていたことは考えられる。
二つ目の共通していた点は、絶望に追い込まれていた対象を恨んでいたと思われることだ。
(なるほど――)
博巳の代わりに恭介が答える。
「まず、絶望して、そして絶望させる原因を強く恨む、ということでしょうか?」
「そうだな。しかしまだ見落としておるぞ」
「見落としている、というと?」
「他にも二人の共通点があっただろう」
「共通点?」
一二三老は恭介が送った資料から、その答えを導き出している。ならば、資料のどこかに共通点があったはずだ。
「二人の現場を思い返してみて、同じ状況をピックアップしてみるとよい」
「主任、これを見てください」
恭介の考えを読み取ったのか、博巳がプリントアウトして持ってきた資料を恭介に渡してくれた。
二つの現場に共通しているもの。
「パソコン」
「そうだな。他には」
恭介は一枚ずつ資料をめくる。そして忍の現場写真で手が止まった。
「そうか!血の涙?」
「そう」
一二三老は頷いた。
「見えているものだけで判断するなら、絶望、恨み、そして生理学ではありえない血の涙、媒介としてはパソコン、さらにその者の死。これらが共通項といえるだろう」
「ですが――」
恭介は考えた。
「だからと言って、そこまで追い込まれるぐらい絶望と恨みを抱く人に、簡単に巡り合えるとは思えませんが――」
一二三老が、じっと恭介を見つめる。
「多野君、わしは悪者になるぞ」
「え?」
恭介は、一二三老が何をいっているのか分からない。
「健太君が、二度と意識を取り戻さないと分かった時、君はどう思った?」
「先生!」
一二三老の意図を察し非難の目を向けた博巳の横で、恭介は、「うっ」と息を止めた。
ICUで健太が植物状態に陥ったことを聞いた時、確かに自分は、経験したことのない絶望を抱いた。そして、予防接種を受けさせたことを後悔し、低い確率であっても一定の確率で被害者を出す予防接種そのものを恨んだ。しかも、自分のせいで罪もない明美を追い込んでしまった。
もし、あの時、恭介の前に日本ジャスティス実行財団のホームページが現れれば、予防接種を全て無効にして欲しいというルールを書きこんだかもしれない。
もちろん、その代償が自分の死であっても、その時は構わないと思っただろう。無論、今は違うが。
「辛いことを思い出させてしまい、すまんかった」
一二三老が頭を下げる。
慌てて、恭介は手を振り、同じように頭を下げる。
「いえ、先生がおっしゃりたいことは理解できました」
誰かを絶望に追い込むことは、非人道的なことができるなら、無理なことではない。
恭介の場合、偶然の産物が不幸を招いたわけだが、世界をみれば、必然で似たような不幸を生んでいる例は無数にある。
「もしジャッジメントを意図的に引き起こすことができれば、ジャッジメントを無効にするルールを設定すれば良い、ということですね」
「可能性は、あるということだな」
一二三老が頷いた。
「ですが、確かに机上の論理ですね」
「そうだ。ただ、不可能ではない、ということが言いたかった」
「血の涙、というハードルもありますし、ジャッジメントを無効にするというルールを設定するためには、ジャッジメントそのもので強い絶望を受ける必要があるのでしょうし」
とはいえ、絶対にあり得ない話ではないかもしれない。
特に、明日のジャッジメントでは、相当の被害が予想されている。それは、手足が動かなくなる、という被害だけでなく、生命への被害も考えられている。
突然、手足が動かなくなる状況は、立っている状況なら転倒は免れない。さらに手足が動かないわけだから転倒した際、体を支え、守ることもできない。転倒した場所によっては、頭部を強打して死亡するケースも現れるだろう。もし、家族をそうした状況で失えば、ジャッジメントを深く恨む者がいてもおかしくはない。
だが――やはり、そうした犠牲者を待つ考え方は、気分が悪い。
「ちなみに、もう一つの方法とは?」
気を取り直して恭介は尋ねた。
「ああ、それはパソコンだな」
「パソコン?」
「パソコンで依頼して、パソコンでジャッジメントを告知しておる。もしかすると、こういう現象を引き起こせる何かがネットの中に存在しておる可能性も考えられるだろう」
なるほど。では――
「ネットを破壊しろと」
「そうだ。もちろん不可能だがな」
ネットは一ヶ所を拠点に広がっているのではない。無数のノードが繋がりあってWorld Wide Web、WWWと呼ばれるネットワークを構築している。世界中に広がる全てのノードを同時に破壊することなどできるはずもない。地上だけでなく、宇宙空間、あるいは潜水艦の中にもノードが存在しているかもしれない。それに、もはやインターネットは世界中の人々の生活に密着し過ぎている。万一ネットを破壊したら、これから日本で起きようとしている混乱など比較できない事態に陥るだろう。
「それに、超常現象を引き起こしている誰かが、単に媒介手段としてネットを利用しているだけなら、ネットがなくなれば他の手段に移行するかもしれん」
いずれにしても、方法論としてはジャッジメントを防ぐことが考えられても、実行することはできない、ということか。
だが、一つだけ分かったことがある。
ジャッジメントを止める意図を持つ人間が、ジャッジメントに直に接触することができれば、事態を変えられるかもしれない、ということだ。相当、偶発的要素が揃わなければ無理だが、常識で図れないことが起きている今、あり得ないと断言することはできないだろう。
ほんの少しだが、希望が見えたような気がする。
その後、しばらく雑談したのち、一二三老に参考になったことの礼を言って帰ろうと恭介が時計を見ると、二十三時三十分になっていた。
あと三十分。
日本は、どう変わるのだろうか?
【第四章】
■二○XX年六月二十七日
▼東京 渋谷のコンビニ
「店長、零時になりましたよ」
レジに立っていた店長は、バイトの言葉に店内の時計を見上げた。すでに、時計の針は零時を回っていた。
(そうか、今日が例のジャッジメントの日だったな…)
店長は本部からの通達を思い出していた。
「政府からの要請があり」、と書かれた通達は、今日一日、店内で突然倒れた客については、病気以外にもジャッジメントの対象となった可能性があるため、救急と同時に警察にも連絡すること、また、店の外に出た直後に倒れた客がいた場合には、店員は絶対に声をかけず、近くの他の客に依頼して、救急車を呼んでもらうこと(自首の対象要件とするため。警察へは連絡しないこと)、など、ちょっと考えられない内容だった。
万引きしたら手足が動かなくなる?政府が認めているようだが、常識で考えて、そんなことが本当に起きるのか、いまだに信じられない。
今日、うちの店でもジャッジメントが行われるのだろうか?
できるなら、やっかいごとに巻き込まれたくはない。店長は、良心ある客だけが来てくれることを祈っていた。
「いらっしゃいませ」
バイトが元気な声で客を迎える。
反射的に店長も「いらっしゃいませ」と声をかけ入口の方をみると、二人組の若者が店内に入ってくるところだった。
渋谷のセンター街にある店は、深夜でも客が途切れることはない。客層は若者の街・渋谷らしく、若い男女が多い。一昔前は、チーマーやヤンキー、カラーギャングが溢れて、雰囲気も治安も良くなかったが、ここ数年は、世代交代したのか、少数のチーマーと半グレがたむろしているぐらいだ。
二人組の若者は、最近あまり見かけなくなったミリタリー系の格好をしていた。顔が赤く、見るからに泥酔しているのがわかる。
店内は、数人の客がいるだけでレジには誰も並んでいなかった。二人組の若者はまっすぐ、レジに向かってきた。
タバコでも買いに来たのかな?
「何しましょうか?」
レジ前に並んで立った二人組は、一言「金」と言った。
思わず「は?」と聞き返した店長に、いきなり取りだしたバタフライナイフを突き付けようとして――そして突然、崩れるように倒れた。
「キャーッ!」
近くにいた女性客が高い声で悲鳴を上げる。
慌てて、レジから飛び出した店長が見たのは、手足をだらんと投げ出し、胴体だけを必死にもがかせている二人組の姿だった。一人はうつむけで倒れたのだろう、首だけを横にして叫んでいた。
「助けて!」
仰向けに倒れた方の若者は「手が動かない!」と、もはや泣き顔だ。二つのバタフライナイフが床で無機質な光を反射している中、店長はつぶやいていた。
「まさか――ジャッジメント」
二人組の泣きわめく声だけが響く店内で、店長は震える手で携帯電話を取り出した。周囲を見渡すと、声を出さずにただ見つめている客が取り囲んでいる。その顔は、一様に青ざめていた。
▼神奈川 新次郎の部屋
今日は新次郎にとって、素晴らしい一日だった。興奮しすぎて、もう丸二日は寝ていない。いや、眠る時間があったら、世界が変動する様を眺めているべきだ。
確かに、色あせた世界は新次郎が望む色に彩られた。
深夜からテレビ番組は、今回のジャッジメントばかりを報道していた。午前中までは、、「東京のコンビニで強盗しようとした若者二人が倒れる」「札幌では、飲食代を払わずに店を出た中年の男性が倒れた」「会社に出勤した人が多数倒れた模様」「大阪市営地下鉄梅田駅の改札前で、キセルしようとした少女が倒れる」といった速報が流されていたが、午後からは、防犯カメラの映像が次々と公開されていた。
その映像一つ一つが、新次郎には、新しい世界の訪れを告げるプロローグに見えた。どんな映画やドラマよりも、それは刺激的だった。
人が倒れ、そして手足を投げ出して、体だけをもがく映像は、ホラー映画よりも恐怖を伝えていた。まるで芋虫のように床を這う人。中には転倒した際、頭部を強打したケースも少なくなかった。顔面から地面に激突する映像もあった。それは当然だろう。手足が突然動かなくなれば、一切の防御姿勢が取れない。手をつくこともできない。
こうした悲劇的な映像は、ニュース性が高かったからテレビで放映されたのだろうが、おそらく政府の指示もあったのだろう。尋常でないことが起きている現実を、国民に直視して欲しかったに違いない。
だが――人間は愚かだ。
これだけ、ジャッジメントが実在する「証拠」を目の前に提示されても、信じない人間は少なからずいる。ニュースでは、全国で万単位の人が、被害を受けたと言っていたが、そんな数で済むはずがない。五年前まで通っていた予備校は、二百人ぐらいの生徒がいた。その中で万引きや不注意による無銭飲食など、ジャッジメントの対象となる行為を行ったことがある人間は必ず数人はいるだろう。もちろん、今日、今の段階でそういった行為を行っている、というわけでないが、少なくとも百人に一人ぐらいの割合で、ジャッジメントを受ける対象になるのではないか、と新次郎は思っていた。
国民の百人に一人の割合――つまり百万人以上はジャッジメントを受けたはずだ。
新次郎は、今、起きている出来事が嬉しくて仕方なかった。ジャッジメントを受けた人間は、受ける理由があった。多くの「悪人」が今日、裁かれたに違いない。そして、いつしか、その裁きは新次郎が中心となって、行われている感覚に囚われていた。
(神が、降臨してくれた!)
新次郎は本気でそう思っていた。非日常が日常と交錯する今、これまで非常識の世界を彷徨っていた自分は、この新しい世界で必ず居場所があるはずだ。いや、必要とされるに違いない。
テレビのニュースを見て、ネットの動画サイトでジャッジメントを受けた映像を見る。それはあまりに刺激的で、そして性的興奮さえ覚えるほどだった。なぜなら、新次郎は、その中心に自分がいると思い込んでいたのだから…
こうして、狂ったように、いろいろな掲示板に書き込みを続けながら、ひたすら映像を見続けていた新次郎だったが、腹が鳴って空腹に気づいた。
(そういえば、今日は何も食べていないな…)
時間を見ると午後十一時過ぎ。やがて、日付が変わる時間だ。
部屋のドアをそっと開け、階下の様子を伺う。電気が点いている様子はなく、テレビの音も聞こえてこない。人の気配は感じられず、誰も家にいないようだ。
この時間に、父親、母親、そして妹も含め家族全員がいないなんて珍しい。だが、新次郎は深く考えなかった。なぜなら今は、それどころでないからだ。新次郎を必要とする新たな世界が、今、目の前で創られている。それをしっかりと見届けないといけない。
ドアの前には、いつものようにお盆に載った食器が置かれていた。昨夜は、ジャッジメントの開始を待ち、そして今日の未明からはパソコンとテレビにかじりついていたから、食事は摂らなかった。きっとこの食事は、母親が今日、新しく用意してくれたものだろう。
そのとき、もう一度、腹が鳴った。
六月の時期、食事は傷みやすいから、まさか昨日、作ったものをそのまま放置しておくはずがない。いつから家に誰もいないのかが分からないが、とにかく腹が空いていた新次郎は「構うものか」と呟き、お盆を持ちあげ――その下に置かれていた平たいダンボール箱に気がついた。
(これは、なんだ?)
箱の表面に貼られたシールを見ると、そこには大手通販会社の名前が記されていた。
(そうだ。確か、二週間ほど前に新作のゲームを予約していたんだっけ…)
とりあえず、お盆と共に、その箱を持って部屋に戻る。あれだけ楽しみにしていたゲームだが、今は興味を惹かれなかった。お盆をテーブルに置き、箱を開けてみると、やはり思ったとおり、新作ゲームがそこにあった。
(ジャッジメントがひと段落してからだな)
そう思い、ゲームを箱の中に戻そうとしたとき、封筒が見えた。開けてみると、そこにはゲームの請求書とコンビニで支払える振込用紙が入っていた。
(チッ…)
新次郎は小さく舌打ちをした。
引き籠りの生活を続ける新次郎は、当然だが金など持っていない。いつもなら、こうした通販を使った買い物の支払いは、食事後、お盆の上に「払っておいて」というメモ書きを添えて振込用紙を置いておく。だが、先月、漫画とゲームをまとめて買ったとき、父親から「いつも家でゴロゴロして、物を買える立場だと思うのか」と叱られ、言い争いになったのを思い出した。
新次郎は、自ら望んで今の生活を送っているわけではない。だが、両親はそんな生活を送っていることが新次郎にとって良くないと思っていたし、そんな両親の想いを新次郎は気づいていた。しかし、心の奥底では気づいていても、それを自覚することはできなかった。なぜなら、自覚してしまえば、自分を何重にも覆い守ってくれている、社会から拒絶された被害者、という「鎧」が剥ぎ取られてしまうのだから…
(構うものか)
通販だから、しばらく支払いをしなくても、すぐに再請求は来ないだろう。そして、再請求が来るまでの間に、世の中はジャッジメントで大きく変わっているはずだ。そうなれば、自分の居場所もきっと出来ているだろう。何も今すぐ、支払わなくてもよい。それに、もしかすると、この通販会社は、これから起きる社会の大きな変動に呑みこまれ、潰れるかもしれない。そうなれば、支払いなどしなくても済む。
もう一度、「構うものか」と呟いた新次郎は、軽い気持ちで請求書と振込用紙を一緒に重ね、ビリビリと破いた――そして、その場に崩れ落ちた。
何が起きたのかが分からなくなった新次郎は、気がつくと天井を見ていた。起き上がろうとするが、手足に力が入らない。というか手足の感覚がなくなっている。
さっきまでの高揚感は嘘のように消え、そして新次郎は自分が陥った状況を悟っていた。これは――突然手足が動かなくなるって、今日、さんざん動画やニュースで見た状況と同じじゃないか…
(まさか、さっき請求書とかを破いたから――だから、ジャッジメントを受けた?)
恐怖が全身を駆け巡る。
新次郎は、政府の警告を、半ば鼻で笑いながら読み飛ばしていた。家に引き籠っている自分が万引きはもちろん、不注意で店に損害を与えることなど、そもそも店に行かないわけだから、物理的に起こり得るはずがない。だから自分には関係ない。そう思っていた。そのため、通販での支払い事故がジャッジメントの対象となる恐れがある、という警告のことを知らなかった。
新次郎自身は、羊ではなく羊飼いの立場だったはずだ。新しい世界では、これまで非常識の中を彷徨っていた自分が必要とされるはずじゃなかったのか!
ようやく、新次郎は気づいた。
自分が思い描く非常識は、もし今の世界がジャッジメントという非日常で覆われても、やはりその中でさらに「非常識」の位置にあるのだということを――
「助けて!!」
大声を上げた新次郎が、二十四時間以内に自首できるかは誰も分からない。なぜなら、それを身近で気づくはずの家族は、同じくジャッジメントを受けて倒れた母親に付き添って病院に向かっていたのだから。
母親は、今朝、近くのショッピングモールに洋服と傘を買いに出かけていた。洋服は買い物カゴに入れてレジできちんと清算したのだが、手に持った傘をうっかり気づかずにレジで清算するのを忘れたのだ。ちょうど雨予報が出ていて、傘を持つ人が多かったのも災いした。レジにいた店員も、母親が持つ傘が、未清算の傘だとは気づかなかった。
そして母親は、店を出た瞬間に倒れた。
だが、そんな事情を新次郎が知る由もない。
「助けて!!」
机の上に、もう何年も鳴らしたことがない、アナログの目覚まし時計が置かれていた。
「誰か!助けて!」
叫び続ける新次郎に残された猶予の時間は、その秒針の刻みと共に失われていった。
▼東京 首相官邸
竹岡総理は、地階にある危機管理センターでぐったりと椅子に座っていた。
大きなため息をつく。時間は午後三時。
万一に備え、危機管理センターに詰めた総理は、零時を過ぎて息を呑みながら各所からの報告を待っていた。
最初の一報は午前零時五分。
渋谷のコンビニで、二人の若者がいきなり倒れた、という一報だった。
ジャッジメントと思われる現象は、疑わしいだけの段階で構わないから即座に報告するよう指令していたが、心の奥では、本当に起きるのか?という疑問と、起きて欲しくないという祈りが入り組んでいた。
だが…
その後、続報で倒れた若者は四肢が麻痺していたこと、そしてナイフを持って強盗しようとしたことが分かった。ジャッジメントのことは知っていたが、そんなことが起こるはずもないことを証明しようと、二人で強盗を企てたのだ。防犯カメラには、レジの前でナイフを取り出した瞬間に、崩れ落ちた若者の姿が映っていた。
二人は泥酔していた。
(バカが!)
総理は情けなくなった。
あれだけ周知徹底したつもりが、酒を飲んだ勢いで強盗したとは。外国から日本は超能力を認めた、と嘲笑されても万一を考え、政府として警告を発したのに。
しかし、総理の嘆きはまだ始まったばかりだった。
次々と入る一報は、事態が思ったよりも深刻な状況にあることを示していた。
午前三時。全国ですでに千人を超える人がジャッジメントを受けていた。
深夜でこれだけの人数になるとは。
総理は、こめかみを押さえた。このままではいけない。警告をしなければならない。朝のニュースを使い、自分が直接、国民に話そう。総理は、官房長官の松野を呼び、放送を準備するように指示した。
そして、早朝から一時間おきにテレビで訴えかけた総理の思いは、だが国民には伝わりきらなかった。警察は前日から、全員体制で対応すべく準備していたが、午前九時の段階でパンクしつつあった。
夜間、居酒屋やスナック、カラオケ屋などで飲酒して会計をせずに店を出て倒れた人数が全国で約一万二千名。
無銭飲食は本来、窃盗行為ではなく詐欺行為だ。さらに本人に支払っていない、という認識がなければ詐欺行為も成立しない。単なる不注意だ。しかし、店に損害を与えたということでジャッジメントの対象になってしまったのだろう。
朝になり、人々が街に溢れはじめると、その数はうなぎのぼりに増えていった。
特に、会社に出勤して倒れる人が続出した。
原因は、当初想定になかった横領だった。いや想定しなかったわけではない。だが、横領は過去の犯罪といえる。今日、横領を行った場合は別だろうが、過去に行なった横領がジャッジメントの対象になるとは考えていなかった。だが、出勤した段階でジャッジメントが発動したことを考えると、現在、勤めている会社に対する損害を、店舗への「潜んだ」損害と同等に扱われたと考えられていた。会社の預金を不正に引き出すなど、明らかな横領行為だけでなく、領収書の偽造なども対象となっていた。もちろん、それらジャッジメントの対象となった人が行った行為は全て法律違反ではあったが、金額の過多に関わらずジャッジメントは発動していた。
その数は、現在、判明しているだけでも全国で約二十万人。
まだ救いがあったのは、それらの人は会社が黙認することで、つまりどういった内容の横領だったのか、犯罪事実をあえて確認しないことで、自首での猶予対象になったことだろう。
しかしそのせいで、一気に警察は、キャパシティを超えた対応を迫られることとなった。
二十四時間以内に、自首の申告を受理しなければならない。二十万人もの対応が物理的に可能だとは思えなかった。おそらく明日には、猶予切れの者が多数出てくることになるだろう。
また、年齢、男女を問わず、多くの人が警察を訪れていた。
昔、万引きした店にいけばジャッジメントの対象になるのではないか?
子どもが先月、近所の駄菓子屋で万引きしたらしいのだが大丈夫か?
通販の支払いを数社していないが、今日中に支払えば平気だろうか?
すでにパンク状態にあった警察で全ての相談に対応することは到底できない。まずは、猶予時間が定められた自首してきた人への対応を優先した。そのため、全国各地の警察署を、多くの溢れかえった人が取り囲むことになった。
これでは、自首してきた人の受け入れもできない。
警察庁長官は、相談してくる人を、警察署ではなく、近隣にある学校の体育館などで受け付けることにした。急遽、全国の小中学校が休校となったが、これは子どもたちがジャッジメントの対象となるケースを増やしただけだった。
学校側は、子どもたちを帰宅させる前に、絶対に店に寄らないことをきつく伝えていた。
保護者には、できるだけ迎えにくるよう要請した。だが、それでも店舗を訪れ、万引き行為を行い、ジャッジメントを受けた子どもが続出した。
これだけ政府が警告したにも関わらず、愚かな人は多かった。総理が嘆くのも無理はない。
午後に入った段階で、ジャッジメントを受けた人は合計五十万人を超えていた。
このままでは、当初の想定を上回ることは間違いない。
危機管理センターでは、何台ものテレビが用意され、関東キー局の番組が全て映されていた。もちろん全ての局が特番を組んでいた。
総理は、右端のモニターに映された番組の音声を出すよう、秘書官に指示した。年配の、初老の男性が喋っている。テロップで医師であることが分かる。
「万引き行為や窃盗行為は常習性があります。経済的に困窮していなくても、そのスリルを忘れられない場合です」
司会者が頷く。
「だから、そうした人はまず病院にきてください。治療を行う必要があります」
総理には、病院で治療を受けることに意味があるとは思えなかった。
手足が動かなくなる代償を分かっていても万引きしてしまうような者を、どのように治療するのか?
「それと、気をつけて欲しいのは病院を受診する際、お金を忘れないようにしてください」
「それは、どういうことですか?」
司会者が尋ねると、医師は顔を歪めて言った。
「病院も、広義で言えば店舗といえます。治療費を払わない、払えない場合、病院に損害を与えたということが問題になる恐れがあります」
総理は頭を抱えた。
何ということだ。お金がなく病院に通えない人はどうすれば良いのだ。
昨夜の、飲食店での未払いによるジャッジメント対象者がいたことを考えると、病院側が、お金がない場合は支払いを猶予する、としただけでは逃れられない恐れがある。病院側に一時的な損害が発生しているからだ。
お金がないことを認識していながら受診すれば、病院に損害を与える行為に該当するかもしれない。後で、法務大臣を呼ばなければならない。至急、法律で定めなければならないだろう。
病院での支払いは、原則、請求書を発行して、一定期間で支払えばよいこととすれば、少なくとも自首の対象となる猶予がもらえるかもしれない。事態が事態だけに野党も協力してくれるはずだ。
だが、小手先の対応では限界もある。
午後に入った段階で、昨日までAA+だった日本国債の格付けがBBBまで一気に引き下げられたことが発表されていた。
もちろん証券取引所は午前中で取引を停止していた。外国の投資家から巨額の売りを浴びせられたのだ。為替、先物取引、日本の市場は全て止まっていた。
日本はどうなってしまうのか――
総理は、もう一度、大きくため息をついた。
▼東京 ある病院
午前九時。
明美はいつものように健太がいる病室を訪れた。
世間はジャッジメントのことで騒がしいようだが、明美には関係ない。店に寄るつもりもないし、無論、万引きなどするはずがない。悪い人以外は、意識する必要もないだろう、と明美は思っていた。
返事がないことは分かっているが、いつもの習慣で病室のドアをコンコンと叩く。
「健ちゃん、入るね」
ドアを開けると、一定の温度と湿度に空調された部屋の臭いを嗅いだ。
いつもの臭い。
だが、部屋に入りベットの横に椅子をおいて座った明美は、何か違和感を感じた。
静かな病室。人工呼吸器の音だけが聞こえるいつもの病室。
胃がぎゅうっと掴まれるいやな感覚を覚える。
「何?」
小さくつぶやいた明美は、あたりを見渡した。
――特に何も変化はない。
そしてベットで眠る健太を見た。
――いつもと変わりはない。
そして気づいた。
健太の喉に気管挿管でつなげられた人工呼吸器のホースが、わずかに曇っていることを。
近づき、いつもの仕草で、健太の頬に触れた明美はあっ、と小さく悲鳴を上げた。
頬が熱い。
慌てて、おでこを触る。
熱い!
気管の熱が、わずかだがホースを曇らせたのだろう。明美は飛びつくようにナースコールを掴み、何度もボタンを押した。
顔が青ざめる。
「早く、早く、早く来て」
つぶやきながら明美はボタンを押し続けた。
▼東京 警察庁サイバー特別調査課
午後十一時。
一服を終え、博巳とともに戻ってきた恭介は、課長のデスク横に置かれたホワイトボードを見た。そこには、今回のジャッジメントによる被害状況が、消されては新たに書き換えられている。ほぼ三十分ごとの報告が入るたびに、その数字は変化していった。無論、大きい数字に。それも万単位で。
一服に行く前とは、数字が変わっているようだ。
・被害総数 百三十九万人(うち、未成年者二十五万人)
・四肢機能不全者数 百二十三万人
・自首の受理完了数 十六万人
・自首者数 四十三万人
ため息がでる数字だ。当初の想定から、二倍近くの数字になっている。
まもなく二十四時間が経過する中、自首の受理完了数が十六万人という数字は、警察も相当、頑張ったのだろう。調書も相当、はしょったに違いない。下手すると、本人確認してから、住所と名前だけを書いてサインさせ、いや手足が動かないからサインではなく指を使った拇印か――たぶんそれだけで処理したのではないだろうか?
犯行状況を一々書いていたのでは、こんな人数、とても捌けなかっただろう。
だが、自首者数が四十三万人ということは、まだ二十七万人が受理されるのを待っていることになる。今日と同じ数を捌けたとしても十万人以上が残る計算だ。それに、まだ被害者数は増え続ける。
明日は、どうなるのか。
わずか一日で、手足が動かなくなった人が、最低でも九十三万人いることになる。実際には、自首の処理が追いつかずに増えることになるだろうから百万人を突破することは確実だろう。
さすがに、今日の状況を国民が知れば、自制にはつながるはずだ。いや、つながって欲しい。心底、恭介はそう思った。
「主任、これからどうしますか?」
博巳が眠そうな目で聞いてくる。無理もない。昨夜から一睡もしていない。庁内に仮眠室はあるのだが、こんな状況だ。おそらくほとんど使われていないだろう。
「先に、仮眠とっていいぞ」
「主任は?」
「俺はもう少し、現状を確認しておこうと思う」
横領のように、当初、想定していなかったジャッジメント対象もあるから、今後、被害が出そうな状況を推測しなければならない。
例えば、競馬の払戻金も該当するかもしれない。
最近、外れ馬券が経費になるかが裁判で話題になったが、経費になるかどうかは別にして、大きく勝った人は税金を納める対象にどうしてもなる。だがそれは自己申告だ。競馬場や場外馬券場で馬券を買った場合には、税務署が把握できるはずもなく、知っているのは本人だけ、ということになる。
だが、申告しないと、これは脱税だ。
脱税は国に損害を与えていることになるから、国を店舗と同様にみなせば、申告しないことが国に損害を与えた、すなわちジャッジメントの対象となるだろう。申告の時期が定められているので、即座に、ということはないだろうが、競馬で大きく勝ったことがあり、申告したことがない人には自首を勧める必要が出てくるかもしれない。
同時に、競馬業界も深刻な影響が出てくることになる。
勝ったら納税を心配しなければならない、負けたら損をする、そんな賭けを好んで行う人が大勢いるとは思えない。今の売り上げを維持することはできないだろう。
こういった特殊なケースの推測を行うように、課長から命ぜられていたのだ。
「じゃあ、遠慮なく。お先です」
大きなあくびをしながら部屋を出て行く博巳に「シャワーは浴びとけよ」と声をかけ、恭介は席に座った。
今日は大変な一日だった。だが、明日はもっと大変な一日となるかもしれない。
しょぼつく目をこすりながら、恭介はパソコンに向かった。
■二○XX年六月二十八日
▼東京 ある病院
病院の中は、昨日から野戦病院のような状況になっていた。
ほとんどの廊下は、毛布だけ敷いて身動きせずに寝かされている人で溢れていた。怨嗟のうめきがいたるところから聞こえてくる。
病院には、ジャッジメントの被害者が大勢運ばれてきていた。警察から搬送されてきた人もいる。自首したが、警察での受理が間に合わなかったのだろう。
だが、治療法などあるはずもなく、ただ寝かせておくしかなかった。
手足が動かなければ、確かに病院で治療を、ということになるだろう。だが、連れてきた家族、そして何より本人たちも、ジャッジメントのことを知っており、回復の見込みがないことを知っていた。無論、認めたくない気持ちの方が強かったのだが。
しかし、明美には病院内の喧噪など、どうでも良かった。
昨日から高熱を出した健太は、ICUに運ばれ、その後、病院の別館にある個室へと移されたた。その階は、エレベーターを降りてからすぐに、二重のドアで来訪者を阻んでいた。
隔離フロア。
個室で明美は、担当医師から簡単な説明を受けていた。健太の体には何本もの点滴の管がつながっている。意識のない健太の顔が、苦しげな表情をしているように明美には思えた。
個室は、ベッドの他に明美が知らない多くの機械が設置され、隅にはそれらの機械を管理するのだろう、パソコンが置かれた机がある。
その机に医師が腰掛け、横に明美を座らせた。
パソコンを使って、体温、血圧、呼吸数などバイタルサインの推移をグラフで示すと、いずれも良い状態でないことを告げた医師は、さらに明美の顔を青ざめさせる一言を放った。
「健太君は、感染症による発熱で危険な状態です」
医師の言葉に、椅子に座っていても、足元がふわふわしてくるのを自覚する。
危険な状態?
健太が?
この人、何を言ってるの?
明美は、思わず医師を詰問していた。
「感染症って、何の感染症なの!」
「お母さん、落ち着いてください。今、検査しているところですから」
明美が飛びかかってくると感じたのだろうか、医師は両手を広げて静止する仕草を取り、ほんの少し体をのけぞらせた。
だが心の中では、どこまで説明すべきかを迷っていた。
すでに検査は終わり、多剤耐性緑膿菌感染症であることは分かっていた。数日前に運ばれた老人患者から広がったのだろう。まだ緑膿菌自体の遺伝子解析は終わっていないが、間違いなく院内感染だ。
他にも、同じ院内感染を疑われる患者が三名出てていた。患者への感染ルートはまだ分かっていない。
だが、ジャッジメントの被害者が病院中に溢れている今、一般病棟で治療を行い、万一、院内感染がさらに他の患者にも広がったら、目も当てられない。そこで隔離フロアへと移動させたのだが、院内感染と告げたら、きっと病院のせいだと母親は言い始めるだろう。
もちろん、それは事実だし、病院が責められても仕方がないが、情緒不安定な母親が錯乱した場合、ただでさえ人手が足りない状況で、対応にスタッフを割くことができない。
さっき「危険な状態」と、つい言ってしまったが、失敗だったかもしれない。まず、落ち着かせるようにしなければ。
「健太君は寝たきりだったので、免疫力が落ちている状態だから、感染症を自分で治すことができません」
「治すことができない…」
「ですから、お薬で感染症が悪化しないように今、治療しています」
明美は両手をぎゅっと握りしめた。顔を伏せ、か細い声で医師に尋ねる。
「健ちゃんは――健太は助かりますか?」
医師は力強く頷いた。
「全力をつくします」
あやふやな言葉だと分かっていたが、これが今の医師に言える精一杯の言葉だった。
椅子から立ちあがると一礼して個室を出る医師を見送ることなく、明美は顔を伏せたままだった。
▼東京 警察庁サイバー特別調査課
ジャッジメントが発動して二日目。
今朝は、数時間ほど仮眠を取れたが、さすがに疲労感が濃い。遅い朝食を、博巳が庁内の売店で買ってくれた調理パンで済ませた恭介は、パソコンの前に座り、情報を求めていた。
望んではいけないことなのだろうが、この前の一二三老との会話が思い出される。
ジャッジメントを無効にするジャッジメントを、誰かが依頼するような兆候はないだろうか?
これだけの被害者が出たのだ。
愛する家族が犠牲になって強い絶望を抱き、ジャッジメントそのものを強く恨むような事例が出てもおかしくはない。
警察に属する身としては、人の不幸を待つようなこの考え方は、吐き気を覚えるほど気持ちが悪い。ましてやジャッジメントの依頼者は死ぬことになるだろう。
よけいに心が重くなる。
だが、この異常事態を続けさせるわけにはいかない。
二日目になって、人々はようやく自制をしたのだろう。いや、自制ではなく恐怖かもしれない。
いずれにしても、ジャッジメントを受ける人は大幅に減少した。午前中で数千人。昨日の百分の一ほどだ。ジャッジメントが発動する前に公安の方で出していた推定は「不明」だったが、その内容が、良い方に転んでくれたのは幸いだった。
だが、状況は決して良くなってはいない。
昨日の夜、飲食店はほぼ閑古鳥が鳴く状況だった。無理もない。酔って、ついうっかり何かしでかすかもしれないのだ。
今日は、ショッピングモールや大型商業施設にも、ほとんど人の姿が見られないことがニュースで流れていた。
これも、ジャッジメントを恐れたためだろう。
そして政府も、その機能がかなり麻痺していた。それは対応に追われたから、ではない。閣僚のうち数名が、なんとジャッジメントの対象となったのだ。
理由は、贈収賄や政治資金の不正流用だった。朝、事務所や議員会館に来て突然倒れたのだ。ジャッジメントに一切の容赦はなかった。
おそらく、万引きをルールに設定した女性のガイシャは、こうした状況を望んでいたわけではないだろう。責任能力の有無を設定した意図は、小学生や幼稚園児までもが罰を受けることにあったのではないはずだ。日本ジャスティス実行財団とやらが勝手に追加したルールが元で、今の状況が起きている。
たった一日だったが、ジャッジメントを「正義」と考える人は急激に減った。
掲示板の投稿内容をみれば分かる。
「誰か、ジャッジメント止められないのか?」
「神様、もうやめてくれ」
「父が倒れました。寝たきりです。近所の人の目が痛い。死にたい」
神が罪を見逃さずに裁くことこそが社会のためだ、と主張していた人も、多様な人が集まって社会を形成していることを改めて思い知らされた。
例え、冤罪や誤審があったとしても、人が人を裁くルールが今の社会を支えていることに気づかされた。
もちろんそれでも、たとえ一時的に混乱したとしても悪が一掃されれば、その後の平和な社会には変えることができない、と主張する人もいたが、多くの人は、この混乱が収拾することが想像できなくなっていた。
手足が動かない、という状況は介護度でいえば要介護五のレベルだ。
介護保険制度による介護度の認定は、要支援が一から二、要介護が一から五の合計七段階となっている。
ジャッジメントによる手足が動かない、という症状は、要介護度の判定では、生活全般について全面的な介助が必要とされる要介護五に該当する。
食事、排泄、入浴、着替え、全てが行えないからだ。
二○一一年度の介護保険給付人数でみると、六十五歳以上の第一号要介護五の人が約五十八万人。四十から六十五歳の第二号要介護五の人が約二万人。合計すると約六十万人の人が該当している。
今回のジャッジメントでは、たった一日で要介護五の支援が必要な人が百万人以上、追加されたのだ。
介護離職、という言葉がある。家族に介護が必要な人がいるために、仕事を辞めなければならなくなった人たちのことだ。すでに介護施設が満杯であることを考えると、自宅での介護が求められることになる。多くの介護離職者が出ることは避けられないだろう。
識者の間では、今の社会レベルが維持できるのかを疑問視する意見が出始めていた。しかも、今後、こうした要支援者の数は一定数で必ず増え続けることが予想されている。
もちろん、人々が全員、良識に基づいた行動、あるいは不注意を一切しなければ良い。だが、それは無理な話だろう。
こういった状況だからこそ、一刻も早く、ジャッジメントを止める必要があった。誰かの犠牲で成り立つものであったとしてもだ。
恭介は苦い思いでそれを望んでいた。
いや、もし自分がルールを定めることができるなら喜んで命を差し出そうと思った。
しかし、強い恨みを持った絶望が訪れるとは考えづらい。というより、そんな絶望は二度と味わいたくなかった。健太が倒れたあのときだけで十分だ。
「主任、これからどうなりますかね?」
さまざまなことを思いながら、手だけは機械的にマウスをクリックし続けていた恭介は、突然、向かい側に座って同じようにパソコンを操作していた博巳から話しかけられ、その手を止めた。
「どうなるって?」
「この前の話ですよ。先生の。これで終わりなのか、っていう」
「ああ、あれか」
恭介は一昨日、一二三老のもとで雑談したときのことを思い出していた。
「問題は、これで終わりなのか、ということだな」
「終わり、というのは?」
一二三老の問いに博巳が答えた。
「今回は、おそらく大事になるだろう。しかし、それでもいずれ一定の秩序は保たれていくはずだ。多くの犠牲は払うだろうがな」
恭介もそう思う。人々はいずれ現状を受け入れる。そうなれば、その現状の中でどう立ちふるまうかを考え、実行していくだろう。愚かな人は出続けるだろうが、一部に限定されるはずだ。
動物は置かれた環境に順応するようにできている。ヒトも例外ではなく、そしてその環境が特別であったとしても順応はできるはずだ。
「考えておかなければならんのは、突拍子もないルールが作られた場合だ」
「例えば?」
「そう――」
一二三老は少し考え、言葉を続けた。
「極端な話だが、誰かの不注意で家族にエボラをうつされた人がいたとする」
エボラ出血熱。最強最悪のウィルスと言われるエボラウィルス属により引き起こされる感染症だ。何年か前に西アフリカを中心に大流行して、世界で大きな問題ともなった。
エボラ出血熱は、わずか数個のウィルスが体内に入っただけで容易に発症する。エイズウィルスの場合、感染に必要な数はウィルス数は千から三千個と言われているので、どれだけ危険なウィルスかが分かる。
病状が進行すれば体の至るところから出血する。吐血、下血だけでなく、皮膚からも出血し、死に至ることになる。
治療法はなく、致死率は五十から九十%。致死率が高すぎることが、逆に感染の拡大を防ぐという皮肉な状況を作るぐらい危険な疾患だ。
「家族が助からない、と分かって絶望した家族が、もしジャッジメントのルールを決められるとなったら、どういったルールを考えるかな?」
「それは――」
少し考えてから恭介は答えた。
「たぶん、家族の病気を治してほしい、ですかね」
「いや、それは違う」
一二三老は首を横に振った。
「病気を治して欲しい、というのはルールではない。願いだ」
「ならば、エボラウィルスが死滅する、というのはどうですか?」
一二三老は、今度は頷いた。
「そう、おそらくそういったルールになるのだろう」
「でも、それなら多くの人が助かるだけで、誰も困らないんじゃないですかね」
「そうとも限らん」
恭介には一二三老が言いたいことが分からなかった。
「もし、そのルールをエボラウィルスではなく、細菌やウィルス、もっと言えば微生物と定義したらどうなる?」
「全ての病気がなくなるだけでしょ」
横から博巳が口を挟んでくる。だが、黙って一二三老は首を振った。
「残念だが違う。地球上から生命体が消え去ることになる」
「まさか…」
「おおげさじゃないんですか?」
二人は同時に声を上げた。
「食物連鎖は分かるかな」
「ええ、ピラミッドの図式のやつでしょ」
博巳が頷いた。
「そうだ。その一番底辺は、植物でも昆虫でもない。微生物が一番底辺の位置におる。もしその一番下の底辺がなくなれば、その上はもちろん全て存在できなくなる」
そう言うと、一二三老は説明してくれた。
まず、土壌で大量に存在している微生物がいなくなれば、大気中の炭酸ガス濃度が減る。地球温暖化の問題で人類が放出している炭酸ガスが問題になっているが、地球上全ての微生物が作り出している炭酸ガスは全く桁が違う量になる。
炭酸ガス濃度が激減すると、植物の光合成は減り、植物活性が減る。また土壌中の栄養分を植物が摂取できるようにしているのも土壌微生物の役目だ。つまり植物が枯れていくことになる。
そうなれば、植物を餌とする草食動物がいなくなり、次は肉食動物がいなくなる。
昆虫も植物なしでは生きていけない。
海の中も同様で、植物プランクトンは光合成が必要だ。動物プランクトンはバクテリア、つまり微生物を餌にしているので、まずプランクトンが全滅する。プランクトンが全滅すれば、食物連鎖の上位にいる魚類も全て生きられない。大気圏から深海まで地球上の全てで生命体は存在できなくなる。
「微生物はまた、腐敗させ還元する役目を持っておるから、動植物全ての死骸が腐らずに残ることになるだろうな」
枯れ果てた植物と倒れて動かない人や動物しかいない風景を想像した恭介は、背筋が寒くなった。
「少し話がそれてしまったが、ルールは言葉一つ誤っただけで、恐ろしいことが起きる、ということだな」
恭介もようやく納得できた。
ジャッジメントがもし続けば、いつか誰かの小さなきっかけが人類存亡の危機を生むこともあり得る、ということだ。その意味を知らない赤ん坊が、拳銃でロシアンルーレットを行っているのに等しいだろう。ジャッジメントが増えれば増えるほど、その小さなきっかけを生む機会が増えることになる。
一二三老との会話を思い出していた恭介は、博巳に言った。
「終わりではない、だからこそ、誰かが止めなきゃいけない」
「そりゃそうですが…」
恭介の言葉に博巳は少し口をとがらせた。
「そのためには、どんな小さなことでもいいから見つけるんだ。手掛かりを」
渋々、頷いた博巳は自分の作業を再開した。恭介も、画面に向き直る。
そして、ふと一つの疑問が頭に浮かんだ。
ジャッジメントは、いったい何をしたいんだ?
何の目的もなく、誰かが仕掛けたとはとても思えない。それが例え神であったとしても。少なくとも、ジャッジメントを行う何か理由があるはずだ。だが、もし神だとしたら人の考え方では、その目的は図れないかもしれない。
再びいろいろな思いが頭をよぎる中、恭介は黙々とパソコンの操作を続けた。
▼東京 ある病院
ピーッ、ピーッ
耳障りな警告音が鳴り響く中、明美は床に座り込んでいた。周りでは二名の医師と数名の看護師が慌ただしく動いている。
「心停止!CPRだ!」
「はい!」
中年の医師が看護師に指示する。
「エピネフリン!一ミリグラムで!」
「はい!」
何かの溶液が健太に注射されるのをみながら、明美は、ベッドにすがりながら、よろよろと立ちあがった。
健太に異変が起きたのは少し前。ベッド横で椅子に座り、つい、うとうとしていたのがいけなかったのか。突然ドアが開き、二人の看護師が飛び込んできて、ようやく目が覚めた。
「え?」
何事かと思い顔を上げた明美の目に飛び込んできたのは、モニターの赤く点滅する表示と、揺れながら流れていく線、そしてピーッという甲高い音だった。
「先生を呼んで!すぐ!」
「はい!」
慌てて、一人の看護師が部屋を出ていく。残された看護師は、手早く健太の布団をめくると、胸をはだけさせた。
「どうしたんですか?何があったんですか?」
看護師の手にすがり、ゆすって明美は尋ねるが、「お母さん、どいていてください」と手を振り払われ、そのまま床に倒れ込んだ。
倒れた明美に構わず、看護師は処置を続ける。
そして二人の医師が看護師と共に部屋に駆け付けた。
目が覚めてからわずかな時間しか経過していなかったはずだが、明美には途方もなく長い時間に感じた。
立ちあがった明美は、医師が両手で健太の胸をリズムよく押しているのを見た。
心臓マッサージだろう。
緊迫した医師たちの雰囲気に、明美は声をかけることすらできなかった。
「先生、ダメです。戻りません!」
心電図モニターをみながら看護師が叫ぶ。
「よし、電気ショックだ。準備しろ」
「はい!」
あらかじめ用意していたのだろう、すぐに看護師が二つのパドルを渡す。
「モニターを第二誘導へ切り替えて!」
「はい!」
「これから電気ショックを行う。離れて」
看護師に肩を掴まれて明美は後ろに下がらされた。
医師が二枚のパドルを健太の胸に当てている。
「よし、充電して!」
「はい!」
「周囲の安全確認!」
「OKです!」
てきぱきと医師と看護師の会話が進む。
「放電!」
医師の言葉の瞬間、バチンという乾いた音と共に健太の胸がバウンドした。
「どうだ!」
「波形、出ました!」
看護師の安堵の声がする。
「よし、このままリズムチェックだ」
「はい」
医師が肩の力を抜いたのをみて、明美は一つの山場を乗り越えたことを知った。
そして――再び床にへたりこんだ。
一時間後。
さっきまでの慌ただしさが嘘のように部屋は静かになっていた。モニターも、ピコン、ピコンと落ち着いたリズムを刻んでいる。明美は、ベッドの横で椅子に座って、健太の顔を見ていた。
涙が頬を伝う。
(これからどうなるのだろう)
(健太は助かるのだろうか)
(健太がもし、死ぬようなことがあれば、もう何も自分には残らない…)
ちらりと、恭介のことを思い出した。
自分の気持ちを取り戻してからしばらくは、恭介を憎む気持ちもあった。
予防接種を受けさせたのは、確かに自分だ。でも、彼もいったんは同意したはずではないか。それを、予防接種を受けさせた自分が全部悪い、というのはあまりにひどい。
だが――時間が、憎しみも薄れさせた。
もっとも、今さら会おうとは思わないが。
コンコン…
ドアをノックする音に明美は「はい」と答えて立ちあがり、ドアを開けた。そこには、担当医師とともに、会ったことがない老人が立っていた。白衣を着ているところをみると、この老人も医師なのだろう。
「ちょっといいですか?」
担当医師が老医師と部屋に入ってくる。そのままパソコンの前に老医師が座ると、担当医師は明美に椅子を勧めた。
「座ってください」
担当医師は立ったままだ。
老医師が自己紹介する。この病院の副院長だった。
「お話があります」
老医師が明美に話しかける。
「何でしょうか?」
「健太君のことですが――」
「健太がなにか?」
言い淀む老医師の固い表情に、何か嫌な予感を覚えつつ明美は答えた。
「まず、健太君の状況について説明したいと思います」
「はい」
「健太君は今、多剤耐性緑膿菌感染症にかかっています」
たざいたいせいりょくのうきん?聞きなれない言葉に明美は首をかしげた。
「緑膿菌?」
「緑膿菌とは、グラム陰性好気性桿菌に属する真正細菌です」
「しんせいさいきん?」
医師が話す専門用語は、明美にとってどのような漢字を書くのかも分からなかった。
「真正細菌とは、細菌やバクテリアのことです。もっと分かりやすくいうと微生物の一つです」
「細菌、バクテリア、微生物…」
その言葉なら、なんとなく明美にも分かる。病気の原因、ということなのだろう。
「そして数日前、ある老人が救急で搬送されてきました」
突然、違う話に飛ぶ老医師の言葉に明美は混乱した。
「それが何か?」
「その老人が多剤耐性緑膿菌の感染症だったのです」
え?何を言っているの?
「誠に申し訳ない話ですが、それが院内感染で他の患者に広がりました」
「まさか…」
「そう、健太君も、です」
明美は言葉を失った。
「特に、健太君からはメタロ型の緑膿菌が検出されました」
「めたろがた?」
再び言葉が分からずつぶやく明美に、横から担当医師が説明をした。
「緑膿菌は、MBLを産生するタイプとしないタイプがあるのですが、健太君の場合、産生するタイプのメタロ型であることが分かりました。メタロ型は、ほぼ全ての抗菌薬に耐性を示します」
「それが…」
「メタロ型の緑膿菌には、治療薬がないのです」
明美は口をポカンと開けた。
「最初の患者に対して複数の抗菌薬を投与しましたが、その結果、新たな耐性菌が生まれて、それが院内感染したようなのです」
「それって…健太はどうなるんですか?」
明美の声が震える。
少し視線をそらす老医師の姿に、何を答えるのかはぼんやりと想像がついた。
「元々、寝たりきりで意識の回復も見込めない健太君は、免疫力も非常に低下している状況でした。そこに緑膿菌が感染したことで、今、健太君は敗血症を併発しています」
敗血症――明美にも聞いたことがある。というか、説明してくれたのは病院だったはずではないか。
寝た切りの健太にとって敗血症を発症することは致命的になるから、感染症には十分注意するよう、外部から菌を持ち込まないように指導していたのは病院側だったはずではないか。
それが――病院で作られた菌に感染して、罹ってはいけない敗血症を発症してしまった?
呆然としている明美に老医師は非常な通告をした。
「大変、残念ですが、治療する方法がありません」
「じゃ、じゃあ…まさか健太は死んじゃうんですか!」
思わず言葉が強くなる明美の視線を受け止められず、老医師は顔を伏せた。
「病院からうつされた病気で、健太は死んじゃう、って言うんですか!」
二人の医師は何も答えない。
「治して!治してください!お願いだから、治してください!」
明美は椅子から立ち上がると老医師にすがった。
だが、老医師はゆっくりと首を振った。
「申し訳ありません。もう方法がないんです」
もう方法がない?
ということは、やっぱり健太は助からない、ってことなの?
意識せず明美はつぶやいていた。
「あ、あとどれくらい…」
明美が何を聞きたいのかを察したのだろう、担当医師が口を開いた。
「ここ一両日かと」
老医師にすがっていた明美は立ちあがると肩を震わせた。
「誠に申し訳ありません」
老医師が頭を下げる。その姿に明美は思わず叫んでいた
「出ていって!」
もう誰も信じられない。
「ここから出ていって!」
二人の医師は、黙って立ちあがると、ドアを開けて一礼してから立ち去っていく。
だが明美は、もうその姿を見てはいなかった。
窓の外は暗くなっている。健太の「死刑宣告」をした医師がいなくなってから明美は、ずっとパソコンの前に座っていた。
頭の中は真っ白だった。
ずっと泣き続けていた。
いったい何がいけなかったのだろう。
明美はぼんやりと考えていた。
予防接種を受けさせたこと?
この病院に入院させたこと?
誰が悪いの?
予防接種の注射?
感染症を持ち込んだ老人?
感染症を広げたこの病院?
それとも――私?
だが、何がいけないのか、誰が悪いのか、それを決めたところで、いずれにしろ健太は明美から去っていく。それもあとわずかな時間で。
健太を失ってしまう。
愛する健太を失ってしまう。
何も残らない。何も自分には残っていない。
絶望が明美の心を染めていった。
そして何かを思い出していた。
同じようなシュチエーション。健太を失うと絶望したシュチエーションを。
のろのろと携帯電話を取りだした明美は、ゆっくりと画面をスライドさせた。
▼東京 警察庁サイバー特別調査課
時間は、午後八時を過ぎていた。
課の中で、まだ残っているのは半分ほど。恭介は、長時間パソコンの前に座り続けて固まった首を、コキコキと横に倒してから肩をグルっと回した。
今日は、一度帰って休むか。
仮眠室のベッドと家の布団では、眠りの質がどうしても異なる。そう考えていたとき、ブーン、ブーンという振動音が聞こえてきた。私用の携帯電話に着信があったようだ。
ポケットから取り出して表示をみた恭介は、思わず携帯を落としそうになった。
表示されていたのは「明美」という文字。
自分の携帯電話に彼女の文字が表示されなくなって、もう何年も経つ。
何の用事だろうか?
通話ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし」
沈黙。何も聞こえてこない。
「もしもし?」
やはり、何も聞こえない。
いや、かすかに何か聞こえる。恭介は耳をこらした。
「グスッ、グスッ…」
それは泣き声のように聞こえた。
「どうした!明美!」
思わず恭介は、携帯電話を耳に当てたまま立ち上がる。まだ残って作業していた近くに座る同僚が、何事かと恭介を見上げていた。
心の中に何かがひっかかる。
どこかで見た光景。
デジャブか?
心理学が専門の恭介はすぐに思い当たった。
そう、この光景は健太が倒れた時と同じだ。デジャブではない。実際に起きたことがある光景だ。
突然、恭介の心臓が鷲掴みされた。
まさか、健太の身に何かがあったのか?
「健太、もうあとわずかの命だって」
明美の声は小さかったが、その内容は恭介を驚愕させた。
「何!どういうことだ!」
ふと気がつくと、皆が恭介を見ていた。前の席で博巳も何事かと見上げている。慌てて恭介は「ちょっと待て!」と明美に声をかけ、席を離れると廊下に出て、隣の会議室に入った。
人がおらず暗くなった会議室は、廊下からの明かりしか頼るものがなかったが十分だ。
「何があったんだ。説明してくれ」
恭介の問いに明美は説明した。途切れがちの言葉だったが、大体の内容を恭介は理解できた。
病院で薬が効かない緑膿菌の感染症が発生して、それに健太が罹ってしまったこと。そして、健太は今、敗血症を発症した状態にあることを。
「わかった。しっかりしろ。今すぐ行く」
明美を励まし、電話を切って会議室を出ようとした恭介の耳に、「待って」と明美の小さな声が聞こえてきた。
恭介は、立ち止まると、もう一度携帯電話を耳にあてた。
「なんだ?今すぐ行くから、待っていろ」
「ううん、いいの。来なくていい」
明美はまた心のバランスを失ったのだろうか?
だが、語りかけてくる口調は、恭介の記憶にあるものだった。それも健康な時の。
「一つだけ、あなたに教えて欲しいことがあるの」
「何をだ?」
「誰が悪いの?」
「悪い?」
「うん…誰のせいで健太は死んじゃうの?やっぱり病院?」
恭介は少しゾッとした。やはり普通ではない。かなり追い込まれているようだ。
落ち着かせなければ。
「誰も悪くない。それが健太の運命だったんだ」
「健太の運命?」
「そうだ。たまたま悪い運が重なったんだ」
言いながら、恭介は心が強く痛んできた。健太が死ぬ?そんなことがあっていいのか?
だが、自分の葛藤を口にしてはいけない。
「でも、緑膿菌に罹らなかったら、健太は死ぬことはなかったのよ?」
「だが菌なんてどこにでもいる。誰にでも罹る可能性はあるんだ」
電話の向こうで明美が沈黙する。
「それより、今から行くから、落ち着いて待っているんだ」
だが、明美は恭介の言葉に違う言葉で答えた。
「そう。菌がどこにでもいるからいけないのよね」
恭介は言葉に詰まった。
「いや…」
「私ね。もう何も残っていない」
明美が泣き始めたのが分かる。
「健太が死んだら、私も生きていけない」
「ばかなこと言うな!」
だが、明美は返事をしない。
「明美!」
やがて、呟きが聞こえた。
「もう涙も枯れたと思っていたけど、まだ血は流せるのね…」
その言葉に、恭介は言葉を失った。
(まさか!)
「明美!パソコンはそこにないだろうな!」
だが、携帯電話は沈黙していた。明美が電話を切ったのだ。
慌てて恭介はリダイヤルを押す。
トゥルルル、トゥルルル
だが、呼び出し音に明美が応える気配が感じられない。
「くそっ!」
叩きつけるように電話を切る。恭介は会議室から出ると、廊下を駆けだした。
▼東京 ある病院
いつもの病室に健太はいなかった。
受付に戻り尋ねると、奥の病棟二階の隔離フロアの病室にいることを告げられる。
案内板で病棟の位置を確認した恭介は、ジャッジメントを受け、寝かせられた患者で溢れる廊下を小走りで急いだ。
心がざわめく。
まさかと思いたい。だが、明美は追い込まれ絶望していた。そして――血の涙を流したようだ。ジャッジメントを依頼できる条件が揃っている。
健太がいた病室にパソコンはなかったから大丈夫だ、と自分に言い聞かせていたが、違う病室に移ったという話だ。
(明美!頼む。死なないでくれ)
中庭に出た恭介は、目的の病棟に向かって全力で駆けた。
病棟に着くと、一階にナースセンターがあった。エレベーターの場所と病室の位置を聞いて急ぐ。
恭介には気にかかることがあった。
あのとき、明美はなんと言っていたか?
『そう。菌がどこにでもいるからいけないのよね』
もし、万一にだ。明美がルールを書くようなことがあったら、菌がなくなるような意味合いのルールを書く可能性がある。
自分の会話に誤りがあったのだろうか?
また、彼女を導いてはいけない道へといざなってしまったのか?
この前、一二三老と話した内容が身近に起きるとは夢にも思わなかった。
甘かった。なぜ、想像できなかったのか。なぜ、明美の心が抱える歪みに気づいてやれなかったのか。
後悔が全身を駆け巡る。
もっと違う会話ができたのではないか。
エレベーターが降りてくるのを待つ時間さえ、もどかしかった。
東京の郊外に位置している病院までタクシーで急いだが、道も混んでおり一時間以上の時間がかかった。タクシーの中で何度も電話をかけてみたが、呼び出し音、そして留守番電話のメッセージにつながるだけだった。
エレベーターを降り、二重の扉を抜けて、病室に向かう。夜のせいもあるのか、病棟内では、ナースセンター以外でまだ誰にもあっていない。無人にも思える病棟は、恭介の靴の音だけが響き、それが心を重くする。
病室の前にきた恭介は、震える手でドアをノックした。
コンコン
だが答えは返ってこない。
スライド式のドアの取っ手に手をかけ、一度だけ深呼吸した恭介は、思い切ってドアを開けた。
スムーズに開くドア。少しずつ病室の中が見えてくる。
気持ちが昂っているのか、全てがスローモーションに映る。
ベッドが見え、そして――
奥の机に女性が伏せていた。
パソコンが置かれた机。
赤黒い、もはや見慣れた画面。
恭介は、病室に足を踏み入れることができなかった。
後姿の女性に、もちろん見覚えがあった。
(明美!)
口を動かすが、言葉が紡げない。
よろめきながら恭介は病室に入った。
健太が眠るベッドも目に入らなかった。
明美のところにたどりつくまで、どれくらいの時間が経っていたのだろう。果てしない時間が経過したように感じる。
気がつくと恭介は明美の前に立っていた。
そっと肩に手をかける。なんの反応もない。少し力を入れるが手ごたえが感じられない。
恭介は、振り向かそうと両手で肩を持ち、そっと引き上げた。
だが、明美の体に力は感じられず、そのまま椅子から床に崩れ落ちていった。
床に倒れている数年ぶりに見る横顔は、記憶にある明美のままだった。
目に涙が溢れてくる。
(間に合わなかった!)
膝をついて、横たわる明美を抱え起こし、ゆっくりと抱きしめた。明美の頬に自分の頬が触れると、ほんのり温かみがあった。もしかして、と思い首筋を触るが脈は触れない。
涙がこぼれた。
もう一度、明美をぎゅっと抱きしめた。強く抱きしめた。自分の想いと共に。
そのとき、明美の声が聞こえたような気がした。
(健太をお願い)
そう、明美は健太のことを想い、書き込みをしたはずだ。ベッドを見るが、この位置からは健太の顔は見えない。歯を食いしばって明美の体を静かに床に横たえると、椅子につかまって立ち上がり、そのまま座った。
パソコンの文字を読む。
(ああ――)
恭介は両手で顔を覆った。
書かれていたルールはたった一行。だが、書かれてはならない一行がそこにあった。
**************************************************************************
●基本ルールを受け付けました
基本ルール一:この世から、細菌とバクテリアと微生物を全部なくしてください
ルールの細部とルールの適用開始日は当財団において決定し、当財団が責任を持ってルールに沿ったジャッジメントを実行いたします。
ルールに基づくジャッジメント実行の間までしばらくお待ちください。
日本ジャスティス実行財団
**************************************************************************
その一行から、健太の体から菌をなくして助けて、という明美の意志を明確に感じる。
明美が悪いのではない。
全部、自分が悪い。
もう明美への思いは失ったと思っていたが間違いだった。ただ自分の気持ちを、何か大きな囲いで覆っていただけだった。その囲いは、自分で外すことができたはずだ。
だが、自分はそれをしようとしなかった。
囲いを外したとき、明美が自分を責めることが怖かったのかも知れない。自分を振り向くことは二度とないだろう、という思いが囲いを外させなかったのかもしれない。
もう一度、恭介は思った。
明美は悪くない。
明美を追い込んだ自分が悪い。
恭介はよろよろと立ち上がると、ベッドに近づいた。静かに健太は寝ている。規則正しく上下する胸の動きが、まだ健太の命がそこにとどまっていることを示していた。だが、その時間も残りわずかなのだろう。
だからこそ、明美は深い絶望の谷へと落とされたのだ。
また涙が溢れてきた。
健太の頬を触れる。その仕草は、明美が毎日健太に触れる仕草と同じだったことを、恭介は知らなかった。温もりを手にとどめるかのように、恭介は頬に触れた手を離さなかった。
■二○XX年六月二十九日
▼東京 警察庁サイバー特別調査課
「主任!どこ行ってたんですか!」
調査課に戻ると博巳が小走りで近寄ってきた。
「すまん」
顔を伏せたまま恭介は答えた。
「大変です!病院から連絡があって、奥さんが――」
恭介が片手をあげて制するのを見て、博巳は言葉を止めた。
「――分かってる」
搾り出すような恭介の声に、博巳は何もいえなかった。
ゆっくり顔を上げた恭介は、自分と博巳の他に、課の中には誰もいないことを知った。壁の時計を見ると午前二時。日付が変わっていた。
本当なら誰かを呼んで、明美を診てもらわなければならなかったが、これまでの例からも蘇生の見込みがないことを恭介は悟っていた。そして黙って病院を出たのだが、その後、どうやってここに戻ってきたのか、はっきりと覚えていない。
ぼんやり海を見たような記憶があることから考えると、いろいろと彷徨ったのだろう。
恭介は、ゆっくりと自分の机に戻った。その後ろを黙って博巳がついてくる。
椅子に座り、天井に顔を向け、しばらく目を瞑っていた。
博巳が、説明してくれるのを待っていることは分かっていたが、すぐに話す気持ちにはなれなかった。
だが恭介は警察の人間だ。職務への責任もある。
ようやく、恭介は口を開いた。
「明美が、ジャッジメントを依頼した」
博巳が絶句したのが分かる。
「健太が、院内感染で危ない状態に陥ったんだ。今の明美には健太が全てだった。健太を失うことは明美から全てを奪うことになる」
博巳は黙って恭介の言葉を聞いていた。
「電話がかかってきただろう、さっき」
「ええ」
「あの電話で、健太が死んだら自分も死ぬ、そして血の涙を流してる、って言ったんだ」
「だから――」
「ああ、慌てて病院にいったが手遅れだった」
再び恭介の心に、深い後悔の念が湧いてきた。
「俺が、明美に言ったんだ。どこにでも菌はいるから明美が悪いんじゃなくて、健太の運が悪かっただけだと」
涙がこぼれてくる。
「でも、明美は俺の言葉で、どこにでも菌がいるから悪い、って考えたんだ」
そう、明美を誘導してしまったのは自分だ。だからあのルールを書かせたのも自分のせいだ。
恭介は唇を噛みしめた。
「明美は、一つだけルールを書いていた」
「なんて書いてたんですか?」
ぼそりとつぶやく恭介に博巳が尋ねてきた。
博巳を見上げた恭介は、言葉を搾り出した。
「世の中から細菌たちを全てなくしてくれ、と」
「細菌たち――」
「ああ、そうだ。微生物も書いていたよ」
博巳は、さっき明美がジャッジメントを依頼した、と聞いたときよりも強張った表情を見せた。
明美がなぜ微生物と書いたのかは分からない。おそらくだが、医師から病状について説明を受けて、その説明の中に微生物、という言葉が出てきたんじゃないか、と恭介は考えていた。
厳密に言えば、菌やウィルスは微生物というくくりの中の一つだ。
だから、あのときルールに書かれていた「細菌とバクテリアと微生物を」とあったのは、「ライオンとトラとネコ科の動物を」というのと同じだったといえる。並列に並べて使う言葉ではない。わざわざあんな書き方をしたのは、そういった言葉を聞いて覚えていたからに違いないと思う。
「もう終わりだ」
「でも、まだジャッジメントが投稿された形跡はありませんよ。勝手にルールを追加するようだから、もしかすると似た内容のジャッジメントに変更になっているかも…」
「そうか――まだジャッジメントは投稿されていないのか」
だが時間の問題だろう。
そしてジャッジメントが投稿されたら、滅亡へのカウントダウンが始まる。人類だけではない。地球の全ての生物が死滅する。動物も植物も昆虫も。
人類への死刑執行書に、明美がサインしたようなものだろう。
しかし、責任があるとすれば明美ではなく自分だ。警察の人間なのに、人々の治安を護るどころか、人類を滅ぼす道筋を作ってしまった。
恭介は深い絶望に包まれていた。
なぜ、自分は明美に健太だけじゃない、と言ってやらなかったのか。
明美には健太が全てなのだと思っていた。健太を失えば明美も生きてはいけない、と思っていた。
しかし、あのとき、自分に電話をかけてきたのは、なぜだ?
健太とともに、自分の存在も明美の心の中にしっかりあったからじゃないのか?
私には何も残っていない、と訴えた明美に、自分がいる、となぜ言わなかったのか?
そのせいで明美を失うことになってしまった。
そしてもうすぐ健太も失う――
両手で顔を覆った恭介から嗚咽がこぼれてきた。
「主任!」
鋭い博巳の言葉に、ボーっとしながら恭介が顔を上げた。
博巳の顔が青ざめている。
「血…血が…」
言葉になっていない。
血がなんだというんだ?
ふと両手を覆っていた顔を見ると、その手が赤く染まっていた。
手に血が――
突然、閃く。
まさか!
慌てて頬を手の甲でこすると、やはり血がついている。
血の涙。ジャッジメントを依頼する条件。急に、今自分に何が起きようとしているのかを理解した。そして、自分が何をしなければならないのかを。
もしかすると…
後ろを向いてパソコン見ると――黒い画面が映っていた。
赤い画面じゃない。違うのか?
しかし、書かれた白い文字が目に入った恭介は、自分の考えが正しいことを知った。
そこには中央に「日本ジャスティス実行財団のホームページへようこそ」と書かれ、真下には「Enter」と「Exit」のアイコン。
間違いない!
「止めてください!」
博巳が恭介の肩を掴んだ。
何が起きようとしているのか、そして恭介が何をしようとしているのかを悟ったのだろう。
「主任、死んじゃいますよ!ダメです、絶対にダメです!」
「うるさい!」
恭介は博巳の手を振り払うと向き直った。
「ジャッジメントを止める最後のチャンスがあるんだ、ここに」
机をドン、とたたく。
「それに、ジャッジメントが発動したら、いずれ俺もお前も死ぬ。ジャッジメントの依頼をすれば俺は死ぬ。どっちにしても俺は生き残れない」
博巳は黙って恭介の目を見つめていた。
「分かるだろ、今俺が死んで人類が助かるならそれでいいんだ。お前が俺の立場なら、何を選択する?」
博巳はもう何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだろう。
よし、と頷き、恭介はパソコンの方へと振り返った。マウスを操作してカーソルを「Enter」の上に持ってくると、ゆっくりとクリックした。
カチリ、というマウスの音とともに、画面が切り替わる。そして、再び黒い画面が現れる。
よく見ると、アドレスバーには何も表示されていない。
おそらくサーバーなどに繋がっているのではなく、ジャッジメントを行う者のところに不思議な力で繋がっているのだろう。異次元なのか、神なのか、何かは分からないし、分かる必要もない。
必要なのは、今、ジャッジメントの依頼を行えそう、という事実だけだ。理由などいらない。
黒い画面に白い文字が一文字ずつ浮かび上がってくる。
「あなたが行いたい正義とは?」
横から博巳も画面を覗いていた。
「なるほど、正義、だったんですね」
「ああ」
そう、「あなたの願いとは」、あるいは「あなたが望むことは」、などの問いかけから始まるように想像していたが、だとしたならなぜ、これまでジャッジメントのルールを書き込んだ者たちが、自分が置かれた立場を回復するようなことを書かなかったのかが不思議だった。
例えば、最初の男性なら「娘を生き返らせる」、あるいは「事故があった朝に時間を戻して欲しい」といった具合にだ。
明美の場合も、願いや望みを聞かれたなら間違いなく、健太を健康に、と書いただろう。
「正義」だから「日本ジャスティス実行財団」つまり正義を実行する組織、といいたいのだろう。そして正義を実行するから、ジャッジメント、審判を下す、という言葉を使ったのだろう。
これまで分からなかったことが明らかになり、繋がらなかった線が、次々と繋がっていく。
何を書くのが一番良いのか?
無論、ジャッジメントを止めるためにだ。
少し考えてから、恭介は大きなカーソルが点滅する白い枠に言葉を打ち込んだ。
「世界を元に戻す」
二つ目までのジャッジメントは、その対象を日本国内に限っていた。だが、明美は「この世の」と書いており、日本だけが対象ではない。おそらく明美のジャッジメントの方が早く発動してしまうだろう。
ならば、そのジャッジメントも回復させる「正義」が必要だ。
「これでどうだ」
恭介が博巳に尋ねると、「ええ、いいんじゃないですか」という言葉が返ってきた。
よし。
恭介は、白い枠の下にある「OK」のボタンを押す。
普通、こういったページには「戻る」というボタンもあるはずだが、見当たらないところを見ると、内容を後で変えることはできない、ということだろう。打ち込んだ内容を良いですか、と聞いてくる確認画面も表示されないぐらいだ。一発勝負、というやつだ。
次のページが表示され、さっきと同じように文字が現れてきた。
「基本ルールは?」
ここでルールを書くのか。
前の画面と同じ白い枠は、複数のルールを書くことができそうだ。実際、二人目の女性は三つのルールを書き込んでいた。
だが、ルールの内容は、最初に決めた「世界を元に戻す」という正義に則したものでないと受け付けられないように思えた。
「ルールには、なにか制限があると思うか?」
博巳に聞いてみる。
「おそらくですが、行いたい正義、の内容と一致する必要はあると思いますが」
恭介は頷く。博巳も同じ意見か。
(よし、ならば――)
言葉を選びながら恭介はルールを書き込んだ。
「これまで発動したジャッジメントを全て無効にする」
世界を元に戻す、ということはジャッジメントの影響をなくす、ということになる。ならば、ジャッジメントを無効にするのが早道だろう。
だが、これだけでは足りないはずだ。何が足りないのか?
「主任、今後のジャッジメントもなくした方がいいんじゃないですかね?」
そうだ。確かにこれまでのジャッジメントを無効にしても、ジャッジメントの仕組みが残っている限り、同じようなことが起きても不思議ではない。
常識外の力など、今の人類には不要だ。
有用なジャッジメントがあったとしても、それに倍する有害をもたらすジャッジメントの方が多いだろう。ジャッジメントそのものをなくさなければならない。
では、どうやって書くのがよいのか?
日本ジャスティス実行財団がなくなる、というのはどうだ?
いや、わざわざ日本とつけているところを見ると、もしかしてアメリカジャスティス実行財団なるものが存在し、たまたま条件に見合うルールを決められる者が現れていないだけ、ということもある。
では、ジャッジメントは今後、発動しない、というのはどうだろう。
いや、ダメだ。発動しなくても受け付けることができたなら、ルールを決めた者は死ぬことに変わりないという気がする。
ルール?
そうか、ルールだ!
恭介は二つ目のルールを打ち込んだ。
「今後、ジャッジメントのルールは受け付けられなくなる」
ルールが受け付けられないなら、最後の「基本ルールを受け付けました」という画面に行くことはないだろう。そうすれば、ルールを書き込んだ者が死ぬことはないはずだ。
博巳に恭介が考えたことを説明すると、「これでいいと思いますよ」という答えが返ってきた。
よし、これに決めよう。
そして下にあるOKボタンにカーソルを合わせようとした時、突然、博巳が「待ってください」と恭介に言った。
「ん?何か忘れてるか?」
「いえ、そうじゃなくて…」
博巳は答えにくそうな顔をしている。
なんだ?
恭介が分からずにいると、博巳は小さな声で言った。
「すいません、こんなこと言って。言い残すことがないかな、と思って」
頭をボリボリとかく博巳の言葉に、恭介はようやく合点がいった。
そうか、このボタンをクリックすると自分は死ぬのか。
ぜんぜん、考えていなかった。いや死ぬことを忘れていたわけではない。だが、そこに恐れも何も感じなかっただけだ。
「博巳、お前、いい奴だな」
「いえ、ぜんぜん。いい奴と違いますし」
恭介は苦笑いする博巳の手を握った。しっかりと。
「ありがとう」
博巳の目に涙が浮かんでくる。
「そう、一つだけお願いがある」
「なんですか?なんでも聞きますよ」
「可能ならば――息子を看取ってくれないか」
明美が望んだジャッジメントが無効になったら、健太の病気が治ることはない。健太が救われる術がないことを恭介は悟っていた。一瞬、緑膿菌をなくす、というルールを加えようとも考えたが、最初に書いた「世界を元に戻す」という「正義」にそれはそぐわない。戻るためのボタンもないから、もう遅い。ブラウザについている前に戻るためのボタンもぐレイアウトしていてクリックできない。それに――例え戻れたとしても、緑膿菌をなくす、というルールが、最初に決めた「世界を元に戻す」という正義に沿ってはいないだろう。
いずれにしろ自分が死ねば、健太を守る家族は祖父と祖母しかおらず、遠からず独りぼっちになる。明美も逝った今、あの世で家族皆が揃うのも悪くはない。
博巳はまじめな顔になった。
「分かりました。必ず」
「すまん、頼む」
恭介も深く頷き、再びパソコンに向かった。
博巳に向かって、「じゃあな」というと「感謝してます」と答えが返ってきた。たぶん、自分を犠牲にして人類を救おうとしていることへの礼なのだろう。
恭介は、博巳の目を見て軽く微笑んだ後に、OKボタンをクリックした。
【エピローグ】
▼東京 ある建物の屋上
ゆっくりと外階段を登る。
屋上までは、まだかなりの距離がある。エレベーターが使えなくなった今、面倒ではあるが、さほど苦でもなかった。最近は、夜になると毎日のようにここに来ていた。
だが、それももう今日で終わりだ。
カツン、カツン
靴の音が、階段に反射して響く。空を見上げると満月が天頂から見下ろしている。見慣れた月よりもかなり大きく、明るい。もしかすると、今日はスーパームーンの日なのかもしれない。だが、日付はもう意味をなしておらず、今日が何月何日なのか、いや何年なのかも覚えていなかった。
やがて、屋上にたどり着く。
昔はここから眺める摩天楼がとても好きだった。夜の闇に浮かぶ輝きは、とても美しかった。
だが今は、月灯りにシルエットが沈んでいるだけなのが寂しい。
博巳は屋上の縁に腰掛け、漆黒の海に沈む東京の街を見ていた。
なぜか、ふと恭介のことが思い出された。
「お前、いい奴だな」
彼はそう言ったが、人類を滅ぼした自分が「いい奴」のはずがない。ぜんぜん、違う。
苦笑が唇をかすかに歪めさせる。
▼東京 警察庁サイバー特別調査課(過去の出来事)
恭介がOKボタンを押すと、画面は澱んだ血のような赤色に覆われていった。
この画面は見慣れていた。数時間前に、病室でも見た画面だ。
同時に恭介の心臓が何者かに握り締められていく。
苦しい。だが最後まで見届けないと――
やがて、赤い画面に黒い文字が現れた。
だが、思わぬ文字がそこには書かれていた。
**************************************************************************
●基本ルールを受け付けました
基本ルール二:今後、ジャッジメントのルールは受け付けられなくなる
※なお、基本ルール一は、他のルールの適用により受け付けられません。
詳しくは本ページの最後をご覧ください。
ルールの細部とルールの適用開始日は当財団において決定し、当財団が責任を持ってルールに沿ったジャッジメントを実行いたします。
ルールに基づくジャッジメント実行の間までしばらくお待ちください。
日本ジャスティス実行財団
★ルール受付一覧
・二○XX年六月二十九日受付分
・二○XX年六月二十八日受付分
・二○XX年六月二十一日受付分
・二○XX年六月十日受付分
・二○XX年六月一日受付分
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これまで発動したジャッジメントを無効にするルールが、受け付けられていない!
さらに、最後には今まで見たことがない「ルール受付一覧」まで表示されている。
痛む胸を押さえながら、恭介は必死にマウスを操作した。
(なぜだ?)
(なぜ、ルールが受け付けられなかった!)
(他のルールの適用とはなんだ?)
しかもルール受付一覧に不自然さを感じる。体が斜めになるが、後ろから博巳が支えてくれた。
そして恭介は気がついた。
ルールが五つある!
これまでジャッジメントの発動は二回。そしてまだ発動していないが、ルールの投稿が明美と恭介で二回。合計で四回のはずだ。
なぜ、五つある。
そうか、最初の投稿がおかしいんだ。最初のジャッジメントは確か男性が死亡した日が六月十日だったはず。この下から二番目の六月十日の受付が該当しているはずだ。
ということは、一番下にある六月一日の受付分がおかしい。そのジャッジメントはいまだ誰の目にも触れていないことになる。
しかし、恭介の命はつきる寸前だった。マウスを持つ手が震えて力が入らない。
今度は後ろから博巳が恭介の手を覆うように自分の手をかぶせて、マウスを移動させ、「・二○XX年六月一日受付分」と書かれた文字のところに持っていくと、カーソルが矢印から指の形に変わった。
この文字にリンクが張られている、ということだ。
博巳が恭介に代わって、マウスをクリックしてくれた。
そして、新しいページが開く。
**************************************************************************
●受け付けたルールの内容と投稿者
基本ルール一:発動したジャッジメントは他のジャッジメントの影響を受けない
基本ルール二:同じ趣旨のジャッジメントが発動された場合には、先に発動された
ジャッジメントを有効とする
**************************************************************************
そこまで読んだ恭介は、理解した。
そうか、先に発動したジャッジメントは他のジャッジメントで無効にできないよう最初から、定められていたのか。だから恭介が決めた最初のルールは受け付けられなかったのだ。
少しずつ、恭介の意識が遠のいていく。
その失われつつある意識の中、最後の行をみて、恭介は一瞬だが目を見開いた。
投稿者:小野田博巳
…そんな。まさか――なぜ?
首を振り向かせようとした恭介だったか、叶うことなく力尽き、倒れていった。
意識が暗黒へ向かって落ちていく中、自分の手に明美と健太の肌のぬくもりを覚えていることを嬉しく思っていた。
▼東京 ある建物の屋上
博巳はあのときの出来事を回顧しながら考えていた。
マウスを動かす力さえ残されていなかった恭介を助け、最初に決めたルールをわざわざ見せたのは、人としての恭介と共有した時間への憐憫から、最後に真実を教えたかったのだろうか?
博巳にも、良く分からなかった。
ただ、少なくとも恭介に「感謝してます」と言ったのは、その言葉通りだった。人類を助けるために自分を犠牲にしたことに対して、ではない。妻の明美を、知らないうちに誘導して、博巳が行うべき「人類を滅ぼす」という役目を達成してくれたことに対してだ。
博巳が持つ力は「主」の力を現世に繋ぐものだけだ。
繋ぎ、導く。
もちろん、博巳の望みどおりに導けないこともある。だが、明美が定めたルールによるジャッジメントは、一二三老の予想通り、人類を、いや地球上全ての生命体を滅ぼした。
博巳の仕事は終わった。
これまで幾度となく「主」の命により、人類はその姿を消すか、大幅に数を減らすことを繰り返してきた。
嵐と高潮が世界中を覆ったこともある。一夜で大陸を沈めたこともある。
だが、今回は少々、やり過ぎたかもしれない。
微生物まで存在しない世界にしてしまったのでは、次の生命体がどのような形で生まれるにしろ、途方もない時間がかかることになるだろう。
博巳も戻ったら、「主」のお叱りを受けることは間違いない。
もっとも、「主」にとって時間の長さはあまり意味を持たないから、次の生命体の誕生まで一万年かかろうが一億年かかろうが気にも留めないだろう。ヒトが一秒と一万分の一秒の差に気がつくことがないのと同じだ。
ヒトは「主」なしでは生きていけない。だが、ヒトは「主」との共生ではなく、「主」に寄生する道を選んだ。
太古の昔はそうではなかった。ヒトは「主」に感謝し、供物を捧げ恭順の意を示した。だが――いつしか、ヒトは文明を作り、「主」のことを忘れていった。「主」と共にある星々から降り注ぐ静寂の灯を、文明の灯が消していった。
人体は、約六十兆個の細胞で構成されていた。そして、人体に共生する細菌は、約百兆個以上に及ぶ。その細菌のほとんどは腸内にいたのだが、口腔内で約百億個、皮膚でも一兆個の細菌が存在し、ヒトと共生していた。ヒトから「エサ」をもらう代わりに、有害菌や病原菌の繁殖を防いだり、腸内では消化吸収の手助けやビタミンの合成を行う。決して、エサだけ搾取して、何もしないのではない。
だがヒトは違う。「主」から資源を搾取するだけで、何も還そうとはしない。ヒトと共生する細菌が、エサだけ搾取するようになれば、ヒトはやがて生きていけなくなる。「主」も同じだった。だから「主」は、定期的に、寄生する「害虫」を駆除しているに過ぎないのだ。
博巳はゆっくりと立ちあがった。
(そろそろ、帰ろう)
ヒトとしての記憶が、光を失った摩天楼への未練をまだ残しているが、もう十分だろう。
屋上の縁に立つと博巳は両手を広げた。そして、ゆっくりと体を前方に倒していく。
やがて――空中に身を躍らせたその姿は、翻るスーツが空を飛ぶ悪魔のようなシルエットを描き、そして、母なる「主」に導かれるように、漆黒の海へと吸い込まれていった。
天頂の月は、モノトーンで彩られた星を、沈黙の灯でいつまでも照らしていた。(了)
沈黙の灯 @tutikawahiyu
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